大好きな巨人軍に骨を埋めたかった
【小林繁の細腕波乱半生記:プレイバック4】巨人と阪神から1月31日夜に申請された小林繁と江川卓の交換トレードは、しかし、すぐには受理されなかった。こんな横暴が許されていいのか! マスコミのバッシングはさらに激しさを増し、世論も圧倒的にこれを支持していた。鈴木龍二セ・リーグ会長は移籍公示を保留せざるを得ず、冷却期間を置いて善後策を練るしかなかった。
そして8日後の2月8日。東京グランドホテルで開かれた実行委員会で、金子鋭コミッショナーは正真正銘の最終裁定を下す。
<よかれと思ってやったことが、巨人のためにやったと受け止められたのは残念だ。結果的に社会とプロ野球ファンに迷惑をかけることになった。本日限り、コミッショナーの座から下りたい>。
辞意を表明した金子コミッショナーは続いて次のように宣言した。
一、12月22日のコミッショナー発言(強い要望による交換トレード)は撤回する。
一、江川卓と小林繁のトレードは、いったん白紙に戻す。
一、その上で巨人は改めて阪神へ小林をトレードする。申請あり次第公示する。
一、阪神から巨人への江川の移籍は開幕の4月7日まで認めない。
一、巨人は移籍後の江川を自粛させ、4月、5月中の現役登録を行わない。
この裁定に従って巨人、阪神はそれぞれ手続きを取る。ボクが阪神移籍を公示されたのは2日後の2月10日。江川はまだ巨人の支配下選手に入ることはできない。つまり昭和54年2月10日から4月6日までの56日間は、ボクも江川も阪神の選手だったことになる。ちなみに、一度もタテジマのユニホームに袖を通さなかった江川の阪神での背番号は「3」だった。
このコミッショナー裁定が出るまで、ボクは都内のホテルに閉じこもっていた。1月31日に流した涙も出尽くし、だいぶ落ち着きを取り戻していた。時間がたっぷりとあったので、いろいろと考える余裕も出てきた。
まずは自分のこと。「ステータスが上がったじゃないか。頑張りなさい」と励ましてくれる知人もいた。18勝、18勝、13勝と3年間で49勝を挙げていたジャイアンツのエース格が、打倒・巨人を旗印に掲げる阪神の一員となる。みんなが悲劇のヒーロー扱いをするだろうし、数字的にも高いレベルを期待されるのは間違いない。
となると、決してゼロからの出発とはいえないじゃないかと思った。やって当たり前、ダメなら周囲の落胆と失望感は相当なものになる。ましてや阪神でのボクは外様選手だ。損得の問題ではないとはいえ、いくら頑張っても現状維持、そうでなければマイナス…。どう考えてもハイリスク・ノーリターンの移籍としか思えなかった。
そして江川のこと。ボクとは違ってハイリターンのプロ人生になると確信した。マスコミ、ファンの猛烈なバッシングに遭い、ヒールのレッテルを張られる。最初はつらい思いをしながらマウンドにも上がることだろう。そんなリスクの一方で、江川の実力をもってすればいずれ必ず認知される。5年たち、10年たてば「江川事件」も風化していくに違いない。大巨人の後ろ盾もあり、江川はスーパースターへの道を歩んでいくと思った。
大好きな巨人軍に骨を埋めたかった。阪神移籍をどんなに前向きに考えようとしても、結論はすべてここにたどり着く。ボクはまた、無性に悲しくなった。
※上の写真は「江川事件」で阪神百貨店前で騒ぐ阪神ファン(1978年)
(続く=東京スポーツ:2006年05月26日付紙面から)
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