池田信夫 blog

Part 2

May 2007

きのうの話はかなり込み入っているので、少し問題を整理して補足しておく。今回の判決は、日本の判例の流れの中では、それほど異例ではない。しかし問題は、法律を普通に(判例に沿って)解釈すると、こういう常識はずれの結論が出るということだ。こういうときは法律論ではなく、政策目標に立ち返って考える必要がある。

著作権を与える理由は、松本零士氏や三田誠広氏が錯覚しているように、芸術家に特権を与えるためではない。工芸品や宝石などにも「名匠」とよばれる人がいるが、彼らの芸術的価値は著作権で守られない。その価値は、作品を売ることで回収できるからだ。著作物についてだけ、買った後も複製を禁止する排他的ライセンス権を与えるのは、買い手が情報を自由に複製すると、競争的な価格が複製の限界費用(≒0)に均等化し、著作者が情報生産に投資するインセンティブがなくなるからだ。

他方、対価を払って買った商品(私有財産)を複製しようが改造しようが自由だというのが近代社会の原則である。買った後も複製を禁止する著作権は、この意味で財産権ではなく、財産権の侵害なのである。だからインセンティブの増加から消費者の損害を差し引いた社会全体のネットの便益が正か負かが問題だ。

たとえばMYUTAのサービスを禁止したら、「着うた」などの音楽配信でもうけているJASRACは料金収入を守れるだろう。しかし消費者は、家庭で買った曲を携帯で聞くためにもう一度料金を支払わなければならないので、二重に課金されることになる。問題はそれが本源的な著作者(音楽家)のインセンティブを高めるかどうかだが、これは実証的にはよくわからない。P2Pの場合でさえ、コピーによる宣伝効果のほうが大きいという調査結果もある。

ところが、さらに重要な第三の効果がある。この判決によって、インターネット上で情報を共有するサービスは、ほとんどの類型が違法となる。普通のサーバ業者が今のところ安全なのは、JASRACに目をつけられていないからにすぎない。もし「ユーザーが音楽ファイルを複製している」とJASRACに訴えられたら、ISPはプロバイダ責任制限法で免責されるが、それ以外のホスティング業者は賠償責任を負うおそれが強い。最悪の場合には、業務の差し止めや刑事罰も覚悟しなければならない。

今後、ベンチャー企業が同様のビジネスに投資をつのる際も、「JASRACに訴えられたら勝てるのか」という質問に答えられなければ、資金を調達できないだろう。日本にGoogleもYouTubeも出てこない最大の原因の一つが、こうした世界一厳重な著作権のリスクにある。Web2.0サービスのほとんどは情報共有を前提にしているので、今回のようにインターネット経由の情報共有を全般的に違法とする判決の萎縮効果は大きい。

つまり今回のような差し止め処分は、権利者のインセンティブを高める効果は疑わしい一方で、消費者のこうむる損害は明白であり、イノベーションを萎縮させる効果は大きいので、ネットの経済効果は負だと考えられる。JASRACの数百億円の利益を守るために、日本経済がこうむっている機会損失はきわめて大きい。Googleの時価総額だけでも17兆円、日本の音楽業界の売り上げの32倍である。

私は以前から書いているように、こういう問題をなくすには、情報の複製を「原則違法・例外合法」とする現行の規定を逆にして、原則として自由に流通させ、著作者の請求に応じて料金を支払い、そのルールに違反した場合に賠償責任を負う賠償責任ルールに変更すべきだと考えている。つまり著作者の許諾権を廃止して、報酬請求権のみとするのだ。

知的財産戦略本部もこうした問題意識はもっており、経済財政諮問会議にも同様の提案がようやく出てきた。先日も紹介した意見書は、「世界最先端のデジタル・コンテンツ流通促進法制(全ての権利者からの事前の許諾に代替しうる、より簡便な手続き等)を2年以内に整備すべきである」と提案している。特に、この提案者として日本経団連の御手洗会長が入っている意味は大きい。財界本流の力でJASRACのような弱小業界の抵抗勢力を蹴散らし、この提案をぜひ実現してほしいものだ。
イメージシティ事件判決が、裁判所のサイトに出ている。私は法律の専門家ではないので、この判決が法解釈として正しいのかどうかはよくわからないが、常識的な立場から考えてみよう。主要な論点は2つ:
  1. 複製の主体はだれか:判決では「原告[イメージシティ]が設計管理するシステムの上で、かつ、原告がユーザに要求する認証手続きを経た上でされる」ので、複製の主体は原告であり、著作権法で許される「私的複製」には当たらないとしている。
  2. ファイル送信が公衆からの求めに応じて行なう自動公衆送信か:判決では「原告がインターネットで会員登録をするユーザを予め選別したり、選択したりすることはない」ので、ユーザは「不特定の者」だという。
この判決には、ブログ界では「ネット上にデータを保存するサービスはすべて著作権侵害で違法です」といった批判が強いが、実は1のような判断は今度が初めてではない。一昨年の録画ネット事件でも、録画の主体はハードディスクを保管している業者だという判決が出ている。録画ネットと今回のMYUTAは、自分で録画(録音)したファイルを自分で見る(聞く)という点でほとんど同じだ。「カラオケ法理」以来の判例からみると、今回の判決は当然ともいえる。

