池田信夫 blog

Part 2

April 2007

かつて「学生運動10年周期説」というのがあった。1950年前後に共産党が指導した山村工作隊などの武装闘争の時代、1960年の安保闘争、そして1970年ごろの学園闘争である。この法則からいうと、1980年にも同じような事件が起こって不思議ではなかったが、何も起こらなかった。

世界的にも「1968年反乱」以降、大きな学生運動は起こっていない。特にイラク戦争は、ベトナム戦争と同じぐらい不人気なのに、かつてのような暴力的な抗議行動は起こっていない。この原因をベッカーは、1973年に徴兵制がなくなったことに求めている。徴兵制の廃止を提案したのはミルトン・フリードマンで、彼はこれを「自分の人生でもっとも有意義な仕事だった」と回顧している。

これに対してポズナーは、他にもいろいろな原因をあげているが、おもしろいのはインターネットなどの電子メディアが暴力に訴える前の「ガス抜き」になったという点と、学生反乱の究極の理想としての社会主義が崩壊したという点だ。これは当ブログの「2ちゃんねるが学生運動の代わりになっている」という話と同じ趣旨だ。

日本で学生運動がなくなったもう一つの原因は、もはや学生が社会を指導するエリートではなくなったからだろう。途上国では、いまだに学生が反体制運動を指導する傾向が強い。社会主義革命が成功したロシア、中国、ベトナム、カンボジアなどをみても、欧米に留学したエリート学生が革命を指導したケースが多い。

そういう革命が成功しなかったことは日本にとって幸運だったが、70年安保を闘った団塊の世代では、多くの人が人生を棒に振った。最近、新著を出した山本義隆氏は、かつては将来のノーベル物理学賞候補ともいわれたが、東大全共闘の議長になってドロップアウトし、予備校教師になった。彼の『磁力と重力の発見』という難解な大著が予想外のベストセラーになったのも、そうした団塊の世代のルサンチマンに訴えたからだろう。

そういう意味では、学生運動なんかないほうがいいのだが、最近のあまりにも無気力な学生を見ていると、かつてキャンパスで怒号が飛び交った時代がなつかしくなる。学生時代にマルクス主義の影響を受けたことは、私にとっては貴重な経験だった。いわばマルクス主義は思想的な「父」であり、こうした「大きな物語」と格闘し、それを乗り越えることで初めて思想的な自立ができたように思う。その意味では、今の学生はいつまでも乳離れしないように見える。
2007年04月29日 10:21

Moral Sentiments And Material Interests

エゴイズムを正面きって肯定し、個々人が欲望を最大化する結果が「見えざる手」によって最適の結果をもたらす、というのがアダム・スミス以来の経済学のセントラル・ドグマだ。しかしスミスには、もう一つの(ほとんど読まれない)『道徳感情論』という本がある。ここで彼は、他者への「共感」がなければ社会秩序は維持できないとした。

経済学は後者の議論を無視し、利己的な動機だけで秩序(均衡)が成立することを数学的に証明しようとしたが、一般均衡理論はかえって現実的な条件では均衡は存在しえないことを証明してしまった。超合理的な「代表的個人」を想定する合理的期待仮説も、実証的に棄却される。経済学者の多くも、合理主義的な経済学に未来はないと思いながらも、学生にはそれを教えている。系統的な理論は今のところそれしかない、というのが彼らの言い訳だ。

しかし最近では、行動経済学や実験経済学の結果を理論的に説明しようという試みも始まっている。本書の編著者は、かつて「ラディカル・エコノミスト」として新古典派経済学を批判したが、最近では進化の概念によって経済学の再編成を企てているようだ(cf. Microeconomics)。

当ブログでもみてきたように、愛国心や分配の公平、あるいは因果応報などの一見、論理的に説明しにくい心理も、遺伝的・文化的な群淘汰(集団選択)のプロセスを想定すると論理的に説明できる。人間の場合には、社会的昆虫と同様、個体が孤立して生きることができないので、エゴイズムを制御して集団を維持することが生存競争においてきわめて重要だったと考えられる。

本書では最後通牒ゲームなどの実験を多くの社会で行い、どのような行動仮説が支持されるかを検証している。それによれば、新古典派の根拠とするような(自己の利益のみを最大化する)自己愛(self-regard)仮説は、いかなる社会でも棄却される。その代わりの行動仮説として本書が提案するのは、条件つきで他人と協力し、ルールに違反した者は(個人的コストが高くても)処罰するという強い互酬性(strong reciprocity)だ。

こうした集団的な行動は、どこまで遺伝的に決まり、どこからが環境によるものだろうか。これについては、異なる文化的条件で同じ実験を行なった結果、社会生物学の主張するような遺伝的決定論は誤りであり、文化的な要因の影響のほうが大きいというのが本書の主張だ。基本的な欲望や感情は遺伝的に決まるが、それがどう行動に現れるかは文化や習慣によって決まるのである。

物理学は、20世紀なかばに解析的手法でできることをやり尽くし、今はコンピュータを使った複雑系の理論に移行しようとしている。この分野では、むしろ生物学や生態学が先輩だ。経済学も物理学モデルを卒業し、生物学モデルに転換するときではないか。本書のアプローチはまだ萌芽的であり、実験も理論もアドホックだが、そこには少なくとも完成されて行き詰まった主流の経済学より未来があるように見える。
2007年04月29日 00:34
経済

