池田信夫 blog

Part 2

April 2007

2007年04月12日 11:16

講座派の遺産

日本資本主義論争といってもピンと来ない人が多いだろうが、戦前に日本の知識人を二分して行なわれた大論争である。簡単にいうと、日本はまだ封建社会であり、まずブルジョア革命が必要だとする講座派と、日本はすでにブルジョア社会であり、社会主義革命が必要だとする労農派の論争だが、戦後になって高度成長が軌道に乗ると、こういう後進国としての問題意識が薄らいで、うやむやになってしまった。

ただ日本の知識人には、モデルとしての欧米からいかに遅れているかという観点から自己を意識する傾向が強い。大塚久雄も川島武宜も講座派の影響を受けており、マルクス主義から距離を置いた丸山真男にも「自立した市民」を理想とする講座派の影響は色濃い。こうした後進国意識は、「グローバル・スタンダード」を主張する一部のエコノミストや、欧米の基準で日本の「性奴隷」を断罪する左翼メディアにも受け継がれている。

講座派の理論は、実は32年テーゼとよばれるコミンテルンの方針にもとづくものだ。これは天皇制を「絶対主義」と規定し、それを打倒するブルジョア革命を共産党の当面の任務とした。この方針は戦後も日本共産党の綱領に受け継がれ、京大では講座派の教義に忠誠を誓わない者は大学院に進学できなかった。他方、東大は労農派の末裔である宇野経済学の拠点となった。しかし現実の政策としては、日本でブルジョア革命が必要だという「二段階革命論」は現実性を失い、共産党もこれを「民主連合政府」などという表現にしたあげく、事実上放棄した。

日本の後進国コンプレックスは、1980年代に日本企業が世界市場を制覇した時期に克服されたかに見え、「日本は資本主義を超える人本主義だ」といった夜郎自大な議論が流行した。世界銀行は、1993年になって『東アジアの奇跡』という大規模な共同研究を発表したが、それは日本のバブル崩壊やアジア金融危機で吹っ飛んでしまった。今われわれは、講座派が出発した時点に戻ってしまったようにみえる。やはり資本主義には、英米型をモデルにする以外の道はないのだろうか。

75年前にも、究極の近代化論としての二段階革命論が提唱される一方で、近代の超克が叫ばれ、「アジア的共同体」への回帰や「五族協和」のスローガンが「大東亜共栄圏」につながっていった。安倍首相のナショナリズムには、彼の祖父が満州で建設しようとした国家社会主義の匂いがある。いま中国やインドの台頭は、英米型資本主義でも日本型資本主義でもない新しいモデルを突きつけているようにも見えるが、歴史や制度を視野の外に置く主流経済学は、それにどう対応すべきかを何も教えてくれない。

本書は「講座派の遺産」を戦後の近代化論まで追跡して検証するというテーマ設定はいいのだが、残念ながら著者が日本語の文献を十分理解しないで問題を自己流に一般化しているため、何をいおうとしているのかよくわからない。紹介される文献のバランスも悪く、講座派と無関係な宇野経済学の紹介が100ページ近くある。訳も悪く、理解不能な文が随所にみられる。いま日本の直面している問題を考える上でも、もっとちゃんとした日本マルクス主義の研究書が必要だと思う。
左の画像には、リンクを張ってない。こんな本を読むのは、金と時間の無駄だからだ。原著の発売と同時に日本でも訳本が発売され、アマゾンでもキャンペーンが張られ、『ハーバード・ビジネス・レビュー』日本版でも特集している。ダイヤモンド社を挙げて売り込もうとしているのだろう。経営学も、ハリー・ポッター並みになったということか。

中身のないバズワードが定期的に売り出されるのはビジネス本の常だが、この「クリエイティブ・クラス」というのは特に出来が悪い。何も新味がないからだ。クリエイティブな企業の代表としてあげられているのは、もちろんグーグルだ(他にあるだろうか)。ところがトヨタもクリエイティブだということになっているので、概念はさらに曖昧になる。結果としては、優良企業はみんなクリエイティブだという話に近い。

