池田信夫 blog

Part 2

June 2007

2007年06月30日 12:44

記号と事件

本書は、ドゥルーズの死の直前に出た訳書の文庫化だが、彼の多くの本の中で最初に読む本としていいだろう。それは『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』などの内容が対話調でやさしく語られているだけでなく、むしろ最晩年の彼がそうした過去の議論を否定しているからだ。
フーコーは、規律社会と、その主たる技法である「監禁」の思想家とみなされることが多い。しかし、じつをいうと、フーコーは、規律社会とは私たちがそこから脱却しようとしている社会であり、規律社会はもはや私たちとは無縁だということを述べた先駆者のひとりなのです。(単行本p.288)
「監視社会」の恐怖を煽り、「プライバシー」なる幻想を振り回すおめでたい人々は、全知全能の「ビッグブラザー」が国民を監視していると思い込んでいるのだろう。しかし年金問題で露呈したのは、ビッグブラザーのお笑い的な実態だ。むしろ問題は、社会に流通する膨大な情報をだれも管理できなくなっていることなのだ。
19世紀の資本主義は生産を目標に据え、所有権を認めた上で集中化を実施する。だから工場を監禁環境に仕立て上げたのだ。[しかし]現在の資本主義は本質的に分散性であり、またそうであればこそ、工場がオフィスに席を明け渡したのである。市場の形成は管理の確保によっておこなわれ、規律の形成はもはや有効ではなくなった。(単行本p.298)
この脱コード化する資本を主権国家のパノプティコンのもとに再コード化しようとする「知的財産戦略」は、爆発的に超分散化するデジタル情報の遠心力によって挫折するほかない。それよりも重要なのは、ミクロ的にわれわれを支配するメディアの力とのゲリラ的な闘い(原題は『交渉』Pourparlers)である。晩年の著者は『マルクスの偉大さ』という本を書こうとしていたといわれるが、マルクスのいうように資本主義はみずからそれを否定するものを生み出しているのかもしれない。
朝鮮総連の事件は意外な方向に発展したが、これは単なる詐欺事件にとどまらない。それよりも深刻なのは、日本のインテリジェンスの水準がこの程度だということを世界にさらしてしまったことだ。

小谷賢氏によれば、日本のインテリジェンスには戦前から大きな欠陥があったが、戦後むしろ状況は悪化したという。第5次吉田内閣で「内閣情報部」をつくろうという提案が出たとき、「新聞やラジオはすぐに戦争中の情報局を想定して、また報道や世論の干渉を目論んでいるのではないかと一斉に反対し」、立ち消えになってしまった(『日本軍のインテリジェンス』p.216)。インテリジェンスが戦前の憲兵や特高と同一視されているため、いまだに日本には総合的な情報機関がない。

特に深刻なのは、今回のような偽情報(disinformation)に弱いことだ。公安調査庁の仕事は、あまりハイテク機器が役に立たないので、古典的なhumint(要するにスパイ)が主であり、だれが信用できるかを見定めるのが仕事のすべてといってもよい。そのトップにあった人物が、満井忠男のような札つきの詐欺師を信用したというのは信じがたい。

今回の事件でもう一つ特徴的なのは、総連側の代理人が「慰安婦問題の立法解決を求める会」の会長をつとめる土屋公献氏(元日弁連会長)だったことだ。彼は、かつて「拉致問題は日本政府のでっち上げだ」と主張していた。つまり今や情報も偽情報も、ほとんどはこうして公然と流されているのだ。したがってインテリジェンスは広報・宣伝活動と表裏一体なのだが、公安警察や内閣情報調査室などには情報発信機能がなく、大部分の官庁には広報室という組織さえない。CIAが(よくも悪くも)大規模な謀略活動を行なっているのと対照的だ。

慰安婦問題でも、中国・韓国ロビーが米議会に流した大量の偽情報に対して、counter-intelligenceが機能した形跡がない。それどころか外務省は、今回も「謝れば片づく」という日本的感覚で安倍首相に謝罪させ、それが「日本は罪を認めた」という印象を海外に与えて、かえって問題を拡大してしまった。小谷氏の指摘するように、戦略的インテリジェンスの欠如が場当たり的な「短期決戦主義」を生んだ日本軍の欠陥が今も継承されているのだ。

今回の事件を教訓にして、政府は役立たずの公安調査庁を廃止し、情報機関を統合して戦略的インテリジェンス体制を整備し、「攻めのインテリジェンス」を構築すべきだ。情報戦においても、攻撃は最大の防御である。
デジタルコンテンツがインターネット上を豊富に流通し、通信と放送の融合が進められる今こそ、著作権の扱いについて、根本に戻って考え直す必要があるだろう。

この再考の過程では、著作物を創造するという重要な役割を担う、著作者が何をインセンティブとして創作に取り組んでいるかを知ることが不可欠である。そこで、今回は作家の三田誠広氏をお招きし、そのお考えを伺うことにした。

テーマ:「著作者は著作権をどのように捉えているか」
スピーカー:三田誠広(作家・日本文藝家協会副理事長・著作権問題を考える創作者団体協議会議長)
モデレーター:山田肇(ICPF事務局長・東洋大学教授)

日時:7月24日(火)18:30~20:30
場所:東洋大学・白山校舎・2号館16階スカイホール 
   東京都文京区白山5-28-20 キャンパスマップ
入場料:2000円 ICPF会員は無料(会場で入会できます)

氏名・所属を明記して、電子メールでICPF事務局info@icpf.jpまでお申し込みください。先着順100名で締め切ります。
朝日新聞東京本社編集局長 外岡秀俊様