利他的な遺伝子

当ブログには、多いときは1日20ぐらいリンクが張られるので、ほとんど相手にしていないのだが、同じパターンのナンセンスな話が繰り返されることがあるので、たまには反論しておこう。NATROMなる人物によれば、私の記事は「トンデモ」なのだそうである。彼はこう批判する:
利他的な行動は利己的な遺伝子によって説明できるってことを「利己的な遺伝子」でドーキンスは主張した。そもそも「個体を犠牲にして種を守る」って何?いまどき種淘汰か。母親は自分と遺伝子を共有する個体を守っているのであって、種や個体群を守ろうとしているのではない。
これだけ読んでも、彼が自称する「生物学の専門家」ではなく、アマチュアにすぎないことは一目瞭然だ。まず彼は、遺伝子を共有する個体を守る行動を説明したのが「ドーキンスの利己的な遺伝子」だと思い込んでいるようだが、これはドーキンスの理論ではなく、ハミルトンの非常に有名な論文(1964)によって確立された血縁淘汰の理論である。ドーキンス(1976)は、その理論を「利己的な遺伝子」という不正確なキャッチフレーズで普及させただけだ。

「いまどき種淘汰か」って何のことかね。「種淘汰」なんて概念はないのだが。彼のいおうとしているのは、群淘汰(あるいは集団選択)のことだろう。これは利他的行動を説明するために生物が集団を単位として淘汰されるとしたWynne-Edwardsなどの理論で、1960年代にハミルトンによって葬り去られたと考えられていた。集団内では、利他的な個体は利己的な個体に食い物にされてしまうからだ。実証的にも、生物は集団に奉仕するのではなく、自分と同じ遺伝子をもつ親族を守っていることが明らかになった。

しかし1990年代になって、ハミルトンの理論で説明できない現象が報告されるようになった。中でも有名なのは、細菌の感染についての実験である。細菌が宿主に感染している場合、その繁殖力が大きい個体ほど多くの子孫を残すが、あまりにも繁殖力が強いと宿主を殺し、集団全体が滅亡してしまう。したがって、ほどほどに繁殖して宿主に菌をばらまいてもらう利他的な個体が生き残る、というのが新しい群淘汰(多レベル淘汰)理論による予測だ。これに対して血縁淘汰理論が正しければ、繁殖力が最大の利己的な個体が勝つはずだ。

これは医学にとっても重要な問題なので、世界中で多くの実験が行なわれたが、結果は一致して群淘汰理論を支持した。繁殖力の強い細菌の感染した宿主は(菌もろとも)死んでしまい、生き残った細菌の繁殖力は最初は強まるが後には弱まり、菌の広がる範囲が最大になるように繁殖力が最適化されたのである(Sober-Wilson)。

個々の細菌にとっては、感染力を弱めて宿主を生かすことは利他的な行動だが、その結果、集団が最大化されて遺伝子の数も最大化される。同様の集団レベルの競争は、社会的昆虫のコロニーなどにも広く見られる。もちろん個体レベルの競争(血縁淘汰)も機能しているので、淘汰は集団と個体の二つのレベルで進むわけだ。これが多レベル淘汰と呼ばれる所以である。E.O.ウィルソンによれば、遺伝子を共有する親族の利益をBk、集団全体の利益をBe、血縁度(relatedness)をr、利他的行動のコストをCとすると、

rBk + Be > C

となるとき、利他的行動が起こる。ここでBe=0とおくと、ハミルトンの理論になる。つまり多レベル淘汰理論は、血縁淘汰理論の一般化なのだ。

これは経済的な行動を説明する上でも重要である。新古典派経済学では、「合理的」とは「利己的」の同義語で、利他的に行動することは不合理な感情的行動としてきたが、きのうの記事でも書いたように、そういう経済人は進化の過程で淘汰されてしまうので、合理的とはいえない。行動経済学や実験経済学の結果をこうした「進化心理学」で説明しようという実証研究は、現在の経済学のフロンティアである。これについては、記事を改めて説明しよう。

追記:NATROMから「再反論」が来たが、ここで挙げた反例にも答えず、問題をすりかえて逃げ回るだけで、話にならない。コメント欄参照。
安倍首相が、日米首脳会談で慰安婦問題について「謝罪の意」を表明した。ブッシュ大統領はこれを受け入れ、問題はいったん収まったようにみえる。政治的な判断としては、首脳会談で「狭義の強制はなかった」などと主張したら大混乱になることは目に見えているので、これはそれなりに合理的な判断だろう。しかし当ブログへのコメントでは、「無節操だ」「筋が通らない」といった批判が圧倒的だ。

このように合理性と一貫性が一致しないケースは多い。たとえば人質事件では、身代金を払って人質を解放させることが、事後的に合理的(パレート効率的)だが、そういう行動は社会的に許されない。殺人事件の被害者の遺族が、容疑者に軽い刑の判決が出たとき、「死刑にしてほしかった」とコメントすることがよくあるが、彼らもいうように死刑にしても被害者は返ってこない。それなのに人々が不合理な因果応報を望むのはなぜだろうか。

