総頁数が660頁を数える大著である本書は、"日本軍の捕虜政策"について、日清・日露戦争から第二次大戦、さらには戦後補償まで網羅したとする。しかし、最も注目されねばならない日華事変についての論考は極めてお粗末だ。
本書では第二章で「宣戦布告なき戦争―日中開戦と捕虜」と題し、約40頁の紙数を割いている。ところが、その内容はというと、中帰連会員へのアンケート結果といったものに約10頁も紙数を割いている一方で、肝心の捕虜政策については十分な論考がなされていない。後述するように、中国戦線で捕虜取り扱いの根拠となった指針は少なくとも華北において二件あるはずだが、それに対する言及はなく、巻末に附された「捕虜政策関連年表」では、1929年(昭和4年)から1941年(昭和16年)の間が全くの空白となっている。
本書が指摘するように、日華事変において日中両軍の捕虜は国際法に基づく「戦争捕虜」としては処遇されなかった。両国ともに戦時国際法の適用を嫌い、「戦争」と認めなかったからだ。日本軍には戦時における捕虜関連法規として「俘虜取扱規則」「俘虜取扱細則」などが整備されていたが、日華事変はこれら法規の対象外であった。そのため、中国戦線における捕虜の取り扱いは任意で実行されることとなり、結果として捕虜の処刑や政治活動の強要など、国際法上違法とされる行為が日中両軍ともに多発した。ちなみに本書で処刑の例として引き合いに出されているのは(真実性が疑われる)中帰連の元戦犯による証言である。
では、中国戦線で捕虜は具体的にどのような枠組みで取り扱われたのか。この点、本書は事変初期の運用について「海軍の方針は、陸軍とも「協議済」というが、当の陸軍は方針を明確にしていない」としてそれ以上の論考を停止している。確かに、大本営(参謀本部)による明文の命令等は存在が確認できない。しかし、そもそも本書が指摘するように、軍令系統でのみ捕虜が取り扱われたということは、捕縛部隊からの後送がなく、現地で取り扱いが完結するという意味であり、以下に見るように、現地軍が捕虜取り扱いに関する指針を定めている以上、それに基づいて実際の運用がどのように行われたのかを明らかにすべきだろう。必要なのは中帰連元戦犯による"残虐行為"の告白などではない。本書は不勉強の謗りを免れない。書評としての範囲を超えるが、大まかに指摘しておこう。
北支那方面軍では、華北における中国軍捕虜の取り扱いの指針として「俘虜取扱ニ関スル規程」を少なくとも二回、事変初期の1937年(昭和12年)9月10日と太平洋戦争前の1941年(昭和16年)11月20日に定めている。
まず、1937年(昭和12年)の規程についてだが、その具体的な内容は不明である。ただし、直前に陸軍省からの捕虜取り扱いに関する照会に対し、「武装解除セル敵兵(捕虜)ハ解除後殆ント離散ノ状況ニアリ」と回答していることから(方軍参三電第二五一号)、1942年(昭和17年)の手島報告にいう「一般ニハ帰郷セシメ安居楽業ニ就カシメタル方針」といった内容であったと思われる。中国戦線の華北地域においては、1941年(昭和16年)まで、この規程に基づく運用が行われたわけである。
一方、1941年(昭和16年)11月20日付の第二回目の規程では、戦時法規の準用を定めた。すなわち、「俘虜取扱規則」で定められている戦時捕虜への待遇保障のうち、例えば傷病者と非従軍宣誓者の解放や捕虜への現金給与の支給など、"非適用"とする事項について列挙した上で、「本規程二定ムル以外ノ事項ニ関シテハ俘虜取扱規則及俘虜取扱細則ニ拠ルモノトス」として戦時法規に準じるとする内容である。
ここで二つの論点が浮かび上がる。ひとつは、1941年(昭和16年)に(改めて?)戦時法規の準用を定めた理由と経緯であり、もうひとつは、北支那方面軍、すなわち華北以外の地域(内蒙、華中、華南)においての運用及びその根拠規程の有無である。両者は特に、南京事件における捕虜の大量処分の理由にも繋がる論点となる。