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今週の記事1本

こちらでは、カトリック新聞に掲載されている記事を、毎号につき1本お読みいただけます。


白柳誠一 枢機卿 逝去
人々の和解願い続け
貫いた神への奉仕

 東京教区の大司教を長年務め、日本人4人目の枢機卿として教会内外、各方面で活躍した白柳誠一枢機卿が昨年12月30日早朝、療養先の東京・練馬のイエズス会上石神井修道院ロヨラハウスで、心筋梗塞(こうそく)のために亡くなった。81歳だった。

 白柳枢機卿は1928年、東京生まれ。小神学校から司祭を目指し、戦時中は、函館のトラピスト修道院に疎開するなど苦労した。54年に司祭叙階。ローマ留学の後、66年に補佐司教に任命されて以来2000年の引退まで、東京教区の信者を福音の光のうちに導いた。94年には、教皇ヨハネ・パウロ2世によって枢機卿に親任された。
  この間、日本カトリック司教協議会や教会外の各方面でも活躍。82年の第2回国連軍縮特別総会には、日本から43万人近い署名を携え国連を訪問。83年から3期9年務めた司教協議会会長時代には、86年、東京で開かれたアジア司教協議会連盟(FABC)第4回総会で、アジア各国の司教らの前でアジア太平洋戦争の戦争責任を告白。また旧日本軍占領下のインドネシアで苦しんだオランダ人被害者に対して「償いと和解の巡礼」を続け、97年にはオランダでミサを行い、謝罪した。
  また会長在任中、司教協議会は中国教会関係資料室を設立。白柳枢機卿も毎年中国を訪問し、現地共同体の直面する複雑な状況の理解に努め、両国民の和解促進に貢献。現地の教会や神学校、修道院の建設、再建のために具体的支援を行った。
  81年の教皇来日を契機として、日本の殉教者の顕彰にも力を注ぎ、08年の188殉教者の列福実現の先駆として貢献した。
  一方、諸宗教対話を通じての平和運動にも積極的に参加し、世界宗教者平和会議(WCRP)日本委員会の第2代理事長を務めるなどした。
  引退後も東京・目白に居を移し、枢機卿の務めに忙しく、05年の教皇選挙には故濱尾文郎枢機卿と共に参加した。

分け隔てなく温かいかかわり
大聖堂に参列者あふれる

 1月5日、東京カテドラル聖マリア大聖堂で行われた葬儀ミサには、カトリック教会内外から2000人が参列。聖堂に入りきれない人は聖堂前の広場まであふれた。
  教皇ベネディクト16世に特使として指名されたソウル教区のチョン・ジンスク枢機卿が天候不良のため来日できない中、東京教区の岡田武夫大司教が多くの司教、司祭団と共にミサを司式。長年東京教区を支援してきたドイツ・ケルン教区のマンフレッド・メルツァー補佐司教、香港教区のジョン・トン司教らも参列した。
  駐日教皇庁大使アルベルト・ボッターリ・デ・カステッロ大司教により朗読された弔電の中で教皇は、白柳枢機卿の「長年の司祭職、司教職を通して、日本の福音宣教に一貫して尽くした姿勢、正義と平和促進のための働き、難民をたゆまず支えた努力」を称賛した。
  聖体拝領の後、復活の続唱、ひつぎへの灌水(かんすい)と献香に続いて司教らが枢機卿のひつぎを囲み、200人を超える司祭団と共にサルベ・レジナを歌い、枢機卿への告別とした。
  前日4日夜の通夜の祈りでは、白柳枢機卿を長年、補佐司教として支えた森一弘名誉司教が説教で話し、価値観の異なるさまざまな人に対しても、分け隔てなく温かい心配りをし、さまざまな人に優しく声を掛け、手を差し伸べていた枢機卿の姿をたたえ、しのんだ。
  各方面から多数弔文が寄せられ、ケルン教区のヨアヒム・マイスナー枢機卿は、長年、東京・ケルン両教区の橋渡しを果たした白柳枢機卿に感謝し、韓国司教協議会会長のカン・ウイル司教(チェジュ教区)は特に「韓国からの移住者に特別の関心と寛大さを示してくれたこと」をたたえた。活動を共にした神社本庁、比叡山や高野山、日本ムスリム協会などからも弔電が届けられた。
  白柳枢機卿の逝去により、日本人の枢機卿はいなくなり、世界の枢機卿総数は184人、教皇選挙権を有する80歳未満の枢機卿は112人となった。

 

白柳枢機卿逝去

200人を超える司祭団と司教がひつぎを囲み、「サルベ・レジナ」を歌った

 

 

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