これはゲーム理論で、コミットメントの問題としてよく知られている。一般に刑罰は、処罰する側にとっても受ける側にとってもコストがかかるので、事後的には許すことが合理的だ。しかし処罰する側が合理的に行動することが事前に予見されると犯罪が横行するので、たとえ不合理でも処罰しなければならない。つまり秩序を維持するためには、不合理な行動へのコミットメントが必要なのだ。

このようなコミットメントを作り出すメカニズムとしていろいろな方法が知られているが、代表的なのは法律だ。どのような情状があろうと、犯罪者は同じ法律によって一律に処罰され、個別に交渉して(たとえば金をとって)釈放することはありえない。そういうことは「正義にもとる」として許されないからだ。したがって究極の問題は、人々はなぜ正義を求め、筋を通す感情をもつのかということだ。

これについても、進化論な説明が可能である。進化が単純な個体レベルの生存競争だとすれば、論理的に思考して自己の利益を最大化する経済人(homo oeconomicus)が勝ち残るはずであり、人々が合理的な判断の邪魔になる感情をもっていることは説明がつかない。しかし、そういう感情をもたない経済人が歴史上いたとしても、とっくに淘汰されているだろう。

合理的な人は、他人に攻撃されても「腹を立てる」という感情をもたないから、報復はしない。そんなことをしても、また相手の報復をまねいて互いに傷つくだけだからだ。しかし彼が合理的であることがわかっていると、他人は一方的に彼をだまし、攻撃するだろう。そういう「不道徳な」行動が横行すると集団も維持できなくなるので、因果応報を好む感情が進化したと考えられる。

行動経済学が明らかにしたように、人々は感情的に行動するが、これは非論理的に行動するということではない。それがどこまで遺伝的なもので、どこから文化的な「ミーム」によるものかについては、いろいろな実証研究が行なわれているが、感情はフランクのいうように、集団を維持するための「適応プログラム」の一種なのである。
2007年04月28日 01:56
IT

映画の指紋

WSJによれば、GoogleがYouTubeの著作権管理にAudible Magicのフィンガープリント技術を採用する方向で交渉しているようだ。

このフィンガープリントは、従来のハッシュ関数を使ったものとは違い、音楽・映像ファイルの一部をデータベースと照合し、著作権法違反かどうかをチェックするものだ。NYTによれば、画質の悪い映画の海賊版をこのソフトウェアにかけて、それが「キルビル」であることを判別したという。

この技術は、YouTubeにアップロードされる段階で違法コンテンツをはねるのにも使えるし、コンテンツ・ホルダーがアップロードを許可して(YouTubeなどから)ロイヤリティを取るツールとしても使える。技術的にはこれを逃れる方法もあり、EFFは「抜け穴だらけだ」と批判しているが、消費者を泥棒扱いしてコピーを不便にするDRMより、こっちのほうがずっとましだ。

いずれにせよ、著作権処理技術がnext big thingであることは確実だが、ここでもシリコンバレーのベンチャーがトップランナーらしい。コピーワンスで自分の首を絞めている日本は、そのはるか後ろを走っている。
2007年04月27日 00:28
IT

秀丸エディタ

秀丸エディタのVer.7βが出た(このページの最下段からダウンロードできる)。

昔は「松」を使っていたが、そのうちVzに変え、ウィンドウズになったころ秀丸に変えた。それ以来、他のエディタやワープロはほとんど使わない。古いマシンでもさくさく動き、マクロも含めてフルカスタマイズできる。これに慣れると、重くて余計な機能の多いMS-Wordは使う気にならない。特にVer.6でついたアウトライン機能は、Wordよりはるかに使いやすく、本や長い論文を書くには不可欠だ。

Ver.7の特長は、単語補完(オートコンプリート)機能。あまり実用的ではないが、遊べる。これだけ高機能のエディタが、4000円で無期限にバージョンアップできるのもすばらしい。最近ほとんどの仕事はブラウザですませるが、秀丸を使うときだけはウィンドウズに戻る。
Becker-Posner Blogで、珍しく両者の意見がわかれている。

ベッカーは、大学教育の収益率は70年代の40%から現在は80%に上がったと主張する。この最大の原因は、ITの発達によって高等教育への需要が高まったからだ。高等教育はITと補完的だが、未熟練労働者はITと代替的なので、ITが増えると前者への需要は増え、後者への需要は減る。まぁこれは人的資本理論の教祖としては当然だろう。

これに対してポズナーは、シグナリング理論をとる。高等教育を受けた人の所得が高いのは相関関係であって、因果関係を必ずしも意味しない。大学が人的資本を何も高めなくても、学歴は能力のシグナルになるので、所得の高い仕事につきやすくなる。したがって大学に行くことは私的投資としては収益率が高いが、公共政策としてはこれ以上、大学進学率を高める必要はない。

私は、ポズナーの意見に近い。特に日本では、大学はシグナリング(スクリーニング)機能に特化しているので、教育内容は形骸化しており、大部分は時間の無駄だ。まして大学院教育の内容は非常に特殊であり、実社会で役立つことはほとんどない。それは「勉強が好きだ」というシグナルにはなるが、「使いにくい専門バカ」というシグナルにもなるので、便利屋を好む日本の企業には歓迎されない。

文科省の大学院拡大政策は、学生を余分に社会から隔離し、中途半端なプライドを持たせるだけだろう。それよりも大事なのは、語学や会計などの実務的なスキルを多くの人々に学ばせ、知識の裾野を広げることだ。このためには大学の設置基準を緩和して、専門学校を大学に昇格させたほうがよい。
2007年04月25日 10:32