私の印象では、問題は本書のいうようにクリエイティブな人材が足りないことではなく、クリエイティブな労働に正当な対価が支払われないことだ。その一方で、陳腐な作品がマーケティングによってベストセラーになる傾向が最近とくに強い。皮肉なことに、本書が早くもアマゾンのベストセラーに入っている事実が、そういう傾向を示している。
4/7の記事へのコメントに「日本のマスコミは、戦前・軍部・ファシズムを糾弾してさえいれば心理的には『道徳的戦勝国』側にいられるので、ただ楽な方を選んでいるのです」という指摘があった。たしかに、左翼的知識人にあるのは「ナショナリズムなんか信じているのは感情をコントロールできない頭の悪い奴だ。自分はそういう感情を克服して普遍的正義の側に立っているのだ」という優越感である。これは戦前からの伝統で、かつてマルクス主義に走った人々に大地主の子弟が多かったのも、「財産を捨てて貧しい人に尽くす」ことに道徳的な満足を覚えていたからだ。

こういう露悪的エリート意識は、いまだにカルスタポスコロやフェミニスト一派に多い。彼らはマスメディアの言葉尻をとらえて「潜在的な差別意識」を指摘し、それを「脱構築」することが正義だと信じているが、自分の依拠する価値観が他ならぬオリエンタリズムだということに気づいていない。滑稽なのは、彼らが一致して「女性国際戦犯法廷」のようなデマゴギーを支持することで、自分たちの潜在的イデオロギーを露呈していることだ。

念のためいっておくが、私はこういうのを「反日的言論」として指弾し、「国民の物語」を取り戻せという類の議論を支持するつもりはない。ナショナリズムは近代国家の作り出した宗教であり、「想像の共同体」にすぎないからだ。しかしそれを「克服」したはずの左翼の依拠するインターナショナリズムが観念でしかないのに対して、ナショナリズムがいまだに強い情緒的リアリティをもつのは、それがまさに宗教だからなのである。

帰属すべき集団を求める部族感情が人間に遺伝的に埋め込まれているとすれば、企業や地域社会などの中間集団が弱まるにつれて、むしろ想像の共同体としての国家への帰属意識は強まる。個人主義の強い(国民国家とさえいえない)アメリカで、ナショナリズムが強いのはそのためだ。パトナム『孤独なボウリング』が指摘するように、このようにソーシャル・キャピタルを支えるコミュニティが崩壊し、原子的個人と国家に二極化した社会は不安定になりやすい。社会の統合を支えるものは、キリスト教と戦争しかなくなるからだ。

コミュニティが解体したサイバースペースで「ネット右翼」が増殖しているのも、同じ理由だろう。アジアだけでなく、欧州でもそういう傾向が強いという(反ブッシュの強いアメリカは例外)。かつて「世界市民」を生み出すと思われていたインターネットは、その成熟にともなって各国語のサイトが整備されるにつれて、むしろナショナリズムを強めるメディアになりつつある。国際的なトラフィックが国内を上回ると予想してテラビットの回線を世界中に敷設したグローバル・クロッシングは破綻し、今では日本のトラフィックの8割以上は国内で完結する。

ここには(中国などを除いて)いかなる国家の介入もないので、インターネットは自明の共同体とは何かをめぐる一種の社会実験でもある。ナショナリズムの基礎にある「国語」が近代国家の作り出したイデオロギーだというのは確かだが、それが言語空間としてのネットで標準的なプラットフォームになるのも当然だ。こうした「プラットフォーム競争」でナショナリズムが勝ち残るとすれば、それは少なくとも左翼的インターナショナリズムよりはすぐれた宗教だったということになる。
2007年04月09日 01:32

市場を創る

著者は、周波数オークションの設計やニュージーランドの規制改革の顧問もつとめた、アメリカの指導的な経済学者だ。本書の内容は、ひとことでいうと「制度設計入門」である。設計というと「計画経済」を連想する人もいるかもしれないが、制度設計とは、人々が自律的に行動した結果、望ましい状態になるようなルールの設計である。特に重要なのは、市場メカニズムをうまく機能させるルールだ。

「格差社会」を是正するには政府の介入が必要だ、といった議論は、政府が求めた通りの結果が市場で実現すると想定しているが、実際には人々は利己的に行動するので、政府が予想した通りにはならない。たとえば電波を割り当てるとき、政府が「電波をもっとも有効に利用する企業に割り当てる」と告知すれば、すべての企業が「当社がもっとも有効に利用する」と申告するだろう。書類審査しても、今回のアイピーモバイルの事件のように、嘘だと判明することもある。情報の非対称性がある限り、「電波社会主義」で最適な配分を行なうことはできないのだ。

