ここから本文エリア 84年夏、失敗バネに培った自信 境のエース安部さん2008年07月03日 「まだノーヒットです」。スコア係のマネジャーが攻守交代の度に言った。84年夏の甲子園。1回戦で境のエース安部伸一(41)は0―0で迎えた10回裏2死まで法政一を無安打に抑えていた。3人目の打者への初球。捕手からのカーブのサインに首を振り、一番自信があったスライダーを投げた。
「カーン」。乾いた音とともに打球は左中間ラッキーゾーンへ。本塁打を打たれたと分かっているのに、試合に負けたことが分からなかった。次打者に投げる準備をしていたとき、「ナイスピッチング」と内野手に声をかけられ、ようやくサヨナラ負けを理解した。「いい投球ができた」「カーブを投げていれば……」。その夜は満足感と後悔で眠れなかった。 境を卒業後、社会人野球「三菱重工三原」(広島県三原市)に入った。5年目に腰痛が悪化。手術を勧められたが受けなかった。「プロになれないならサラリーマンになろう」。今は同社の営業担当として国内外を飛び回り、大型重機を売っている。野球の話題は久しくしていない。 ◇ 松本和己(63)は、法政一戦を境のコーチとしてバックネット裏で見ていた。試合後、安部には何も言わなかった。「僕が悩んだように安部も悩むだろう」。そう思った。 松本が境の3年生の時、捕手として出場した63年夏の鳥取大会決勝。2―2で迎えた延長12回裏2死二塁、中前安打で本塁に突っ込んできた走者とのクロスプレーで、中堅手からの返球を落とした。甲子園まであと一歩だった。 境を卒業後、野球を忘れたくて長野県の山荘で10年ほど働いた。朝、目が覚めるたびに落球を思い出した。「忘れたつもりでも、頭の中ではずっと野球をしていたんです」 その後、米子市で飲食店を始めた。80年夏、店から近い市営湊山球場であった鳥取大会に足を運んだ。目にしたのは境が1回戦でコールド負けする場面だった。選手たちはどんな気持ちなんだろう。そう思うと涙が止まらなかった。数日後、母校を訪ねてグラウンドに立つと、不思議と吹っ切れた。「子どもたちに野球を教えたい」と申し出た。 「鬼コーチ」になって2年後、新入部員の中に安部がいた。松本は毎日、安部の球を受けた。ミットを通して伝わる球威は日に日に力強くなった。将来、エースを任せられると感じたから特に厳しく接したつもりだ。 ◇ 98年夏に監督として境を甲子園に導いた松本は今、小中学生を対象にした野球教室の開設準備に追われている。「安部のことはずっと気になっていた」。それでも、あの日のことを2人で話したことはない。「安部も失敗を次に生かすことで自分の力にしてほしい」と思っていた。 安部は数年に一度、中海に浮かぶ松江市八束町の大根島にある実家に帰る。夜には母校を訪ね、誰もいないグラウンドに立つ。「自分が一番輝いていた時の空気」を吸い込むと、仕事のプレッシャーが吹き飛んだ。甲子園でカーブを投げればよかった。腰の手術を受ければよかった。自分の判断を何度も後悔してきた。それでも、自分自身を否定したことは一度もない。「松本さんの厳しい練習に耐えられたことが今、自信になっている。その時その時で一生懸命やった失敗ならば、『何とかなるさ』と思える。それが高校野球で学んだことです」 |