<新年企画 拓(ひら)く>分かりやすい政治 より厳しい国民目線を
仙台に端を発し、盛岡や久慈など東北各地で設立が進む「笑福(おわらい)学会」のモットーは、「本物の笑い」の追求だ。その本質は「癒やし」と「風刺」という。古典落語を筆頭に、権力を笑い、庶民を励ます爽快(そうかい)感は「お笑い」の大きな魅力だ。
寄席などでじかに接するしかなかった時代の「お笑い」と、テレビ時代の「お笑い」は、その手法も種類も異なって当然。多少寄席に親しんだ経験から、近年とみに、その隔たりが大きくなったと思っているが、年末年始の「お笑い番組」で、政治や政治家を扱ったネタが例年になく目についたのは意外だった。
「お笑い」は、良くも悪くも時代の様相を映す鏡だ。昨年の「新語・流行語大賞」となった「政権交代」は、2005年の「小泉劇場」以来の政治ネタ。政治が身近になっていることの証左だろう。
「分かりやすさ」は民主主義政治の要諦(ようてい)に違いない。半面で、それが相応のリスクを伴うことを、われわれは経験的に知っている。争点を「郵政」一本に絞り、05年総選挙で圧勝した自民党は、小泉首相退陣後、国民から遊離したところで次々と首班を代え、国民の離反を誘発した。
教訓を得た新政権は、事あるごとに「国民目線」を強調する。財源不足を背景に暫定税率を実質維持するなど、マニフェスト(政権公約)に反する政策も、各種世論調査を見る限り「国民の声」と言えないこともない。
一方で、決定的に不足しているのは政権としての説明責任だろう。「国民の声」が、すべからく政権運営の根拠となるはずもない。
「脱官僚」を標ぼうしながら日本郵政社長に元大蔵官僚を起用したり、内閣官房報償費(機密費)の透明化方針を翻すなど、必ずしも国民の意を反映しない政策判断を含有しつつ「国民目線」を言いつのる姿勢に、便宜的に独善を覆い隠す意図をかぎ取るのは取り越し苦労だろうか。
雇用環境は依然厳しく、生活保護世帯も急増。個人生活の先行き不透明感は、そのまま国の針路の不透明感に直結する。先の総選挙は事実上、国民が首相を選ぶ選挙でもあった。混迷の海をさまよう国民に、率先して道を示すことが、「国民の声」を受けた政権の使命と言える。
今年は参院選の年。鳩山首相が年頭会見で口にした「新しい政治」の形は、依然として判然としない。民主党中心の政治か、それとも「二大政党制」の萌芽(ほうが)を育てるのか。「政治の意」を受ける形の国民は、主体的に政治とかかわる姿勢を保ちたい。
遠藤泉(2010.1.6)
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