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いつの間にやら 大阪弁

2010年1月18日

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写真ラジオの新春特番で対談した作家の田辺聖子(右)と桂米朝=兵庫県伊丹市

 今年もよろしゅうおたの申します。ラジオの新春特番ということで、伊丹のホテルで作家の田辺聖子さんとお会いして、お酒を頂きながら対談しました。田辺さんもお酒は好きなようやが、私は自分がうれしくなってしもうて、相手のことはあまり気にかけんようになる。すっかり、いい気分になってしまいました。

 彼女は大阪・福島の写真館で生まれました。いろんな地方から大阪に修業にやって来る若い人たちがたくさんいる家やったとか。戦前から正月は撮影のかき入れ時で忙しく、おせち料理をゆっくりと楽しむひまもなかったそうです。もちろん、戦中や戦後しばらくは物がなかった。正月が豊かに楽しめるようになったのを、家族が喜んだことを今でもしっかり、覚えてはります。私の家は姫路の神社でしたが、やはり正月らしいことができるようになったのは、終戦から数年たってのことでしたな。

 田辺さんが子どものころ、実家の近くに寄席小屋があって、ようおじいさんに連れていってもらったんやとか。漫才が多かった時代ですな。たくさん笑って大きくなったそうです。私が彼女と初めて会ったのは戦後、どこかのラジオ番組だったと思います。作家として有名になってはりました。

 昔の大阪弁はもっと和やかでしたと田辺さんは言います。写真館は西洋風の看板を上げてて洋書もたくさんあったそうやが、お父さんの口ぐせは「そうでんがな」。好きな大阪の言葉といえば、「そこそこでよろしいやん」。住み込みで修業してる人たちに大阪弁を教えてたおばあちゃんも最後は、「わてもよう知らんけど」。このニュアンスは、分かる人には分かってもらえるでしょうな。

 もちろん、上方落語も大阪弁や。弟子たちにそないに厳しく言うたつもりはないが、枝雀もざこばも、私より古い人たちの言葉を意識してよう聞いてたやろうと思います。特に私の師匠の四代目桂米団治は、昔の大阪の言葉を残していくことを強く意識していた噺家(はなしか)でした。私は純粋な関西やなかったさかいね、いろいろと教えてもらいました。そのうちにいつのまにやら、大阪弁のことが分かってきたように思うんです。

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