July 2007
コメントで教えてもらったが、米下院本会議で慰安婦非難決議が可決された。「全会一致」と報じているメディアもあるが、voice voteなので正確なところはわからない。しかしBBCやIHTの報道をみると、これまでに比べて微妙にトーンが変わり、両論併記になっている。
どちらの報道も、ラントス下院外交委員長の「犠牲者を非難する日本人の態度には吐き気をもよおす」という言葉を伝えている。ここからもわかるように、彼らも文書による証拠がないことぐらいは認識しているため、元慰安婦の売春を強制されたという証言を軍が強制した証拠とすりかえているのだ。しかし「軍服のような服を着た人に連れて行かれた」といった証言は、軍の命令の証拠にはならない。当時、軍服を着た民間の朝鮮人はたくさんいたし、そもそも彼女たちは軍命の存在の証人たりえない。
彼女たちが証明できるのは、軍の許可した慰安所で売春をしたということまでである。貧しい家庭では人身売買もあっただろうし、不本意な性行為を強いられた慰安婦も多数いただろう。しかし当時は、売春も人身売買も世界中で行なわれており、軍営売春も米軍でも英連邦軍でも確認されている。ドイツ軍は直営の売春施設を500ヶ所も建てて売春婦を強制徴用し、ロシア軍は組織的に現地の女性を強姦した。
軍が戦地で売春を許可することがすべて「非人道的」だというなら、ホンダ氏も認める戦後GHQの利用した慰安所はどうなるのか。むしろVAWW-NETのように、すべての軍用売春を(強制連行の有無にかかわらず)「性奴隷」として非難するほうが、米下院より論理的に一貫している。日本の慰安婦だけを非難するのは民族差別であり、伊勢氏もコメントするように駐米日本大使館は名誉毀損で訴訟を起こすべきだ。
追記:ルイジアナ州在住の尾崎信義氏が、ホンダ議員とラントス委員長を相手どって名誉毀損訴訟を起こすことを決めた。
追記2:J-CASTでも伝えているが、今や社説で「首相は謝罪しろ」などと主張しているのは朝日新聞だけだ。誤報を訂正して謝罪するのは朝日が先ではないか、と私はコメントした。
追記3:ホンダ議員は記者会見で、彼を支援してきたのは、従来いわれていた韓国ロビーではなく、在米の中国系団体「世界抗日戦争史実維護連合会」であることを明らかにした。この団体は、中国政府の意向を受けて日本の安保理常任理事国入りに反対する署名運動を行なうなど、中国政府と関係が深い。
どちらの報道も、ラントス下院外交委員長の「犠牲者を非難する日本人の態度には吐き気をもよおす」という言葉を伝えている。ここからもわかるように、彼らも文書による証拠がないことぐらいは認識しているため、元慰安婦の売春を強制されたという証言を軍が強制した証拠とすりかえているのだ。しかし「軍服のような服を着た人に連れて行かれた」といった証言は、軍の命令の証拠にはならない。当時、軍服を着た民間の朝鮮人はたくさんいたし、そもそも彼女たちは軍命の存在の証人たりえない。
彼女たちが証明できるのは、軍の許可した慰安所で売春をしたということまでである。貧しい家庭では人身売買もあっただろうし、不本意な性行為を強いられた慰安婦も多数いただろう。しかし当時は、売春も人身売買も世界中で行なわれており、軍営売春も米軍でも英連邦軍でも確認されている。ドイツ軍は直営の売春施設を500ヶ所も建てて売春婦を強制徴用し、ロシア軍は組織的に現地の女性を強姦した。
軍が戦地で売春を許可することがすべて「非人道的」だというなら、ホンダ氏も認める戦後GHQの利用した慰安所はどうなるのか。むしろVAWW-NETのように、すべての軍用売春を(強制連行の有無にかかわらず)「性奴隷」として非難するほうが、米下院より論理的に一貫している。日本の慰安婦だけを非難するのは民族差別であり、伊勢氏もコメントするように駐米日本大使館は名誉毀損で訴訟を起こすべきだ。
追記:ルイジアナ州在住の尾崎信義氏が、ホンダ議員とラントス委員長を相手どって名誉毀損訴訟を起こすことを決めた。
追記2:J-CASTでも伝えているが、今や社説で「首相は謝罪しろ」などと主張しているのは朝日新聞だけだ。誤報を訂正して謝罪するのは朝日が先ではないか、と私はコメントした。
追記3:ホンダ議員は記者会見で、彼を支援してきたのは、従来いわれていた韓国ロビーではなく、在米の中国系団体「世界抗日戦争史実維護連合会」であることを明らかにした。この団体は、中国政府の意向を受けて日本の安保理常任理事国入りに反対する署名運動を行なうなど、中国政府と関係が深い。
きのう発売の『週刊エコノミスト』に、私の記事が出ている。「NGNプロジェクト『再統合』『再独占』に向けた”トロイの木馬”か」というどぎついタイトルは、編集者が勝手につけたもので、私は最終ゲラも見ていない。彼は私の原稿を改竄したので、変な誤植がある。正誤訂正をかねて、補足しておく。
特にわかりにくいのは、2000年の接続料をめぐる問題だろう。1999年の日米交渉で、USTRが対日要望書の最重点項目として出してきたのは、なぜか国内の長距離電話の接続料の値下げだった。当初の要求は40%以上という大幅なものだったが、これに対してNTTと郵政省(当時)は激しく反発した。
その後、アメリカ側は「3年間で22.5%」と要求を下げてきたが、タイムリミットの2000年3月末を越しても交渉はまとまらず、7月の九州・沖縄サミットの直前までもつれこんだ。ここで野中広務・自民党幹事長(当時)がUSTRと交渉して、下げ幅を「当初2年間で20%」として事実上、アメリカ側の要求をのむ代わり、値下げの原資を出すためにNTTには東西会社の合併などの規制緩和を行なうという政治決着にこぎつけた。
この政治決着にそって、電気通信審議会に「IT競争政策特別部会」が設けられ、NTT法の改正(再々編)を議論することになった。ところが、総務省や与野党などに「再々編を議論するなら、むしろ持株会社を廃止し、民営化のときの臨調方針の通り、各事業会社を完全に資本分離すべきだ」という完全分割案が出てきた。このため、2000年9月に開かれたIT部会の第1回公聴会で、NTTの宮津純一郎社長(当時)は「再々編の話は忘れてほしい」と発言し、委員を驚かせた。
以来、NTT経営陣にとって「再々編の話を持ち出すと、かえって完全分割論を再燃させてヤブヘビになる」(*)というトラウマが残り、和田紀夫氏が02年に社長に就任してからは、再々編論議は封印されてしまったのである。
この問題を再燃させたのが、2005年末に竹中平蔵総務相(当時)が作った通信・放送懇談会だった。当初はアクセス網を機能分離する案が検討されたが、途中からこれに加えて、完全分割案が出てきた。つまりアクセス網を水平分離した上、持株と東西とコムを垂直にもバラバラにしようというのだ。
NTTはこれに激しく反発し、自民党通信・放送産業高度化小委員長(当時)の片山虎之助氏に働きかけた。結果的に、NTTの経営形態については「2010年の時点で検討を行う」との表現で、通信・放送懇の結論はすべて先送りされた。その竹中氏の唯一の置き土産が、2010年という再検討のスケジュールだった。
この「2000年のトラウマ」はまだNTT社内に残り、少なくとも竹中氏の影響力が残っているうちは再々編論議は封じ込めようと経営陣は考えているようだ。しかし竹中氏は、『エコノミスト』誌のインタビューでは、完全分割論を引っ込めたようにも見える。総務省でも、今度の異動で「完全分割派」はほとんど姿を消した。最近出された「情報通信法」(仮称)は、通信・放送といった縦割り規制からレイヤー別規制(**)への転換を提言している。
また「完全分割」を主張している他社も、「IP時代に長距離会社と市内会社を分離するなんてナンセンスだ」(ある競合他社幹部)ということは承知のうえで、いわば交渉上の駆け引きに使っているだけだ。もうNTT解体論の亡霊も、姿を消したのではないか。三浦新社長の最大の経営課題は、この2010年問題である。そろそろトラウマは忘れて、NTT側からレイヤー別の再々編を提案するぐらいの大胆なリーダーシップを見せてはどうだろうか。
ただ、まとめ役だった片山氏が落選した影響は大きい。かつての接続料問題のときも、最後は野中氏の政治力でまとめたのだが、今の自民党にはそういう人材がいない。菅総務相が改造で交代するのは確実として、後任にどれぐらいの実力者がなるかが一つの注目点だが、レイムダックになった安倍政権では、NTT改革まで手を広げるのは無理かもしれない。
(*)この部分を編集者が改竄したため、記事では「東西の合併と引き換えに完全分割をのまされるかもしれない」という意味不明の表現になっている。
(**)この部分も、記事では編集者が勝手に「事業構造別の規制」と直したので、意味不明になっている。
特にわかりにくいのは、2000年の接続料をめぐる問題だろう。1999年の日米交渉で、USTRが対日要望書の最重点項目として出してきたのは、なぜか国内の長距離電話の接続料の値下げだった。当初の要求は40%以上という大幅なものだったが、これに対してNTTと郵政省(当時)は激しく反発した。
