続・はかた学 第5回 贋札事件(五)
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続・はかた学 第5回 (1996年9月21日 土曜日 朝日新聞西部本社版朝刊)
贋札事件に際し、藩庁は西郷隆盛の名声を頼り、その仲裁で事件の穏便な解決を図ろうとした。七月二十二日、福岡藩勤王派に属した元家老矢野梅庵を呼び出し、藩の軍艦大鵬丸たいほうまるで鹿児島に送った。梅庵は西郷とは旧知の間柄で、梅庵の依頼を受けた西郷は「嫌疑者を弾正台に引き渡してはならん」と即座に大鵬丸に搭乗した。
二十五日明け方、大鵬丸は博多湾に入ったが、すでに引き渡された後であった。大鵬丸はただちに小倉へ向かったが、これも一歩の差で嫌疑者は豊浦藩兵(旧長府藩)の手に落ち、西郷の努力は報われなかった。
西郷は、梅庵と面会した際、嫌疑者が弾正台に引き渡される前に断行せねばならぬ、と述べたという。また渡辺昇も、福岡に向かう途中、「一、二の有司(藩庁の役人)が引決してくれればよいのだが」と心ひそかに思うところがあった。当初の検挙が町人に限られたのは、あるいは自決の猶予を与えるという意味があったのだろうか。
しかし、福岡藩ではそのような動きがなく(小河愛四郎が切腹しようとして、黒田長知から生きて自分の冤罪を弁明してほしいと命じられたともいう)、大弾圧に口実を与えることになった。藩庁に大人物を欠いていたことは否めない。
長知は、福岡藩出身で唯一の出世頭とも言うべき、奈良県大参事早川勇を急ぎ呼び戻し、私的な顧問として解決に当たらせた。早川は腹のすわった男で、弾正台の糾問に応じ、福岡藩の弁明のために大きな役割を果たした。
維新最大の功労者である西郷が福岡藩のために東奔西走したのにはわけがあった。黒田長溥に恩義を感じていたからである。
長溥は薩摩藩主島津重豪しげひでの九男で、重豪のひ孫斉彬なりあきらからは大叔父に当たっていた。しかも、長溥は斉彬より二歳年下であった。重豪、斉彬、長溥はいずれも洋式技術の導入に熱心で、多少の揶揄やゆをこめて蘭癖らんぺき大名と言われた人たちである。
嘉永二年(一八四九年)、斉彬の家督相続をめぐって、薩摩藩では斉彬派へ弾圧を加えた(お由羅騒動)。斉彬派の中から内情を長溥に訴え、圧力を加えてもらおうと考える人が出た。
二年十二月から翌三年六月にかけて、井上出雲守(神職)、木村仲之丞、竹内伴右衛門、岩崎千吉が、弾圧を逃れて脱藩し、相次いで筑前へ駆け込んだ。薩摩藩では追手を派遣して追跡したが、長溥は庇護ひごを加え、隠し通した。四人はそれぞれ変名し、宗像大島、相島などに匿かくまわれた。
嘉永四年、斉彬は薩摩藩主となって初めて薩摩に下った。途中、代々の例にならって筑前を過ぎ、住吉宮、筥崎宮に参拝した。長溥は斉彬を箱崎御茶屋(別邸)でもてなした。斉彬は長溥に、井上ら四人を庇護したことへの礼、自分の家督相続に対する長溥の尽力への礼を述べた。
こうした経緯から、西郷ら斉彬派に属した薩摩藩士は、長溥に深い信頼を寄せていたのである。
小倉に上陸した西郷は弾正台出張の岸良きしら兼養大巡察(薩摩出身)の手引きで、渡辺昇大忠に面会を求めた。渡辺は拒絶したが、日田県知事松方助左衛門(薩摩出身)が酒席を設けて渡辺と西郷を引き合わせた。
席上、福岡藩のことは話題に上らなかったとされる。後に贋札事件の経緯を記した奈良原至は「予は信ず。松方氏晩餐ばんさんの値五十余万石」と書いている。
福岡藩の運命は、この時に西郷が話を切り出すかどうかにかかっていた。西郷はひそかに松方の好意に謝し、あえて渡辺を窮地に追い込むことを避けたのであろう。