2も日本語の解釈として奇妙だが、これは複製・送信の主体を原告としたことの論理的な帰結だ。送信の主体がサーバなのだから、彼(彼女?)にとってはユーザーは不特定多数である。

この訴訟の裁判長は、高部眞規子判事である。ジャストシステムのアイコンを違法とした判決など、知的財産権についてエキセントリックな判決を出すことで知られるが、彼女が珍しく著作権を制限的に解釈した判決がまねきTV事件だ。この場合には、複製する機材をユーザーが所有しているから、複製の主体はユーザーだとされた。つまり彼女にとっては、主体か否かの基準は所有権の有無によるらしいのだ。

こういう解釈は、複製行為が個人の家庭で完結するような場合には意味があるが、インターネットで多くの情報が共有される時代には、ほとんどの情報処理の主体が機械だという奇妙な結論になる。ここまでおかしな判例が定着してしまうと、ストレージサービスはおろか、ホスティングサービスもすべて違法になるおそれがある。著作権法で曖昧になっている「主体」の解釈について、法改正か政令で明文化したほうがいいのではないか。
2007年05月28日 13:29
経済

タクシー「過当競争」の嘘

国土交通省は、タクシー業界の「過当競争」を是正するため、秋にも新規参入を制限するそうだ。朝日新聞によれば、「運転手の05年の平均年収が5年前より10%以上少ない302万円に減る一方、タクシーの事故は最近の10年で65%も増えた」そうだ。あいかわらず、役所の情報操作に乗って都合のいい数字だけを出す記者クラブ体質は変わらないようだ。

まず「年収が減った」という話を検証してみよう。厚生労働省の統計では、たしかに2002年の規制緩和以降、年収は8%ほど減っているが、それ以前の数字を見ると、バブル期に比べて30%近く減っている。減収の最大の原因は、規制緩和ではなく不況なのだ。その証拠に、景気の回復した昨年は、年収が増えている。

交通事故を件数で10年前と比較するのもおかしい(タクシーが増えたのだから事故が増えるのは当たり前)。事故率(警察庁調べ)を見ると、規制緩和前の90年代に大きく増えて2001年にピークに達し、規制緩和後は微減である。タクシーの事故は空車のとき起こりやすいため、不況で空車率が上がったことが事故増加の原因と考えられる。

問題は、規制緩和でだれが損をしたのかということだ。利用者が得したことは明らかだが、運転手は損したのだろうか。2002年以降、全国で約2万台のタクシーが増えた(国土交通省調べ)。1台のタクシーには通常2人が乗務するので、これは4万人の雇用が創出されたことを意味する。タクシーの運転手は失業者の受け皿だから、この4万人がホームレスになるより、300万円でも年収があったほうがいいことはいうまでもない。

要するに規制緩和で困るのは、競争の激化するタクシー会社と、労働強化される労働組合だけなのだ。彼らが既得権を守るために「弱者」をダシにして競争の制限を求めるのは、古いレトリックだ。もっとも弱い立場に置かれているのは失業者であり、新規参入による雇用創造こそ究極の福祉政策なのである。
2007年05月28日 09:21

沖縄密約

9bcbc95b.jpg元毎日新聞記者の西山太吉氏が国を相手どって起こした「沖縄密約訴訟」は、一審で原告敗訴に終わった。しかし審理の過程で、吉野文六・外務省元アメリカ局長が密約の存在を認めるなど、事実関係は西山氏の報道した通りであることが判明した。

1972年に彼が報道したのは、400万ドルの土地復元費用を日本政府が負担する密約だったが、本書ではその後、明らかになったアメリカ側の条約文書をもとに、VOA移転費用など合計2000万ドルを日本側が肩代わりする密約があったことを明らかにしている。さらに沖縄返還協定に書かれた3億2000万ドル以外に、基地の移転費用6500万ドルや労務費3000万ドルなど、別の「秘密枠」もあったとされている。

吉野氏は「3億2000万ドルだって、核の撤去費用などはもともと積算根拠がない、いわばつかみ金。あんなに金がかかるわけがない。本当の内訳なんて誰も知らないですよ」と証言している。密約は、日本が米軍に「ただ乗り」することを許さないアメリカ政府の圧力と、無償返還という「きれいごと」の矛盾を糊塗するためだったという。

毎日新聞のスクープに対して、検察は西山氏が外務省の職員と「情を通じて」機密を漏洩させたとして彼を逮捕した。その後も、アメリカ側資料や当事者(吉野氏が密約に署名した)の証言が出てきても、外務省は密約の存在を否定し続けている。文書も加害者の証言もない慰安婦問題で、首相が謝罪したのとは対照的だ。この国の政府は、外圧がないと動かないのだろうか。

本書を読んで暗澹たる気分になるのは、この明白な国家公務員法違反(国会での虚偽答弁)を、野党もメディアも追及しないことだ。メディアが「第一権力」だなんていうけれど、官僚がすべての権力の上に君臨する「官治国家」の構造は変わっていないのだ。このように国民をあざむいて進められる「米軍再編」って何なのか。
2007年05月26日 18:18