David Halberstam

デイヴィッド・ハルバースタムが、交通事故で死去した。

ノンフィクションに古典というものがあるとすれば、本書は間違いなく、その1冊である。原著が出てから40年近くたつのに、アメリカは本書で描かれた病から脱却できないようにみえる。それはEasterlyがWolfowitzを評したのと同じ、他国に「正義」を押しつける傲慢という病である。

自由経済や民主主義が、アメリカという特殊な国家で成功したからといって、それが世界のすべての国家で成功するとは限らない。それに適した文化的土壌のない国に無理やりアメリカ的レジームを移植しようとしても無理だし、そのために土壌からすべて取り替えようとしたら、国家そのものを破壊してしまう。

ハルバースタムが指摘したように、この病にはユートピア主義エリート主義という二つの原因がある。自国の制度が普遍的ユートピアであり、それを世界に布教しなければならないというナイーブな信念と、世界最大の軍事力とエリートの頭脳があれば、ほとんど自軍の犠牲なしに「効率的に」敵を殲滅できるという過信だ。そしてベトナムで行なった戦争犯罪を謝罪もしないで、他国には70年前の「性奴隷」の謝罪を求める。アメリカこそ、世界でもっとも特殊な国である。
日経ビジネス・オンラインの後編の記事に読者からツッコミが入って、編集部が訂正した。最初のバージョンでは「(『あるある』の)番組制作費3200万円のうち、下請け、孫請けのところには860万円しか支払われていなかった」と書かれていたが、この表現はおかしい(私もウェブに出てから気づいた)。

関西テレビの調査報告書(p.109~)によれば、約3200万円の番組制作費のうち、関テレが「プロデューサー費」として55万円とり、3100万円余を下請けの日本テレワークが取り、孫請けのアジトのVTR制作費が860万円ということになっている。したがって「番組制作費3200万円のうち、孫請けのところには860万円しか支払われていなかった」と書くのが正しい。

しかし、この調査報告書の数字はおかしい。局側の取り分が、わずか55万円ということは考えにくい。『文藝春秋』4月号の記事によれば、実態は次のようだ:
花王が電通に渡した額は、推定で年間で50数億円。特番を除く1本当たり単価に直せば1億円にのぼる。そこから電通は15%を管理費としてチャージし、さらに電波料と呼ばれる各局への配布金を引く。[・・・]関西テレビに渡るのは1本当たり単価で3700万円程度。そこから日本テレワークに渡るのが単価3200万円程度。ここからスタジオゲスト出演料、美術費さらにはスタジオ収録料や最終編集費などが引かれて各回を担当する製作プロダクションに渡るのが単価860 万円程度。当初の1億円の9%弱になっているという。
制作費が、あとから出た調査報告書と符合することから、この推定は信頼できる。これによれば、1本1億円から電通の取り分を引いた8500万円のうち、4800万円が電波料として地方局に取られ、関テレ自身も500万円の電波料をとる。調査報告書では、調査対象を制作費にしぼっているため、番組経費の大部分が電波利権に食われているという病的な状況が、さすがの元鬼検事にも見抜けなかったわけだ。したがって「大半のお金は放送局が中間搾取していて、現場のクリエーターには回っていなかった」という私の主張は正しい。

以前の記事にも「この電波料って何ですか?」というコメントがついていたが、これは地方局に払う「補助金」である。地方局の経営は、ローカル広告だけでは成り立たないので、系列のキー局や関テレなどの制作側が補填するのだ。地方局は、タダでもらった電波を又貸しし、商品(番組)を供給してもらう上に金までもらえるという、世界一楽な商売である。その実態はよくわからなかったが、この文春の記事が正しいとすれば、「あるある」だけで年間20億円以上にのぼり、番組経費のほぼ半分を占める。つまり、何もしていない地方局の取り分が最大なのだ

さらに異様なのは、番組制作費のうちVTR制作費が860万円しかなく、残りの2300万円が「スタジオ経費」に消えていることだ。テレワークのマージンを引くとしても、この大部分は出演料だと思われるが、局アナを除けば5人程度の出演者のギャラとしては、いかにも大きい。最高と推定される堺正章の出演料は、おそらく500万円以上だろう。若いタレントでも、100万円ぐらいが相場である。

このように情報よりもタレントを重視するのは、局側としては当然だ。視聴率を決めるのは情報量ではなく、顔なじみのタレントが出ているかどうかで、「数字の取れる」タレントは10人程度に限られているからだ。これは経済学でよく知られている「一人勝ち」現象の一種である。人気タレントは、メディアに露出することによってさらに人気が出るという「ネットワーク外部性」があるので、一部のタレントに需要が集中して出演料が跳ね上がる。

結果として、タレントが30分ぐらいしゃべっただけで500万円以上もらう一方、地を這うような取材をした孫請けプロダクションのディレクターの年収は300万円そこそこという、究極の「格差社会」がテレビ業界なのである。そして彼は、問題が起きると全責任を負わされて、業界から追放される・・・
2007年04月23日 07:58
IT

誰のためのデジタル放送か?