当ブログの4月1日付の記事を読んでいただいたそうで、ありがとうございます。実は、私はあなたと同い年で大学も同じで、あなたの1年後に朝日新聞から内定をもらいました。それを断ったとき、人事担当者に「去年の外岡君は文芸賞をもらったが、当社に入社した。自由に仕事ができる」と説得されたことを覚えています。そのころは私も「朝日文化人」の卵だったわけです。

そういう「進歩派」はNHKにも多く、世間で思われているほどNHKは(政治的には)保守的なメディアではありません。特に毎年8月になると、終戦記念番組で反戦平和を訴えるのが定番でした。私も1991年に終戦企画を担当し、取材班は国内と韓国で1ヶ月にわたって「強制連行」の取材をしました。当時のわれわれも「軍が朝鮮人の首に縄をつけて引っ張ってきた」という証言をさがしたのです。

しかしそういう証言は、数十人の男女の中で1人もなく、出てきたのは「高給につられて出稼ぎに行ったら、タコ部屋に入れられて逃げられなかった」といった話ばかりでした。ただし慰安婦については、初めて金学順という老婆が実名で出てきて、大きなニュースになりました。このときNHKの番組で彼女は「親にキーセンに売られ、養父に連れられて慰安所に行った」と証言しました。

ところがその年の12月に起こされた国家賠償訴訟では、彼女は軍に「強制連行」されたことにされました。そして、この訴訟を応援するかのように「国家の関与を証明」したのが、朝日新聞の1992年1月11日の記事です。これについては4月1日の記事に書いたとおり誤報だったことは明白であり、「歴史認識」の検証を掲げる朝日新聞が、この問題の検証を避け、社説で「枝葉の問題だ」などと逃げているのは、誠実な態度とは思われません。

国内では、この問題についての事実関係は、ほぼ決着がついたと思います。先日の意見広告でもいうように、売春を強制するよう命じた軍の文書は1枚もありません。慰安婦の「証言」がいくらあろうと、軍命の証拠にはなりません。気の毒な公娼の身の上話にすぎない。これは枝葉の問題ではありません。国家賠償訴訟においては、「公権力の行使」があったかどうかは最大の争点です。

きのう米下院外交委で、慰安婦非難決議が可決されました。このままでは本会議でも、可決される可能性が高いようです。朝日新聞は、この決議への論評を避けていますが、「日本軍が慰安婦を性奴隷にして売春を強制し、強姦や堕胎や自殺に至らしめた20世紀最大の人身売買」を非難するこの決議に賛成するのですか。戦後60年以上たって、こんな荒唐無稽な決議が出てくる責任の一端が朝日新聞にあることを認識しておられるでしょうか。

政府があきらめてしまった以上、こうした海外の誤解を是正できるのは、朝日新聞だけです。朝日の若い記者にも私の意見に賛成する人が多く、「慰安婦問題は一度、けじめをつけたほうがいい」と言っています。あなたも私も、もう贖罪意識やナショナリズムにこだわる世代ではないでしょう。これまでの行きがかりを捨て、この決議案が本会議で採決される前に、慰安婦問題についての歴史的な事実を(社説ではなく)記事で実証的に検証してはいかがでしょうか。

敬具


2007年06月27日 01:09
経済

知財戦略の天動説

きのうのICPFセミナーでは、知的財産戦略本部の大塚拓也氏に「知的財産推進計画2007」について話を聞いた。4年前に出た最初の計画については、私もコメントしたことがあるが、今回の計画の発想もそれとほとんど変わらない。

この計画の最大の勘違いは、依然としてマスメディアが集権的にコンテンツを配信する天動説型の情報流通モデルに依拠していることだ。コンテンツ流通を促進するといいながら、その障害になっている著作権の緩和(登録制や報酬請求権化)には「権利者の反対が強い」という。私が「その権利者とは誰か。文芸家協会の会員は2500人だが、ブロガーは800万人以上いる。この著作者の圧倒的多数は、表現の自由を侵害する著作権の強化に反対だ」というと、大塚氏は「そういう視点は、今回の計画には抜けている」と率直に認めた。

計画文書には、しきりに「コンテンツ産業の市場規模はGDPの**%」という類の話が出てくるが、情報の価値を市場価値だけで測るのは間違いだ。通常の財は市場を通さないと流通できないので、その価値は市場価格としてGDP統計に出てくるが、情報はネットワークで「物々交換」されるので、その価値(効用)は必ずしも金銭で表示されない。情報のネットの価値は、効用の積分値からコストを引いた社会的余剰であらわされるが、インターネットによって情報流通コストは劇的に低下したので、GDPベースでは小さくなる。これが「コンピュータはどこにでもあるが、GDP統計にだけはない」というソローの有名な言葉の意味だ。

したがってブログなどで流通しているデジタル情報の価値が金銭で表現できないということは、それに価値がないことを意味しない。むしろ情報流通コストが低くなった分だけ、社会的余剰ははるかに大きくなったと考えられる。今後の情報産業のフロンティアは、こうしてユーザーによって生み出されている膨大な情報の価値を、グーグルのように情報をオープンにすることで取り込み、金銭ベースの価値に変換していくことだろう。

ところが今回の「知財計画」は、こうした世界のビジネスの流れに逆行して、情報を「知的財産権」で囲い込んで放送局やJASRACの既得権を守り、「アニメを輸出してアメリカに追いつけ」と旗を振る。まるで1960年代の輸出振興政策だ。いったい何度おなじ失敗を繰り返したらわかるのだろうか・・・
2007年06月26日 02:19

The Black Swan

ふつう自然科学や経済学で確率を考える場合、ほとんど正規分布を仮定している。しかし実際に世界を動かしているのは、そういう伝統的な確率論で予測できない極端な出来事――Black Swanである。