神は妄想である

951af4e0.jpg世の中には、ドーキンスが「利己的遺伝子理論」を創始した偉大な生物学者だと思っている人も多いようだが、彼はハミルトンの血縁淘汰理論をわかりやすく解説したサイエンス・ライターにすぎない。大学でのポジションも、彼のファンがオクスフォード大学につくった「科学の普及」についての寄附講座の教授として得たものだ。

原著は、彼が宗教を批判したもので、国民の90%以上が神の存在を信じているアメリカでは大きな話題になり、発売から半年以上たった今も、Amazon.comでベストセラー30位に入っている。しかし、もともと宗教に興味のない日本人には、ニーチェから100年以上たって「神は存在しない」って力説されてもなぁ・・・という感じだろう。

本質的な問題は、神がそれほど無意味なものなら、なぜ宗教が世界に普遍的に存在するのか、ということだ。進化心理学で宗教や道徳の起源として重視されるのは、群淘汰によって形成されたと考えられる集団維持の感情だが、著者は群淘汰が「原理的に起こりうる」ことは認めながら、曖昧な理由でそれを「重視しない」という。このため本書の説明は、利他的な行動は「利己的な遺伝子」で説明できるという彼のこれまでの主張の繰り返しだ。

無神論や宗教批判は近代初頭からあるが、本書は宗教批判としては幼稚なものだ。ここにはヴォルテールもフォイエルバッハもニーチェも登場せず、宗教の起源を論じたデュルケームもウェーバーも踏まえていない。そもそも(呪術や道徳と区別される)宗教という概念が西欧文明圏に固有のものだということにも、著者は気づいていない。

宗教と科学の境界は、著者が信じるほど自明なものではない。アウシュヴィッツで600万人を殺したのは、「優生学」という名の科学だった。無神論を掲げる「科学的社会主義」によって「粛清」や「大躍進」などで殺された人の数は、二つの大戦の戦死者を超え、過去のすべての宗教戦争の犠牲者を上回る。アルカイダがイスラム教の名において殺した人数より、米軍がイラクで民主主義と人権の名において殺した人数のほうが多い。神を否定して科学を普及すれば世界に平和が訪れると信じる著者の主張こそ、自民族中心主義という宗教なのだ。
2007年05月25日 10:35
経済

ポスト京都議定書

来年の洞爺湖サミットに向けての安倍政権の目玉として、「美しい星50」なるものが提唱された。外務省がサミット向けにつくるキャッチフレーズは、前回の沖縄サミットの「デジタル・デバイド」のようにナンセンスなものが多いが、今回は前回の「IT支援」より大きな実害をもたらすおそれが強い。「2050年までに全世界の温室効果ガスを半減させる」などという野心的な目標が、各国に削減義務も数値目標も課さないで、技術革新と善意だけで実現できると考えるのは、空想的エコロジストだけである。

しかし(今のところ)京都議定書のような排出権取引にコミットしていないことは、一歩前進とも受け取れる。当ブログでも何度か紹介したように、経済学者の多数派は、排出権取引のような統制経済には反対で、炭素税のような通常の市場メカニズムを利用すべきだと考えている。こうした「ピグー税」を提唱するマンキューのピグー・クラブには、次のような経済学者やエコノミストが名を連ねている:
  • Bill Nordhaus
  • Martin Feldstein
  • Gary Becker
  • Robert Frank
  • Ken Rogoff
  • Paul Krugman
  • Alan Greenspan
  • George Schultz
  • Nicholas Stern
  • Hal Varian
  • Larry Summers
  • Richard Posner
  • Joe Stiglitz
  • Paul Volcker
日本が、2013年以降の「ポスト京都」の制度設計のリーダーシップをとるのはいいことだ。霞ヶ関の人々には、「環境利権」のボスと化した日本の経済学者ではなく、世界の経済学者の客観的な意見を聞いて、京都議定書の失敗を繰り返さないよう慎重に考えてほしいものだ。
2007年05月25日 00:37

自然化する哲学

20世紀後半の哲学といえば、構造主義とかポストモダンなどフランス系ばかり話題になるが、実は同じ時期に科学哲学でクーンやファイヤアーベントが展開した「通約不可能性」の理論も、ポストモダンと同じ相対主義だった。そこでは科学も宗教の一種で、どういう理論が選ばれるかは科学者の集団心理で決まる。事実、最近のひも理論は、intelligent designと論理的には同格だ。

すると諸学の基礎であるはずの哲学が、逆に心理学に基礎づけられるということになる。たとえば哲学者がデカルト以来、論じてきた「私」とは何か、という問題も、最近では脳科学で実験的に明らかにされている。今日の科学哲学は、こうした実証科学を参照しないで論じることはできない。極論すれば、脳についての哲学的論議は、脳科学に解消されてしまうかもしれない。これを本書では「哲学の自然化」と呼んでいる。

これは哲学だけの問題ではない。人文科学や社会科学の大部分は、厳密な意味での実証手続きをもたず、内省とcasual empiricismで理論を立ててきた。たとえば「限界効用が逓減する」などという法則が厳密に実証された試しはないが、経済学者はご都合主義的に(計算しやすいように)そういう心理を仮定し、理論を構築してきた。だから行動経済学の実験によって、その法則が否定されると、新古典派理論は根底から崩れてしまう。