その後、アメリカ側は「3年間で22.5%」と要求を下げてきたが、タイムリミットの2000年3月末を越しても交渉はまとまらず、7月の九州・沖縄サミットの直前までもつれこんだ。ここで野中広務・自民党幹事長(当時)がUSTRと交渉して、下げ幅を「当初2年間で20%」として事実上、アメリカ側の要求をのむ代わり、値下げの原資を出すためにNTTには東西会社の合併などの規制緩和を行なうという政治決着にこぎつけた。
この政治決着にそって、電気通信審議会に「IT競争政策特別部会」が設けられ、NTT法の改正(再々編)を議論することになった。ところが、総務省や与野党などに「再々編を議論するなら、むしろ持株会社を廃止し、民営化のときの臨調方針の通り、各事業会社を完全に資本分離すべきだ」という完全分割案が出てきた。このため、2000年9月に開かれたIT部会の第1回公聴会で、NTTの宮津純一郎社長(当時)は「再々編の話は忘れてほしい」と発言し、委員を驚かせた。
以来、NTT経営陣にとって「再々編の話を持ち出すと、かえって完全分割論を再燃させてヤブヘビになる」(*)というトラウマが残り、和田紀夫氏が02年に社長に就任してからは、再々編論議は封印されてしまったのである。
この問題を再燃させたのが、2005年末に竹中平蔵総務相(当時)が作った通信・放送懇談会だった。当初はアクセス網を機能分離する案が検討されたが、途中からこれに加えて、完全分割案が出てきた。つまりアクセス網を水平分離した上、持株と東西とコムを垂直にもバラバラにしようというのだ。
NTTはこれに激しく反発し、自民党通信・放送産業高度化小委員長(当時)の片山虎之助氏に働きかけた。結果的に、NTTの経営形態については「2010年の時点で検討を行う」との表現で、通信・放送懇の結論はすべて先送りされた。その竹中氏の唯一の置き土産が、2010年という再検討のスケジュールだった。
この「2000年のトラウマ」はまだNTT社内に残り、少なくとも竹中氏の影響力が残っているうちは再々編論議は封じ込めようと経営陣は考えているようだ。しかし竹中氏は、『エコノミスト』誌のインタビューでは、完全分割論を引っ込めたようにも見える。総務省でも、今度の異動で「完全分割派」はほとんど姿を消した。最近出された「情報通信法」(仮称)は、通信・放送といった縦割り規制からレイヤー別規制(**)への転換を提言している。
また「完全分割」を主張している他社も、「IP時代に長距離会社と市内会社を分離するなんてナンセンスだ」(ある競合他社幹部)ということは承知のうえで、いわば交渉上の駆け引きに使っているだけだ。もうNTT解体論の亡霊も、姿を消したのではないか。三浦新社長の最大の経営課題は、この2010年問題である。そろそろトラウマは忘れて、NTT側からレイヤー別の再々編を提案するぐらいの大胆なリーダーシップを見せてはどうだろうか。
ただ、まとめ役だった片山氏が落選した影響は大きい。かつての接続料問題のときも、最後は野中氏の政治力でまとめたのだが、今の自民党にはそういう人材がいない。菅総務相が改造で交代するのは確実として、後任にどれぐらいの実力者がなるかが一つの注目点だが、レイムダックになった安倍政権では、NTT改革まで手を広げるのは無理かもしれない。
(*)この部分を編集者が改竄したため、記事では「東西の合併と引き換えに完全分割をのまされるかもしれない」という意味不明の表現になっている。
(**)この部分も、記事では編集者が勝手に「事業構造別の規制」と直したので、意味不明になっている。
今年は、南京事件70周年。この事件と慰安婦は、よく並べて語られるが、これは誤解のもとである。慰安婦問題なるものは、慰安婦を女子挺身隊と混同した韓国人と、そのキャンペーンに乗った朝日新聞の作り出したデマゴギーにすぎないが、1937年の南京陥落の際に大規模な軍民の殺害が行なわれたことは歴史的事実である。
ところが1972年に本多勝一『中国の旅』が、中国側の主張する「犠牲者30万人」説をそのまま報じ、これに対して翌年、鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』というミスリーディングな題名の本が出たおかげで、混乱した「論争」が始まった。鈴木氏は本多氏のいう「百人斬り」がありえないことを批判しただけで、虐殺が「まぼろし」だったと主張したわけではないが、本多氏側はこれを「まぼろし派」と名づけ、大々的な反論を繰り広げた。
だから南京事件をめぐる争点は、よく誤解されるように、「虐殺があったかなかったか」ではなく、「その規模がどの程度のものだったか」にすぎない。これは今となっては厳密に立証することは不可能だが、「30万人」という数字に客観的根拠がないことは「大虐殺派」も認めている。笠原十九司『南京事件』の「十数万以上、それも二〇万近いかあるいはそれ以上」という意味不明の推定が、日本の歴史学者の出している最大の数字だ。
これに対して30万人説を否定する人々も、何もなかったと主張しているわけではない。犠牲者数の推定はさまざまだが、著者の推定は「最大限で4万人」である。これは人数としては虐殺と呼ぶに十分だが、一つの戦闘で4万人の死者が出ることを虐殺と呼ぶべきなのか、またそれが意図的な(民間人の)虐殺か軍規の乱れによる不可抗力だったのか、といった点については決着がついていない。したがって加瀬英明氏や櫻井よしこ氏のように「南京大虐殺はなかった」などと断定するのは、誤解のもとである。
ただ、この問題については中国側が反日運動を煽る方針を転換したため、最近はそれほど大きな騒動にはなっていない。彼らに迎合する国内の「大虐殺派」が(社会主義の衰退によって)鳴りをひそめたのも、結構なことだ。日本がアジア諸国と真に和解するために必要なのは、彼らの被害妄想的な宣伝を鵜呑みにしてひたすら「日帝の犯罪」を懺悔することではなく、客観的事実を学問的に検証することである。本書は「中間派」による最新情報を織り込んだ増補版で、公平なサーベイとして便利だ。
ところが1972年に本多勝一『中国の旅』が、中国側の主張する「犠牲者30万人」説をそのまま報じ、これに対して翌年、鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』というミスリーディングな題名の本が出たおかげで、混乱した「論争」が始まった。鈴木氏は本多氏のいう「百人斬り」がありえないことを批判しただけで、虐殺が「まぼろし」だったと主張したわけではないが、本多氏側はこれを「まぼろし派」と名づけ、大々的な反論を繰り広げた。
だから南京事件をめぐる争点は、よく誤解されるように、「虐殺があったかなかったか」ではなく、「その規模がどの程度のものだったか」にすぎない。これは今となっては厳密に立証することは不可能だが、「30万人」という数字に客観的根拠がないことは「大虐殺派」も認めている。笠原十九司『南京事件』の「十数万以上、それも二〇万近いかあるいはそれ以上」という意味不明の推定が、日本の歴史学者の出している最大の数字だ。
これに対して30万人説を否定する人々も、何もなかったと主張しているわけではない。犠牲者数の推定はさまざまだが、著者の推定は「最大限で4万人」である。これは人数としては虐殺と呼ぶに十分だが、一つの戦闘で4万人の死者が出ることを虐殺と呼ぶべきなのか、またそれが意図的な(民間人の)虐殺か軍規の乱れによる不可抗力だったのか、といった点については決着がついていない。したがって加瀬英明氏や櫻井よしこ氏のように「南京大虐殺はなかった」などと断定するのは、誤解のもとである。
ただ、この問題については中国側が反日運動を煽る方針を転換したため、最近はそれほど大きな騒動にはなっていない。彼らに迎合する国内の「大虐殺派」が(社会主義の衰退によって)鳴りをひそめたのも、結構なことだ。日本がアジア諸国と真に和解するために必要なのは、彼らの被害妄想的な宣伝を鵜呑みにしてひたすら「日帝の犯罪」を懺悔することではなく、客観的事実を学問的に検証することである。本書は「中間派」による最新情報を織り込んだ増補版で、公平なサーベイとして便利だ。
BBCは、テレビ番組をネット配信するサービス、iPlayerのサービスを開始した。これは過去1週間に放送された番組の大部分をウェブサイトにデータベース化し、オンデマンドで無料ダウンロードできるものだ。
見られるのは30日間だけで、その後は消去され、コピーはできないなど制限はあるが、画質は普通のテレビと同じだという。今は、見られるのはPCに限られるが、テレビでも見られるようにする予定で、トンプソン会長は「これはカラーTVの登場以来の大変革だ」とのべている。残念ながら、日本からは見えないが。
NHKも「50円値下げ」なんてしょぼい業務計画を出さないで、BBCを少し見習っては?