周波数オークションは、政府が歳入を増やすためではなく、電波をもっとも有効に使う企業を選ぶためのメカニズムである。書類審査なら嘘をつくことができるが、オークションで入札するときには、本当にもうかると思う額以下でしか応札しないから、電波をもっとも有効に使う企業が最高の価格を提示し、落札できる。つまりオークションは、本当のことを言わせるメカニズムなのである。

日本の行政には、このように戦略的にルール設定を行なうという発想がなく、「1段階論理の正義」で市場に介入する傾向が強い。「市場原理主義」に反対する人々は、市場の反対物は直接規制だと思い込んでいるが、経済学は市場をコントロールする技術を開発してきたのである。本書は、そういう制度設計の考え方をやさしく説いている。
2007年04月08日 12:24
法/政治

法のアーキテクチャ

去年の12/10の記事に「霞ヶ関の住人」からコメントをいただいたので、少し補足しておく。

「官僚の質が下がってもいい」というのは、言葉が足りなかった。「社会のルールをつくり、それを執行し、絶えずルールを時代に合わせ改善していく仕事はあります。これは、民間にいる主要なプレーヤーの方たちと少なくとも同じ能力を持っていなければできる仕事ではありません」というのはおっしゃる通りだが、そのルールの作り方と執行システムは変える必要がある。

日本の大企業と役所の両方に勤務した経験からいうと、両者には共通の長所と短所がある。決まったことを間違いなく実行する能力は非常に高いのに、その前提となる意思決定が非常に下手で、間違えると軌道修正がきかないということだ。こういう問題は企業理論ではよく知られているが、官僚機構にも同じような定型的事実がある(Silberman)。

利用できる資源が少ない「追いつき型近代化」の局面では、日独仏型の大陸法型システムがうまく機能する。ここでは資源を総動員しなければならないので、業務の補完性(相互依存性)が強い。しかし、こういう「開発主義」システムは、経済が成熟すると集権的な調整機能のオーバーヘッドが負担になり、さらに大きな負のショックが発生すると、コンセンサスによる調整で対応できないため、制御不能になってしまう。

これに対して英米型のコモンロー型システムは、分権的なので意思決定の一貫性や安定性には欠ける。行政の決めた規制を議会が否定したり、議会のつくった法律を裁判所が違憲と判断したりすることがしばしば起こり、効率が悪い。しかしシステムが間違いに強いように設計されているので、軌道修正しやすく、柔軟性が高い。

日本の法律は、官僚の実感によると、独仏法よりもさらにドグマティックな大陸法型だという。ルールのほとんどが法律や省令として官僚によってつくられ、逐条解釈で解釈も官僚が決め、処罰も行政処分として執行される。法律は「業法」として縦割りになり、ほとんど同じ内容の膨大な法律が所管省庁ごとに作られる。これはコンピュータのコードでいうと、銀行の決済システムをITゼネコンが受注し、ほとんど同じ機能のプログラムを銀行ごとに作っているようなものだ。

しかも重複や矛盾をきらい、一つのことを多くの法律で補完的に規定しているため、法律がスパゲティ化しており、一つの法律を変えると膨大な「関連法」の改正が必要になる。税法改正のときなどは、分厚い法人税法本則や解釈通達集の他に、租税特別措置法の網の目のような改正が必要になるため、税制改正要求では財務省側で10以上のパーツを別々に担当する担当官が10数人ずらりと並ぶという。

こういうレガシー・システムを前提にすると、高い記憶力と言語能力をそなえた官僚が法律を作る必要があり、アーキテクチャを変えないで官僚の質が下がると、システムが崩壊する危険がある。しかし、これはコンピュータでいえば、オーサリングツールやデバッガで自動化されるような定型的な仕事だ。優秀な官僚のエネルギーの大部分が老朽化したプログラムの補修に使われている現状は、人的資源の浪費である。

