July 2007
久間防衛相の「原爆はしょうがない」発言が大きな波紋を呼んでいるが、その内容は目新しいものではない。原爆投下の理由が、ソ連の参戦前に日本全土を米軍が占領しようとしたためだというのは、ほぼ通説とされている。これによって日本がソ連の参戦直後に降伏したため、北海道がソ連領にされずにすんだというのもよくいわれる話だ。
しかし最近では、こうした説は疑問とされている。たとえばトルーマンは回顧録に、ソ連が8月8日、駐ソ米大使に対日参戦を通告したとき、「米国が日本に原爆を投下したために、ソ連は極東における自己の位置を考え直した」と書いている。ソ連参戦は、ヤルタ会談(1945年2月)で決まっていた方針であり、原爆投下はむしろそれを早めた可能性が高い。
また原爆開発にあたっていたグローブス少将の陸軍長官あて書簡(1945年4月)には「目標は一貫して日本だ」と明記され、もともと広島(ウラン)型と長崎(プルトニウム)型の2発を「実験」する計画だったとされる。したがって「原爆のおかげで戦争が早く終わってよかった」という久間氏の話は、防衛相としてはお粗末というほかない。
いずれにせよ、東京大空襲も含めて第2次大戦末期に米軍の行なった無差別爆撃は、戦況が決したあと50万人以上の非戦闘員を殺した、史上最大規模の戦争犯罪である。ところが歴代の日本政府も国会も、原爆投下について米政府に対して正式に抗議したことがない。
広島平和記念公園の原爆死没者慰霊碑には「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」と刻まれているが、この「過ち」の主語は日本人でも人類一般でもなく、米政府に他ならない。日本政府はそれを曖昧にしたまま抗議もせず、「人類の課題」としての核廃絶を語ってきた。つまり、われわれは暗黙のうちに「原爆を落とされたのはしょうがない」と認めてきたのだ。久間氏は、それをうっかり口に出してしまっただけである。
原爆の犯罪性は、慰安婦などとは比較にならない。久間氏の発言が本当に許せないのなら、彼の辞任でお茶を濁すのではなく、日本の国会は米下院の慰安婦決議に対抗して原爆投下非難決議を可決し、ブッシュ大統領に正式の謝罪を求めるべきである。いうべきことはいうのが、安倍首相のいう「対等な同盟関係」というものではないか。
追記:原爆資料館を運営する広島平和文化センターのスティーブン・リーパー理事長は5月30日、中国新聞のインタビューに次のようにのべたという。「原爆投下を『日本の植民地支配から解放した』と肯定する考えが根強いアジアの声に触れながら議論を深め、多民族が共感、納得できる施設にしたい」。アメリカ人が自国の責任に口をぬぐって日本の植民地支配を追及しようとするあつかましさは相当なものだが、これが慰安婦問題を騒ぎ立てる人々の発想なのだろう。
追記2:米政府のジョゼフ核不拡散担当特使は3日の記者会見で、「原爆投下によって戦争が早期に終結し、数百万人の生命が救われた」という米政府の公式見解を繰り返した:
しかし最近では、こうした説は疑問とされている。たとえばトルーマンは回顧録に、ソ連が8月8日、駐ソ米大使に対日参戦を通告したとき、「米国が日本に原爆を投下したために、ソ連は極東における自己の位置を考え直した」と書いている。ソ連参戦は、ヤルタ会談(1945年2月)で決まっていた方針であり、原爆投下はむしろそれを早めた可能性が高い。
また原爆開発にあたっていたグローブス少将の陸軍長官あて書簡(1945年4月)には「目標は一貫して日本だ」と明記され、もともと広島(ウラン)型と長崎(プルトニウム)型の2発を「実験」する計画だったとされる。したがって「原爆のおかげで戦争が早く終わってよかった」という久間氏の話は、防衛相としてはお粗末というほかない。
いずれにせよ、東京大空襲も含めて第2次大戦末期に米軍の行なった無差別爆撃は、戦況が決したあと50万人以上の非戦闘員を殺した、史上最大規模の戦争犯罪である。ところが歴代の日本政府も国会も、原爆投下について米政府に対して正式に抗議したことがない。