たとえば9・11の前に、今のように厳重なセキュリティ・チェックが提案されても通らなかっただろう。飛行機ごとビルに突っ込むという行動は、人々の確率論的なリスク評価の枠外にあったからだ。このように、いわばメタレベルで人々の予想を裏切る現象がBlack Swanである。ここでは母集団が未知なので、その確率分布もわからない。圧倒的多数の出来事はごくまれにしか起こらないので、その分布は非常に長いロングテール(ベキ分布)になる。

著者がBlack Swanを理解していた唯一の経済学者として挙げるのがハイエクだが、実は彼より前にこの問題をテーマにした本がある。Frank Knightの"Risk, Uncertainty, and Profit"(1921)である(ウェブサイトで全文が公開されている)。Knightは、確率分布のわかっているリスクと確率分布を計算する根拠のない不確実性を区別し、リスクは保険などで事務的に解決できるが、不確実性は経営者の決断によって解決するしかないとした。

その後の経済学者は、Knightの議論を「意味論的な思弁」としてバカにし、根拠もなく正規分布を仮定して、壮大な理論体系を構築してきた。ところが皮肉なことに、その後の確率論の進歩と膨大な実証データによって、こうした「疑似科学」的な理論が否定されようとしている。著者は数理ファイナンスの専門家だが、Black-Scholesに代表される金融工学を、観念的で役に立たない「プラトン的モデル」と一蹴する。

ではBlack Swanを予測する理論はあるのだろうか? それは「予測不可能な現象」という定義によってありえない。複雑な世界には、すべてを説明する「大きな物語」はなく、個別の実証データにもとづく「小さな物語」を積み重ねるしかないのだ。
2007年06月25日 01:11
IT

清く貧しく美しく?

渡辺千賀さんの「日本は世界のブラックホールか桃源郷か」という記事を読んで、また小姑モードでコメントしたくなった。
「外貨をそれほど稼がずとも、自立して清く貧しく美しく、割と幸せに生きる」
マクロ経済素人が考えることなので、まぁダメダメかもしれないが、本当にシュミレーションしてみたら面白いんじゃないかなぁ、と思うんですよね。
幸か不幸か、日本のIT産業は、今そういうシミュレーションをやっている最中だ。特にひどいのは、渡辺さんおすすめのように世界から完全に孤立した携帯電話業界で、日本メーカーの世界市場シェアは、全部あわせても(外資と合弁のソニー・エリクソンを除くと)5%ほどしかない。おかげで各社とも青息吐息で、さすがに総務省も見かねてSIMロックの規制に腰を上げた。

携帯以外の通信機器も、ながく「NTT規格」で鎖国してきたおかげで、インターネット機器は壊滅状態。今ではNTTのNGNエッジルータでさえ、中身はシスコという有様だ。NTT規格で非関税障壁を設けるしくみは、かつては一種の産業政策として機能していたが、それが今では業界を破滅の渕に追い詰めているのだ。

「ITゼネコン」と呼ばれる大手コンピュータ・メーカーの経営実態もボロボロ。かつて高い競争力を誇った家電メーカーも、ソニーやビクターや三洋など、軒並み沈没だ。こういうことになったのは、日本市場というほどほどに大きな「桃源郷」に安住してきたためだ。渡辺さんもご存じ(だと思う)の海部美知さんは、これを「パラダイス鎖国」と命名した。

経済学的にいうと、この原因は大きくわけて二つある。一つは、インターネットによって情報機器の市場がグローバル化し、規模の経済(収穫逓増)が大きくなって国際的再編が進んでいるのに、日本のメーカーは世界の資本市場から隔離されているため、企業買収・再編の流れから取り残され、過少規模・低収益のメーカーが多数のこっている。たとえば携帯電話メーカーは、海外市場では主要メーカーは5社しかないのに、日本だけで9社もある。

もう一つは、メーカーが官庁・銀行・キャリアなどのドメスティック規格で下請け・孫請け構造に組み込まれているため、グローバルな最終財市場の競争にさらされないことだ。こういう大口の法人契約では大きく成長することはできないが、そこそこの利益が確実に上げられるため、技術革新を追求するよりもレガシーシステムで囲い込んで末ながく食い物にしようというインセンティブが働きやすい。

だから、このままでは日本経済は、好むと好まざるとにかかわらず、「清く貧しく」衰退してゆくだろうが、それが美しいかどうかは疑問だ。1990年代、日本のGDP成長率が年率にして1%ほど下がっただけで、この世の終わりが来たような騒ぎだった。日本の輸出依存度(GDP比)は約10%だから、外貨が稼げなくなったら何十万という企業が倒産し、何百万人もの失業が発生するだろう。まぁそうなってみないと、桃源郷なんかもうないことに気づかないのかもしれないが・・・
小倉秀夫氏が、岸博幸氏のコラムを批判している。最初は「CDやDVDをレンタル店から安価で借りてデジタルコピーして、ネット上で違法配信するのが日常茶飯事になった」という岸氏の事実誤認の指摘だったが、彼がエイベックス・グループ・ホールディングスの非常勤取締役に就任したことがわかり、問題は政治的な様相を帯びてきた。

岸氏は、もとは経産省の官僚で、竹中平蔵氏の秘書官となり、彼が総務相になってからは、その通信政策は実質的に岸氏が仕切った。去年の「通信・放送懇談会」を迷走させた張本人は彼である。竹中氏が辞任してからは、岸氏は慶応大学の准教授になったが、今でも総務省の「通信・放送問題に関するタスクフォース」のメンバーとして通信政策を取り仕切っている。

岸氏は、前回のコラムでは「アーチストの権利を制限したら創造意欲が低下する」と主張しているが、小倉氏が指摘するようにアーチストは契約によってレコード会社に許諾権を委任しているので、作品の流通をコントロールする権利をもっていない。それが創造意欲を低下させるというなら、エイベックスは契約を変えて、販売のたびに音楽家から1曲ずつ許諾を得るべきだ。そうすれば、彼らがネット配信業者に要求している手続きがいかに煩雑なものかわかるだろう。