だから組織の再設計と同時にやらなければならないのは、こうした業務の再設計である。メインフレーム型の集権的国家が役に立たなくなっているとき、COBOLのプログラムをいくら書き直しても問題は解決しない。必要なのはレガシー・システムを捨て、ルールをモジュール化して個々の法律で完結させ、法律に重複や矛盾を許して最終的な判断は司法にゆだねるなどの抜本的な改革だ。要するに、優秀な官僚でなくてもつとまるように法のアーキテクチャを変えるのである。

しかし、これは明治以来の「国のかたち」を変える大改革であり、あと100年ぐらいかかるかもしれない。
2007年04月07日 10:40
法/政治

片思いの日米関係

きのうの記事のコメント欄で指摘された英文読売の記事を読んで、私も同じ感想をもった。
米国との友好関係を築こうと努力してきた日本の知識人は、今回の米国メディアの報道に深く傷ついている。彼らの事実誤認だけでなく、性的な問題で日本に説教しようとする無神経さを日本の知識人が不愉快に思うのは当然だ。
海外メディアの一連の記事でいちばん驚いたのは、3/6のNYT(電子版)の記事の安倍首相の写真が、別人のものになっていたことだ。私がEメールで指摘したら、さすがにすぐ削除されたが、NYTの編集者でさえ日本の首相の顔を知らないわけだ。イラク戦争に反対する人々を「恥辱の殿堂」と呼んだ古森義久氏も、困惑している:
日本側では対米同盟の堅固な支持層というのは、自国の国益や国家意識、さらには民主主義、人道主義という普遍的な価値観を強く信奉してきた国民層だといえよう。 米国が慰安婦問題で日本側をたたけばたたくほど、まさにこの層が最も屈辱や怒りを感じ、同盟相手の米国への不信を強くするのだ、ということは米側に向かっても強調したい。
古森氏には気の毒だが、彼のような「親米保守」がアメリカを崇拝するほどには、アメリカ人は日本を重視していない。彼らにとっては、いまだに日本人は世界を侵略する気味の悪い黄色人種であり、その差別意識と警戒心は、戦後60年たっても変わっていないのだ。

おかしなことに、そういう日本たたきをあおる朝日新聞や吉見義明氏のような左翼文化人も、みずからを国際的と自認している。彼らは「戦争犯罪を否定する日本人」というステレオタイプを作り出し、それを指弾するマッチポンプによって「国際世論」に迎合し、「国際的な学界」の評価を得ているのだ。今回の事件についての「知日派」学者のコメントを見て唖然としたのは、彼らがまだ15年前の朝日新聞のレベルの事実認識で議論していることだ。彼らは121決議案を「慎重な表現」で日本に警告するものと評価し、日本の「勇気ある知識人」をたたえる:
日本には、政府が戦争犯罪に責任をとるよう求めて闘ってきた多くの勇気ある学者、ジャーナリスト、法律家、そして一般市民がいる。彼らの努力は特に賞賛に値する。というのは、そういう努力は、困難でしばしば意気阻喪させる状況で続けられてきたからだ。歴史への責任を問う公的な知識人は、いつも侮辱的な言葉を投げつけられ、暴力で脅迫されてきたが、警察はそれを止めようともしない。(Tessa Morris-Suzuki)
彼らにとっては、「醜い日本人」という偏見を裏書きしてくれる朝日新聞だけが正しいメディアなのだ。この程度の研究者が「専門家」として通用するのは、日本語という参入障壁のおかげだろう。彼らのような「リベラル知識人」は、競争の激しい経済学などではとっくに絶滅しているが、「日本研究」のような周辺的な分野では辛うじて生き残っているわけだ。

現代の世界を混乱させている元凶は、こうした欧米諸国の自民族中心主義である。日本の右翼も左翼も、別の形でそれに媚びを売ってきたが、今回の慰安婦騒ぎではしなくも明らかになったのは、彼らの愛は片思いだったということだ。それはたとえてみれば、こんな光景だろうか:結婚して60年以上、ひたすら夫に仕えてきた妻が、あるとき夫の日記を読むと、初恋の人への断ち切れぬ思いがつづられ、「どうしても妻が好きになれない」と書かれていた・・・
2007年04月06日 22:05
経済