日本の官僚がアメリカに留学して「カルチャー・ショック」を受けた体験としてよく出てくるのは、パーティなどで"I'm a bureaucrat"と自己紹介すると、相手が「つまらない奴だな」という顔をしてよそに行ってしまう、といった話だ。これは英米の官僚と日本の官僚の位置づけの違いで、向こうでは官僚というのはclerk、日本でいう「ノンキャリア」のイメージなのだ。
日本のキャリアのような「知識人」が官僚になる国は珍しい。独仏がそれに近いといわれ、日本のシステムは明治時代にプロイセンの官制をまねたというのが通説だが、私の印象では、日本の官僚には儒教の影響が強いように思う。ちょっと前まで、霞ヶ関に立っていた案内板には「霞ヶ関官衙」と書かれていた。官衙というのは、律令制の官僚組織を示す言葉である。
『靖国史観』にも書かれているように、明治維新は儒教による革命であり、その指導者も儒教に圧倒的な影響を受けていた。丸山真男以来、明治維新が儒教を「克服」することによって近代化をなしとげたとする見方が政治思想史の主流だが、本書(文庫として再刊)のような最近の研究は、むしろ儒教的伝統との連続性を指摘している。
明治政府の思想的支柱が儒教であったことを何よりも明確に示すのは、いうまでもなく教育勅語であり、これを起草した元田永孚は、明治天皇のもっとも信頼する儒学者だった。他方、それに敵対する立場と考えられている中江兆民も、著者によればルソーの「主権者」を「君」と訳し、人民全体が「有徳君主」になる儒教的理想として民権論を考えていた。それどころか幸徳秋水でさえ、思想の根底にあったのは「武士道」(儒教の日本的変形)だったという。
日本の官僚機構でキャリアに求められるのは、テクノクラート的な専門知識ではなく、あらゆる部署を回って国政全体を掌握する「君」としての素養である。これも科挙以来の中国の官僚機構と同じだ。科挙の試験科目には、法律も経済もなく、求められたのは四書五経などの「文人」としての教養だった。官僚の権威を支えたのは専門知識ではなく、知識人としての「徳」だったのである。
それを象徴するのが、中国の官僚の心得とされた「君子は器ならず」という『論語』の言葉だ。君子は、決まった形の器であってはならない。必要なのは、個別の技術的な知識ではなく、どんな事態に対しても大局的な立場から臨機応変に判断できる能力である。だから科挙官僚は、現代の概念でいえば政治家であり、個別の行政知識については幕僚とよばれる専門家(日本でいうノンキャリ)を従えていた。
つまり「霞ヶ関官衙」と永田町には、2種類の政治家がいるのだ。そして法律の建て前では前者が後者に従うが、実際には情報の量でも質でも前者が圧倒的に優位であり、後者をコントロールしている。このダブル・スタンダードが、日本の政治を混乱させている最大の原因だ。その一つの原因は政権交代がないからだが、逆にいえば、政権はつねに「官衙」にあるから、政権交代があってもなくても大した違いはないともいえる。事実、細川政権に交代したときは、霞ヶ関主導はかえって強まった。
官僚の権威を支えているのは法律ではなく、こうした最高の知識人としての知的権威である。たとえば経産省がIT業界に対してもっている許認可権はほとんどないが、彼らが「情報大航海プロジェクト」を提唱すれば、業界がみんな集まってくる。それは、霞ヶ関が日本で最高のシンクタンクだと、まだ思われているからだ。しかし当ブログでも指摘してきたように、少なくともITに関しては、儒教的ジェネラリストは「情報弱者」でしかない。
だから最近の官僚たたきで、公務員になる学生の偏差値が顕著に下がっているのは、ある意味ではいいことだ。霞ヶ関は、もはや日本のthe best and the brightestが行くべきところではない。そして、官僚がただのclerkでしかなくなれば、民間がそれにミスリードされることもなくなるだろう。その意味で、キャリア官僚というシステムを解体することが究極の公務員改革である。
日本のキャリアのような「知識人」が官僚になる国は珍しい。独仏がそれに近いといわれ、日本のシステムは明治時代にプロイセンの官制をまねたというのが通説だが、私の印象では、日本の官僚には儒教の影響が強いように思う。ちょっと前まで、霞ヶ関に立っていた案内板には「霞ヶ関官衙」と書かれていた。官衙というのは、律令制の官僚組織を示す言葉である。
『靖国史観』にも書かれているように、明治維新は儒教による革命であり、その指導者も儒教に圧倒的な影響を受けていた。丸山真男以来、明治維新が儒教を「克服」することによって近代化をなしとげたとする見方が政治思想史の主流だが、本書(文庫として再刊)のような最近の研究は、むしろ儒教的伝統との連続性を指摘している。
明治政府の思想的支柱が儒教であったことを何よりも明確に示すのは、いうまでもなく教育勅語であり、これを起草した元田永孚は、明治天皇のもっとも信頼する儒学者だった。他方、それに敵対する立場と考えられている中江兆民も、著者によればルソーの「主権者」を「君」と訳し、人民全体が「有徳君主」になる儒教的理想として民権論を考えていた。それどころか幸徳秋水でさえ、思想の根底にあったのは「武士道」(儒教の日本的変形)だったという。
日本の官僚機構でキャリアに求められるのは、テクノクラート的な専門知識ではなく、あらゆる部署を回って国政全体を掌握する「君」としての素養である。これも科挙以来の中国の官僚機構と同じだ。科挙の試験科目には、法律も経済もなく、求められたのは四書五経などの「文人」としての教養だった。官僚の権威を支えたのは専門知識ではなく、知識人としての「徳」だったのである。
それを象徴するのが、中国の官僚の心得とされた「君子は器ならず」という『論語』の言葉だ。君子は、決まった形の器であってはならない。必要なのは、個別の技術的な知識ではなく、どんな事態に対しても大局的な立場から臨機応変に判断できる能力である。だから科挙官僚は、現代の概念でいえば政治家であり、個別の行政知識については幕僚とよばれる専門家(日本でいうノンキャリ)を従えていた。
つまり「霞ヶ関官衙」と永田町には、2種類の政治家がいるのだ。そして法律の建て前では前者が後者に従うが、実際には情報の量でも質でも前者が圧倒的に優位であり、後者をコントロールしている。このダブル・スタンダードが、日本の政治を混乱させている最大の原因だ。その一つの原因は政権交代がないからだが、逆にいえば、政権はつねに「官衙」にあるから、政権交代があってもなくても大した違いはないともいえる。事実、細川政権に交代したときは、霞ヶ関主導はかえって強まった。
官僚の権威を支えているのは法律ではなく、こうした最高の知識人としての知的権威である。たとえば経産省がIT業界に対してもっている許認可権はほとんどないが、彼らが「情報大航海プロジェクト」を提唱すれば、業界がみんな集まってくる。それは、霞ヶ関が日本で最高のシンクタンクだと、まだ思われているからだ。しかし当ブログでも指摘してきたように、少なくともITに関しては、儒教的ジェネラリストは「情報弱者」でしかない。
だから最近の官僚たたきで、公務員になる学生の偏差値が顕著に下がっているのは、ある意味ではいいことだ。霞ヶ関は、もはや日本のthe best and the brightestが行くべきところではない。そして、官僚がただのclerkでしかなくなれば、民間がそれにミスリードされることもなくなるだろう。その意味で、キャリア官僚というシステムを解体することが究極の公務員改革である。
年金騒動の陰に隠れて、公務員制度改革はすっかり忘れられた感があるが、本来は年金の名寄せなんて事務手続きの問題で、選挙で争うような政策ではない。公務員法のほうも「新人材バンク」ばかり話題になっているが、本質的な問題は公務員の昇進や転職のルールである。
これは公務員だけの問題ではない。民間でも、役員が子会社に「天下り」するのは当たり前だ。さらに厄介なのは、天下りもできない窓際族だ。NHKの私の同期は、だいたい地方局の副局長ぐらいだが、仕事はといえば、地元のライオンズクラブの会合に出るとか「ふれあいイベント」であいさつするぐらいで、年収1500万円ぐらいもらっているだろう。仕事が楽で生活が安定しているという点では極楽だが、「まぁ廃人みたいな生活だよ」と同期の一人が言っていた。こういう老人の飼い殺しが、日本の労働生産性を下げているのだ。
日本ではホワイトカラーが専門職として生きられないため、一定の年齢になったら一律に管理職になる。NHKの例でいえば、大卒社員は一斉に40前後で管理職になって取材現場から離れ、サラリーマン人生の半分以上を(非生産的な)管理職として過ごす。一般職より管理職のほうが多い職場も珍しくない。他方、欧米ではラインとスタッフがわかれており、定年まで記者やプロデューサーとして過ごす人も多い。たとえばアメリカの代表的なドキュメンタリー"60 Minutes"のプロデューサーDon Hewittは、35年間そのプロデューサーをつとめた。
今度の公務員法改正のように、50過ぎた官僚を「人材バンク」で斡旋しようというのは机上プランだ。そんな人的資本の償却が終わった老人をこれまで民間が引き受けてくれたのは、彼を通じて官製談合などの利益誘導ができたからであって、そういうレントがなくなれば、老人の転職市場は、ごく少数のexecutive marketに限られる。そういう「プロの経営者」としての見識や経験をもっている人は、霞ヶ関にはいない。
だから天下りを規制するとか人材バンクを作るとかいう問題ばかり議論するのではなく、公務員のキャリアパス全体を再設計し、専門職を育ててemployabilityを高め、40前に売れるようにしないと公務員の活性化や流動化は機能しないだろう。そうすると「逆淘汰」で行き場のない役人ばかり残る、という批判もあるが、前にも書いたように、私は日本のキャリア官僚の歴史的使命は終わったので、官僚はclerkだけでいいと思っている。これについては、記事をあらためて。
これは公務員だけの問題ではない。民間でも、役員が子会社に「天下り」するのは当たり前だ。さらに厄介なのは、天下りもできない窓際族だ。NHKの私の同期は、だいたい地方局の副局長ぐらいだが、仕事はといえば、地元のライオンズクラブの会合に出るとか「ふれあいイベント」であいさつするぐらいで、年収1500万円ぐらいもらっているだろう。仕事が楽で生活が安定しているという点では極楽だが、「まぁ廃人みたいな生活だよ」と同期の一人が言っていた。こういう老人の飼い殺しが、日本の労働生産性を下げているのだ。
