成人の日 坂の向こうは見えないが
きょう11日は成人の日だ。国民の祝日に関する法律では、この日の意義を次のようにいう。「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」
こうも大上段に言われると、新成人でなくとも戸惑ってしまうのではないか。「みずから生き抜こうとする自覚、ありやなしや」と。生き抜くことの難しさを痛感する時代である。
新成人が生まれた1989年は元号が昭和から平成に変わった年だ。ベルリンの壁が崩壊し、中国で天安門事件が起きた年でもある。日本と世界が大きく変わった節目の年といえよう。
問題はその変化の行き着く先が見通せないことだ。未来を生きることになる若い人たちには、とりわけその思いが強いだろう。「ちゃんと就職できるんだろうか」「年金? 僕らのときもあるんですか」
胸をたたいて「大丈夫」と言えないのが悔しい。だが、その答えを出すのは、大人になった者の責任でもある。世の中の仕組みや制度は変えられる。昨年の総選挙が示した最大の教訓はそこではないか。
成人となったことを最も強く感じるのは、選挙で1票を行使するときだ。ところが、各種選挙の投票率を見ると、20代は極めて低い。新潟市の場合、2007年参院選と統一地方選での20代投票率は60代の半分程度だ。
全人口に占める若者の数は減る一方である。その上、声も上げないとなったら、存在感は希薄になるばかりではないか。時代の変わり目に生まれた新成人が、まず率先して大人社会に注文を付けてほしい。それは「新参者」の特権でもある。
日本人の平均年齢は女性が85歳を超え、男性も80歳に迫る。人生80年とすれば、20歳はその4分の1にすぎない。成人になったということは、人生の入り口に立ったということだ。悩み、もがくのはこれからである。
いささか不謹慎ではあるが、先が見えないからこそ、面白いともいえる。結果を自分で引き受ける覚悟さえすれば、何にでも挑戦できる。既成の成功パターンにとらわれる必要もない。
若い人たちのチャレンジを見守り、支えるのは大人の役割だ。「自分の能力に自信がない」と答える中高生の割合が、日本は突出して高いというデータがある。子どもに「駄目出し」をしてはいないだろうか。
鳩山由紀夫首相は政権交代を「無血の平成維新」と表現した。その役回りを担えるかどうかは別にして、時代の表現としては間違っていない。維新を動かすのは若い力だ。坂の向こうに何が待っているのか。自分で足を動かして登っていくしかない。