「北陸とキリシタン版」講演要旨       山森専吉(山森青硯

 本日は「北陸とキリシタン版」と題しまして御話申し上げたいと思います。短時間の為、書誌学的な事にのみ止めておきたいと思います。

 扨我国に洋式印刷が伝来しましたのは十六世紀頃でございました。そしてほんの暫く我邦 の文化を潤しまして、又消え去り爾来幕末に至って再び輸入されました。其前者には、韓国伝来と西欧よりの伝来と二様ありまして、殆ど同時代同時期でありましたが、僅かに西欧活字輸入が先行いたしまし居りました。其西欧印刷物をキリシタン版と申します。キリスト教の禁制と相俟って、僅々29種類程発見されてます。此版を大別してローマ字両面刷のものと、和紙袋とじ刷のものとに分かれます。其中我が北陸に関係の在るもののみを申し上げましょう。

 即ち「ロ語平家物語」「伊曽保物語」「金句集」(加賀人編)「こんてむつす・むん地」(福井市発見)「太平記抜書」「落葉集」(金沢より発見)以上六種でございます。「ロ語平家物語」これは後程御話申し上ぐる「伊曽保物語」と「金句集」と合本一冊になって大英博物館に蔵する天下の孤本でございます。然かもこの作者は我が郷土人、加賀の禅僧ハビアンでございます。一五九二年天草の日本学林刊となっているからでございます。雁皮紙、八折本、全207葉、第一葉表は表題、裏は一五九三年二月二十三日のハビアンの序文がございます。この序は三書に通じた総序と思います。

 第二葉はDocujuno fitoni taixite Xosu(ヘボンローマ字と異る)。第三葉表より本文が始まり、P.3~408の頁があり、最後の三葉は「目録正誤表」で頁末載でございます。勿論僅か欠頁となっております。扨編者ハビアンは慧春、巴鼻庵、不干、恵俊、恵春、梅庵、Fucan Fabianとも称され、文章がロ語体で検校が二人問答体となっております。不思議なことに狂言ロ調の「ヲジヤル」「ヲシヤル」が使用され、其後転教し仏徒に帰った時「元和六年(1620)」「破提宇子」と云う本を書いております。 以上の見地からしまするとハビアンは加賀能楽の心得ある学者と考察されるのでございます。ハビアン転向前は「妙貞問答」中下(上欠)を著し、又松永貞徳案内で盛んに宗論行っております(羅山文集)。就中東都秀忠、駿府家康に面会、其の廃他主義の不可を説いているのが有名でございます。「伊曽保物語」同じく一五九三年天草版でございます。 御承知の如くイソップは紀元前五00年前欧人イソップの編、前述「平家物語」に続いてP.409~506と続いております。此伊曽保例言の底本たるや、今日不明と云うことになって居ります。「金句集」一巻、一五九三年天草版。続頁P507~553.五倫の説明が所載され、別途格言も集録されております。是は云う迄もなく、ローマ字に依って、外国教師の日本語を習熟させる教科書の使用すると同時に、道徳教訓を与へる目的で出版されたものでございます。以上を按えますると、語学者ハビアンは外国文学(イソップ)を邦訳し、日本文学(平家物語)を彼地に訳した所謂翻訳濫觴者と云わなければなりません。

 「こんてむつす、むん地」四巻一冊、慶長十五年(1610)国字、京都版でございます。大正五年(1916)林若吉氏福井の医家より発見され、後池長氏に渡り、現在天理図書館蔵となっております。本書は京都原田アントニオ印刷となっておりますが、印刷面が木活くさく、長崎の後藤宗印復刻版でなきかとの説が有力となりました。内容は「イミタチオ、クリステイ Imitatio Christi」と云う本の解訳と思います。発見時は淀君の妹で、京極高吉夫人マリア所持説が農厚でございますが、私は寧ろこの地は高山右近の父(ダリオ)の配所であり、高槻よりのキリシタン遺物の発見が?々なされており、其方面で肯かれる所が多うございます。

 「太平記抜書、六巻六冊同断簡ニ葉、」これは明治三十一年(1898)アーネスト、サトー氏金沢に於いて発見、続いて田中青山に渡り、内野皎亭蔵となり、同じく現在天理図書館蔵となっております。刊年刊地不明となっておりまが、紙質は越前産楮紙でございますので、私は末期長崎版であろうと思います。金沢材木町某家屋屋根板葺替の折、天井裏から発見 (副田松園氏談)と伝えられております。扨材木町と云う本に、「宮越のキリシタン幸右衛 門(文政七年)材木町住云々」の文献が載っております。サトウー氏慶応三年(1867)金沢通過池善のて書物購入と聞きますが、キリシタン版ではございません(現在大英博物館に池善印本蔵)次は「太平記抜書」の底本にふれましょう。

 慶長八、十、十二、十四、十五、古活字版説が有力と云われますが、最近の研究では、慶長十五年古活字版(泉丘校本) 「40巻、二十一冊三四0章」が有力視されて来ました。前記三四0章より仏教性を極力除去して一四八章六巻六冊の縮めたとの見方が強い様でございます。慶長も末期になりますと、和活字も洋活字に劣らぬ印刷となっております。泉丘本印刷の時(1610)同時に於京都「こんむつす・むん地」が印刷されて居ります。次に「落葉集」12葉は大正四年(1915)内野皎亭の需に依って表具師池上幸二郎(浩山人)が前述「太平記抜書」の裏打から発見されたもので、断簡ニ葉は同じく表紙裏から出品されたものでございます。此「落葉集」は我邦節用集の様なもので、刊年を記した国字本キリシタン版最古のものでございます。音訓を示すに平仮名ルビ活字を併用、濁点、半濁点が用いられております。特のぱぴぷぺぽの文字を用いているのは、我邦の印刷物ではこれが嚆矢でございます。(明治43年新村出説)蝶々申し上げましたが、非戦災都市金沢よりまだまだキリシタン版発見の可能性が有ろうかと存じます。                                                      (郷土史家) 以上は昭和55年7月1日 「こだま」第61号 金沢大学付属図書館報より

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