経済学的にいえば、当ブログで何度も書いているように、創作のインセンティブにとって許諾権は本質的ではない。(私も含めて)本源的な著者にとっては、印税をもらう報酬請求権さえあればよく、たまに試験問題などの「2次利用許諾のお願い」が来ると面倒でしょうがない。

しかし、レコード会社にとっては逆である。他の流通業者からライセンス料をとる事務には規模の経済があるので大したコストではないが、その独占を維持するにはコピーを禁止する許諾権が必要だ。要するに音楽著作権の実態は、レコード会社がアーチストから取り上げた許諾権によって独占を守る権利なのである。前の記事でも書いたように、この独占による私的利益と社会的弊害のどちらが大きいかは明らかではないが、岸氏はもっぱら前者だけをみて次のように書く:
コンテンツのバリューチェーンは、簡単に言えば“制作―流通(アナログ―デジタル)”である。その一部分であるデジタル流通の振興に目が行き過ぎて、肝心の制作のインセンティブが低下したら元も子もないのではないか。
コンテンツのバリューチェーンは、流通で終わるわけではない。それは“制作―流通―消費―制作・・・”と無限につながってゆき、そのコンテンツがあらたな創作の素材となり、インスピレーションとなるのだ。日本のコンテンツ産業が成長した一つの原因は、「コミケ」などを通じて作品が自由に流通・模倣・複製され、それが新しい作品を生んでいったことにある。音楽で流行した「マッシュアップ」の手法はITでも使われ、爆発的なイノベーションを生み出している。

岸氏は一連のコラムで、アップルの私的録音録画補償金に対する批判を「身勝手」と断じ、「レンタル市場の存続の可否」(つまりCDレンタルの禁止)を政策として検討すべきだとしている。彼がこのように業界の利権を守るための政治的主張を行なうことは自由である。しかし、こういうレコード会社のロビイストが、慶応大学の看板に隠れて総務省の情報通信政策に大きな影響を与えることが許されていいのだろうか。
レッシグが、知的財産権の問題から「チャンネルを変える」と宣言して、話題になっている。私も、彼の気分はわからないでもない。彼を2001年に日本に初めてまねいたのは私だが、それ以来、彼との会話はいつも同じ暗い話ばかりで、状況は悪くなる一方。こんなことをやっていたら学者として終わってしまう、という彼の焦りもわかる。

しかし彼が「腐敗」を新しいテーマにするというのはいただけない。それは民主主義にとって本質的な問題ではないからだ。この種の問題については、経済学で既存の研究がたくさんあるが、その代表であるGrossman-Helpmanの分析によれば、根本的な問題は「1人1票」という普通選挙制度にある。私の1票が選挙結果に影響を与える確率は(田舎の村長選挙でもないかぎり)ゼロだが、投票に行くコストは私が負担するので、投票は非合理的な行動なのである。

したがって政治に影響を与えようとする人々にとっては、投票するよりロビー団体を通じて政治家に働きかけるほうが合理的だ。この場合、レッシグも指摘するように、問題は贈収賄だけではない。合法的な政治献金も、政治家に影響を与えるという意味では同じである。しかし政治資金を規制して「腐敗」をなくしたとしても、民主的意思決定のゆがみはなくならない。

根本的な問題は、政治活動のコストと利益が不均等に分布していることだ。たとえばJASRACにとっては、政治家に圧力をかけて音楽データ配信を制限させて独占を守り、数千万円ぐらい手数料収入を上げることができれば、その利益は政治活動のコストを十分上回る。これに対して数百万人の消費者が二重課金によって数億円損をするとしても、一人当たりの利益は数百円なので、政治活動のコストには見合わない。

このように公共的意思決定が公共財になるため、silent majorityの「ただ乗り」が起こってnoisy minorityの政治的圧力が通りやすくなるという逆説は古くから知られている。これは代議制民主主義の欠陥なので、根本的に是正する方法はない。かといって、ブログやNGOなどの「直接民主主義」が世の中を変えるというのも幻想だ。「反グローバリズム」のデモ隊が政治家より賢明だという保証は何もない。

だから残念ながら、レッシグの「これからの10年」は、学問的に大した成果を生むとは思えない。彼の支持するオバマのような民主党的温情主義は、「大きな政府」をもたらし、かえってゆがみを拡大するだろう。本質的な問題は、彼の師匠であるポズナーもいうように、人々の生活に行政が関与するのをやめさせ、個人間の紛争は当事者どうしで司法的に解決するしくみを整備して、政治の領域を最小化することだ。人生には、政治よりも大事なことがたくさんある。
トクヴィルの『アメリカのデモクラシー』は、「だれでも知っているが、だれも読んだことがない」という意味での古典の一つだ。私も、3年前に講談社学術文庫版が出たとき読もうとしたが、訳がひどくて挫折した。特に引っかかったのは、そのテーマである「平等」の概念だ。当時(19世紀前半)の欧州から見るとアメリカは平等だったのかもしれないが、今のアメリカを見ると、それが平等な社会だというのは、まったくリアリティがない。

・・・と思っていたのだが、本書を読んで考えが変わった。日本語で平等というと、所得を同じにするといった「結果の平等」を思い浮かべがちだが、トクヴィルのいうegaliteは、身分差別を撤廃するという「機会の平等」であり、「対等」とか「同等」と訳したほうがいい。この点、本書もタイトルで損をしている。

トクヴィルがアメリカを旅行して印象づけられたのは、それが徹底して対等な個人の社会だということだった。彼の母国では、フランス革命後も身分秩序が根強く残っていたが、アメリカにはもともとそういう秩序がないので、人々は抽象的個人として生きている。それは透明で合理的な社会だが、人々は孤立した生活に不安を抱いており、教会や結社(今でいうNPO)に集まろうとする。