左翼の最後の砦

今日は、大阪のよみうりテレビで「たかじんのそこまで言って委員会」という番組に出演した(放送は日曜)。例の「あるある」をめぐって「テレビの何が問題か」というテーマだったが、ちょっと驚いたのは、司会者が拙著『電波利権』を紹介し、ゲストが新聞社とテレビ局の系列化などを批判していたことだ。これまでCSやラジオではこの本の話をしたが、ようやく関西ローカルまで来たか。いや、実は関西以外でも19局ネットしていて、「見えないのは首都圏だけ」だそうだが。

本題とは関係ないところでおもしろかったのは、なぜか田嶋陽子氏が「この番組は保守派ばっかりだ」とキレたことだ。彼女によると「海外経験者が少ない」のが問題だという。これに三宅久之氏が「あんたのような欧米崇拝はもう古い」と茶々を入れると、田嶋氏が本気で腹を立てていた。

「日本は遅れている」「欧米では**だ」というのが、戦後の左翼(および近代主義者)のマントラだった。そういう「他民族中心主義」の幻想は、あらかた崩れてしまったが、いまだに残っている最後の砦が歴史認識地球環境だ。前者が「アジアへの加害者責任」として生き延びている経緯については4/3の記事に書いたが、後者はもう少しわかりにくい。

きょうのNHKの「ニュース9」で、IPCCの第4次報告書に関連して「温暖化の危機はすでに始まっている」として、オーストラリアの旱魃を紹介していたが、これは間違いである。IPCCの報告でも、温暖化の影響が出てくるのは2050年以降であって、現在の異常気象の原因が温暖化だという科学的根拠はない。しかしキャスターは「温暖化対策は待ったなしだ」としめくくっていた。

地球環境問題は、アル・ゴアに代表されるリベラル派の世界的な結集点になっている。市場にまかせていてはだめで規制が必要だ、という社会主義的な主張はほとんど相手にされなくなったが、この分野だけは規制強化論が勝利を収めているようにみえるからだ。社会主義で運営されているNHKが統制経済を主張するのは、わからなくもない。

しかし、これは経済学的にはナンセンスである。京都議定書の想定する温暖化ガスの排出権取引にともなって行なわれる排出権の割当は、地球規模の配給制度を作り出し、その効果よりもはるかに大きな経済的損失をもたらす。かりに温暖化の影響がIPCCの予想どおり起こるとしても、ピグー税のような市場ベースの対策が望ましい。統制経済の失敗は、社会主義でたくさんだ。
「あるある」について、少し補足しておく。民放の番組がくだらない原因は、視聴者がくだらない番組を求めるからだが、もう一つの原因は制作能力の低さにある。私も昔、NHKをやめたあと、民放の仕事をしたことがあるが、民放の(というかフリーの)ディレクターの原稿が、てにをはもできていないことに驚いた。発想も構成も幼稚で、事実関係の裏も取れない。NHKでいえば、地方局にいる3年生ぐらいの水準だ。

これは前にも書いたように、民放が番組を丸投げし、下請けプロダクションの雇用が流動化しているため、ノウハウが蓄積しないことが原因だと思う。日経ITproに松原友夫氏の「日本のソフトウェア産業、衰退の真因」という記事が出ているが、これを「コンテンツ」と入れ替えても、ほとんど同じことがいえる。

下請けプロダクションも、フリーディレクターの人材派遣業にすぎない。彼らは月単位で入れ替わるので、系統的な教育もできない。それでもテレビの仕事はおもしろいので、ただ働き同然の賃金で徹夜の連続になって、体をこわしてやめても、代わりはいくらでもいる。

「顧客が要求仕様を書けないので、作っては直しを際限なく繰り返す」のも同じだ。世界の(日本以外の)テレビ局では、ドキュメンタリーはまずナレーションを書き、その秒数にあわせて映像をはめこむ。これだと音声処理と映像編集は並行してできるので、作業は1回で終わる。ところが日本のテレビ局は、まず映像をつないで、それに音声をあてて試写し、それを見て映像を手直しする・・・といった作業を何回も繰り返す(これはNHKも民放も同じ)。

