松本サリン事件は自衛隊の闇組織がやった!


ある評論家のテレビ発言にびっくり


 今ではオウムが松本サリン事件を起こしたことは誰でも知っている。しかしまだ松本でサリンが使われたことはわかっても、誰がなんのためにサリン事件を起こしたか不明だった頃、私は全国紙新聞社の編集委員と二人で松本の現地を訪ねたことがある。

 松本駅に到着すると、編集委員の友人という夫婦が迎えてくれた。仮にこの人を森さんとしておこう。むろん私は森さんとは初対面である。この人はかなりの有名人なので、この先は本人が特定できないように話を進める。

 サリン事件の現場では、森さんの案内で、当時、被疑者と疑われていた河野さん宅の庭(池)や、犠牲者が多数出たアパートなどを見てまわった。そしてその夜は、森さんの別荘に泊まることになった。夕食後は、サリンや細菌兵器などの化学・生物兵器に興味を持つ森さんと、編集委員と私の3人で松本サリン事件で考えられるいろいろな推理をして過ごした。

 そして次の朝、私はバッグから1冊の本を取り出した。それは陸上自衛隊の幹部候補生学校で使う教範で、「特殊武器防護」(写真 左)と表紙に書かれた本である。その本が作られたのは昭和47年7月で、当時は部外秘や取り扱い注意の指定もされていなかった教範である。私は森さんに、「この本は秘密の文書ではありません。市ヶ谷(自衛隊駐屯地)のPXで購入したもので、誰でも買うことができます。サリンなど化学兵器や、核兵器、生物兵器について基礎的な説明がしています。短期間ならお貸ししますので、コピーをとって、松本サリン事件の調査資料に役立ってください」と、差し出した。森さんが喜んだのは当然である。

 しかし森さんから、その教範がなかなか送り返されてこなかった。私が次にその教範と対面したのはテレビの画面であった。たまたま昼のワイドショーにチャンネルがあった時、画面に森さんの顔が移っていた。なんだろうと思って見ると、「松本サリン事件の犯人は自衛官か警察官です。私は極秘文書の証拠を入手しました」と話していた。そして極秘文書の証拠として掲げたのが、私が貸した「特殊武器防護」の教範である。

 「今も自衛隊はサリンの研究を行い、幹部になる候補生たちに化学戦の教育や訓練を行っています。これがその証拠の本です」と、サリンが解説してある教範を広げ、ノウノウと話しているのだ。「しまった。こんなやつだったのか」と、教範を貸したことを悔やんだ。すぐに一緒に松本に行った編集委員に電話を入れ、事情を話し、至急教範を返送させるように頼んだ。
 
 オウムが地下鉄サリン事件を起こす数日前に、この教範と礼状が一緒に送り返されてきた。私は礼状は読まないで破り捨てた。日本はあんないいかげんなことを言う人が、有名文化人として堂々と本を書き、テレビに出演しマスコミで生きていける国なのである。

 この話には後日談がある。数ヵ月後、あるテレビ局のデレクタ―が訪ねてきた。一通り地下鉄サリン事件のことを聞くと、「もっとサリンのことを勉強したいが、基礎知識をつけるいい本はなですか」という。そこでこの教範のことを教え、実物を見せてやった。すると2日間だけ貸してくださいという。「いいよ。でも2日間だけだよ」と言って貸した。私はコピーを取るものと考えていた。しかしこのデレクタ―は、テレビカメラで教範の細部(サリンの部分)まで画像に撮っていた。そして私に本を借りたのも、先の森さんからの入れ知恵だった。最初に森さんから話を聞いたデレクタ―は、オウム犯の中に現役自衛官(空挺隊員)がいることと、この「特殊武器防護」の教範と結びつけた。そして出した結論が、オウムは自衛隊によって操られているということである。サリン事件の背後に、自衛隊の秘密部隊という巨大な闇組織がいるという推論である。あるワイドショー番組の企画会議で、担当プロデューサーは教範の実物が手に入れば放送できると約束した。そこでデレクタ―は私を訪ねてきたのだ。また森さんの登場である。こんどはちょっと手が込んでいた。教範を借りてもすぐに放送をしないで、教範を私に返却して数日間の後の放送である。また森さんがオウムの背後に自衛隊の闇組織があると話し、またあの教範を示してノウノウと解説をしていた。しかも私が文書の数箇所にアンダーラインを引いたままの画像である。もうこうなると、誰を信用していいのかわからなくなる。

 最近の森さんはどこからも相手にされず、マスコミに登場することもなくなった。かつては謀略事件らしいものが発生すると、必ずテレビや週刊誌にコメンテーターとして登場していた人だ。

 最近、新聞やテレビに登場する軍事評論(コメント)を読むと、森さんに劣らずいいかげんなものが目につく。困ったものだ。どうしょうか、ちょっと考えている。