日本ではホワイトカラーが専門職として生きられないため、一定の年齢になったら一律に管理職になる。NHKの例でいえば、大卒社員は一斉に40前後で管理職になって取材現場から離れ、サラリーマン人生の半分以上を(非生産的な)管理職として過ごす。一般職より管理職のほうが多い職場も珍しくない。他方、欧米ではラインとスタッフがわかれており、定年まで記者やプロデューサーとして過ごす人も多い。たとえばアメリカの代表的なドキュメンタリー"60 Minutes"のプロデューサーDon Hewittは、35年間そのプロデューサーをつとめた。
今度の公務員法改正のように、50過ぎた官僚を「人材バンク」で斡旋しようというのは机上プランだ。そんな人的資本の償却が終わった老人をこれまで民間が引き受けてくれたのは、彼を通じて官製談合などの利益誘導ができたからであって、そういうレントがなくなれば、老人の転職市場は、ごく少数のexecutive marketに限られる。そういう「プロの経営者」としての見識や経験をもっている人は、霞ヶ関にはいない。
だから天下りを規制するとか人材バンクを作るとかいう問題ばかり議論するのではなく、公務員のキャリアパス全体を再設計し、専門職を育ててemployabilityを高め、40前に売れるようにしないと公務員の活性化や流動化は機能しないだろう。そうすると「逆淘汰」で行き場のない役人ばかり残る、という批判もあるが、前にも書いたように、私は日本のキャリア官僚の歴史的使命は終わったので、官僚はclerkだけでいいと思っている。これについては、記事をあらためて。
きのうのICPFセミナーのスピーカーは、三田誠広氏だった。もう少し率直な意見交換を期待していたのだが、自分で信じていないことを長々としゃべるので、議論も噛みあわなかった。そのちぐはぐな質疑応答の一部を紹介しておこう:
版元の利潤は、著作権で守る必要はない。たとえば岩波書店は、夏目漱石の本で今でも利潤を上げている。もしも著作権が死後200年ぐらいに延長されたら、岩波書店は文庫を出さないで高価な全集だけを出してもうけることができるだろう。しかしこうした独占は有害で、独禁法でも原則として禁止されているものだ。
三田氏は、宮沢賢治の例をあげて、彼が生前には1円の印税ももらえなかったが、その遺族は、松本零士氏の「銀河鉄道999」などのおかげで大きな収入があるという。しかし、これは賢治のインセンティブにならない不労所得である。
さらに悪いことに、彼はそれを100%嘘だとは思っていない。小説家という職業が特権的な存在だった時代の錯覚をまだ持ち、青空文庫や国会図書館に協力することで「芸術家の尊い使命」を果たしているつもりなのだ。しかし幸か不幸か、彼の小説は彼の死ぬ前にカタログから消えるだろう。
(*)著作権とリスペクトに強いて関係を求めるとすれば、著作者人格権だが、これは著者の死によって消滅するので、死後50年の問題とは無関係。
問「これまで文芸家協会は、著作権の期限を死後50年から70年に延長する根拠として、著作権料が創作のインセンティブになると主張してきたが、今日のあなたの20年延ばしても大した金にはならないという発言は、それを撤回するものと解釈していいのか?」リスペクトなどというものは、著作権とは何の関係もない(*)。私たちは、立派な家を建てる大工やおいしい料理をつくる料理人にリスペクトを抱くが、彼らの作品は著作権で守られてはいない。彼らの作品が売れることで、リスペクトは表現されるからだ。要するに三田氏が守ろうとしているのは、著作者のインセンティブでもリスペクトでもなく、版元の独占利潤なのだ。
三田「私は以前から、金銭的なインセンティブは本質的な問題ではないと言っている。作家にとって大事なのは、本として出版してもらえるというリスペクトだ。」
問「しかし出版してもらうことが重要なら、死後50年でパブリックドメインになったほうが出版のチャンスは増えるだろう。」
三田「しかしパブリックドメインになったら、版元がもうからない。」
問「そんなことはない。夏目漱石も福沢諭吉もパブリックドメインだが、全集も文庫も出て出版社はもうかっている。リスペクトもされているじゃないか。」
三田「・・・」
版元の利潤は、著作権で守る必要はない。たとえば岩波書店は、夏目漱石の本で今でも利潤を上げている。もしも著作権が死後200年ぐらいに延長されたら、岩波書店は文庫を出さないで高価な全集だけを出してもうけることができるだろう。しかしこうした独占は有害で、独禁法でも原則として禁止されているものだ。
三田氏は、宮沢賢治の例をあげて、彼が生前には1円の印税ももらえなかったが、その遺族は、松本零士氏の「銀河鉄道999」などのおかげで大きな収入があるという。しかし、これは賢治のインセンティブにならない不労所得である。
問「松本氏は模倣を非難するが、『銀河鉄道』は宮沢賢治の模倣じゃないか。」全体としてわかったのは、三田氏は出版社やJASRACに利用されているロボットではないということだ。彼は、自分が作家としてはもう終わったことを自覚し、著作権ロビイストとして政治的に生き延びようとしているのだ。彼のスピーチの大半は、きわめて瑣末な著作権処理の事務的な手続き論に費やされた。たしかに、これをJASRACがいうより「作家」の肩書きをもった三田氏がいうほうが、文化庁の官僚が使いやすいだろう。
三田「松本氏のように原作の価値を高める模倣はいいが、悪趣味なパロディはよくない。」
問「いい模倣か悪い模倣かは、だれが決めるのか?」
三田「遺族だ。」
問「遺族が死んだら、誰が決めるのか?」
三田「・・・」
問「このように著作権というのは、他人の創作活動を制限する。ブログには数千万人の著作者がいて、YouTubeには数千万本のビデオクリップがあるが、それを著作権訴訟が脅かしている。わずか数千人の小説家の業界エゴで、著作権法の強化を求めるのは無責任ではないか。」
三田「小説とブログは違う。われわれには芸術家として、文化を後代に伝える義務がある。」
さらに悪いことに、彼はそれを100%嘘だとは思っていない。小説家という職業が特権的な存在だった時代の錯覚をまだ持ち、青空文庫や国会図書館に協力することで「芸術家の尊い使命」を果たしているつもりなのだ。しかし幸か不幸か、彼の小説は彼の死ぬ前にカタログから消えるだろう。
(*)著作権とリスペクトに強いて関係を求めるとすれば、著作者人格権だが、これは著者の死によって消滅するので、死後50年の問題とは無関係。
けさの朝日新聞に、アナログ放送が止まる「2011年7月24日まで、あと4年」という記事が出ている。例によって私が、否定的なコメントをする役だ。いつもこういう所に出てくるので、テレビ局に憎まれるのだが、他にいないのだろうか。ただ、いつも同じことばかりコメントするのもいかがなものかと思うので、よく質問される「地デジのFAQ」をまとめておこう。
Q. なぜ需要予測もはっきりしないまま、あわてて地デジを始めたのか?
A. アメリカが1998年にデジタル放送を始めたことから、「家電王国の日本がデジタルで遅れをとるわけには行かない」という郵政省の面子で始めた。家電産業の優位を守るという産業政策の側面が強く、消費者はカラー化のときのようにHDTVに飛びつくと考えていた。
Q. 業界は反対しなかったのか?
A. NHKはHDTV化を進めたかったので反対しなかったが、広告収入が増えないのに巨額の設備投資がかかる民放連は反対した。しかし郵政省が「国の助成金を、郵政省で何とかとるように考えます」と損失補填を約束したのでOKした、と氏家元民放連会長が証言している。
Q. 本当に4年後、停波できるのか?
A. どんなに楽観的に予測しても、2011年の段階で最低3000万台のアナログテレビが残る。しかも、この段階で残っている視聴者は年金生活者や独居老人などの「社会的弱者」で、テレビが災害情報などの唯一のライフラインになっている人が多いだろう。そういう人のテレビの電波を政府が無理やり止めるという決定が下せるだろうか。
Q. 停波の延長は避けられないということか?
A. 総務省も、すでにNHKや民放連と話し合っている。来年、次の免許更新があるので、そのとき一定の見通しが出るだろう。さしあたり1回(3年)延期して様子をみるといった政策がとられるのではないか。ただ延長するには、電波法の改正が必要なので、容易ではない。
Q. さらに国費投入はあるか?
A. すでに「難視聴対策」と称して100億円が支出されている。生活保護世帯には国費でチューナーを支給するといった案もあるようだが、放送を見るにはアンテナなど1世帯あたり3万円ぐらいかかる。生活保護を受けているのは100万世帯程度なので、これだけでも300億円かかるが、残りはどうするのか。また、そういう案が表に出ると買い控えが起こるので、今のところ政府は「無条件に止める」という公式見解を変えていない。
Q. なぜ無条件に2011年に止めると法律で決めたのか?
A. 郵政省は、もとは「85%がデジタルに移行した段階で止める」といった案を考えていた。しかしアナアナ変換に国費投入が必要になったため、2001年度予算で要求したところ、大蔵省に「民放の私有財産である中継局に税金を投入することは認められない。国民にとっての利益がない」と拒否された。そこで郵政省は「デジタル(UHF帯)に完全移行したら、VHF帯のアナログ放送を止めて移動体通信などに使えるので、電波の有効利用という国民的な利益がある」という理屈をひねり出した。これに対して大蔵省が「そんな口約束では、いつ止めるかわからない。何日までに必ず止めるという担保を出せ」と求めたため、そのときの電波法改正から10年後という日付を法律に書き込む異例の措置をとったのである。
要するに、最初から最後まで役所とテレビ局と電機メーカーの都合だけで計画を進めてきて、土壇場になって消費者がついてこないことに気づいてあたふたしている、という日本の産業政策の失敗の典型だ。くわしいことは、拙著『電波利権』をどうぞ。
Q. なぜ需要予測もはっきりしないまま、あわてて地デジを始めたのか?
A. アメリカが1998年にデジタル放送を始めたことから、「家電王国の日本がデジタルで遅れをとるわけには行かない」という郵政省の面子で始めた。家電産業の優位を守るという産業政策の側面が強く、消費者はカラー化のときのようにHDTVに飛びつくと考えていた。
Q. 業界は反対しなかったのか?
A. NHKはHDTV化を進めたかったので反対しなかったが、広告収入が増えないのに巨額の設備投資がかかる民放連は反対した。しかし郵政省が「国の助成金を、郵政省で何とかとるように考えます」と損失補填を約束したのでOKした、と氏家元民放連会長が証言している。