NHKスペシャルの場合は、さらに部長試写や局次長試写などがあるので、ディレクターは同じ番組を(尺を変えて)50回ぐらい見る。仕事が終わると、しばらくはテレビを見ただけで気分が悪くなるほどだ。さらに「あるある」のように下請け・孫請けがからんでいると、社外のいろいろな人が口を出すので、だれに責任があるのかわからなくなる。結局は、孫請けの社員(首なしインタビューをしていた)がすべての責任を押しつけられるわけだ。

こういう非効率な制作システムは、製造業の「すり合わせ」型の工程をソフトウェアに持ち込んだためだと思う。工程のモジュール化ができていないため、しょっちゅう全スタッフ(Nスペの場合20人ぐらい)が集まらないと意思決定ができない。この結果、日本のテレビ番組の制作費は、世界でも最高水準で、アメリカの2倍から3倍といわれる。ソフトウェア業界では、インドが合理的な工程管理で日本のソフトウェア業界を脅かしているそうだが、コンテンツでも日本の業界は(アニメやゲームを除いて)国際競争力がない。

根本的な原因も、松原氏の指摘するように現場が自立できていないことだ。実際に取材・制作する孫請けに内容の決定権がないので、「納豆がダイエットにきくという番組をつくれ」といわれれば「できません」とはいえない。コンテンツに複数のチャンネルがあり、プロデューサーにすべての権限が集中しているハリウッド・システムなら、著作権も含めてすべて制作側がコントロールし、品質管理もできるが、日本ではチャンネルを地上波局が独占しているため、1億円の制作費のうち、現場に落ちるのは860万円といった搾取が発生する。これではプロダクションの経営も成り立たないし、まともな人材も集まらない。

インフラ独占によって供給のボトルネックが生じているとき、供給側が決定権や価格支配力をもつのは、経済学の常識である。プロダクションの悲惨な現状の背景には、電波利権によるインフラ独占があるのだ。クリエイターが自立し、多様な番組の質的な競争が起こるために必要なのは、地上波局によるインフラ独占の打破だ。私が「競争が必要だ」といったのは、この意味である。
関西テレビの捏造事件は、総務省が「警告」を出し、社長の辞任とともに謝罪番組を放送したことで、一応決着するようだ。しかし、これを契機に放送局の規制強化論が出てきたり、謝罪番組にも「スタッフの顔を隠すのはおかしい」という批判が出るなど、「あるある」バッシングはおさまる様子がない。

だが冷静に考えてほしい。たかが納豆の番組である。納豆を買いに走った主婦は腹が立つかもしれないが、だれを傷つけたわけでもない。これに比べれば、地球温暖化を誇大に報じて統制経済を推進するNHKや、「従軍慰安婦」の誤報で日本の外交を窮地に追い込んだ朝日新聞のほうが、はるかに罪が深い。

関西テレビに非難が集中するのは、それが重要だからではなく、たたきやすいからだ。誤報の場合には「当社の意図は違う」などと抗弁する余地があるが、意図的な捏造にはそういう反論がきかないから、100%悪者にしても名誉毀損などで反撃されるリスクがない。何兆円も粉飾した(が当局が摘発しなかった)都市銀行より、50億円のライブドアのほうが何倍も大きく扱われるのと同じ理由だ。つまり重大な誤報よりも軽微な捏造のほうが派手に扱われること自体が、メディアバイアスの一種なのである。

まして放送法を改正して電波を止めやすくせよなどというのは、筋違いもはなはだしい。停波というのは、営業停止である。そういう行政処分は、違法行為のときに発動されるもので、捏造は違法行為ではない。このように規制を強化すると、「コンプライアンス委員会」のような形式的な手続きが煩雑になり、現場が萎縮して番組の質が落ちるだけで、解決にはならない。

民放の番組の質が低い根本的な原因は、当ブログで何度も書いたように、テレビの放送開始から50年以上、地上波への新規参入がなく、在京キー局の寡占状態が続いているため、番組の質による競争がないことだ。BSも地上デジタルも新規参入によって競争を導入するチャンスだったのに、郵政省はキー局やその(事実上の)子会社に電波を割り当て、寡占を温存してきた。IPTVについても、地上波の再送信拒否などの意地悪を役所が容認してきた。

