私が被爆2世だと知ったのは26歳だった。
フランスの核実験場(サハラ砂漠)に取材に行く前夜、母が「被爆者だ」と打ち明けた。
私は被爆2世になったことが正直嬉しかった。
私が25歳の時だった。帆船でミクロネシア諸島のロンゲラップ島から、アンジャイン村長が広島にやってきた。ビキニの核実験でロンゲラップ島は死の灰に覆われたという。その放射能のせいでロンゲラップの島民に、ガンや奇病が多発していると広島に報告しにやってきたのだ。それまでは被爆者といえば、広島、長崎の市民と、第5福竜丸の乗組員いうのが常識だったので、ロンゲラップ島の被爆者にショックを受けた。(ロシアのチェルノブイリ事故が起こる前だった) そこで過去の核実験場を調べたら、サハラ砂漠にフランスの核実験場があり、レガヌという村が近くにあることがわかった。そのことがわかると、レガヌ村に被爆者がいるのではないかと気になりだした。それから約1年間、本屋の店員のアルバイトをしながら、フランスまでの片道の航空券と20万円の現金を貯めた。無論、海外に出るのは初めてで、1ドルが330円(360円?)だったような気がする。 ちょうど翌年は野口英世(伝染病研究者)生誕100年で、ガーナの伝染病研究所で死んだ野口英世に関する写真が撮れたら、帰国後に往復の取材費を出してもいいという契約も出版社からもらった。レガヌ村の取材が終わったら、ガーナをまわってから帰国する。日本に帰国する航空券は、取材で使ったカメラを売ってお金を作る、そして帰国後に取材費で新しいカメラを買うというのが私の計画だった。 ところがここで問題が発生した。アフリカの伝染病に詳しい人の話しでは、当時のガーナではまだ悪性の伝染病が猛威をふるっているというのだ。もしかしたら、野口英世同様に再び生きて帰国できない可能性があると言われた。それなら出発前に田舎の父母に会って、最後の別れをしておこうと胸に秘め、広島の田舎に帰った。 父母にはレガヌ村に行くことは話していたが、伝染病の取材でガーナに行くことは隠していた。明日は田舎を出発して、東京に向かうという夜だった。母が急に話し始めた。「元彰(私)、私は原爆手帳を申請することにした。だから、病気になっても医療費はただだ。もう私の病気の心配はいらない」。とうことは母が被爆者ということになる。そちらの新事実に驚いた。実は母が被爆者だと知ったのこのときが初めてだった。 母の話しでは被爆当時24歳で、宮島の役場に勤務していた。その時に原爆が投下された。その夜のうちに、広島方面から大量の負傷者が、広島から宮島に船で運ばれてきたという。それらの人を看護するのために、まだくすぶっている被爆地広島に行って、被爆者の看護をしたこともあった。そのために残留放射能を浴びて、被爆者手帳を申請する資格があるというのだった。母もはっきりと言わなかったし、こちらも問わなかったたが、いままで申請しなかったのは子供が被爆者差別で、就職や結婚が不利になることを心配していたようだった。 私の率直な感じは、なにか晴れ晴れとした気持ちだった。これで素直にアフリカに行けるという気持ちである。自分が被爆2世であり、反核のためにアフリカに行くという行動がすっきりとした形になったからだ。数日後、知り合いの地元の新聞記者にそのことを話したら、私が羽田(当時は羽田空港)を飛び立つ日の新聞に、「広島の被爆2世の青年がアフリカの核実験場の村を訪ねて本日離日」という記事が載ったそうだ。 当時は原爆のことなら平島や長崎に来てください。それからゆっくり平和について語りましょうというのが一般的だった。広島の被爆資料を抱えて、世界に出かけていくのはニュースになる時代だった。今では広島や長崎の被爆資料(写真や体験談など)が世界に発送されている。さらにインターネットを使い、被爆情報を世界に向けて発信することも可能だ。時代は変化したものである。 ところで私のガーナ行きは中断した。サハラ砂漠のレガヌ村まではたどり着いたが、その先に行く費用も体力もなくなってしまった。半年後にカメラも短波ラジオも売り払い、撮影した約200本のフイルムだけをもって無一文で帰国した。貴重な体験だった。その頃のパスポートを見ると、「疱瘡の予防注射」と「黄熱病の予防注射」の国際証明書が貼り付けてある。いわゆるイエローカードである。これがないと入国できない国があった。 |