日経ビジネス・オンラインのインタビュー記事。
コピーワンスの技術仕様を詰めたのは電波産業会(ARIB)という社団法人ですよ。名目上は民間企業が集まって自主的に検討したという形になっている。だから、アカウンタビリティー(説明責任)が求められない。パブリックコメントも必要ない。でも、ARIBの幹部は総務省のOBですよ。実質的に総務省、つまり国がやらせているのに、プライベートな仕組みを通すことで“抜け道”になっている。

ニューズウィークのインタビューに答えて、安倍首相は慰安婦問題についての「責任」を認めた:
We feel responsible for having forced these women to go through that hardship and pain as comfort women under the circumstances at the time.
河野談話よりはっきり「われわれが慰安婦を強制した責任」を認めている。これで日本政府は「有罪」を自白したことになる。外務省の事なかれ主義に、とうとう安倍氏も屈したわけだ。「とりあえず頭を下げておけば何とかなる」という日本的感覚が国際政治の場で通じないことは、河野談話で思い知らされたはずなのに、こういう重大発言を週刊誌相手にさせる外務省(あるいは世耕補佐官?)の感覚も信じられない。

今後、米下院で日本非難決議(121決議案)が可決され、首相の公式謝罪や強制連行を否定する言論の弾圧を求められても、拒否できないだろう。元慰安婦が日本政府に国家賠償を求める訴訟は、これで勢いづくだろう。国連は公訴時効も罪刑法定主義も無視して「レイプ・センター」をつくった戦犯を逮捕せよと求めるマクドゥーガル報告書を採択しており、これにもとづく制裁要求が出てくることも考えられる。北朝鮮が日本に慰安婦への個人補償を求めてきたら、6ヶ国協議はめちゃくちゃだ。そして朝日新聞は「拉致と慰安婦は同じだ」と主張して、北朝鮮を応援しているのである。

ナチス・ドイツの同盟国に強制労働させられた人々が関連企業に損害賠償を請求できるというヘイデン法は、国外で起きた事件でも過去に遡及して訴えることができるとしている。これにもとづいて起こされた17件、総額1兆ドルの訴訟は、ブッシュ政権によって連邦最高裁で棄却されたが、政権が民主党に変わったら、また訴訟が出てくることは十分考えられる。そしてこのヘイデン法の共同提案者が、問題の121決議案を出したマイケル・ホンダ議員なのである。

これは痴漢の疑いで逮捕された容疑者が、「正直に認めないと家に帰れないぞ」と脅されて「自白」したようなものだ。いったん罪を認めたら、終わりである。植草一秀被告のように、後になっていくら「やってない」と主張して、大がかりな弁護団を組んでも無駄だ。世界史にも「日本軍が20万人の女性に性奴隷を強要した」という、とんでもない「史実」が残ることになるだろう。

追記:国内各紙の報道では「彼女たちが慰安婦として存在しなければならなかった状況に、我々は責任がある」という表現になっており、「強制」という言葉は入っていない。こっちが外務省の用意した回答(首相の言葉)だとすれば、"forced these women ..."という部分はニューズウィークの訳しすぎかもしれない。

追記2:鈴木官房副長官の記録したインタビュー全文によれば、問題の部分の首相の答に「強制」という言葉はない(コメント欄参照)。

2007年04月21日 09:42
経済

Susan Athey

J.B.クラーク・メダルの受賞者が、Susan Atheyに決まった。女性としては、初の受賞者だ。

彼女は1995年に24歳でスタンフォードの博士号をとったとき、全米20以上の大学が彼女を奪い合ってNYTの記事になった。結局、MITの助教授になったが、2001年にスタンフォードが奪還し、33歳で教授にした。去年からハーバードの教授。MilgromとRobertsの弟子で、monotone comparative staticsの開発や企業理論の精密化に貢献した。

「女性初のノーベル経済学賞」の呼び声も高いが、今までの論文を読んだ限りでは、むずかしいと思う。既存の理論の数学的拡張や応用の細かい話が多く、論文としてはおもしろくない。師匠と一緒に書いているはずの単調比較静学の教科書も、5年以上前からドラフトのままだ。彼女自身もmicroeconometricsに転進をはかっているようだ。
2007年04月20日 03:27

人類史のなかの定住革命

人類史上最大の革命は、産業革命でも情報革命でもなく、1万年前に遊動生活から定住生活に移った「定住革命」だった。普通これは農耕による食糧生産にともなうものと考えられ、「新石器革命」などとよばれているが、著者はこの通説を批判し、定置網による漁業が定住生活のきっかけだったと論じる。つまり農耕は定住の原因ではなく、結果なのである。

1万年ぐらいの間では遺伝的な変化はほとんどないので、われわれの本能は遊動時代のノマド的な生活に適応していると考えられる。しかし1万年間の定住生活によって、農業・漁業に適応した文化が形成された。この遊動的本能と定住的文化の葛藤が、人間社会の根底にある。

その一つが、公平の感情である。行動経済学でよく知られるように、たとえば1万円を2分割する提案をし、相手がその提案を拒否したら両方とも0円になる最後通牒ゲームでは、「合理的」な提案は相手に1円を与える(自分が9999円とる)ことだが、実験ではそういう行動は(相手の気持ちがわからない)自閉症の患者と経済学部の学生にしか見られない。そんな提案をしたら、相手が「むかついて」拒否するに決まっているからだ。