広島平和記念公園の原爆死没者慰霊碑には「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」と刻まれているが、この「過ち」の主語は日本人でも人類一般でもなく、米政府に他ならない。日本政府はそれを曖昧にしたまま抗議もせず、「人類の課題」としての核廃絶を語ってきた。つまり、われわれは暗黙のうちに「原爆を落とされたのはしょうがない」と認めてきたのだ。久間氏は、それをうっかり口に出してしまっただけである。
原爆の犯罪性は、慰安婦などとは比較にならない。久間氏の発言が本当に許せないのなら、彼の辞任でお茶を濁すのではなく、日本の国会は米下院の慰安婦決議に対抗して原爆投下非難決議を可決し、ブッシュ大統領に正式の謝罪を求めるべきである。いうべきことはいうのが、安倍首相のいう「対等な同盟関係」というものではないか。
追記:原爆資料館を運営する広島平和文化センターのスティーブン・リーパー理事長は5月30日、中国新聞のインタビューに次のようにのべたという。「原爆投下を『日本の植民地支配から解放した』と肯定する考えが根強いアジアの声に触れながら議論を深め、多民族が共感、納得できる施設にしたい」。アメリカ人が自国の責任に口をぬぐって日本の植民地支配を追及しようとするあつかましさは相当なものだが、これが慰安婦問題を騒ぎ立てる人々の発想なのだろう。
追記2:米政府のジョゼフ核不拡散担当特使は3日の記者会見で、「原爆投下によって戦争が早期に終結し、数百万人の生命が救われた」という米政府の公式見解を繰り返した:
I think that most historians would agree that the use of an atomic bomb brought to a close a war that would have cost millions of more lives, not just hundreds of thousands of allied lives but literally millions of Japanese lives.実際には、1945年6月には日本政府は本土決戦の方針を放棄し、ソ連の仲介で和平工作を進めようとしていた。したがって原爆よりも、ソ連参戦が決定的な降伏のきっかけになったのである。こんな嘘をいまだに公言している米政府に、安倍政権は何もいわないのだろうか。それこそ彼のいう「戦後レジーム」の呪縛の最たるものではないか。
松任谷由実が「デビュー35周年」だそうだ。私は、そのデビュー・コンサートを見に行ったことがある。京都の小さなホールで開かれたコンサートは、ピアノ1台の弾き語りで、客は数十人。歌はひどく下手だったが、曲はそれまでの「四畳半フォーク」とはまったく違い、日本にも新しいポピュラー・ミュージックが生まれたのだと感じた。
「荒井由実」の時代はフォローしていたが、結婚してからは音楽的につまらなくなって、ほとんど聞かなくなった。その後、80年代に「呉田軽穂」としてヒット曲を連発したころ、NHKの「ニュースワイド」でインタビューしたことがある(仕事にかこつけて誰にでも会えるのがテレビの仕事の最大のメリットだ)。業界では、彼女は「高飛車だ」とか「メディア操作にうるさい」など評判はよくないが、これは事務所の態度が悪いだけで、本人は気さくな楽しいおねえさんだった。
当時はテレビに出ないことで知られていたが、きのうは先週から始まった「シャングリラⅢ」ツアーをテレビで紹介し、舞台裏まで撮らせていた。4億円かけてシンクロナイズド・スイミングまで入れた大仕掛けなステージだが、舞台装置がすごいほど歌唱力の貧弱さが目立ってしまう。35年前のピアノ・コンサートのほうが感動的だった。