Q. 本当に4年後、停波できるのか?
A. どんなに楽観的に予測しても、2011年の段階で最低3000万台のアナログテレビが残る。しかも、この段階で残っている視聴者は年金生活者や独居老人などの「社会的弱者」で、テレビが災害情報などの唯一のライフラインになっている人が多いだろう。そういう人のテレビの電波を政府が無理やり止めるという決定が下せるだろうか。
Q. 停波の延長は避けられないということか?
A. 総務省も、すでにNHKや民放連と話し合っている。来年、次の免許更新があるので、そのとき一定の見通しが出るだろう。さしあたり1回(3年)延期して様子をみるといった政策がとられるのではないか。ただ延長するには、電波法の改正が必要なので、容易ではない。
Q. さらに国費投入はあるか?
A. すでに「難視聴対策」と称して100億円が支出されている。生活保護世帯には国費でチューナーを支給するといった案もあるようだが、放送を見るにはアンテナなど1世帯あたり3万円ぐらいかかる。生活保護を受けているのは100万世帯程度なので、これだけでも300億円かかるが、残りはどうするのか。また、そういう案が表に出ると買い控えが起こるので、今のところ政府は「無条件に止める」という公式見解を変えていない。
Q. なぜ無条件に2011年に止めると法律で決めたのか?
A. 郵政省は、もとは「85%がデジタルに移行した段階で止める」といった案を考えていた。しかしアナアナ変換に国費投入が必要になったため、2001年度予算で要求したところ、大蔵省に「民放の私有財産である中継局に税金を投入することは認められない。国民にとっての利益がない」と拒否された。そこで郵政省は「デジタル(UHF帯)に完全移行したら、VHF帯のアナログ放送を止めて移動体通信などに使えるので、電波の有効利用という国民的な利益がある」という理屈をひねり出した。これに対して大蔵省が「そんな口約束では、いつ止めるかわからない。何日までに必ず止めるという担保を出せ」と求めたため、そのときの電波法改正から10年後という日付を法律に書き込む異例の措置をとったのである。
要するに、最初から最後まで役所とテレビ局と電機メーカーの都合だけで計画を進めてきて、土壇場になって消費者がついてこないことに気づいてあたふたしている、という日本の産業政策の失敗の典型だ。くわしいことは、拙著『電波利権』をどうぞ。
グーグルが、700MHz帯の周波数オークションに参加する意思を正式に表明した。その条件として、従来のように電波を得た業者が特定の端末をユーザーに強制せず、MVNOに再販することなどをあげている。
グーグルは「自前で基地局を建設する気はない」とも表明しているので、いわば「地主」になって帯域を卸し売りするわけだ。これは、私が5年前のWPで提案したのとほぼ同じだ。日本の700MHz帯は、相変わらず密室で取引が続いているが、日本でもグーグルがパンチを出してはどうだろうか。
グーグルは「自前で基地局を建設する気はない」とも表明しているので、いわば「地主」になって帯域を卸し売りするわけだ。これは、私が5年前のWPで提案したのとほぼ同じだ。日本の700MHz帯は、相変わらず密室で取引が続いているが、日本でもグーグルがパンチを出してはどうだろうか。
大澤真幸氏のような観念論でナショナリズムを語っても意味がないのは、その実態が個々のケースでまったく違うからだ。その一例が、韓国の反日運動だ。植民地が独立したとき、ナショナリズムが高まることはよくあるが、英連邦をみてもわかるように、普通は旧宗主国と友好的な関係が維持されるもので、60年以上たっても反日運動が続いている韓国は異常である。
ソウル市の南にある「独立記念館」は、韓国の小学生が必ず遠足で訪れる施設だが、日本人が見たら気分が悪くなるような展示が並んでいる。日韓併合のコーナーには、抗日戦争で日本兵が韓国兵を大量に虐殺する巨大な立体展示があり、歴史を追って日本人が韓国人を拷問したり虐待したりする蝋人形が延々と並ぶ。このように日本人に収奪された「日帝36年」のために韓国の発展は遅れてしまった、というわけだ。
実際には、むしろ20世紀初頭の韓国では「日韓合邦」を主張する民間団体「一進会」が100万人もの会員を集め、皇帝や首相に合邦を求める請願書を出した。李氏朝鮮が破綻し、多くの餓死者が出ている状況を改革するには、一足先に明治維新を実現した日本の援助が必要だったからである。韓国政府でも、自力で近代化を行なうのは無理だと考える人々が主流だった。だから韓国併合条約は、両国の合意のもとに署名・捺印された正式の外交文書である。
もちろん、この背景には日本の圧倒的な軍事的優位があり、この「併合」が実質的には植民地支配だったことは事実である。しかし、もしも日本が撤退していたら李氏朝鮮は崩壊し、おそらく朝鮮半島はロシアに支配されていただろう。アジアにおける帝国主義戦争の焦点となっていた韓国が、わずか数千人の軍事力で独立を維持することは不可能だった。
また「日帝36年」の実態は、それほど過酷なものだったのだろうか。日韓併合された1910年には1300万人だった朝鮮の人口は、占領末期の1942年には2550万人に倍増し、この間に工業生産は6倍以上になった。ハーバード大学コリア研究所長エッカートの『日本帝国の申し子』は、「植民地時代の朝鮮の資本蓄積の90%は内地の資本によるものであり、戦後の韓国の驚異的な経済成長にも日帝時代の資本蓄積が大きな役割を果たした」と結論している。
日本が朝鮮や満州で行なった植民地支配は、一次産品を搾取した英仏などと異なり、インフラ投資を行って産業を育成するものだった。そのリターンを得る前に戦争に負けてしまったため、むしろ日本は「持ち出し」になったのである。ところが、閣僚が「日本は植民地時代にいいこともした」などと発言すると韓国政府が抗議し、野党や朝日新聞などがその尻馬に乗って更迭に追い込む、といった茶番劇が繰り返されてきた。
しかし韓国でも、ソウル大学の李栄薫教授が「暴力的民族主義が歴史論争を封殺している」などと発言するようになった。自国の問題を日本に責任転嫁して、公定ナショナリズムで「ガス抜き」しようとする点では、金正日も盧武鉉も同じようなものだ。もうそろそろ歴史を政治的に利用するのはやめ、客観的な歴史的事実を日韓共同で学問的に検証したほうがいいのではないか。
ソウル市の南にある「独立記念館」は、韓国の小学生が必ず遠足で訪れる施設だが、日本人が見たら気分が悪くなるような展示が並んでいる。日韓併合のコーナーには、抗日戦争で日本兵が韓国兵を大量に虐殺する巨大な立体展示があり、歴史を追って日本人が韓国人を拷問したり虐待したりする蝋人形が延々と並ぶ。このように日本人に収奪された「日帝36年」のために韓国の発展は遅れてしまった、というわけだ。
実際には、むしろ20世紀初頭の韓国では「日韓合邦」を主張する民間団体「一進会」が100万人もの会員を集め、皇帝や首相に合邦を求める請願書を出した。李氏朝鮮が破綻し、多くの餓死者が出ている状況を改革するには、一足先に明治維新を実現した日本の援助が必要だったからである。韓国政府でも、自力で近代化を行なうのは無理だと考える人々が主流だった。だから韓国併合条約は、両国の合意のもとに署名・捺印された正式の外交文書である。
もちろん、この背景には日本の圧倒的な軍事的優位があり、この「併合」が実質的には植民地支配だったことは事実である。しかし、もしも日本が撤退していたら李氏朝鮮は崩壊し、おそらく朝鮮半島はロシアに支配されていただろう。アジアにおける帝国主義戦争の焦点となっていた韓国が、わずか数千人の軍事力で独立を維持することは不可能だった。
また「日帝36年」の実態は、それほど過酷なものだったのだろうか。日韓併合された1910年には1300万人だった朝鮮の人口は、占領末期の1942年には2550万人に倍増し、この間に工業生産は6倍以上になった。ハーバード大学コリア研究所長エッカートの『日本帝国の申し子』は、「植民地時代の朝鮮の資本蓄積の90%は内地の資本によるものであり、戦後の韓国の驚異的な経済成長にも日帝時代の資本蓄積が大きな役割を果たした」と結論している。
日本が朝鮮や満州で行なった植民地支配は、一次産品を搾取した英仏などと異なり、インフラ投資を行って産業を育成するものだった。そのリターンを得る前に戦争に負けてしまったため、むしろ日本は「持ち出し」になったのである。ところが、閣僚が「日本は植民地時代にいいこともした」などと発言すると韓国政府が抗議し、野党や朝日新聞などがその尻馬に乗って更迭に追い込む、といった茶番劇が繰り返されてきた。
しかし韓国でも、ソウル大学の李栄薫教授が「暴力的民族主義が歴史論争を封殺している」などと発言するようになった。自国の問題を日本に責任転嫁して、公定ナショナリズムで「ガス抜き」しようとする点では、金正日も盧武鉉も同じようなものだ。もうそろそろ歴史を政治的に利用するのはやめ、客観的な歴史的事実を日韓共同で学問的に検証したほうがいいのではないか。
ナショナリズムは、現代の謎である。それは自由主義や共産主義のように一定の政治的な主張をもつ「主義」ではなく、ひとつのネーション(民族・国民)に所属しているという感情にすぎない。ところがアメリカのように「国民国家」ともいえない国が極端なナショナリズムを掲げて戦争に突入したり、民族とは関係のない「慰安婦」問題が日韓のナショナリズムを刺激したりする現状は、なかなか合理的には理解しにくい。
ただナショナリズムについては、教科書ともいうべき何冊かの本がある。ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』やエルネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』あたりがナショナリズムをフィクションとする主流の立場で、それをある程度自然な民族感情とする立場としては、アンソニー・スミス『ネイションとエスニシティ』といったところだろうか。