こうみると、インターネットはまさにアメリカ社会の鏡像であることがわかる。そこでは人々の肩書きは無意味であり、国会議員もネットイナゴも対等な一個人だ。グーグルでは、情報の価値は世間的な権威ではなくリンク数で機械的に決まる。トム・フリードマンのいうように世界は「フラット化」し、コミュニティはSNSのような人工的な「結社」しかない。

こういう抽象的な個人からなるデモクラシーが成熟した秩序を形成できるのか、というトクヴィルの問いは、伝統的なコミュニティが崩壊しつつある現在のアメリカで再評価されているが、日本社会にとっても示唆的だ。彼は基本的にはデモクラシーを信頼したが、それはきわめて脆弱な秩序であり、一方でアナーキーに陥る危険とともに、他方では多数の専制や宗教的な狂信に走る危険をはらんでいるとした。

このように見てくると、トクヴィルはまるでブッシュ政権やウェブの現状を予言しているかのようだ。岩波文庫版で、読み直してみよう(第2巻がまだ出てないが)。
2007年06月22日 19:58
IT

電波の官製談合は崩れるか

無線インターネット用の帯域とされている2.5GHz帯に、イーモバイルとソフトバンクが名乗りを上げた。アッカとウィルコムに割り当てるという総務省の方針が内々に示されたことに対抗するものだろう。

こんなロビイングが行なわれるのは、後進国の現象だ。欧米の主要国では周波数オークションで割り当てるので、こんな政治運動は必要ない。だれがもっとも有効に電波を利用するかについて情報の非対称性があるとき、その利用価値を自分で申告させ、市場で決めるのがオークションである。アメリカでは、グーグルが「動的オークション」を提案して話題になっている。

ところが日本では、これまで「官製談合」で申請枠=申請者となるように「事前調整」されてきたので、美人投票(書類審査)さえ必要なかった。それに比べれば申請者(3社)が枠(2社)を超えたのは一歩前進だが、そこから2社を選ぶのは役所の美人投票だ。かつては「既存業者に限る」という暗黙の条件があったが、2.5GHz帯の免許条件では「第3世代移動体通信事業者の出資比率が1/3以下」と既存業者を逆差別している。

公共事業の官製談合は犯罪だが、電波の談合は公然と行なわれ、携帯電話業者は時価数兆円の電波をタダ同然でもらって高い収益を上げてきた。今回はイーモバイルとソフトバンク以外にも、KDDIやNTT東西も参入を検討しているといわれるが、これは談合が崩れるかどうかの試金石だ。各社には、「私こそ美人よ」と行政に媚を売るのではなく、電波行政についての政策論争を期待したい。
Robert BarroがWSJに辛辣な批判を書いている。有料なので、超簡単に要約しておく:
ビル・ゲイツがマイクロソフトを離れ、その資産を社会に還元する事業に専念することは、一般には美しい話とされているが、経済学的に考えると疑問がある。

彼がもっとも大きく社会に貢献したのは、ソフトウェアの開発・販売によってである。マイクロソフト社の売り上げは、2006年だけでも440億ドル。これは消費者が同社の製品の価値を少なくともそれと同額と評価したことを意味する。その割引現在価値を考えると――ソフトウェアを使った生産活動への貢献を無視しても――マイクロソフト社は今後、少なくとも1兆ドルの社会的価値を生み出すと予想される。

これに対して、ゲイツの個人資産は900億ドル。その90%以上を慈善事業に費やすとしても、彼がマイクロソフト社で創造できる価値にはとても及ばない。彼の財団は、貧困や感染症の問題に焦点を当てている。しかし、ここ30年で世界の絶対的貧困層を半減させた主要な原因は中国とインドの経済成長であり、これは慈善事業によってどうにもならない。サブサハラの貧困と感染症の原因は政府の腐敗であり、これも寄付では解決できない。これまで多くの国際機関が何兆ドルも投じて失敗してきた問題を、ゲイツ財団が数百億ドルで解決できるとは考えにくい。

たぶん彼が富を社会に還元するもっとも簡単な方法は、米国民全員に一人300ドルの小切手を切ることだろう。
コメント:小切手よりも賢い社会還元の方法は、Windows Vistaをオープンソースで公開することだと思う。
2007年06月19日 23:38
法/政治

政治化するグーグル

Google Public Policy Blogが公開された。ブログそのものは2ヶ月前から始まったようだ。

グーグルは、ネット中立性や電波政策についての提言を出したり、アル・ゴアをロビイストに雇うなど、政治色を強めている。これを「既存の巨大企業と同じように政治家と結びついた汚い企業になろうとしている」と批判する向きもあるが、私はネット企業が政治的発言力をもつのはいいことだと思う。

日本でもっとも需給ギャップが大きい産業は、政策シンクタンクだろう。アメリカでは「第5の権力」とよばれるぐらいシンクタンクが影響力をもっているが、日本では霞ヶ関が政策立案を独占し、政策を学問的に研究する機関がほとんどない。ICPFも、そういう組織をめざしているが、なかなかむずかしい。その原因は、政権交代がないこととともに、日本が「格差社会」ではないため、こういう公共的な目的に金を出す大富豪がいないからだ。

その結果、日本経団連などの大企業が強い政治的影響力をもち、新しい企業はライブドアのようにバッシングの対象になる。電波政策や知的財産権などについても、既得権を保護することが政策の大前提で、消費者の意見はほとんど反映されない。日本でも、政策がオープンに競争する「政策の市場」をつくる役割を、グーグルが果たしてほしいものだ。
2007年06月17日 14:17
法/政治