「荒井由実」の時代はフォローしていたが、結婚してからは音楽的につまらなくなって、ほとんど聞かなくなった。その後、80年代に「呉田軽穂」としてヒット曲を連発したころ、NHKの「ニュースワイド」でインタビューしたことがある(仕事にかこつけて誰にでも会えるのがテレビの仕事の最大のメリットだ)。業界では、彼女は「高飛車だ」とか「メディア操作にうるさい」など評判はよくないが、これは事務所の態度が悪いだけで、本人は気さくな楽しいおねえさんだった。
当時はテレビに出ないことで知られていたが、きのうは先週から始まった「シャングリラⅢ」ツアーをテレビで紹介し、舞台裏まで撮らせていた。4億円かけてシンクロナイズド・スイミングまで入れた大仕掛けなステージだが、舞台装置がすごいほど歌唱力の貧弱さが目立ってしまう。35年前のピアノ・コンサートのほうが感動的だった。
finalvent氏から、拙著への書評をいただいた。彼は私と同世代なので、マルクスを軸にして私の議論を理解したのだと思うが、これは当たっている。実は私も、ドゥルーズではないが、死ぬまでにマルクスについての本を書こうと思っている(出してやろうという版元があればよろしく)。サイバースペースに見えてきた世界が、彼のいう「自由の国」に似ているからだ。
マルクスは自由の国を、労働が生活手段ではなく目的となるような世界とし、そこでは生産力は増大して無限の富が実現すると考えた(『ゴータ綱領批判』)。これは彼のユートピア的な側面を示すものとしてよく嘲笑されるが、サイバースペースでは、人々がOSSを開発するのもブログを書くのも生活手段ではないだろう。労働が目的になれば、マルクスも予言したように貨幣(賃金)は必要なくなる。またデジタル情報に稀少性はないから、「協同的な富が過剰に湧き出る」ので、財産権には意味がなくなる。
もちろん主権国家の力は今なお大きく、特に知的財産権と称して情報の自由を制限しようとする国際カルテルは強まっている。日本でも、総務省は「情報通信法」でインターネット上の「公然通信」を規制しようとしている。しかし長期的には、こうした試みは失敗に終わるだろう。今や国家は情報のボトルネックを握っていないからだ。
近代社会で自由というとき、もっとも重要なのは言論出版の自由(freedom of the press)だが、これは本来は「印刷機(press)の自由」である。中世に教会が写本によって独占してきた知識が活版印刷によって広く普及することが、彼らの権威を危うくするものと思われた。これを弾圧するには、そのボトルネックとなっている印刷機を押収することがもっとも効果的な手段だった。
ここで教会=マスメディア、印刷術=インターネットと置き換えれば、今われわれの直面している闘いの構図がわかるだろう。かつては稀少な印刷機を押えれば自由を奪うことができたが、今日ではだれもがパソコンという「印刷機」をもっている。カーヴァー・ミードも言ったように「トランジスタを浪費せよ」というのが情報社会のマントラだから、過剰な資源をいくら規制しても言論をコントロールすることはできない。
では情報の過剰な時代のボトルネックは何だろうか。その一つは、ハーバート・サイモンの指摘したように、人々の時間(あるいは関心)だろう。私のRSSリーダーに登録されているサイトだけでも45もある。半日も見てないと新しい項目が100を超え、見出しだけ見てもどれが大事な情報かわからない。検索エンジンもノイズが多すぎ、きょう何が起こったかをざっと見るには紙の新聞のほうが役に立つ。ブログもソーシャル・ブックマークもイナゴだらけで、情報としての価値はない。
要するに今、われわれは自由の過剰な世界で、何を選んでいいかわからないのである。だから稀少な時間(情報の優先順位)を効率的に配分するメカニズムが、次のブレイクスルーになるのではないか。それは狭義の「検索」というよりも、むしろかつて挫折した(自然言語処理のような)人工知能の復活かもしれない。
追記:小飼弾氏からは「もとのブログのほうがおもしろい」という書評をいただいた。実は編集者にも「生産性論争」とかコメントなどを入れてブログっぽい感じを出したほうがいいといわれたのでやってみたが、プロレスを半年たって録画で見るような気の抜けた感じになるのでやめた。逆にfinalvent氏のいうように、本の形にまとまって初めて、私の一貫した考え方がみえてくるという面もあると思う。