アンダーソン流の理解は、印刷資本主義によって各地の言語や文化が統合された「国語」を母体として「国民」という想像上の共同体が形成され、それを主権国家が「公定ナショナリズム」として利用して国民を戦争に動員した、というものだ。こうした古典的な理解では、国民国家は資本主義の上部構造なので、グローバル資本主義や地域紛争で主権国家の求心力が弱まると、ナショナリズムは衰退するはずだった。
ところが今おこっているのは、最初にのべたように変形したナショナリズムの高揚である。かつて宗教が占めていた座を20世紀にはイデオロギーが占め、それが崩壊した21世紀にはナショナリズムが占めることになるのだろうか。イスラム原理主義も、ある意味ではアラブ民族主義という意味でのウルトラ・ナショナリズムなのかもしれない。
・・・という程度のことは、ナショナリズムについて少し考えた人なら、だれでも思いつくだろうが、この877ページもある大冊に書かれているのは、この程度の既存の学説のおさらいにすぎない。ナショナリズムの入門書としても冗漫で繰り返しが多く、読みにくい。世界各地で大きく異なる問題を無理やり「ナショナリズム」一般の問題として観念的に論じているので、アンダーソンやゲルナーなどの引用が何度も出てくるばかりで、論旨が展開しない。しいていえば文献サーベイとしては意味があるかもしれないが、索引がないので事典としても使えない。
ただナショナリズムについては、教科書ともいうべき何冊かの本がある。ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』やエルネスト・ゲルナー『民族とナショナリズム』あたりがナショナリズムをフィクションとする主流の立場で、それをある程度自然な民族感情とする立場としては、アンソニー・スミス『ネイションとエスニシティ』といったところだろうか。
アンダーソン流の理解は、印刷資本主義によって各地の言語や文化が統合された「国語」を母体として「国民」という想像上の共同体が形成され、それを主権国家が「公定ナショナリズム」として利用して国民を戦争に動員した、というものだ。こうした古典的な理解では、国民国家は資本主義の上部構造なので、グローバル資本主義や地域紛争で主権国家の求心力が弱まると、ナショナリズムは衰退するはずだった。
ところが今おこっているのは、最初にのべたように変形したナショナリズムの高揚である。かつて宗教が占めていた座を20世紀にはイデオロギーが占め、それが崩壊した21世紀にはナショナリズムが占めることになるのだろうか。イスラム原理主義も、ある意味ではアラブ民族主義という意味でのウルトラ・ナショナリズムなのかもしれない。
・・・という程度のことは、ナショナリズムについて少し考えた人なら、だれでも思いつくだろうが、この877ページもある大冊に書かれているのは、この程度の既存の学説のおさらいにすぎない。ナショナリズムの入門書としても冗漫で繰り返しが多く、読みにくい。世界各地で大きく異なる問題を無理やり「ナショナリズム」一般の問題として観念的に論じているので、アンダーソンやゲルナーなどの引用が何度も出てくるばかりで、論旨が展開しない。しいていえば文献サーベイとしては意味があるかもしれないが、索引がないので事典としても使えない。
中越沖地震で衝撃的だったのは、柏崎原発で50件もの故障・破損が起きたことだ。しかも設計で想定されていたM6.5を超えるM6.8がほぼ直下で起きたとされている。テレビでは変圧器の火災が注目されていたが、危ないのは配管類だ。さらに恐いのは、制御系に問題が起きて原子炉が制御不能になることである。
今回は、さいわい地震と同時に運転が停止されたが、関係者がもっとも心配するのは浜岡原発だろう。なにしろ、こっちはM8以上の大地震が30年以内に80%以上の確率で起こるとされる東海地震の震源の真上に建っているのだから。現地のブログによれば、柏崎で観測された680ガルという加速度は、浜岡の設計値も上回るという。
本当かどうか知らないが、2年前には浜岡2号機の設計を担当した東芝の子会社の技術者から、東海地震が起きると「浜岡原発は制御不能になる」というという内部告発が行なわれた。彼によれば、
これに対して、中部電力は「安全性に問題はない」と反論したが、告発者が匿名であるため、これ以上くわしい議論は行なわれなかったようだ。炉心溶融が起こって首都圏のほうに風が吹いた場合は、数百万人の死者が出るとも予想されている浜岡原発が「姉歯状態」だとすれば大変なことだが・・・
今回は、さいわい地震と同時に運転が停止されたが、関係者がもっとも心配するのは浜岡原発だろう。なにしろ、こっちはM8以上の大地震が30年以内に80%以上の確率で起こるとされる東海地震の震源の真上に建っているのだから。現地のブログによれば、柏崎で観測された680ガルという加速度は、浜岡の設計値も上回るという。
本当かどうか知らないが、2年前には浜岡2号機の設計を担当した東芝の子会社の技術者から、東海地震が起きると「浜岡原発は制御不能になる」というという内部告発が行なわれた。彼によれば、
- 浜岡2号炉の耐震計算結果は地震に耐えられなかった
- 直下型地震が起こると核燃料の制御ができなくなる可能性がある
これに対して、中部電力は「安全性に問題はない」と反論したが、告発者が匿名であるため、これ以上くわしい議論は行なわれなかったようだ。炉心溶融が起こって首都圏のほうに風が吹いた場合は、数百万人の死者が出るとも予想されている浜岡原発が「姉歯状態」だとすれば大変なことだが・・・
先週、ある企業の幹部から「こういう会議に当社もおつきあいすることになったんですけど・・・」といって「ICT国際競争力会議」と題した冊子を見せられた。そこに並んでいるメンバーは、松下電器、KDDI、シャープ、富士通、ソフトバンク、ソニー、東芝、NHK、テレビ朝日、日立製作所、NEC、NTTなどの社長や会長で、議長は総務相だ。「こんな財界のコンセンサスで何かできると、役所はまだ思ってるんですかねぇ」と彼は溜息をついた。
こういうターゲティング政策は、特定の産業の業績が悪くなるとよく出てくるものだ。1990年代前半、米クリントン政権でも、商務省が半導体や自動車などの「国際競争力強化」のための産業政策を打ち出した。これに対して、ポール・クルーグマンは「競争力という危険な妄想」(Foreign Affairs, 1994)という有名な論文を書いて、こうした政策を批判した。そもそも国家に「競争力」などというものはない。競争しているのは個々の企業であって、政府が介入するのは有害無益である。特に彼のあげた問題点は、次の3つだ:
これに比べれば、同じ総務省でもモバイルビジネス研究会の出した報告書のほうが、具体的で説得力がある。国家に競争力というものはないが、企業活動のインフラにゆがみがある場合、それを是正する制度改革によって生産性を高めることはできるからだ。携帯の場合には、私が以前から指摘しているように、政府が「日の丸規格」を押しつけ、さらにキャリアが販売奨励金やSIMロックなどの垂直統合モデルで端末メーカーを下請け化してしまったことが、端末メーカーの競争力低下の原因だ。
こうした「パラダイス鎖国」が起こっているのは、携帯端末だけではない。いま話題になっている社保庁のシステムも、COBOLで書かれているため、修正できる要員がいないという。NTTが交換機を捨てる決め手になったのも「もうNTT規格の部品をつくるのは勘弁してください」とベンダーが泣きを入れたためだという。役所や銀行やキャリアが独自仕様で発注し、ベンダーはそれをコテコテにカスタマイズして囲い込む下請け構造を続けてきたため、サービス業と製造業の水平分業が成立していないのだ。だからサービス業の生産性もOECD諸国で最低水準であり、製造業からの転換が遅れている。
これを打開するために重要なのは、「国際競争力会議」の掲げているようなターゲティング政策ではなく、システムのオープン化や国際分業によってこの下請け構造を破壊し、新しい企業を参入させる新陳代謝である。そのためには野口悠紀雄氏もいうように資本市場を「開国」し、行政の介入ではなく資本の論理でだめな企業や経営者を追放する必要がある。海外の投資ファンドを根拠もなく「グリーンメーラー」呼ばわりする経産省の事務次官も、追放したほうがいいだろう。
こういうターゲティング政策は、特定の産業の業績が悪くなるとよく出てくるものだ。1990年代前半、米クリントン政権でも、商務省が半導体や自動車などの「国際競争力強化」のための産業政策を打ち出した。これに対して、ポール・クルーグマンは「競争力という危険な妄想」(Foreign Affairs, 1994)という有名な論文を書いて、こうした政策を批判した。そもそも国家に「競争力」などというものはない。競争しているのは個々の企業であって、政府が介入するのは有害無益である。特に彼のあげた問題点は、次の3つだ:
- 補助金の無駄づかいだ
- 無用な貿易摩擦を引き起こす
- 産業をミスリードする
これに比べれば、同じ総務省でもモバイルビジネス研究会の出した報告書のほうが、具体的で説得力がある。国家に競争力というものはないが、企業活動のインフラにゆがみがある場合、それを是正する制度改革によって生産性を高めることはできるからだ。携帯の場合には、私が以前から指摘しているように、政府が「日の丸規格」を押しつけ、さらにキャリアが販売奨励金やSIMロックなどの垂直統合モデルで端末メーカーを下請け化してしまったことが、端末メーカーの競争力低下の原因だ。
こうした「パラダイス鎖国」が起こっているのは、携帯端末だけではない。いま話題になっている社保庁のシステムも、COBOLで書かれているため、修正できる要員がいないという。NTTが交換機を捨てる決め手になったのも「もうNTT規格の部品をつくるのは勘弁してください」とベンダーが泣きを入れたためだという。役所や銀行やキャリアが独自仕様で発注し、ベンダーはそれをコテコテにカスタマイズして囲い込む下請け構造を続けてきたため、サービス業と製造業の水平分業が成立していないのだ。だからサービス業の生産性もOECD諸国で最低水準であり、製造業からの転換が遅れている。