20世紀の最初に分析哲学で起こった変化は「言語論的転回」と呼ばれるが、それは「新しい脳」の機能としての言語を分析するにすぎなかった。今、心理学や脳科学のフロンティアは、非言語的な「古い脳」の機能である。これは内省では必ずしも明らかにならないので、実験などの実証手続きが必要になる。かつて内省によって構築されたアリストテレスの自然学が近代の実証科学によって否定されたように、人文科学も社会科学も自然化し、自然科学に吸収されるのかもしれない。
2007年05月24日 09:30

ウィキノミクス

先日、紹介したWikinomicsの訳本が、まもなく出るようだ(アマゾンでは予約可)。特に斬新なことが書いてあるわけではないが、ウェブ・ビジネスの最新情報がまとめられているので、ビジネスマンのハウツー本としてはいいかもしれない。

追記:訳書p.89以下の「コースの定理」は「コースの法則」の誤訳。
2007年05月23日 21:40
経済

古い脳の経済学

きのうの記事について誤解があるようなので、少し補足。

私が「古い脳」と書いたのは、大脳生理学で辺縁系と呼ばれている部分である。これは進化の早い段階でできたもので、哺乳類全体でほぼ同じような構造だとされている。これに対して「新しい脳」である新皮質は、特に人類で発達している。前者が感情や意欲などを、後者が論理や言語などをつかさどると考えられている。ただ実際には、こうした部位によって脳の機能が完全にわかれているわけではないらしいので、比喩的に古い脳と新しい脳と表現した。

21日の記事で紹介したCaplanや、リンクを張ったRubinなどは、こうした違いを「非合理的な大衆」と「合理的な経済学者」の差とみなし、前者のバイアスが進化の過程で遺伝子に埋め込まれた「部族社会」の感情によるものだとしている。ここでは経済学者の意見が正解で、愚昧な大衆をいかに善導して経済学者に近づけるかが問題となる。

しかし、このように問題を立てている限り、経済学者の意見は社会の多数派にはならないだろう。日本で経済学者が「机上の空論」としてバカにされるのは、こうしたバイアスを考慮に入れないで非現実的な「あるべき姿」を論じているからだ。それでも官僚には経済学者に近い考え方をする人が増えてきたが、政治家はバイアスの塊のような選挙民を相手にしているので、経済学的な合理主義をまったく相手にしない。

そして、こういうバイアスを増幅するのがメディアだ。社会の中で大学を新皮質とすれば、メディアは辺縁系だが、社会を動かすのは後者である。かつては軍や官僚が社会を動かしたが、いま社会を動かすのは、(インターネットを含めた)広義のメディアなのだ。したがって、こうしたバイアスを考慮に入れない政策は、たとえ合理的であっても採用されない。

西欧近代文明の目標は、もっぱら新しい脳の機能を拡大することだったといえよう。その最高の成果が、コンピュータである。これは新皮質の推論機能だけを増幅したもので、一時はそれによって人間の知能はすべて再現できると考えられた。昔、マーヴィン・ミンスキーにインタビューしたとき、「人工知能で感情はつくれるのですか?」と聞いたら、彼が「感情は複雑な論理にすぎない」と答えたことを覚えている。

しかし人工知能は失敗した。同じように、新古典派経済学も失敗した。それは論理でとらえられない古い脳の部分を除外してきたからだ。こうした限界を、ハイエクは60年前に指摘した。彼は、人々を動かすのはデカルト的な理性ではなく感情だとし、その「感覚秩序」のモデルとして神経を考えていた。市場は、新古典派のような「均衡」をもたらすものではなく、人々がローカルな感情で動いた結果を社会全体に伝えてコーディネートするニューラルネットのようなものなのである。

その後コンピュータ・サイエンティストは、ハイエクより40年おくれてニューラルネットをモデルにし始めた。そして経済学も、今ようやくニューロエコノミックスという形で脳科学の手法を取り入れ始めている。それはまだ意味ある成果を生んだとはいいがたいが、反証可能であるだけ「限界効用」や「顕示選好」のようなトートロジーよりましだ。
アメリカで来年行なわれる予定の700MHz帯の周波数オークションについて、グーグルがFCCに提案を行なった(パブリックコメント)。2種類の方式を例示しているが、一つはグーグルがその検索スペースをオークションで売っているように、FCCが空いた帯域を小口で売るものだ。たとえば「722-3MHzを6月1日から1ヶ月」というように、帯域をFCCのウェブサイトでオークションにかけ、最高値を出したサービス業者がその帯域を使う。

これは彼らも引用しているように、12年前にEli Noamが提案した"Open Access"とほぼ同じものだ。当時、この提案はほとんど笑い話だった。「帯域を動的に割り当てて電子的に決済する」というのが非現実的だったからだ。しかしグーグルのように強力なオークション・システムができて、現実味を帯びてきたのかもしれない。こうした「帯域の市場」は、有線のインフラでは実現している。