【画】島津重豪画像より……〈略〉
贋札事件 五 = 西郷の奔走実らず =
贋札事件に際し、藩庁は西郷隆盛の名声を頼り、その仲裁で事件の穏便な解決を図ろうとした。七月二十二日、福岡藩勤王派に属した元家老矢野梅庵を呼び出し、藩の軍艦大鵬丸たいほうまるで鹿児島に送った。梅庵は西郷とは旧知の間柄で、梅庵の依頼を受けた西郷は「嫌疑者を弾正台に引き渡してはならん」と即座に大鵬丸に搭乗した。
二十五日明け方、大鵬丸は博多湾に入ったが、すでに引き渡された後であった。大鵬丸はただちに小倉へ向かったが、これも一歩の差で嫌疑者は豊浦藩兵(旧長府藩)の手に落ち、西郷の努力は報われなかった。
西郷は、梅庵と面会した際、嫌疑者が弾正台に引き渡される前に断行せねばならぬ、と述べたという。また渡辺昇も、福岡に向かう途中、「一、二の有司(藩庁の役人)が引決してくれればよいのだが」と心ひそかに思うところがあった。当初の検挙が町人に限られたのは、あるいは自決の猶予を与えるという意味があったのだろうか。
しかし、福岡藩ではそのような動きがなく(小河愛四郎が切腹しようとして、黒田長知から生きて自分の冤罪を弁明してほしいと命じられたともいう)、大弾圧に口実を与えることになった。藩庁に大人物を欠いていたことは否めない。
長知は、福岡藩出身で唯一の出世頭とも言うべき、奈良県大参事早川勇を急ぎ呼び戻し、私的な顧問として解決に当たらせた。早川は腹のすわった男で、弾正台の糾問に応じ、福岡藩の弁明のために大きな役割を果たした。
維新最大の功労者である西郷が福岡藩のために東奔西走したのにはわけがあった。黒田長溥に恩義を感じていたからである。
長溥は薩摩藩主島津重豪しげひでの九男で、重豪のひ孫斉彬なりあきらからは大叔父に当たっていた。しかも、長溥は斉彬より二歳年下であった。重豪、斉彬、長溥はいずれも洋式技術の導入に熱心で、多少の揶揄やゆをこめて蘭癖らんぺき大名と言われた人たちである。
嘉永二年(一八四九年)、斉彬の家督相続をめぐって、薩摩藩では斉彬派へ弾圧を加えた(お由羅騒動)。斉彬派の中から内情を長溥に訴え、圧力を加えてもらおうと考える人が出た。
二年十二月から翌三年六月にかけて、井上出雲守(神職)、木村仲之丞、竹内伴右衛門、岩崎千吉が、弾圧を逃れて脱藩し、相次いで筑前へ駆け込んだ。薩摩藩では追手を派遣して追跡したが、長溥は庇護ひごを加え、隠し通した。四人はそれぞれ変名し、宗像大島、相島などに匿かくまわれた。
嘉永四年、斉彬は薩摩藩主となって初めて薩摩に下った。途中、代々の例にならって筑前を過ぎ、住吉宮、筥崎宮に参拝した。長溥は斉彬を箱崎御茶屋(別邸)でもてなした。斉彬は長溥に、井上ら四人を庇護したことへの礼、自分の家督相続に対する長溥の尽力への礼を述べた。
こうした経緯から、西郷ら斉彬派に属した薩摩藩士は、長溥に深い信頼を寄せていたのである。
小倉に上陸した西郷は弾正台出張の岸良きしら兼養大巡察(薩摩出身)の手引きで、渡辺昇大忠に面会を求めた。渡辺は拒絶したが、日田県知事松方助左衛門(薩摩出身)が酒席を設けて渡辺と西郷を引き合わせた。
席上、福岡藩のことは話題に上らなかったとされる。後に贋札事件の経緯を記した奈良原至は「予は信ず。松方氏晩餐ばんさんの値五十余万石」と書いている。
福岡藩の運命は、この時に西郷が話を切り出すかどうかにかかっていた。西郷はひそかに松方の好意に謝し、あえて渡辺を窮地に追い込むことを避けたのであろう。
(この項おわり)
【画】島津重豪画像より……〈略〉