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小林繁さんが語った江川事件(1)

2010年01月18日
スポーツ

関連キーワード :野球小林繁江川事件

57歳の若さで亡くなった小林繁さんは、球界を揺るがした「江川事件」によって、1979年2月に巨人から阪神へ交換トレード…引退後は、本紙本紙専属評論家としても健筆を振るっていた。2006年には自身の半生をつづった「細腕波乱半生記」を本紙で約2か月にわたり連載。「空白の一日」の舞台裏を当事者が初めて明かすなど、球界内外にインパクトを与えた。東スポWebでは「江川事件」「突然の引退」の部分を掲載します。
(プレイバック1~6)


(写真は巨人のエースとして活躍していたころの小林さん。右は長嶋監督=1976年の日本シリーズ)

まさか二度とこの家で生活できなくなるとは…

【小林繁の細腕波乱半生記:プレイバック1】入団7年目、26歳の宮崎キャンプが目前に迫ってきた。出発前日の昭和54年1月30日。女房は2人目の子供を妊娠していて、まだ小さな上の子と1か月以上も留守を預けるのはとても不安だった。午前中に神戸の実家へ帰郷させ、ボクは都内のホテルを予約した。羽田空港発宮崎行きの飛行機は朝一番の便だった。川崎市多摩区の自宅からタクシーを飛ばしても2時間近くかかることが予想されたため、ちょうどよかった。
 夕方からボクは1人で家の戸締まりをした。時計の針は午後8時を指していた。1階応接間の雨戸をバチンと閉め「よし、これで完了だ」とつぶやく。玄関の鍵をガチャリとかけ、タクシーでホテルへ向かった。これを最後に、まさか二度とこの家で生活できなくなるとは…。あの時の雨戸と鍵の音は、今もはっきりと覚えている。
 膠着した「江川事件」は何の進展もなかった。江川卓との交渉権を持つ阪神・小津正次郎球団社長は「トレードを前提とした契約はしない」という姿勢を崩さず、江川サイドは当然のように拒絶する。1月26日には鈴木龍二セ・リーグ会長、小津球団社長、江川による意見交換会が持たれたものの、解決への糸口すら見いだせなかった。
 しかし、水面下では球界上層部、巨人、阪神トップ陣による“綱引き”が佳境を迎えていたのだろう。金子鋭コミッショナーの「強い要望」に沿って、マスコミには交換要員の候補として巨人ナインの実名がバンバンと報道され始めていた。「新浦寿夫」「西本聖」「淡口憲治」、そして「小林繁」の名前が躍った。 気分のいいはずはない。でもボクはそれほど動揺もしなかった。なぜなら巨人の足元を見て最高の要求をするなら、阪神はボクを指名するんじゃないかと思っていたからだ。ボクは前年の昭和53年のシーズンに阪神から5勝を挙げ、前々年の昭和52年にも5勝を稼いでいた。2年間で10勝2敗、対戦勝率8割3分3厘。ボクが阪神の球団社長でも「小林繁」を要求しただろう。
 でも、そんなことをいちいち気にしていても仕方がない。「強い要望」の締め切り日はキャンプインまでの1月31日だ。残された時間はあと1日。誰がトレード放出されるにしろ、雑音にはもう辟易(へきえき)していた。どうでもいい。なるようにしかならない。ボクはそう思いながら、チェックインしたホテルのベッドにもぐり込んだ。

阪神と巨人でまとまった“商談”…「小林はどこへ行った!」

 実はこの時、巨人幹部は必死になってボクを捜し回っていた。30日夜、阪神と巨人の間でついに“商談”がまとまった。江川と交換される巨人の選手が「小林繁」に決まったのだ。もぬけの殻となった自宅の電話がガンガン鳴り響く。今みたいに携帯電話がある時代ではない。ホテルに宿泊することを球団に届けていなかったので「小林はどこへ行った」と血相を変えていたらしい。ボクはそんなことを知る由もない。翌日の宮崎神宮での必勝祈願、緊張感いっぱいの直前ミーティング、厳しい練習などを思い浮かべながら、深い深い眠りについていた。
 31日朝、タクシーで羽田空港に到着した。報道陣がボクをどっと囲み、カメラマンが一斉にフラッシュをたく。巨人の主力クラスの選手なら決して珍しい光景ではない。ボクはこの時点でもまだ、宮崎キャンプの出陣取材だと思っていた。
(続く=東京スポーツ:2006年05月23日付紙面から)

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