これを打開するために重要なのは、「国際競争力会議」の掲げているようなターゲティング政策ではなく、システムのオープン化や国際分業によってこの下請け構造を破壊し、新しい企業を参入させる新陳代謝である。そのためには野口悠紀雄氏もいうように資本市場を「開国」し、行政の介入ではなく資本の論理でだめな企業や経営者を追放する必要がある。海外の投資ファンドを根拠もなく「グリーンメーラー」呼ばわりする経産省の事務次官も、追放したほうがいいだろう。
新品はタダでもらえるが、それを中古品市場で数百億円で売れるものをご存じだろうか。電波の免許である。周波数は、最初に割り当てるときは美人投票とよばれる書類審査によって、政府が事実上タダで割り当てるが、その割当を受けた会社は、企業買収という形で免許を高く売れるのだ。きょう報道されたNextWave(*)によるアイピーモバイルの買収は、そういう話だ。
実は、こういう闇市場(上品に表現すればsecondary market)は、電波の世界には昔から存在する。かつて全国にたくさんあったポケットベルの会社がどうなったか、ご存じだろうか。ほとんどは携帯電話会社に買収され、その周波数はドコモやKDDIに使われているのだ。ソフトバンクのボーダフォン買収も、形式的には企業買収だが、実質的には免許の買収だ。
闇市場は、相撲の親方株や個人タクシーの免許など、他の業界にも昔からあるが、こんな方法が通るのなら、美人投票は意味がない。アイピーモバイルが免許を取ったときは、他の事業者との比較審査で選ばれたわけだが、新たに経営者になるといわれるNextWaveは審査を受けていないからだ。これは森理世さんが受けたミス・ユニバースの称号を他の人が買収するようなものだ。
こういう奇妙な現象が起こるのは、日本の電波政策がいまだに行政の裁量で電波利権を配給する電波社会主義を続けているからだ。官僚がいくら入念に審査しても、情報の非対称性があるかぎり、アイピーモバイルのようなモラル・ハザードは防げない。(公式の)第一市場がないのに第二市場があるというのは、ロシアやイタリアなどのマフィア経済の特徴だ。これ以上、電波資源の配分をゆがめないためにも、周波数オークションを含めた電波政策の抜本改正が必要である。
(*)このNextWaveも、周波数オークションで免許は取ったものの資金繰りが行き詰まって、いったん破産した企業だ。くわしい解説は、そのうち海部美知さんから出るだろう。
実は、こういう闇市場(上品に表現すればsecondary market)は、電波の世界には昔から存在する。かつて全国にたくさんあったポケットベルの会社がどうなったか、ご存じだろうか。ほとんどは携帯電話会社に買収され、その周波数はドコモやKDDIに使われているのだ。ソフトバンクのボーダフォン買収も、形式的には企業買収だが、実質的には免許の買収だ。
闇市場は、相撲の親方株や個人タクシーの免許など、他の業界にも昔からあるが、こんな方法が通るのなら、美人投票は意味がない。アイピーモバイルが免許を取ったときは、他の事業者との比較審査で選ばれたわけだが、新たに経営者になるといわれるNextWaveは審査を受けていないからだ。これは森理世さんが受けたミス・ユニバースの称号を他の人が買収するようなものだ。
こういう奇妙な現象が起こるのは、日本の電波政策がいまだに行政の裁量で電波利権を配給する電波社会主義を続けているからだ。官僚がいくら入念に審査しても、情報の非対称性があるかぎり、アイピーモバイルのようなモラル・ハザードは防げない。(公式の)第一市場がないのに第二市場があるというのは、ロシアやイタリアなどのマフィア経済の特徴だ。これ以上、電波資源の配分をゆがめないためにも、周波数オークションを含めた電波政策の抜本改正が必要である。
(*)このNextWaveも、周波数オークションで免許は取ったものの資金繰りが行き詰まって、いったん破産した企業だ。くわしい解説は、そのうち海部美知さんから出るだろう。
毎年おなじみのTime誌の特集だが、今年の特徴はアマゾンやグーグルなどの定番サイトを別枠にし、新しいサイトだけをリストアップしたことだ。そのためベスト5には、なじみのない名前が並んでいる:
- Weebly.com
- Last.fm
- OhDon'tForget.com
- Chow.com
- NowPublic.com
追記:TBで思い出したが、Second Lifeがワースト5に入っている。私も同感だ。何がおもしろいのか、さっぱりわからない。
イノベーションと起業家精神が成長率を決めるという視点から資本主義を
1. 起業家型(アメリカ)
2. 大企業型(欧州・日本)
3. 政府主導型(中国・韓国・東南アジア)
4. 寡頭型(ロシア・中南米)
の4類型にまとめたもの。容易に想像されるように、この順に望ましいという話なのだが、1だけでは大量生産型の産業には対応できないので、1と2の組み合わせがベストである――という結論だ。しかし日本が2に分類されているのは疑問だ(日本の平均的な企業規模はアメリカより小さい)し、3と4の違いもはっきりしない。
一般向けの本なので、理論的な先行研究にはほとんどふれていない。内生的成長理論に3ページほど言及しただけで、契約理論も制度分析も法起源論も出てこない。特に、なぜ起業家精神が成長率を引き上げるのか、という肝心の問題に答えないで、統計データや政策提言を並べるだけなので、はぐらかされたような印象を受ける。
ただ、いろいろな見方や多くのデータをバランスをとって紹介しているので、「イノベーション」を看板とする安倍政権の教科書としては便利だろう。特に「知財立国」で成長率が高まると信じ込んでいる官僚や法律家には読んでほしいものだ。本書のデータでは、知的財産権の強さは生産性とも成長率とも相関はなく、アメリカの異常に広範囲で曖昧な特許制度がむしろイノベーションを阻害している、と指摘されている。
1. 起業家型(アメリカ)
2. 大企業型(欧州・日本)
3. 政府主導型(中国・韓国・東南アジア)
4. 寡頭型(ロシア・中南米)
の4類型にまとめたもの。容易に想像されるように、この順に望ましいという話なのだが、1だけでは大量生産型の産業には対応できないので、1と2の組み合わせがベストである――という結論だ。しかし日本が2に分類されているのは疑問だ(日本の平均的な企業規模はアメリカより小さい)し、3と4の違いもはっきりしない。
一般向けの本なので、理論的な先行研究にはほとんどふれていない。内生的成長理論に3ページほど言及しただけで、契約理論も制度分析も法起源論も出てこない。特に、なぜ起業家精神が成長率を引き上げるのか、という肝心の問題に答えないで、統計データや政策提言を並べるだけなので、はぐらかされたような印象を受ける。
ただ、いろいろな見方や多くのデータをバランスをとって紹介しているので、「イノベーション」を看板とする安倍政権の教科書としては便利だろう。特に「知財立国」で成長率が高まると信じ込んでいる官僚や法律家には読んでほしいものだ。本書のデータでは、知的財産権の強さは生産性とも成長率とも相関はなく、アメリカの異常に広範囲で曖昧な特許制度がむしろイノベーションを阻害している、と指摘されている。
JR東日本が、松崎明をリーダーとする革マル(JR東労組)に乗っ取られている実態を明らかにした『週刊現代』の連載をまとめた本。関係者には周知の事実だが、それがようやく講談社という大手出版社から出たことが画期的だ。
私の学生時代にも、私が部長だったサークル(社会科学研究会)で、革マルのメンバーが内ゲバで4人も殺された。念のためいっておくと、社研は(東大教授の)吉川洋氏も部長をつとめたアカデミックなサークルで、私自身も党派と無関係だったが、当時は革マルが駒場を拠点にしていたため、中核と革労協にねらわれたのだ。
この事実からもわかるように、革マルは内ゲバの被害者になることが多く、武闘集団としては大して強くない。その組織実態も数百人であり、資金的にも朝鮮総連といい勝負だろう。それなのにJR東日本のような大企業が彼らのリンチを放置し、松崎が会社や組合の金を横領してハワイに別荘を建てるのを黙認し、それを批判する週刊誌を駅の売店から引き上げるといった常軌を逸した対応を行なうのは、革マルが命をねらうテロリストだからだろう。
警察も、こうしたテロを本気で捜査してこなかった。極左集団どうしが殺しあうのは(堅気の人が誤爆されないかぎり)手間が省けていいし、彼らを社会から孤立させるからだ。これは一時期までの暴力団への対応と同じだが、こうした日本的な「テロとの共存」は、もう許されなくなった。世界的なテロとの闘いの一翼をになう安倍政権の意を受けて、警察も強制捜査を始めたが、本丸の松崎にはまだ捜査の手は及んでいない。
救いがたいのは、命がけでこういう報道を行なうのが週刊誌だけという現状だ。かつて暴力団の撲滅キャンペーンを張った新聞は、何をしているのか。
私の学生時代にも、私が部長だったサークル(社会科学研究会)で、革マルのメンバーが内ゲバで4人も殺された。念のためいっておくと、社研は(東大教授の)吉川洋氏も部長をつとめたアカデミックなサークルで、私自身も党派と無関係だったが、当時は革マルが駒場を拠点にしていたため、中核と革労協にねらわれたのだ。
この事実からもわかるように、革マルは内ゲバの被害者になることが多く、武闘集団としては大して強くない。その組織実態も数百人であり、資金的にも朝鮮総連といい勝負だろう。それなのにJR東日本のような大企業が彼らのリンチを放置し、松崎が会社や組合の金を横領してハワイに別荘を建てるのを黙認し、それを批判する週刊誌を駅の売店から引き上げるといった常軌を逸した対応を行なうのは、革マルが命をねらうテロリストだからだろう。