ただ気になるのは、これが「財産権モデル」の変種であることだ。スペクトラム拡散技術を使えば、デバイスで動的に周波数を配分できるので、そもそもオークションの必要はないのだが、FCCがオークションをやると決めた以上はその範囲で考えるということか。グーグルは同時に、免許不要のホワイトスペースについての新提案もしている。
2007年05月22日 12:40

論壇の戦後史

『<民主>と<愛国>』のダイジェスト版といった趣きだが、よくまとまっていて便利だ。「戦後60年もたって、なぜ日本人は戦争を清算できないのか」というテーマも同じだが、ちゃんとした答が出ていないのも同じである。

この種の話は、いつも丸山真男が中心だが、印象的なのは彼の有名な論文の1ヶ月前(1946年4月号)に『世界』に掲載された津田左右吉の論文だ。津田は『古事記』や『日本書紀』の非神話化を行なったことで知られたので、天皇の戦争責任を追及するものと予想されたが、その論文は次のように結ばれる:
国民みずから国家のすべてを主宰すべき現代に於いては、皇室は国民の皇室であり、天皇は「われらの天皇」であられる。「われらの天皇」はわれらが愛さねばならぬ。[・・・]皇室を愛することは、おのずから世界に通じる人道的精神の大いなる発露でもある。
この論文はトンデモ扱いされ、危うく没になるところだったが、実際には丸山よりこっちのほうが当時の日本人の多数の気持ちに近かっただろう。こうした議論は「論壇」の主流になることはなかったが、『文藝春秋』はつねに『世界』よりはるかに多くの読者に読まれた。左翼は、ナショナリズムを非合理的な感情として軽蔑してきたが、彼らの国際主義よりも文春的ナショナリズムのほうが、はるかに大衆的リアリティを持っていたのだ。

丸山を初めとする戦後の左翼が一度も政権を取ることができなかったのは、欧米から輸入した啓蒙思想やマルクス主義が、大多数の国民の心をとらえることができなかったからだ。社会科学が世の中を動かすためには、人々の「古い脳」を明示的に分析し、彼らの感情を動かす戦略を考えることが必要だろう。戦争を清算するために立ち返るべきなのも、丸山ではなく津田かもしれない。
2007年05月21日 20:13

The Myth of the Rational Voter

政治学に「合理的選択派」というのがある。アローの不可能性定理やゲーム理論などの合理主義で政治を分析しようというもので、数学的な証明の論文はたくさん出ているが、まったく実用にならない。本書は、これをひっくり返し、人々が非合理的に選択することを実証的に示したものだ。主なバイアスとしては

 ・反市場バイアス:市場メカニズムをきらう
 ・反外国バイアス:輸入品をきらう
 ・雇用バイアス:雇用の削減をきらう
 ・悲観バイアス:経済状態を実際より悪く評価する

といったものがある。率直にいって、マンキューが裏表紙で絶賛するほどおもしろい本ではないが、彼がこういう本を絶賛することに意味がある。経済学業界では、もはや「合理的な経済人」はオールド・ファッションなのだ。これは実証科学として健康なことだが、問題は「非合理的な行動」をどう合理的に説明するかだ。これについて著者は、自分のブログで、当ブログでも5/10に紹介したPaul Rubinの進化心理学的な説明をあげている。
前の『ウェブ人間論』に比べると、話が噛みあっているだけましだが、中身が薄いのは同じだ。ウェブと脳のネットワーク構造の話など、おもしろい論点はあるのだが、茂木健一郎氏の専門知識が中途半端なので深まらない。気になったのは、梅田望夫氏のオープンソースについての認識だ:
オープンソースというのは、誕生してからわずか10年以内です。もともとフリー・ソフトウェアというのはあったけれど、それは一つの研究室の中で作られるなど、物理的制約に縛られていた。(p.33)
Richard Stallmanが聞いたら、椅子から転げ落ちるだろう。GNUプロジェクトができたのは1984年、Linuxの開発が始まったのは1991年だ。EmacsもTeXも、インターネットを使ってさまざまなバージョンが共同開発された。たしかに"open source"という言葉をEric Raymondが使い始めたのは1998年だが、それ以前からTCP/IPもHTMLも、すべてオープンだったのだ。オープンとかフリーとか強調していないのは、初期のハッカーにはそれが当たり前だったからである。

梅田氏は、1998年に突然オープンソースが登場して「恐ろしいほどの速度で」発展していると思っているようだが、これは逆だ。本来100%オープンだったインターネットが、著作権や特許に汚染されているのである。最近は、IETFで決まる規格(RFC)も大部分はシスコなどの特許がからんで、「ITU化」したと揶揄されている。W3Cの勧告も、ほとんどマイクロソフトの開発したものだ(特許を認めるかどうかは論争中)。