慰安婦問題の意見広告

もう政治的には決着したような慰安婦問題だが、まだマイク・ホンダ議員の決議案が議会に提出されていない。6/14にワシントン・ポストに出された全面広告の全文と訳がブログに出ているので、紹介しておく(一部略・修正)。
  • 事実1:日本軍によって、女性が、その意思に反して、売春を強制されたことをはっきりと明示した歴史文書を発見した歴史家・歴史学者や研究機関はない。逆に、女性をその意思に反して強制して働かせることのないよう民間業者に対して警告している文書が多数発見されたのである。
  • 事実3:しかしながら、規律違反の例があったことも確かである。例えば、オランダ領東インド(現在のインドネシア)、スマラン島では一陸軍部隊がオランダ人の若い女性の一団を強制的に拉致し「慰安所」で働かせていた。しかし、この事件が明らかになった時点で、この慰安所は軍の命令により閉鎖され、責任のある将校は処罰された。これらの戦争犯罪に関与した者はその後オランダ法廷で裁判にかけられ、死刑を含む重い判決を受けた。
  • 事実4:慰安婦の初期の供述では、旧日本軍や他の日本政府機関によって強制され働かされたとの言及はない。しかしながら、反日キャンペーン後、慰安婦の証言は劇的に変化したのである。
  • 事実5:日本軍に配属された慰安婦は、現在頻繁に報道されているような「性の奴隷」ではなかった。慰安婦は公娼制度の下で働いており、当時、公娼制度は世界中で当たり前であった(例えば、1945年、占領軍当局は日本政府に対し米軍兵による強姦を防止する目的で衛生的で安全な「慰安所」を設置するよう要請していた)。
おおむね当ブログでも指摘してきた周知の事実だが、おそらく争点になりそうなのは3だろう。この「スマラン事件」は、河野談話で「官憲等が直接これに加担した」という表現を入れる根拠になったといわれ、欧米のメディアが「性奴隷」の唯一の根拠にしているのもこれだ。しかしこの事件は、軍事裁判(その公正性は疑問とされるが)によって軍司令部の命令による犯罪ではないと判断され、被告はBC級戦犯として処罰されたのだ。いずれにしても、このわずか25人の事件をもって「20万人の女性が性奴隷として強制連行された」証拠とするのは荒唐無稽である。

今回の広告で注目されるのは、自民党だけでなく民主党の議員13人も署名していることだ。『諸君!』7月号の座談会でも、左翼とみられている大沼保昭氏と荒井信一氏が、海外メディアや日本の支援団体による歴史の歪曲を批判している。これはイデオロギーとは無関係な、学問的な史実の問題なのだ。しかも国内ではほぼ決着のついた事実を、欧米のメディアでさえまだ誤解している。外務省は「河野談話を継承する」などという腰の引けた態度ではなく、歴史的事実を海外に伝える広報活動を行なうべきだ。
2007年06月17日 12:22

生物と無生物のあいだ

20世紀は、ある意味では「物理学の世紀」だったといえよう。相対性理論や量子力学などの新理論、そしてそれを利用した原子爆弾や半導体などの新技術によって大きな富が創出されるとともに、その大規模な破壊も行なわれた。

こうした科学技術の驚異的な成功は、世界を操作可能にして人間を万物を創造する神のような位置に置き、人々は無意識のうちに物理学をモデルにして世界を見るようになった。自然科学は、本質的にはすべて応用物理学となり、物理学をまねて対象を要素に還元して数学的に記述する方法論が主流になった。社会科学でも、経済学は自然科学の厳密性を装うため、古典力学をそっくりまねた一般均衡理論をつくった。

物理的世界では、原因と結果の間には1対1の対応関係があるので、現象は本質的に単純だ。時間は可逆で決定論的であり、変化は静的な平衡(均衡)状態に至るまでの過渡的な撹乱にすぎないので、あらかじめ平衡状態を計算によって求めることができれば、工学的にそれを実現できる。

しかし生物は複雑な現象なので、時間は不可逆で、決定論的な予測は不可能だ。どういう過程で変化するかという経路が意味をもち、生物は動的平衡として記述される。本書で紹介されるシェーンハイマーの実験は印象的だ。ネズミが蛋白質を食べて排出するとき、その蛋白質の分子を追跡すると、わずか3日間で半分以上が細胞に取り込まれていることがわかった。ネズミの体重は変わらないので、取り込まれたのと同量の古い蛋白質が排出され、急速に代謝が行なわれていることがわかる。

人間の体の分子も1年間ですべて入れ替わるので、1年前の私と現在の私は、物理的には同一人物ではない。私のアイデンティティは「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」と鴨長明の述べたような流れの同一性にあるのだ。Economist誌によれば、21世紀は「生物学の世紀」になるそうだが、それは単に素粒子をDNAで置き換えるのではなく、世界を物理的な同一性を基準にしてとらえる世界観そのものを変えることになろう。
2007年06月15日 11:56
メディア

はてなの逆淘汰

梅田望夫氏によれば、はてなの取締役会で「ネットイナゴ問題」が話し合われているそうだ。私の問題提起を受け止めていただいたようなので、参考までにこういう問題について経済学ではどう考えているかを説明しておく。

小飼弾氏のように、この種の問題を個人の「鈍感力」に帰するのはナンセンスである。それは不潔な食堂が「食中毒に免疫のある客だけが来ればよい」と開き直っているようなものだ。問題は個人の性格ではなく、平均的なユーザーにとってどういうことが起き、それがシステム全体にどういう影響を及ぼすのかということだ。

こういう現象は、ネットワークでは珍しくない。1970年代には、市民バンドが「誰でも参加できる無線コミュニケーション」として大流行したが、2ちゃんねるのような状態になって自壊した。TVゲーム業界で有名なのは、1980年代の「アタリ・ショック」と呼ばれる現象だ。質の悪いゲームが大量に出回ったため、消費者が不良品をつかまされるリスクを恐れて、ゲーム市場が崩壊してしまった。同様にインターネットでも、初期に主要なアプリケーションだったネットニュースは、今ではS/N比が悪すぎるため、ほとんど使う人がいない。