この提案を拒否するのは(新古典派の意味では)合理的ではない。たとえ1円でも、もらうほうが得だからである。しかし、すべての相手がそういう提案を拒否し、それを予期する多くの提案者は5000円対5000円を提案する。こういう「非合理的」な行動の原因は、公平性についての感情が共有されているためと考えられる。昨今の「格差社会」への反発も、そういう感情に根ざすものだろう。

公平を好む感情は、かつて数十人のグループで狩猟生活を送っていたころの環境に適応したものだろう、と著者は推定する。獲物をだれが得るかは不確実で、そのとき獲物をとった者がそれを独占したら、餓死者が出るかもしれない。飢えに迫られた者は、獲物をとった者を襲うかもしれない。こうした紛争が頻発したら、グループそのものが崩壊し、全員が死亡するだろう。それを避けるために、公平な分配を求める感情が遺伝的に進化したと考えられる。

人類が狩猟の武器を持ったときから、それをグループ内のほかの個体に向けて紛争が起こるリスクが発生した。その攻撃性を抑制するために利他的な感情が進化し、エゴイストはきらわれ、他人に思いやりのある人が好まれるようになったのだ。これは前にも紹介した群淘汰の一種である。

こうした人類学的なスケールで見ると、利己的な行動を「合理的行動」と称して肯定し、独占欲に「財産権」という名前をつけて中核に置く資本主義の基礎は、意外に脆いかもしれない。ハイエクもシュンペーターも、資本主義が崩壊するとすれば、その原因はこうした倫理的な弱さだと考えていた。情報を共有するインターネットの原則が資本主義にまさるのは、感情的に自然だという点だろう。
デジタル放送のコピーワンスをめぐる議論が迷走している。情報通信審議会の検討委員会では、コピーワンスの条件を緩和する話し合いが行なわれたが、「回数限定で1世代のみコピー可」とすることは合意したものの、そのコピー回数について意見がまとまらなかったという。

昨年のDVDレコーダーの国内出荷台数は、前年比18%減となった。世帯普及率はまだ40%台なので、これは市場が飽和したためとは考えられない。その最大の理由は、関係者が一致して指摘するように、コピーワンスのおかげで操作が複雑になり、普通の視聴者には扱えない機器という印象が広がったためだ。たとえば、あずまきよひこ.comで紹介されているように、番組をPCで見るためには、DVD再生ソフトやDVDドライブなどをすべて買い換えなければならない。

しかし、もう一つの関係者が気づいていない問題がある。それはVTRでも不自由しないということだ。わが家のテレビは1999年、VTRは1998年に買ったもので、映像はかなりひどいが、買い換える気はない。テレビは見えればいいので、画質なんか気にしてないからだ。そもそも「ひどい」と感じるのは、私が昔テレビ局のスタジオ・モニターを見ていたからで、普通の視聴者はひどいとも感じていないだろう。

20年ほど前、NHKのハイビジョン・プロジェクトで視聴者のブラインド・テストをやったとき、われわれが衝撃を受けたのは、ほとんどの視聴者が画質を見分けられないということだった。ハイビジョンの番組と、普通の番組を単に横長にしたものを30インチ以下のモニターで見せると、90%以上の人が区別できない。いろいろな条件を変えて「どっちの映像がきれいか」と質問すると、もっともはっきり差が出るのは、色温度とコントラストで、解像度は最下位だった。

アンケート調査で、視聴者がもっとも望んだのは「見たい番組をいつでも見られるようにしてほしい」ということで、「たくさんのチャンネルを見られるようにしてほしい」という答も多かった。「いい画質で見たい」という答は最下位だった。だから今までと同じ番組の解像度を単に上げるだけの地上デジタル放送には、もともと需要がないのだ。

アナログ放送なら自由にできるコピーが、デジタル放送ではできないのでは、デジタル化のメリットはないどころかマイナスだ。しかもコピーワンスが緩和されると、今の機器では対応できないので、テレビやDVDレコーダーを買うのは規格が変わるまで待ったほうがいい。情通審の話し合いが長期化すればするほど、買い控えは広がるだろう。供給側の論理で消費者をバカにした規格を決めると、結局は地デジそのものが行き詰まってしまうということにテレビ局が気づくのは、いつだろうか。
2007年04月17日 09:10
経済

銃規制は犯罪を減らすか

バージニア工科大学の殺人事件は、銃規制についての論争を再燃させそうだ。しかしFTも報じるように、アメリカでは逆に先月、銃規制の強化を違法とする判決が連邦高裁で出るなど、規制が強化される見通しはない。これはよくいわれるようにNRAのロビー活動や憲法修正第2条の存在もさることながら、世論調査も必ずしも銃規制に好意的ではないのだ。

その理由は、合理的に理解できる。アメリカのようにすでに銃が社会に広く行き渡ってしまった社会では、自分だけが銃を持たないと危険だからである。これはゲーム理論でおなじみの囚人のジレンマで、全員が銃を持たないという最適解がナッシュ均衡ではないとき、自分だけが持たない最悪の状態よりは全員が持つ次善の状態(ナッシュ均衡)を選ぶことは理解できる。

実証的な研究でも、銃規制の効果は自明ではない。有名な研究としては、Lottの"More Guns, Less Crime"という大論争になった本がある。これは銃規制の緩和によって殺人事件が減ったとする実証研究で、当然のことながらNRAはこの研究を大歓迎したが、これを反証する論文もたくさん出た。しかし、そのまとめをみても、銃規制の効果はあまり明快ではない。

