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日本や世界で現在進行形の最新の軍事情報を選別して、誰にでもわかるような文章で解説します。ホットな事件や紛争の背景や、将来の展開を予測したり、その問題の重要性を指摘します。J-rcomでは、日本で最も熱い軍事情報の発信基地にしたいと頑張ります。(1999年11月)
2010.01.19
80人死傷 カブールで最大級攻撃 タリバン犯行認める
カテゴリアフガン出典 毎日新聞 1月19日 朝刊
記事の概要
アフガンの首都カブールで18日午前、大統領府のある高度警備地区に武装集団が押し入ろうとし、治安部隊と交戦になった。
警備地区ゲート前で一人が自爆、他のメンバーが地区周辺にある教育省など複数の政府機関やショッピングセンターに押し入り、自爆テロや銃撃戦を展開した。
01年のタリバン政権崩壊後、首都を広範囲に襲った最大規模の攻撃とみられ、内務省によると死者は少なくとも12人で、市民は2人とアフガン兵3人が犠牲になった。武装集団も7人が死亡した。死傷者数は20人以上。
タリバン広報官は毎日新聞の取材に「20人で襲撃した」と犯行を認めた。
大統領府ではこの日、カルザイ大統領再選に伴う一部閣僚の就任式が予定され、妨害を狙ったものとみされる。
アフガンの首都カブールで18日午前、大統領府のある高度警備地区に武装集団が押し入ろうとし、治安部隊と交戦になった。
警備地区ゲート前で一人が自爆、他のメンバーが地区周辺にある教育省など複数の政府機関やショッピングセンターに押し入り、自爆テロや銃撃戦を展開した。
01年のタリバン政権崩壊後、首都を広範囲に襲った最大規模の攻撃とみられ、内務省によると死者は少なくとも12人で、市民は2人とアフガン兵3人が犠牲になった。武装集団も7人が死亡した。死傷者数は20人以上。
タリバン広報官は毎日新聞の取材に「20人で襲撃した」と犯行を認めた。
大統領府ではこの日、カルザイ大統領再選に伴う一部閣僚の就任式が予定され、妨害を狙ったものとみされる。
コメント
他紙の記事やテレビの報道を見ても、タリバンの武装集団は高度警備地区のゲート前で自爆テロを起こしても、高度警備地区内には突入できなかったようだ。
この首都攻撃で思い出すのは、1968年のベトナム戦争で、2月に行われたベトナム解放戦線(ベトコン)の「テト攻勢」である。
この頃、アメリカのテレビでは連日アメリカ軍の優勢が報じられ、誰もがアメリカ軍の勝利を確信していた。
しかし解放戦線は約8万4千人の総力を決起させ、南ベトナム全土の主要都市で同時攻撃を仕掛けたのがテト攻勢である。
特に首都サイゴンにあったアメリカ大使館は、要塞のように厳重に警備されていたが、20人の決死隊によって突入・占領(一部)され、制圧を試みる米軍との戦闘は全米にテレビで放映された。
アメリカの勝利を信じていた国民は、テト攻勢で、そうではないことを知ったのである。以後、アメリカの世論は反ベトナム戦争に大きく変化していった。
このとき、南ベトナム北部の旧王都であるフエでも激戦があり、約1ヶ月間にわたり解放戦線に占領された。そのフエ奪還戦で米軍(主に海兵隊)は熾烈な市街戦を経験し、米軍ではフエの次の本格的な市街戦が戦われたのは2004年のイラク・ファルージャの市街戦である。米軍はフエで非正規戦での市街戦の難しさと怖さを身をもって体験したのだ。
私が2003年4月のイラク戦争開戦で、バグダッド進攻作戦が終了した時に、これからバクダッドで市街戦は起きないと発言したのはフェの戦闘を知っていたからである。アメリカ軍はバクダッドで非正規(ゲリラ)の市街戦が戦えるような訓練や装備を受けていなかったからだ。
もしバグダッド市街地の路地に入ったM1戦車には、側方や前方ではなく頭上の建物の窓や屋上からRPG7の対戦車ロケット弾が飛んでくる。これではとても戦えない。アメリカ軍は数千人の戦死者を覚悟しなければバグダッド市街戦はできなかった。
そしてバグダッド市街戦のあとに残るのは、米軍の空爆や砲撃で破壊された市街地の残骸と多くの住民の犠牲者たちである。
このテト攻勢と今回のバグダッド攻撃を比較すれば、タリバンが期待した成果にはほど遠い。むしろ20名の決死隊と自爆テロを用いても、高度警備地区に突入できなかったことはタリバンの限界を示すものだ。
これでアフガン情勢が一気に全面戦争モードに突入することはない。
他紙の記事やテレビの報道を見ても、タリバンの武装集団は高度警備地区のゲート前で自爆テロを起こしても、高度警備地区内には突入できなかったようだ。
この首都攻撃で思い出すのは、1968年のベトナム戦争で、2月に行われたベトナム解放戦線(ベトコン)の「テト攻勢」である。
この頃、アメリカのテレビでは連日アメリカ軍の優勢が報じられ、誰もがアメリカ軍の勝利を確信していた。
しかし解放戦線は約8万4千人の総力を決起させ、南ベトナム全土の主要都市で同時攻撃を仕掛けたのがテト攻勢である。
特に首都サイゴンにあったアメリカ大使館は、要塞のように厳重に警備されていたが、20人の決死隊によって突入・占領(一部)され、制圧を試みる米軍との戦闘は全米にテレビで放映された。
アメリカの勝利を信じていた国民は、テト攻勢で、そうではないことを知ったのである。以後、アメリカの世論は反ベトナム戦争に大きく変化していった。
このとき、南ベトナム北部の旧王都であるフエでも激戦があり、約1ヶ月間にわたり解放戦線に占領された。そのフエ奪還戦で米軍(主に海兵隊)は熾烈な市街戦を経験し、米軍ではフエの次の本格的な市街戦が戦われたのは2004年のイラク・ファルージャの市街戦である。米軍はフエで非正規戦での市街戦の難しさと怖さを身をもって体験したのだ。
私が2003年4月のイラク戦争開戦で、バグダッド進攻作戦が終了した時に、これからバクダッドで市街戦は起きないと発言したのはフェの戦闘を知っていたからである。アメリカ軍はバクダッドで非正規(ゲリラ)の市街戦が戦えるような訓練や装備を受けていなかったからだ。
もしバグダッド市街地の路地に入ったM1戦車には、側方や前方ではなく頭上の建物の窓や屋上からRPG7の対戦車ロケット弾が飛んでくる。これではとても戦えない。アメリカ軍は数千人の戦死者を覚悟しなければバグダッド市街戦はできなかった。
そしてバグダッド市街戦のあとに残るのは、米軍の空爆や砲撃で破壊された市街地の残骸と多くの住民の犠牲者たちである。
このテト攻勢と今回のバグダッド攻撃を比較すれば、タリバンが期待した成果にはほど遠い。むしろ20名の決死隊と自爆テロを用いても、高度警備地区に突入できなかったことはタリバンの限界を示すものだ。
これでアフガン情勢が一気に全面戦争モードに突入することはない。