オープンソースの文化は、原理的に財産権の保護を基盤とする資本主義と矛盾するものであり、それが今まで大目に見られていたのは、サイバースペースで完結していたからだ。それが既存メディアを侵食し始めると、逆襲が始まる。P2PやYouTubeに対する攻撃をみても、私は梅田氏や茂木氏のようにオプティミスティックにはなれない。「本当の大変化がこれから始まる」のは間違いないが、それは彼らの夢見ているようなユートピアの実現ではなく、かつて産業革命とともに起ったような闘いだろう。
著作権の改革についての経済財政諮問会議の意見書に対して、日本文芸家協会やJASRACが反対する声明を出した。この意見書は、著作権の許諾が煩雑なためコンテンツが流通しない現状を改善するため、「全ての権利者からの事前の許諾に代替しうる、より簡便な手続き等」を2年以内に法制化すべきだというものだ。

これについて、文芸家協会の三田誠広氏は記者会見で、フェアユースがどうとかいう反論をしているが、これは問題を取り違えている。意見書で提案しているのは、当ブログでも提唱してきた包括ライセンス(強制許諾)であり、フェアユースとは無関係である。

JASRACの加藤常務理事は、「ベルヌ条約やWIPO著作権条約では、公衆送信権を著作権の一部として認めている」ので、強制許諾は「条約違反」だと述べたそうだが、これは嘘である。ベルヌ条約に「公衆送信権」などという概念はない。これは日本の文部省(当時)が独自につくったベルヌ条約よりも強い概念で、国際的には認知されていない。

著作者に「送信可能化権」を認め、コンテンツをウェブサイトに置いただけで警察が摘発する日本の著作権法は、世界でもっとも厳重なものだ。ベルヌ条約を超えて強くユーザーの権利を制限することは合法で、それを弱めるのが条約違反だというのは、どういう論理なのか。実際には、条約をどう国内法に適用するかは、各国の裁量が大幅に認められており、アメリカなどはいまだにWIPOの原則と違う「先発明主義」の特許制度を続けている。

デジタル情報が簡単にコピーできる時代には、コピーを禁止する権利である著作権はそぐわない。コピーを自由にして報酬請求権を著作者に与えようという包括ライセンスは、EUが域内で制定を奨励しており、イギリスではJASRACにあたる団体が提案している。それを拒否する理由として三田氏が持ち出すのは、「文化の保護」とかいう曖昧な理由だ。なぜコピーを禁止することが「保護」なのか。業界エゴを「文化」の名でカムフラージュする陳腐なレトリックは、いい加減にしてほしいものだ。

そもそも三田氏は、どういう資格で著作者の代表のような顔をしているのだろうか。文芸家協会の会員は2500人。国会図書館に所蔵されているだけで80万人にのぼる著作者の0.3%にすぎない。ウェブで飛び交う膨大なデジタル情報の中には、小説なんてほとんどない。「文芸家」が著作者を代表するような時代は、とっくに終わったのだ。

私も9冊の著書を書いた著作者だが、三田氏を代表に選任した覚えはない。無方式主義の著作権法のもとでは、ブログを書いているあなたも著作者だ。三田氏の意見が本当に著作者を代表しているのかどうか、数百万人の著作者のネット投票でもやってみてはどうだろうか。
2007年05月19日 09:38
科学/文化

Sound Grammar

オーネット・コールマンが、ピュリッツァー賞(音楽部門)を受賞した。これまでクラシック音楽に与えられてきた賞が、規定を変更して即興音楽にも与えられるようになって初めて、ジャズが受賞したのだという。

このCDはドイツでのライブ録音だが、ベース2台にドラムという変則的な構成で、コールマン(アルトサックス・トランペット)がずっと吹きっぱなしだ。77歳でこのような若々しい音楽を演奏するエネルギーに圧倒される。10年ほど前、渋谷公会堂で聞いたときも、2時間ほとんど出づっぱりで吹きまくっていた。彼らには「枯れる」という美学はないんだな、と思ったものだ。

1950年代に登場したときから、コールマンはつねに自由で過激な演奏を続けてきた。しかし、それはセシル・テイラーやアンソニー・ブラクストンのように抽象的な「前衛音楽」ではなく、西洋音楽の枠を超えてアフリカの原初の音楽が聞こえてくるような親しみを感じさせる。1970年代からは「プライムタイム」というロックバンドのようなフォーマットで演奏するようになったが、それはコマーシャルな「フュージョン」とは違う挑戦的な音楽だった。

バンドとしては、ジャマラディーン・タクーマやブラッド・ウルマーのいたころのプライムタイムが最高だったと思う。私にとっての最高傑作は、1979年に出た"Of Human Feelings"だが、これは廃盤になったようだ。最近のCDでは、50年代のカルテットとプライムタイムの両方による新録音を収めた"In All Languages"がおもしろい。
2007年05月18日 23:37
法/政治

ネオコンの終焉

ウォルフォヴィッツ世銀総裁が、辞任することが決まった。WSJが批判するように、今度の愛人スキャンダルは総裁を更迭するような事件ではなく、ブッシュ政権に反感を抱く欧州諸国のイジメである。しかし、いじめられている彼をブッシュ政権が助けようとしなかったことも事実だ。彼の権力基盤が、もう崩壊していたからだ。

ウォルフォヴィッツはブッシュ政権内のネオコンの代表と見られていたが、もともと主流ではなかった。彼は国務省のポストを望んだが、パウウェルは彼を拒否し、国防総省ではラムズフェルドがすべてを決めた。ワシントンポストも指摘するように、リベラルの牙城とみられていた世銀に出されたとき、今度のような事態は予想されていた。この事件の前にも、世銀の幹部が連名で彼を批判する質問状をFTに出している。