民放がくだらないことは問題ではない。くだらないと思ったら、見なければいいだけのことだ。問題は、くだらない民放しかないことである。地上波以外の番組を見るコストが(制度的な障壁で)格段に高く、質の悪い製品をつくった企業は淘汰されるという当たり前の競争原理が働いていないから、全業種中最高の給料をとって最低の番組を出すテレビ局が生き残っているのだ。企業を罰するのは行政ではなく消費者であり、それを機能させるのはメディア相互の批判と競争である。
2007年04月03日 23:05
科学/文化

大江健三郎という病

第2次大戦末期の沖縄戦で、日本軍が住民に集団自決を命じたという記述が、今年の検定で教科書から削除するよう求められた。その理由として文部科学省は、沖縄の慶良間守備隊長だった赤松嘉次元大尉の遺族らが大江健三郎氏と岩波書店を相手どって起こした訴訟をあげている。大江氏は『沖縄ノート』(岩波新書)で次のように記す:
新聞は、慶良間諸島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男[赤松元大尉]が、渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた。[...]かれは25年ぶりの屠殺者と生き残りの犠牲者の再会に、甘い涙につつまれた和解すらありうるのではないかと、渡嘉敷島で実際におこったことを具体的に記憶する者にとっては、およそ正視に耐えぬ歪んだ幻想までもいだきえたであろう。(pp.208-211、強調は引用者)。
といった独特の悪文で、たった一つの新聞記事をもとにして、赤松大尉を(ナチの戦犯として処刑された)アイヒマンにたとえて罵倒する妄想が8ページにわたって延々と続く。この事実関係は、1973年に曽野綾子氏が現地調査を行なって書いた『ある神話の背景』で、完全にくつがえされた。赤松大尉は住民に「自決するな」と命じていたことが生存者の証言で明らかにされ、軍が自決を命じたと申告したのは遺族年金をもらうための嘘だったという「侘び証文」まで出てきたのだ。

にもかかわらず、大江氏と岩波書店は、それから30年以上もこの本を重版してきた。彼らの人権感覚は、どうなっているのだろうか。訴訟に対しても、彼らは「軍が命令を出したかどうかは本質的な問題ではない」とか「この訴訟は歴史に目をおおう人々が起こしたものだ」などと逃げ回っている。おわかりだろう。慰安婦について事実関係が反証されたら「強制連行は本質的な問題ではない」と論点をすりかえる朝日新聞と、岩波書店=大江氏の論法はまったく同じなのだ。

では彼らにとって本質的な問題とは何だろうか。それは戦争は絶対悪であり、軍隊のやることはすべて悪いという絶対平和主義である。沖縄で日本軍を糾弾した大江氏は、なぜかヒロシマでは原爆を落とした米軍を糾弾せず、被爆者の「悲惨と威厳」を語り「人類の課題」としての核兵器の恐怖を訴える。そういう少女趣味が「革新勢力」をながく毒してきた結果、まともな政治的対立軸が形成されず、自民党の一党支配が続いてきた。

こういう人々を「自虐史観」と呼ぶのは見当違いである。彼らは日本という国家に帰属意識をもっていないからだ。大江氏のよりどころにするのは、憲法第9条に代表されるユートピア的国際主義であり、すべての国家は敵なのだから、彼らの反政府的な議論は他虐的なのだ。社会主義が健在だった時代には、こういう国際主義も一定のリアリティを持ちえたが、冷戦が終わった今、彼らの帰属する共同体はもう解体してしまったのである。

戦争を阻止できなかったという悔恨にもとづいてできた戦後の知識人の仮想的なコミュニティを、丸山真男は悔恨共同体とよんだ。彼らは日本が戦争になだれ込んだ原因を近代的な個人主義や国民意識の欠如に求めたが、それは冷戦の中で「ナショナリズム対インターナショナリズム」という対立に変質してしまった、と小熊英二氏は指摘している。

左翼的な言説の支柱だった国際主義のリアリティは冷戦とともに崩壊したが、彼らはそれをとりつくろうために「アジアとの連帯」を打ち出し、他国の反日運動を挑発するようになった。ネタの切れた朝日=岩波的なメディアも、「アジアへの加害者」としての日本の責任を追及するようになった。1990年代に慰安婦騒動が登場した背景には、こうした左翼のネタ切れがあったのだ。