警察も、こうしたテロを本気で捜査してこなかった。極左集団どうしが殺しあうのは(堅気の人が誤爆されないかぎり)手間が省けていいし、彼らを社会から孤立させるからだ。これは一時期までの暴力団への対応と同じだが、こうした日本的な「テロとの共存」は、もう許されなくなった。世界的なテロとの闘いの一翼をになう安倍政権の意を受けて、警察も強制捜査を始めたが、本丸の松崎にはまだ捜査の手は及んでいない。
救いがたいのは、命がけでこういう報道を行なうのが週刊誌だけという現状だ。かつて暴力団の撲滅キャンペーンを張った新聞は、何をしているのか。
安倍首相は、年金・医療保険に関する情報を総合的に把握するための「社会保障番号」を導入する方針を表明した。かつて住基ネットのときはあれほど「国民総背番号」に騒いだメディアが、今度は当然のようにこれを報じている。もう忘れた人も多いようなので、当時どれほどヒステリックな騒ぎが起こったかを思い出してみよう。
これが官僚のトラウマとなって、国民ひとりに一つの番号をつける「ナショナルID」はタブーとなり、各省庁でばらばらに番号化が始まった。基礎年金番号は自治労のサボタージュで5000万件もの未処理が残り、住基ネットの機能は旧自治省の事務合理化に限定されたため無用の長物となり、納税者番号はたびたび政府税調で答申されながら先送りされ、結果として膨大な脱税と年金の支給不足が生じた。
また今度も、住基データとは別に社会保障番号が導入される方向で、それとは別に納税者番号が検討されているが(*)、このように官庁の縦割りでバラバラに国民の個人情報を管理することは、セキュリティの点でもコストの点でも問題がある。厳重に(年間200億円もかけて!)管理・警備されている住基データを抜本的に改正し、各官庁の共有データとして社会保障にも納税にも利用するほうが効率的だ。
(*)実は税務署の内部では、すべての納税者に番号が振られている。KSKという税務署のシステムはそれで動いているのだが、この納税者番号は利子や配当などの総合課税には使えないので、捕捉率の向上には役立たない。
- オンライン化にともない「国民総背番号」「納税者番号」などの問題に結びつけることは、社会保険庁としては考えていない。――社会保険庁と自治労国費協議会の確認事項(1979)
- グリーンカードは"国民総背番号制"で、これを実施すれば国民のプライバシーが侵害され、管理を嫌う巨大な資金が海外に流出する。――金丸信・自民党元副総裁(1983)
- 国民に対する権力の監視の目を厳しくする法案として民主党が盗聴法とともに問題としているものに、住民基本台帳法、いわゆる国民総背番号法があります。――枝野幸男・民主党元政調会長(1999)
- [国民総背番号がなくて]現状の非効率な行政システムがいつまでも続いても、多くの人は一向にかまわないのです。――山形浩生(2001)
- 牙をむく国民総背番号制で裸にされるあなたの私生活――臺宏士・毎日新聞記者(2001)
- 個人の統一的管理システムの構築を認めない。――日弁連「 自己情報コントロール権を情報主権として確立するための宣言」(2002)
- 私は番号になりたくない。――櫻井よしこ(2002)
これが官僚のトラウマとなって、国民ひとりに一つの番号をつける「ナショナルID」はタブーとなり、各省庁でばらばらに番号化が始まった。基礎年金番号は自治労のサボタージュで5000万件もの未処理が残り、住基ネットの機能は旧自治省の事務合理化に限定されたため無用の長物となり、納税者番号はたびたび政府税調で答申されながら先送りされ、結果として膨大な脱税と年金の支給不足が生じた。
また今度も、住基データとは別に社会保障番号が導入される方向で、それとは別に納税者番号が検討されているが(*)、このように官庁の縦割りでバラバラに国民の個人情報を管理することは、セキュリティの点でもコストの点でも問題がある。厳重に(年間200億円もかけて!)管理・警備されている住基データを抜本的に改正し、各官庁の共有データとして社会保障にも納税にも利用するほうが効率的だ。
(*)実は税務署の内部では、すべての納税者に番号が振られている。KSKという税務署のシステムはそれで動いているのだが、この納税者番号は利子や配当などの総合課税には使えないので、捕捉率の向上には役立たない。
違法ダウンロードのおかげでレコード産業は衰退していると主張しているが、ワーナー・ミュージックのブロンフマン会長によれば、「音楽産業は成長している」という。北米のコンサートの売り上げは2000年の17億ドルから昨年は31億ドルと倍増し、ミュージシャンの収入源の2/3はコンサートになった。
これは明らかに、オンライン配信によって音楽にふれる機会が増えたためだろう。今週プリンスは、次のアルバム"Planet Earth"をMail on Sunday紙で無料配布すると発表した。世界でもっとも稼ぐミュージシャンである彼にとっても、コンサートが最大の収入源であり、CDはもはやプロモーションの手段なのだ。
音楽は、もともと生で聴衆のために音楽家が演奏する「経験」を提供するサービスだった。CDというパッケージは、その代用品にすぎない。これからは、人々がステージやオンラインで演奏を聞く自然な形に戻るのかもしれない。
立花隆氏が、故・宮沢元首相にインタビューしたときの印象について興味深い記事を書いている。
ところが日本では、宇沢弘文氏や浜田宏一氏などのケインズ派が主流で、シカゴ派は皆無だった。宇沢氏は「合理的期待をやっている奴は水際で止める」と公言し、浜田氏(私のゼミの先生)は「上野の駅前には失業者がたくさんいる。フリードマンにはそういう人々への同情がない」と嘆いていた。そういうパターナリズムが「良心的知識人」の証しだったのだ。
彼らの論敵はシカゴ派ではなく、大蔵省の均衡財政主義だった。日本の戦後の財政は、好況のときは財政を緩和し、不況になると緊縮財政をとるpro-cyclical政策だった。それに対してケインズ派が「内国債は将来世代の負担にならない」と説得していた。つまりアメリカでは1930年代に終わった論争を、日本ではその50年後にやっていたわけだ。
そうこうしているうちに「円高不況」がやってきた。これに対して大蔵省は、またも緊縮財政でのぞみ、ケインズ派は金融緩和を主張した。その結果が資産バブルだった。そしてバブル崩壊後の1991年に首相に就任したのが、日本国民にとって不運なことに、ケインズ派の宮沢氏だったのである。
彼の持論は「資産倍増論」で、日本は社会資本が不足しているので、インフラ投資で景気も回復させようというものだった。先進国でケインズ政策が否定された中で、日本だけがジャブジャブの財政出動を行なったのだ。この政策は、彼が小渕内閣で蔵相に起用されたときまで続き、先進国で最悪の財政赤字をつくっただけで、不況脱出には何の役にも立たなかった。
立花氏によれば、宮沢氏は最後まで、自分がどこで間違ったのかわからなかったようだ。彼は、賢明なエリートが国民を導かなければならないというHarvey Roadの前提を信じていた。たしかに宮沢氏は聡明だったのだろう。しかし市場経済は、彼よりもはるかに賢明に問題を自律的に解決できるようになったのだ。彼は聡明であるがゆえに、最後までそれに気づかなかった。
[立花氏が]「ひと昔前なら経済財政政策は、ケインズ理論にのっとってやっていれば、まちがいなかった。だけど、いまはもうそういう時代じゃないでしょう。いまはどういうプリンシプルにもとづいて経済を運営しているんですか」これは1980年、前年にサッチャー英首相が就任し、翌年にはレーガン米大統領が誕生し、反ケインズ政策が流行していたときの話だ。経済学の世界でも、フリードマンの「自然失業率」理論がケインズ的な財政政策の無効性を証明し、ルーカスの「合理的期待」理論によって「ケインズ派vsシカゴ派」の論争はほぼ終わっていた。
と聞いた。すると、この質問を聞くまでは、丁寧にいろんな質問に答えていた宮沢が、突然表情を変えて、キッとなった。
「いえ、ケインズ政策の時代が終わったなんてことはありません。いまでもぼくはケインズ理論が基本的にいちばん正しいと思っています。ケインズに代わる理論はありません」
ところが日本では、宇沢弘文氏や浜田宏一氏などのケインズ派が主流で、シカゴ派は皆無だった。宇沢氏は「合理的期待をやっている奴は水際で止める」と公言し、浜田氏(私のゼミの先生)は「上野の駅前には失業者がたくさんいる。フリードマンにはそういう人々への同情がない」と嘆いていた。そういうパターナリズムが「良心的知識人」の証しだったのだ。
彼らの論敵はシカゴ派ではなく、大蔵省の均衡財政主義だった。日本の戦後の財政は、好況のときは財政を緩和し、不況になると緊縮財政をとるpro-cyclical政策だった。それに対してケインズ派が「内国債は将来世代の負担にならない」と説得していた。つまりアメリカでは1930年代に終わった論争を、日本ではその50年後にやっていたわけだ。
そうこうしているうちに「円高不況」がやってきた。これに対して大蔵省は、またも緊縮財政でのぞみ、ケインズ派は金融緩和を主張した。その結果が資産バブルだった。そしてバブル崩壊後の1991年に首相に就任したのが、日本国民にとって不運なことに、ケインズ派の宮沢氏だったのである。
彼の持論は「資産倍増論」で、日本は社会資本が不足しているので、インフラ投資で景気も回復させようというものだった。先進国でケインズ政策が否定された中で、日本だけがジャブジャブの財政出動を行なったのだ。この政策は、彼が小渕内閣で蔵相に起用されたときまで続き、先進国で最悪の財政赤字をつくっただけで、不況脱出には何の役にも立たなかった。
立花氏によれば、宮沢氏は最後まで、自分がどこで間違ったのかわからなかったようだ。彼は、賢明なエリートが国民を導かなければならないというHarvey Roadの前提を信じていた。たしかに宮沢氏は聡明だったのだろう。しかし市場経済は、彼よりもはるかに賢明に問題を自律的に解決できるようになったのだ。彼は聡明であるがゆえに、最後までそれに気づかなかった。