ゲーム理論が正しいとすれば、民主党が提案しているようなゆるやかな銃規制は、かえって犯罪を増やすおそれが強いし、世論の支持も得られないだろう。やるなら憲法を改正して軍・警察以外の銃所持を全面的に禁止し、一挙に徹底的な「銃狩り」をやって、国民全員を強制的に最適解に閉じ込めるしかない。これはアメリカにとって「テロとの闘い」よりもはるかに重要だが困難な闘いだろう。
2007年04月15日 12:41
経済

負の所得税

最低賃金法の改正案が、国会で審議されている。労働組合などからは「これではワーキングプア対策にならない」「最賃を一律時給1000円に引き上げろ」などの要求が強い。しかし当ブログでこれまでにも説明したように、最賃規制は労働需要の不足をまねき、失業を増やすおそれが強い。

今回の改正のポイントは、生活保護との「整合性」だが、具体的な金額は規定されておらず、実効性は疑わしい。根本的な問題は、生活保護が働かないで貧しい人を対象にしており、働いても貧しい人を救済する制度がないことだ。働くより生活保護を受けたほうが高い所得を得られ、少しでも働くと生活保護の支給が打ち切られることが、労働のインセンティブをそいでいる。

この問題の解決策も、フリードマンが45年前に提案している。負の所得税である。これは課税最低所得以下の人に最低所得との差額の一定率を政府が支払うものだ。たとえば最低所得を300万円とし、あるフリーターの所得が180万円だとすると、その差額の(たとえば)50%の60万円を政府が支給する。これなら最賃を規制しなくても最低保障ができるし、働けば必ず所得が増えるのでインセンティブもそこなわない。アメリカでは、これに似た勤労所得税額控除(EITC)が1975年から実施されている。

フリードマンの提案したのは、こうした生活保護を補完する制度ではなく、現在の所得税システムとともに生活保護や公的年金も廃止し、課税最低所得の上にも下にも(正または負の一定率の)フラット・タックスを課すことによって、福祉を税に一元化するものだった。これによって税制は劇的に簡素化され、厚生労働省を廃止すれば、きわめて効率的な福祉システムが可能になる。

しかし、まさにその効率性が原因で、負の所得税はどこの国でも実施されていない。大量の官僚が職を失うからである。現在の非効率な「福祉国家」では、移転支出のかなりの部分が官僚の賃金に食われている。それを一掃して負の所得税に一本化すれば、現在の生活保護よりはるかに高い最低所得保障が可能になろう。フリードマンは、やはりまだ新しい。
2007年04月14日 18:45
法/政治

弁護士免許は必要か

行政書士を「街の法律家」と紹介するポスターに、日弁連が異を唱えている。「法律家というのは、法律事務についての代理権を持つ弁護士らに該当する表現」だという。彼らは六法全書は読んでも、辞書は読んだことがないらしい。『広辞苑』によれば、法律家とは「法律の専門家」のことで、弁護士だけをさすわけではない。行政書士も、法律を知らなければできないのだから、立派な法律家だ。

こういういやがらせの背景には、いわゆる「非弁活動」の規制緩和に対する日弁連の警戒感があるのだろう。しかし実際の弁護士の仕事には、企業の顧問や示談の調停などの法廷以外の業務が多いので、特に手続き的な仕事は行政書士や司法書士などにまかせ、弁護士は法廷の仕事に専念したほうが合理的だ。さらにいえば、フリードマンが"Capitalism and Freedom"で問うたように、弁護士免許って必要なんだろうか?資格認定で十分じゃないのか?

規制には、登録、認定、免許の3種類がある。登録は届け出るだけでよいが、認定には何らかの資格試験が必要であり、免許の場合には無免許営業が禁止される。このうち資格認定には、合理的な理由がある。代理人の能力がわからないと、悪質な弁護士によって被害をこうむることがあるから、弁護士という資格によって能力を示すことは意味がある。

しかし弁護士の資格をもたない人が訴訟の代理人を行なうことを禁止する免許制には、合理的な理由がない。たとえば簡単な訴訟について、行政書士が弁護士の半分の手数料で訴訟を引き受け、依頼人は彼が弁護士資格をもっていないことを承知の上で依頼すればよいのである。その能力は弁護士より低いかもしれないが、それは依頼人も承知の上だ。そういうリスクをきらう人は、正規の弁護士に依頼すればよい。

ジャンク訴訟が増えて裁判所が混雑するというぐらいの問題はあるかもしれないが、それもADRを増やして裁判官の資格を実質的に緩和すればよい。少なくとも、日弁連の要求するように供給を絞ることによって解決する問題はない――彼らの独占的な手数料設定が崩される問題以外は。

だいたい日弁連って何なのか。全弁護士を代表する団体というのも奇妙だが、それが政治的な問題について声明を発表するのもおかしな話だ。すべての弁護士が、ああいう左翼的な意見をもっているわけではないだろうに。個人情報保護法のときも、「自己情報主権」なるスローガンを掲げて、情報流通の規制強化を先頭に立って要求したのは日弁連だった。その結果が今の個人情報地獄だ。

