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舞台裏を読み解く

[第7回]

ベクトルの和と、ブラックボックス。
デリケートな「おことば」のつくられ方

岩井克己 Katsumi Iwai 編集委員

象徴天皇制の運用のあり方をめぐり、波紋が広がる事態が続いている。

外相の岡田克也が国会開会式での天皇の「おことば」に「陛下の思いが入るように工夫できないか」と発言した。続いて、官邸が中国国家副主席・習近平の天皇会見を政府・宮内庁のルールを破ってねじ込んだ。ひと騒動の後、「おことば」は例年通りの定型文に落ち着いたが、副主席との会見は実施された。この過程で、民主党政権やメディアの間でも、象徴天皇の理念と運用について共通理解が必ずしも定着していないことが浮き彫りになった。

天皇の外国要人との会見や「おことば」の作成過程は、概してブラックボックスの中にある。副主席との会見は、宮内庁長官・羽毛田信吾が「1カ月前ルール」を表に出して遺憾の意を表明するという異例の展開となった。天皇会見はわかりやすい例で、むしろもっとデリケートなのが天皇の「お言葉」の扱いだろう。

会見前夜の挿入

「お言葉」といっても、国事行為、国会開会式、公式晩餐会でのあいさつ、相手国元首との会見から記者会見、非公式の発言まで様々なレベルのものがある。だから戦前は「勅語」と呼ばれたようなフォーマルなものは「おことば」と仮名表記し、固有名詞化される。宮内庁では国内向けは宮内庁官房総務課が、外国向けは式部職が担当する建前だが、たたき台はそれぞれ出席を依頼した側や担当官庁が作ることが多い。その後は側近の侍従職が天皇の意向を踏まえて手直しする。天皇自らが書き直すケースもある。記者会見や「感想」となると、ほとんど本人の書き下ろしとなるようだ。

 

一方、中国、韓国など過去の歴史の根深い傷跡が絡む場合などは、外交的綱引きの焦点となり、内閣の重大判断が求められてきた。朝日新聞は過去に何回かそうした「おことば」案のペーパーを入手したことがある。その通り天皇が読み上げたこともあるが、かなり変わったこともあった。官邸、外務省、宮内庁のいずれかで入手したから、その官庁の案とは限らない。文案は様々にキャッチボールされ、手直しを重ねて原形をとどめなくなることもあり得る。

2001年、日韓共催となったサッカーW杯の開会式を翌年に控えた誕生日会見で、天皇は「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と述べ大きな反響を呼んだ。このくだりは会見前夜に挿入され、宮内庁審議官室が確認・調整に追われた。

翌年6月30日の横浜での決勝戦には当時の韓国大統領・金大中が出席したが、その前日、黄海で南北朝鮮警備艇同士の砲撃戦で両国の兵士数十人が死傷する軍事衝突が起きた。金大中とスタジアムで顔を合わせた天皇は「お気持ちをお察しします」と述べた。筆者がある宮内庁幹部に「軍事衝突にまで言及するのは危険ではないか」と疑問をぶつけると、「お二人限りの個人的やりとりにとどめ、公表すべきではなかったかもしれない」と語っていた。

宮中では、「おことば」などの発言について、天皇が相談したい場合は主に長官、侍従長が受け、資料集めや字句点検などは審議官が行い、最終的には長官が総合判断して固めるのが大筋だが、ケース・バイ・ケースで天皇を含む関係者の属人的な価値判断と力関係のベクトルの和として決まるといっていい。

藤森昭一が長官の時代は、内閣官房副長官を経験した藤森の判断が政府・宮内庁内で重きをなしていた。阪神大震災発生直後の95年1月の国会開会式の「おことば」では、震災への異例の言及が盛り込まれた。閣議や宮内庁内で、より踏み込んだ言及を求める意見が出たが、藤森が抑えた。

激怒した侍従長

藤森退任後は、前侍従長の渡辺允が主たるベクトル調整役だったようだ。

07年まで10年半にわたり侍従長を務めた渡辺は先頃、回顧録『天皇家の執事』(文芸春秋刊)を出版した。外務省儀典長から宮内庁式部官長、侍従長。伯爵だった曽祖父が明治天皇の宮内大臣、父は昭和天皇の学友で生涯を通じ交友があった縁もある。霞が関人事というより皇室ヘの思いや見識を買われての起用だった。回顧録には「おことば」作成過程の裏話がいくつも織り込まれている。

儀典長として同行したスペインで、独立色の強いカタルーニャ州での晩餐会を前に、同州への言及の仕方で悩んだ天皇が自らスペイン国王に内々で相談した話。同国での全日程を終え同行記者団の質問に文書で回答するため、宿舎の迎賓館で未明までパソコンに向かい、疲れと睡魔でつっぷしそうになりながら回答文をつくる天皇。一問できるたびに、隣室に控える長官の藤森と渡辺に皇后が届ける姿……。

筆者はそんな渡辺の逆鱗にふれたことがある。

宮内庁3階の侍従長室に呼び出され「私はあなたに本当に怒っている」と詰め寄られたのは01年9月19日夕。この朝、渡辺は米国大使館を訪れ、11日に起きた同時多発テロについて「両陛下には、悲劇的な状況の下に、きわめて多くの無辜の人命が失われたことを深くお悲しみで、心からの哀悼と同情の意を表したいとのご希望である」と駐日大使のベーカーに伝えた。大使は感謝を述べ「大統領に伝えます」と応じた。

(次ページへ続く)

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