これは経済学で「逆淘汰」とよばれる、おなじみの問題だ。たとえば中古車の質に「情報の非対称性」があり、どれが不良品かわからないとき、消費者は不良品をつかまされるリスクを一定の確率で評価するから、不良品の確率が高いと中古車の価格は下がる。そうすると価値の高い(不良ではない)中古車は市場に出てこなくなって不良品だけが出回り、消費者も買わなくなって市場が崩壊してしまうのである。

同様にネットワークでも、イナゴが群がってS/N比が下がると、ブログの社会的評価が下がる。そうすると、価値の高い記事を書く人にとっては、ブログで得られる評価よりイナゴに食われるコストのほうが大きくなるので、質の高い記事は出てこなくなる。そうすると価値の低い記事ばかりが出回ってS/N比がさらに下がる・・・という悪循環によって誰もブログを読まなくなり、悪貨が良貨を駆逐するわけだ。私も、最近はヤフーの「ブログを含めない」という検索オプションを使っている。

こういう問題を避ける制度設計は、たくさん提案されているが、はてなの場合に適しているのは、eBayなどでも使われている「評判メカニズム」だろう。これは不良品を売りつけた業者をユーザーがeBayに報告し、そういう評判をeBayのサイトで公開し、トラブルが一定の限度を上回ると取引を禁止するものだ。はてなの場合には、ブックマークや日記で名誉を傷つけられた人からの苦情を受け付ける窓口を設け(*)、それを本人に通告するとともにサイトで公開し、トラブルが一定の限度を超える場合には除名すればよい。

現実には、多くのISPが非公式にこういうルールをつくっている。たとえばアダルトサイトは、大手ISPでは禁止だ。こういうガイドラインを名誉毀損に拡大すればいいのだ。そういう自主規制をきらうユーザーは、他の(影響力の小さい)サービスに行けばいい。こういう措置が「言論の多様性」を奪うという批判は、逆である。小倉秀夫氏も指摘するように、イナゴによる逆淘汰で、日本のブログは鈍感力の強い人しか書けない状態になっているのだ。

ウェブは、十分大きくなった。これからは量の拡大を求めるのではなく、質の高いコンテンツをフィルタリングするシステムが必要だ。それにはサービス業者が介入するより、ユーザー同士でチェックし、格づけするのがウェブらしい解決方法だろう。はてなブックマークは、もとはそうしたメカニズムの一つだったが、それ自体がイナゴの巣になっているのではしょうがない。

コムスンやNOVAの例をみてもわかるように、ベンチャーから成長した企業は、顧客を増やすことを最優先して、品質管理を後回しにする傾向が強い。そういう行動は今度のような事件を引き起こし、結果的には行政の介入をまねいてしまう。このままイナゴの増長を許していると、彼らとともにWeb2.0バブルが崩壊するおそれが強い。その前に、はてなが賢明な措置をとることを期待したい。

(*)今でも形式的にはそういう窓口があるが、私が問い合わせたときは回答までに5日もかかったあげく、「当事者間で解決せよ。削除してほしてければ、次のフォームに記入せよ」という返事が来た。このように被害者にコストを負担させる設計は間違っているし、システム側の効率も悪い。
2007年06月14日 15:03

拙著が発売

当ブログの記事を中心にまとめた本『ウェブは資本主義を超える』が、きょう発売になりました。アマゾンで先行発売、本屋には来週並びます。感想は、この記事のコメント欄にどうぞ。
先日のIPv4の記事へのコメントで、おもしろい話を教えてもらったので補足しておく。

今年3月に開かれたAPNICの会議で、JPNICはIPv4の割当をやめてv6への移行を促進する"IPv4 countdown policy"を提案して、却下された。この提案についてARIN議長のRay Plzak氏は「IPv4は枯渇しない。その対策としてはv6だけではなく、市場化によってv4のアドレスを再利用することも考えるべきだ」と批判している。これに対して、JPNICの荒野氏も「市場化を検討することは必要だ」と同意している。アドレスの市場化は、5年前にも私が提案したが、JPNICに拒否された。それに比べると、やっと「検討」するところまで前進したのはめでたいことだ。

そもそも市場が機能していれば、枯渇は論理的にありえない。比喩で説明しよう。土地は有限な資源だが、土地が枯渇するという人はいない。国有地があと5年でなくなるとしても、民間の土地を市場で取引すればいいだけだ。いま土地に住んでいる人は、引っ越す(ネットワークを再構築する)コストがかかるので取引をいやがるかもしれないが、オークションをやれば、コストの低い(使っていない)人から土地が出てくる。地価が上がれば、多少のコストを負担しても土地を売る人が出てくるだろう。

空いている土地を細切れに取引すると、鉛筆ビルがたくさん建って効率が悪くなる(ルーティングテーブルが大きくなる)が、こうした問題は取引の最低単位を大きくするなどのルールで回避できる。それどころか、市場を利用して細切れの土地を「地上げ」して大きなブロックにまとめることもできる。「市場にまかせると、金持ちが土地を買い占める」と心配する人もいるかもしれないが、金のない人は賃貸(プライベートアドレス)で十分だ。IPv6は解決策にはならない。それは「国有地がなくなったので、これからは海上に住んでください。こっちなら無限の空間があります」というようなものだ。