ロースクールを濫造したものの、その卒業生の司法試験合格率は半分以下で、修士号をもってフリーターになる「ロースクール難民」が出ている。修士号を取得した学生には全員「準弁護士」のような資格を与え、法廷以外の弁護士業務を開放してはどうか。代理人として優秀かどうかは、ペーパーテストで決めるよりも、自由な競争の中で依頼人が選んだほうが確かである。フリードマンは、現代でも新しすぎるのかもしれない。
2007年04月14日 12:34
メディア

冷戦的ステレオタイプ

慰安婦問題について4月3日に米議会に提出された米議会事務局の報告書が、ウェブに出ている。これが現在までのところ、この問題についての米国政府の唯一の公式文書だが、その内容はおよそ政府の報告書とは信じられないずさんなものだ。細かいことは3/28の記事のコメント欄に書いたが、その抄訳を引用すると、最大の争点である日本軍の責任については以下のように結論している(一部訂正):
慰安婦制度の「募集」という要素に対する彼[安倍首相]の強調は、(移動、設立、慰安所の認可、慰安所における慰安婦の管理といった)日本軍が深い役割を持っていた慰安婦制度のほかの側面を矮小化している。募集のほとんどは、特に韓国においては、軍によって直接実行されていたのではないかもしれない。しかし安倍政権が募集の際の軍の強制に関する全ての証拠を否定するのは、日本政府が調査した1992-1993年の報告書における元慰安婦の証言に反するとともに、Yuki Tanaka "Japan's Comfort Women"におけるアジア各国とオランダの400人以上の慰安婦のうち200人近い者の証言にも反している。
まず明らかな事実誤認は、ここで「日本政府が調査した報告書」とされている内閣官房の報告書には、元慰安婦の証言は出ていないということだ。もうひとつの根拠である"Japan's Comfort Women"も、田中利幸という共産党系の研究者が支援団体の証言集を英訳した2次資料で、研究者には引用されない本だ。つまり安倍首相の言葉を否定して「軍の強制」が存在したとする根拠はたった二つで、どちらも取るに足りないのである。

要するに報告書を執筆したスタッフのうち、だれも日本語の文献を読まない(読めない)で、都合のいい2次情報だけをつなぎ合わせて「戦争を反省しない日本人」というステレオタイプを反復しているのだ。こういう偏狭な「自国語中心主義」が、事実の客観的な検証を阻んでいる。この報告書は、最初から日本を非難する121決議案の参考資料として書かれたのだから仕方ないといえばそれまでだが、アメリカの官僚の知的水準が日本よりはるかに低いことを示している。

さらに悪いことに日本にも、この田中利幸氏のように、欧米のステレオタイプに迎合して英文で「業績」を出す人々がいる。彼らは「ナショナリズムが燃えさかる日本」を嘆いてみせることで欧米人の共感を得て、「準白人」のクラブに入れてもらうわけだ。彼らにとって大事なのは「日本が悪い」という結論だけなので、強制連行があったかどうかという事実の検証は「枝葉の問題」だ。

他方、これを批判する側も「産経・文春文化人」に片寄っている。古森義久氏の記事は、上の文章の「募集のほとんどは軍によって直接実行されていたのではないかもしれない」という部分だけを引用して、「組織的強制徴用なし」と議会が認めたと報じ、あちこちのブログで批判を浴びている。自分の望む結論に合わせて事実を偽造するwishful thinkingは、左翼も右翼も似たようなものだ。どちらも、いまだに冷戦時代のステレオタイプから逃れることができないのである。

しかし少し前進したのは、こういう議会文書が1週間後にはウェブに出て、それについてのいい加減な新聞記事がブログで批判されることだ。当ブログの4月バカにも累計10万近いアクセスがあり、50以上のブログからリンクが張られ、J-CASTニュースや新聞にも出たので、朝日新聞の社長も読んだだろう。もちろん彼らが謝罪するとは期待できないが、でたらめな記事はチェックされるだろう。無知な人々にとって必要なのは、まず自分の無知を自覚することである。それぐらいの「解毒作用」は、ネットにあるかもしれない。
2007年04月14日 01:31
IT

iPhoneは死んだ?

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Economist誌によると、今年のCTIAの主役は、SKテレコムとアースリンクの合弁会社Helioが発表したPDA、"Ocean"だったという。これはEV-DOで最大800kbps出る。EDGEで100kbps程度しか出ないiPhoneは、もう古いそうだ。

iPhoneにはWi-Fi機能がついていると反論する向きもあるだろうが、モバイルWiMAX(802.16e)が次の主役になることも確実だという。802.20との主導権争いもあるが、インテルとスプリントと欧州連合が採用したことで勝負はついた、とEconomist誌は見ている。「第4世代携帯電話」の標準化をITUに提案している日本は、どうなるんだろうか・・・
2007年04月13日 01:26
経済

フリードマンの言葉

Charles H. Brunie, "My Friend, Milton Friedman"より、フリードマンの言葉を3つ:
  • I’ve always been too early; I don’t understand why others cannot see what I do.
  • Yes, it’s true consumer spending accounts for about 70 percent of nominal GDP. But that doesn’t cause anything. It’s 2 percent or 3 percent or 5 percent of the population who are the risk-takers, the entrepreneurs, the innovators, who cause the growth.
  • The one thing you can be most sure of in this life is that everyone will spend someone else’s money more liberally than they will spend their own.


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