これからウェブと紙媒体の役割分担が進むとすれば、ウェブのほうは"dynamic document"としてインタラクティブに動いている点ですぐれており、紙は系統的に整理する点で便利だ。新聞や雑誌はウェブの打ち出しで代替されるかもしれないが、伝統的な単行本は、意外に最後まで残るのではないか。
マルクスは自由の国を、労働が生活手段ではなく目的となるような世界とし、そこでは生産力は増大して無限の富が実現すると考えた(『ゴータ綱領批判』)。これは彼のユートピア的な側面を示すものとしてよく嘲笑されるが、サイバースペースでは、人々がOSSを開発するのもブログを書くのも生活手段ではないだろう。労働が目的になれば、マルクスも予言したように貨幣(賃金)は必要なくなる。またデジタル情報に稀少性はないから、「協同的な富が過剰に湧き出る」ので、財産権には意味がなくなる。
もちろん主権国家の力は今なお大きく、特に知的財産権と称して情報の自由を制限しようとする国際カルテルは強まっている。日本でも、総務省は「情報通信法」でインターネット上の「公然通信」を規制しようとしている。しかし長期的には、こうした試みは失敗に終わるだろう。今や国家は情報のボトルネックを握っていないからだ。
近代社会で自由というとき、もっとも重要なのは言論出版の自由(freedom of the press)だが、これは本来は「印刷機(press)の自由」である。中世に教会が写本によって独占してきた知識が活版印刷によって広く普及することが、彼らの権威を危うくするものと思われた。これを弾圧するには、そのボトルネックとなっている印刷機を押収することがもっとも効果的な手段だった。
ここで教会=マスメディア、印刷術=インターネットと置き換えれば、今われわれの直面している闘いの構図がわかるだろう。かつては稀少な印刷機を押えれば自由を奪うことができたが、今日ではだれもがパソコンという「印刷機」をもっている。カーヴァー・ミードも言ったように「トランジスタを浪費せよ」というのが情報社会のマントラだから、過剰な資源をいくら規制しても言論をコントロールすることはできない。
では情報の過剰な時代のボトルネックは何だろうか。その一つは、ハーバート・サイモンの指摘したように、人々の時間(あるいは関心)だろう。私のRSSリーダーに登録されているサイトだけでも45もある。半日も見てないと新しい項目が100を超え、見出しだけ見てもどれが大事な情報かわからない。検索エンジンもノイズが多すぎ、きょう何が起こったかをざっと見るには紙の新聞のほうが役に立つ。ブログもソーシャル・ブックマークもイナゴだらけで、情報としての価値はない。
要するに今、われわれは自由の過剰な世界で、何を選んでいいかわからないのである。だから稀少な時間(情報の優先順位)を効率的に配分するメカニズムが、次のブレイクスルーになるのではないか。それは狭義の「検索」というよりも、むしろかつて挫折した(自然言語処理のような)人工知能の復活かもしれない。
追記:小飼弾氏からは「もとのブログのほうがおもしろい」という書評をいただいた。実は編集者にも「生産性論争」とかコメントなどを入れてブログっぽい感じを出したほうがいいといわれたのでやってみたが、プロレスを半年たって録画で見るような気の抜けた感じになるのでやめた。逆にfinalvent氏のいうように、本の形にまとまって初めて、私の一貫した考え方がみえてくるという面もあると思う。
これからウェブと紙媒体の役割分担が進むとすれば、ウェブのほうは"dynamic document"としてインタラクティブに動いている点ですぐれており、紙は系統的に整理する点で便利だ。新聞や雑誌はウェブの打ち出しで代替されるかもしれないが、伝統的な単行本は、意外に最後まで残るのではないか。