だから今度の事件は、彼の個人的スキャンダルというよりは、ブッシュ政権を動かしてきたネオコンの政治的敗北だ。しかもその発端になった愛人が、中東出身のフェミニズム運動家だというのは皮肉である。当ブログでも論じたように、ネオコンの元祖はトロツキストや民主党左派であり、彼らは左翼の遺伝子を受け継いでいるのだ。

アメリカ的な自由と民主主義を普遍的な価値と信じ、それを暴力に訴えてでも世界に布教しようとするネオコンの発想は、革命を世界に輸出しようとしたトロツキーと同じ「ユートピア社会工学」だ。それは20世紀にいろいろな形で試みられ、多くの悲劇を生み出した。ウォルフォヴィッツとともに終わるのは、こうした「革命の時代」である。
2007年05月17日 11:39
IT

「比較優位」の幻想

最近ブログ界で、「日本の情報サービス産業に明日があるか」という話題が、ちょっと盛り上がったようだ。たとえばbewaad instituteでは、「日本は情報サービス産業で比較劣位にある」という事実を自明の前提として議論が行なわれている。これが霞ヶ関の常識だとも思えないが、ちょっと事実認識がずれているのではないか。

Economist Intelligence Unitの調査によれば、日本は世界でもっともイノベーティブな国だ。この調査は特許の数を基準にしているのでバイアスがあるかもしれないが、少なくとも日本人がイノベーションに弱いというのは神話である。問題は、要素技術で多くのイノベーションを生み出す日本が、情報産業で世界のリーダーシップをとれないのはなぜかということだ。

これはbewaad氏や楠君がいうほど、どうでもいいことではない。コールセンターのような業務をアウトソースすることと、情報サービス産業が日本からなくなることは別である。グーグルをみればわかるように、広義の(ファイナンスを含む)情報サービスは今後、全産業のコアになるので、ここで後れをとると、日本の産業全体が沈没するおそれが強い。というか、すでに沈没は始まっている。

こうした議論の背景には、「日本人の国民性はすり合わせ型の製造業に比較優位があるので、モジュール型の情報産業は向いていない」といった藤本隆宏氏などのアーキテクチャ宿命論がある。この教義は経産省や財界に広く流布しており、日立は3年前にすり合わせでシステム統合を行なうという方針を打ち出した。しかし、その後の日立の業績をみれば、こうした「比較優位」が幻想にすぎないことは明らかだ。

逆にNTTドコモのiモードのように、モジュールの組み合わせに徹することによって、事実上の国際標準になった例もある。日本人がすり合わせに向いているようにみえるのは国民性でも宿命でもなく、多くの大企業が昔ながらの製造業型アーキテクチャでやっているからにすぎない。特に若手のエンジニアは、こうした古いコーディネーション様式に嫌気がさして、外資に流出している。

さきごろ死去したアルフレッド・チャンドラーは「組織は戦略に従う」という名言を遺したが、日本の企業では「戦略が組織に従う」傾向が強い。企業組織が市場の要求に適していないときは、組織を変えるべきであって、その逆ではない。世界的な水平分業が急速に進行している情報産業で、すり合わせや「インテグラル」型にこだわることは、みずからを「すきま産業」に追い込む道だ(こうした問題については拙著に書いた)。

iPodの例が象徴的だ。初代のiPodのハードディスクは東芝製だったが、利益のほとんどはアップルがとった。このように「植民地化」された産業構造では、いくら要素技術のすり合わせでがんばっても、収益にはつながらない。そしてアップルの付加価値のコアになっているのは、iTunesという情報サービスなのである。

ただbewaad氏もいうように、経産省が「情報産業のテコ入れ」と称して、日の丸検索エンジンのような産業政策を進めることは有害無益である。必要なのは、情報産業のアーキテクチャが市場の変化に適応して変わるのを促進する政策だ。そのためにもっとも重要なのは、ファイナンスである。特に対内直接投資を拡大し、企業買収・合併によって企業の再構築を進める必要がある。「三角合併」は財界が恐れるほどの脅威だとは思わないが、彼らがそれを恐れていることは重要だ。
2007年05月16日 10:55
メディア

NHKを「著作権特区」に

NHKが、視聴者に契約を強制しようとしている。受信料支払いの義務化が「2割値下げ」とともに葬られてしまったため、なりふり構わず取り立ての強化をはかっているようだ。しかし受信契約を強制する放送法の規定は、民法の「契約自由の原則」に反するのではないかという批判は以前からある。こんなことをしても視聴者の反発を強め、徴収コストがかかるだけで、増収になるとは思えない。

他方、NHKの手本であるBBCは、YouTubeに3つのチャンネルを持って番組を提供し始めた。彼らは、以前からCreative Commons Licenseによるアーカイブの公開を進めており、今回の動きは「BBCはもはや放送局ではない」というトンプソン会長のビジョンに沿うものだ。この背景には、「肥大化」への批判や民営化の圧力が強まる中で、BBCが「準国営」の経営形態を続けるための戦略がある。