おわかりだろうか。IPアドレスは、ちっとも特殊なものではないのである。少なくとも経済学の観点からは、それを取引してはいけない理由は何もない。公共的なインフラが市場で取引されている例は、電力、ガス、通信など、いくらでもある。電波についても「市場メカニズムはなじまない」という反対論があったが、周波数オークションは成功した。このまま配給制度を続けていると、Plzak氏も指摘するとおりブラックマーケットが大きくなり、NICのアドレス管理が空洞化し、インターネットは大混乱になるだろう。NICがコントロールできる公式の市場をつくるべきだ。

この場合、重要なのは、市場を競争的にすることだから、今のようにきびしい審査をして少しずつ割り当てるのではなく、残りのアドレスを一挙に市場に出し、既存のアドレスと同時に取引することが望ましい。使われていない30億個以上のアドレスが市場に出てくれば、供給過剰になって価格はゼロに近づき、「金持ち」云々の心配もなくなる。大きなブロックには高い単価がつくので、アドレスの効率的な再編が進むだろう。同様の制度設計としては、FCCが2002年に提案した周波数の"Big Bang auction"が参考になろう。

IPv4の「枯渇」が示しているのは、インターネットの草創期から続いてきた社会主義的な割当ポリシーがもう維持できないという歴史的必然である。幸いARINにはそういう認識があるようだが、JPNICはまだv6のユートピア的社会主義に固執しているようにみえる。改革を拒否してぎりぎりまで粘ると、崩壊したとき破局的な事態になる、というのが社会主義国の教訓である。「移行プラン」を立てるなら、社会主義から市場経済への移行の準備をすべきだ。
2007年06月11日 22:26

正義の罠

副題は「リクルート事件と自民党――20年目の真実」。当時、取材する側だったひとりとして、リクルート事件こそ「国策捜査」の原型だ、という著者の指摘には、うなずける部分がある。

リクルートが83人もの人に未公開株をばらまいたのが「賄賂」だというのはかなり無理な解釈で、これは兜町ではごく普通の慣行だった。だから警察も立件を断念したし、検察も動かなかったが、朝日新聞が独自の調査報道で問題を発掘した。1988年9月に、リクルートコスモスの松原社長室長が楢崎弥之助代議士に現金500万円を渡して口封じをしようとした一部始終を日本テレビが隠し撮りするという事件が起きて、一挙に事件化した。

その後は、譲渡先リストにある政治家や官僚などの行動を検察が洗い出し、職務権限で引っかかる者を片っ端から立件するという方式だった。しかし、このように普通のプレゼントを「後出しジャンケン」で賄賂にしたてるのは、かなり無理があった。たとえばNTTルートでは、リクルートがNTT経由で買ったクレイのスーパーコンピュータが問題とされた(私の撮った映像が今でも資料映像として使われる)が、本書も指摘するように、客が売り手に賄賂を出すというのはおかしい。

だが自戒をこめていうと、当時のメディアは、検察をまったく批判しなかった。それは、この種の事件を立件することがいかにむずかしいかを知っているからだ。政治家のスキャンダルは、永田町には山ほど流れているが、事件になるのはそのうち100件に1件ぐらいしかない。特にリクルートのように「ブツ」の出てくる事件は非常に珍しいので、やれるときは徹底的にやって「一罰百戒」をねらうことになりがちだ。

だからリクルート事件の大部分が検察の描いた「絵」にあわせたでっち上げだという本書の指摘は当たっているが、根本的な問題は贈収賄の摘発が極度にむずかしい現在の法律なのだ。特に「職務権限」の要件がきびしいため、かつての松岡利勝のように陣笠はどんな露骨な利益誘導をやっても罪に問われない。検察の暴走を防ぐためにも、立法的な改革が必要だと思う。
2ちゃんねるなどで、韓国や中国を差別する連中を「ネット右翼」と呼ぶが、前にも書いたように、これは正確ではない。当ブログの記事についての反応を見ると、「慰安婦」のような話題については、たしかに賛同する意見が圧倒的だが、デジタル放送や著作権法などの話題では、むしろ反政府的な意見が共感を集める。彼らが朝日新聞を攻撃する理由は、政治的な保守主義ではなく、知的エスタブリッシュメントへの反発なのだ。

その意味で、政治的に中立な「ネットイナゴ」という言葉のほうがいい。ウィキペディアによれば、この言葉を定着させたのは産経新聞の記事だそうだ。たしかにこれはうまいネーミングで、1匹ずつは取るに足りない虫けらが、付和雷同して巨大な群れをなし、作物を食い散らかす様子によく似ている。

ネット右翼のメッカが2ちゃんねるだったとすれば、ネットイナゴが集まるのは「はてなブックマーク」だ。たとえば今日の当ブログの記事には、現在39のブックマークが集まっているが、そのコメントには記事の内容を論理的に批判したものは一つもなく、「バカ」「うんこ」「アホ」などの言葉が並んでいる。「しればいいのに」という奇妙な言葉もあるが、これは「死ねばいいのに」というタグが禁じられたため、その隠語として使っているのだろう。

この下劣さは、今や2ちゃんねる並みだ。私は、以前も「バカ」とか「死ね」といったコメントを許すのかどうかについて、はてなの事務局に質問したが、回答は得られなかった(しかしこういうタグは禁止されたようだ)。はてなの近藤淳也社長や取締役である梅田望夫氏は、こういう幼児的なメッセージをばらまくことが「総表現社会」だと思っているのだろうか。

小倉秀夫氏も当ブログへのコメントで指摘しているように、こういうイナゴの及ぼす社会的コストは大きい。彼らに食いつかれるのを恐れて、専門家はブログで意見を表明しないし、普通のユーザー(特に女性)はSNSに逃げ込んでいる。はてなは、自分で自分の首を絞めているのだ。このままでは、小倉氏もいうように、悪貨が良貨を駆逐するだろう。成熟したWeb2.0のプラットフォームをめざすのなら、はてなはユーザーに一定の品位を求めるべきである。


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