しかしこういう転進(敗走)も、袋小路に入ってしまった。大江氏のように「非武装中立」を信じている人は、数%しかいない。韓国や中国に情報を提供して日本政府を攻撃させる手法も、かえって国内の反発をまねき、ナショナリズムを強める結果になってしまった。当ブログへのコメントでも、朝日新聞が他国の反日運動と結託しているという批判が強い。

社会主義は1990年前後に崩壊したが、それに寄生していた大江氏のような精神的幼児や、さらにそれに依拠していた朝日=岩波的メディアは、まだ生き残っている。彼らが退場し、その子孫である団塊の世代が一線から退いたとき初めて、人類史上最大の脇道だった社会主義を清算できるのだろう。

追記:2008年3月28日、大阪地裁で原告敗訴の判決が出た。これは「軍の命令があったとは断定できないが、関与はあった」というもので、実質的には原告勝訴である。原告は最初から「関与がなかった」とは主張していない。軍の関与なしに手榴弾を入手することは不可能だ。争点は、赤松・梅沢隊長が「自決を命令」した「屠殺者」なのかどうかという点だ。これについて判決は、大江氏の記述が虚偽であることを認めつつ、「誤認してもしょうがない」と彼の面子を立てたわけだ。

こういう論理構成なら、控訴審でもくつがえせないだろう。名誉毀損があまり広い範囲で認められるのも表現の自由を侵害するので、この判決は司法的には妥当なところだろう。しかし事実にもとづかないで、赤松大尉を「屠殺者」と表現した大江氏の罪は消えない。岩波書店は、この表現を修正もしないのか。それとも、軍国主義者には人権もないのか。

4月1日付の朝日新聞朝刊(東京本社版)の早版に、次のような社告が出ている。日本の良心を代表する新聞社の社長らしい潔い進退だ。

1930年代から第2次大戦中にかけて戦地で兵士の相手をした、いわゆる慰安婦について、本社は1992年1月11日付第1面の「慰安所 軍関与示す資料」という記事において、防衛庁図書館に保管されている旧日本軍の通達に、軍が慰安所の設置を指示した事実が記載されているとの事実を報じました。この記事は正確でしたが、それに付けた「解説」において
従軍慰安婦 一九三〇年代、中国で日本軍兵士による強姦事件が多発したため、反日感情を抑えるのと性病を防ぐために慰安所を設けた。元軍人や軍医などの証言によると、開設当初から約八割は朝鮮人女性だったといわれる。太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は八万とも二十万ともいわれる。
と記述しました。ここで「挺身隊」と記されているのは「女子挺身隊」のことですが、これは工場などに戦時動員する制度であり、慰安婦が女子挺身隊として徴用(強制連行)された事実はありません。したがって「朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した」という事実もなく、これは解説記事を書いた植村隆記者(現・東京本社外報部次長)の事実誤認によるものです。

この記事は、今から15年前のものですが、宮沢喜一首相(当時)の訪韓5日前に報じられて日韓関係に大きな影響を与え、1993年に官房長官談話で政府が謝罪する原因となりました。それが歴史的事実として定着したため、今年3月に安倍晋三首相が「軍が慰安婦を強制連行した事実はない」とコメントしたときも、海外メディアから「歴史の隠蔽だ」などの非難が集中しました。

これに関して、混乱を招いた責任は本社の報道にあるとの指摘を複数の専門家から受けました。私どもはそのような因果関係はないと考えますが、結果として誤解を招いた可能性もあるため、事実関係をあらためて明確にすることが必要だと考え、社内に「慰安婦問題検証委員会」を作って検討を進めてまいりました。その結果、前述のような結論に達したものです。

社説でもたびたび主張したように、私どもは慰安婦が強制連行されたかどうかは本質的な問題ではないと考えておりますが、そうした意見以前の問題として、事実関係について誤解を招いた責任は免れません。

とりわけ海外メディアに誤解が広がっていることについての責任の重大性を考え、ここに当該記事を執筆した植村記者を諭旨解雇処分とするとともに、私が代表取締役社長を辞すことによって、全世界の報道機関に事実関係の再検証を促す次第です。

これを教訓とし、本社は今後とも中立・公正な報道に努める所存です。ご理解を賜りたく存じます。

朝日新聞社 代表取締役社長 秋山耿太郎

追記:通りがかりの人が誤解するといけないので、念のため日付をよく見てください。


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