老人や、女、子供に座席はない!


砂漠の厳しい現実


 アメリカのビキニ諸島での核実験で、死の灰を浴びたロンゲラップ島の村長さんが広島にやってきた次の年(今から25年ぐらい前)、私はサハラ砂漠(北アフリカ)のレガヌという村を訪ねて日本を旅立った。レガヌ村はサハラ砂漠のほぼ中央に位置する場所にある。かつてフランスはこの村の近くで原爆実験を行っていた。ムルロア環礁で核実験(水爆)を行う前の話である。だからレガヌ村一帯に核実験の死の灰が降り積もり、その放射能で村民が被爆していないか調べるために向かったのだ。

 その時に、私はそれまでに見たことのないものを体験した。それは約10日に一度の周期で通ってくる定期バスでのことだった。約10日ごとというのは、はっきり決まった運行ダイヤではないからだ。だからバスに乗りたい者は数日も前から、小さな村の中央にある広場で野宿しながら待つことになる。幸い、このレガヌには雨がふらない、というより一年中、雲さえも空に浮かばないほどカラカラに乾燥している。そのような気候だからフランスは植民地のこの村を核実験場に選んだ。

 私はこの村で10日間滞在し、何度か、核実験場に行く方法を探った。しかし放射能を恐れる村人は、お礼に数ヶ月分の給料を支払うという私の依頼を受けてはくれなかった。バイクを持っている小学校の若い先生にも頼んだが、申し訳なさそうに、片言の英語で、「あそこは行かないほうがいい。だめだ」と繰り返すだけであった。結局、私は核実験場の目と鼻の距離に着きながら、核実験場の取材はあきらめることにした。そしてレガヌから帰ろうとすると、来るはずのバスがなかなか来ないのだ。しかたなく毎日、毎日、レガヌ村の近くで野宿をしてバスを待った。

 村の広場でバスを待って野宿する人もどんどん増えてきた。近隣の村(と言っても約百キロの範囲に村は一つか二つ程度)から徒歩やラクダに乗ってきた人たちである。もちろん乳児のような小さな子供や、やせ衰えた老人たちも多くいた。4〜5日遅れてやっとバスが来たときは、150人ぐらいの人が広場に集まっていた。しかしバスは以外にも小さかった。どう詰め込んでも、とても100人も乗せられるほど大きくはなかった。私は心配になった。この機会を逃して次のバスを持つと、さらに10日間以上ここで過ごすことになるからだ。バスは夕方に村に入って乗客と荷物を降ろし、野宿のために村の外に出て行った。そして翌朝、多くの乗客で混雑する村の広場にバスは入ってきた。

 広場の中央にバスが停まると、そのドアに人々が殺到した。しかし中年の車掌はドアのステップに立って、誰も中には入れようとしない。私はあまりの凄まじさに皆の後ろで立ちすくんでいた。次の瞬間、その車掌は私に向かって指をさした。すると騒がしさが急に静まった。皆が振り返って私を見た。そして私の前にいた人が少しずつ動いて道が開かれた。車掌の手招きで私はバスに乗ることができた。それも一番にである。座った場所は運転手のすぐ後ろの席だった。
  
 そして車掌はバスを降りた。それからはたくましい男たちが先を争ってバスに乗り込んできた。たちまちバスの座席は、勝ち誇ったような男たちに占領された。それから老人や子供を抱いた女性たちが乗り込んできた。しかし座る場所はバスの床に無造作に置いてあるスペア・タイヤ(4本ぐらいあった)や、飲み水や燃料を入れたポリタンクの上である。その姿勢で砂漠の道を数百キロも走るのだ。それでもバスに乗れただけでも幸せだった。やっとレガヌ村をバスが発車したとき、乗れなかった数十人が恨めしそうにバスを見つめていた。そのとき、私の横に座った男の腰に固いものがあるのでよく見ると短刀だった。男は手で首を切るまねをして笑った)

 途中の道(砂の轍で道路はなかった)でも、何日もバスを待った人が、大きな荷物を砂の上に置いているのを見た。でも満員のバスは停まることなく、その人のそばを走り去っていく。その人たちは道路に立って、無念そうな表情を今も覚えている。バスの乗客たちはその姿を見て、勝ち誇ったように何か言いながら笑っている。

 バスは夕方になって、大きな市場のある街に到着した。そこにはホテルと呼べるものがあった。砂だらけのベッドだったが、シャワー室の栓をひねると水が出た。1ヶ月ぶりのシャワーだった。そして何よりうれしかったのは、かなりの英語が話せる人がいたことである。といっても私服の公安警察官2人で、外国人がホテルに泊まっていると聞いて調べにきたのだ。パスポート、ビザを点検し、旅行の目的を聞いて帰っていった。その時に、うまい晩飯がくえるレストランの場所を聞いた。さっそくそのレストランに行くと、さっきの公安警官たちも間もなくやってきた。そして私のテーブルに座って思い思いに料理を注文した。私はレストランの場所を聞いただけなのに、この警官たちは私に食事を招待されたと思ったらしい。それが証拠に私は3人分の食事代を支払った。

 そこまではどこの国でもよくある話だ。それで一々文句をいうようでは発展途上国の旅はできない。わたしはこの機会を活用して、彼らにいろいろな質問をしてみた。英語が話せる公安警察官は、この地方では大変なインテリなのである。わたしが質問したのは今日バスで見た光景である。バスに乗れず村に残された人のこと、誰もが山のように持っていた荷物のこと、それにフランスが核実験を行った頃の話である。そのときの彼らの会話で忘れられない言葉があった。

 「バスの椅子にたくましい男が座るのは当然なことだ。たくましい彼らが働いて女や子供や老人を養っているからだ。女や子供や老人が椅子に座って、男たちが疲れたら、誰が大事な仕事をするのだ。それでは皆が死んでしまうではないか」。そんな説明をしてくれた。砂漠の自然が過酷だから、人間は知恵をだして生存し、強いものから生き延びようとしているのだ。日本ではバスの座席を、まず老人や子供が先に座ると話したら、警官たちは信じられないような顔をして聞いていた。

 軍事問題を分析していると、嫌でも力が支配する現実を突きつけられる。国家として民族として、厳しい国際環境を生き抜くには、砂漠の民ような知恵が必要なのかと思うことがある。そう考え始めたのは、このような体験を砂漠でしたからである。