
大正時代の長岡市中心部を写した絵はがき。4枚一組でパノラマ的に当時の街並みを記録する
大正の長岡写した絵はがき発見
来月から戦災資料館に展示
大正時代のものとみられる長岡市中心部の絵はがきがこのほど、同市中島3の星貴さん(49)宅で見つかった。4枚一組になっていて、つなげるとパノラマ写真になる珍しいもの。星さんは「空襲前の長岡を知る良い資料になるのでは」と話している。
星さんの家は、明治時代から「大坂屋書店」を経営しており、かつて絵はがきも販売していた。これを整理していたところ、この4枚の景色がつながることに気付いた。
はがきには、越佐新報(新潟日報社の前身)作製と記されている。星さんは、「写真は、当時、本町通り沿いにあった長岡銀行の屋上から撮ったのでは」とみる。
引き伸ばして細部を調べると、右から2枚目の後方に写る北越新報(同)の建物の隣に組み立てられた足場を発見。星さんや、郷土史に詳しい長岡戦災資料館の古田島吉輝館長は「この足場は1920(大正9)年に建て替えが始まり、翌年に完成した市役所だと思う」とし、そのころの撮影と分析する。
左から2枚目の中央には、1916(大正5)年に、英国ルネサンス様式のれんが造りの本館が完成した六十九銀行(北越銀行の前身)が見える。
通りには町家が並び、屋根の上に物干し台が見えるなど、当時の生活状況も写し出している。
しかし、一帯は1945年の長岡空襲で焼夷(しょうい)弾が落ち、焼け野原になった。
古田島館長は「戦前のまちがパノラマ写真で残っているなんて見たことがない。当時の長岡を知る貴重な資料だ」と笑顔。星さんは「空襲でこのまちが焼けてしまったのが悲しい。市民が当時の景色や生活様式を知るのに役立ててもらえたら」と話している。
はがきは、大きく引き伸ばし、来月から長岡市城内町2の長岡戦災資料館に展示される。