BBCやNHKのように税金に準じる形で料金をとっているメリットは、個別の番組について採算を考える必要がないことだ。これは一つのコンテンツをインフラを問わず多くの媒体で供給するには向いているともいえる。もともと受信料のように国民全員から徴収した料金でつくった番組は、国民の資産であり、国民に無償で還元するのが当然だ。著作権は、私的な情報生産のインセンティブのために設定されるものであって、公共放送のように収入が保障されている組織には必要ないのである。

ただBBCの場合にも、公開されているのはニュースや自然番組など、BBC以外の著作権者のからまないものがほとんどだ。こうした問題を打開するには、NHKを「著作権特区」にして、アーカイブをウェブで公開することを義務づけ、その再利用を自由にするとともに、作家などへの著作権料は包括ライセンスで支払えるようにする特例法をつくればよい。

実は、こういう前例はすでにある。イタリア放送協会(RAI)は、「RAIクリック」というウェブベースのオンデマンドTVサービスで、過去のすべての番組を公開する方針だ。著作権の処理については、権利者団体と包括契約を結び、今のところは「試行期間」ということで、著作権料を支払わないでサービスを行なっている。これには財産権の保護がいい加減だという「イタリア的」な特殊事情もあるが、こうしたサービスで収入が上がれば、最終的には権利者にも配分される。再利用を妨害しても、1円の利益にもならない。

NHKをパイロット・ケースにして、包括ライセンスによって利益をクリエイターに還元する成功モデルができれば、現在の禁止的に煩雑なライセンスを簡素化する動きも出てくるかもしれない。NHKの膨大な映像資産が日本のコンテンツ産業の共有資産になれば、その生産性も飛躍的に上がるだろう。こうした大きな国民経済的な利益が生まれるなら、アーカイブの維持費として受信料を徴収することも受け入れれられるのではないか。

私は、NHKは民営化して自由に番組をつくることが最善だと思うが、それができないのなら、せめてBBCのように公共放送である理由を世にアピールする戦略をとるべきだ。それもしないで、ただ取り立てをきびしくしても、視聴者が離れるだけである。
ASCIIコードで感情をあらわす記号をemoticonと呼ぶが、日本では(^_^)とか(;_;)のように目の表情であらわすのに対して、アメリカでは:-)とか:-(のように口の表情であらわす。LiveScienceによると、この違いは両国の感情表現の違いに起因するという。

北海道大学のMasaki Yukiの研究によると、日米の被験者にemoticonや写真を見せたところ、日本では目の表情に、アメリカでは口の表情に注目して感情を判断することがわかった。これはたぶん、日本では感情を口などの表情に出すことは無作法だと考えられているからだろう。目の表情は隠せないので、そっちのほうが本音を的確に判断できるが、これは良し悪しだ。恋人やボスが作り笑いしているとき、あなたはその本音を知りたいだろうか?
2007年05月12日 08:39
IT

ヤフーを転落させた男

ヤフーとMSの合併話は不調に終わったようで、グーグルの独走態勢はしばらく続きそうだ。ヤフー失速の責任は、この6年間CEOとして同社をミスリードしてきたテリー・セメルにある、とEconomist誌はきびしく批判している。

ヤフーの創業者ジェリー・ヤンがタイム=ワーナーで名経営者として知られたセメルを引き抜いたのは、ITバブル崩壊後に経営を再建するには、ハリウッドのようなメディア企業になるべきだと考えたからだった。セメルは、その方向で映画会社などとの提携を進め、ハリウッド支社までつくったが、こうした路線は成果を上げなかった。彼が2002年にグーグルの買収を断ったのは、数十億ドルという価格が高すぎると考えたからだが、今のグーグルの時価総額は1450億ドルだ。

これに対してグーグルは、旧メディアとまったく違う情報流通のチャネルをつくった。そのコンテンツも、従来の映画や番組ではなく、「ユーザー生成コンテンツ」だった。これはウェブがメディア産業に発展するというセメルの見通しとは逆に、初期のインターネットのようにユーザー同士が直接に情報を交換するE2Eに戻るという発想だった。ヤフーに移籍するまでEメールを使ったことさえなかったセメルとは違って、グーグルの創業者やCEOは、インターネットの本質をよく知っていたのである。

「通信と放送を融合」させてメディア企業をつくろうとする試みは日本でも多いが、成功したことがない。そこで当てにしているコンテンツは在来メディアのものであり、彼らは「知的財産権」という名の既得権を手放さないからだ。USENのGyaOのようにテレビ局をまねるビジネスモデルでは、利益の大半を電通に持って行かれるだけで、決して既存メディアを超えることはできない。

新しいビジネスモデルは、既存モデルの模倣ではなく、中央に鎮座するメディアが大衆に複製をばらまく工業社会型のパラダイムを超えるところからしか出てこないだろう。今のところグーグルがその先陣を切っていることはたしかだが、まだ新しいパラダイムの全貌は見えない。だから日本にもチャンスはあるが、「知財立国」や「日の丸検索エンジン」などの政策は、そうした変革を阻害する効果しかない。


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