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松井秀喜 2009年12月の記事

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半額だけど…松井秀“4番手形”でエンゼルスと合意

エンゼルスと1年契約で合意した松井秀喜
Photo By AP

 ヤンキースからFAとなった松井秀喜外野手(35)が15日未明(日本時間同日)エンゼルスと1年契約で合意した。年俸は600万ドル(約5億3400万円)。今後は身体検査などを経て、正式契約を結ぶ。エ軍は一番乗りでオファーを出し、4番の座と守備機会も含めた年間162試合フル出場を保証。年俸は今季の1300万ドル(約11億5700万円)から半分以下となったが、松井は最終的に自分を最も必要としてくれる球団を選択した。

 数ある球団の中から、松井が選んだのは最も誠意を感じたエ軍だった。一番乗りで出された正式オファーは1年契約の年俸600万ドル。細部にわたり契約合意に達したのは、米西海岸で日付が替わった15日未明だった。

 「オファーはいただいています。もちろん、高い評価をしていただいて、選手としては本当にうれしい限りです」と松井は本紙の取材にこう答えた。何より移籍決断へと心を動かされた最大の要因は待遇面だった。

 「年数なんて単年でもいいし、金額は半額くらいもあると思っています。でも、勝負はさせてほしい。何よりも必要とされる球団に行くことが一番だと思います」。そんな松井の主張に、エ軍は明確な答えを提示した。6年間4番を務めたゲレロがFAに。後釜として、抜群の勝負強さを誇る松井に4番の座を用意した。加えて誰よりも獲得を熱望したソーシア監督は「ヒデキは外野の守備をできると聞いている。週に何試合かは分からないが、キャンプなどで検討する」と外野守備への挑戦権を容認。外野手でも、DHでも、年間162試合で4番を務めてほしい。「4番でフル出場」の口説き文句は代理人のアーン・テレム氏を通じて松井の元へ届いていた。背番号55は現在新人が付けているが、松井に譲渡される見込みだ。

 ワールドシリーズMVPに輝いたスラッガーだが、両ひざに不安を抱えることで獲得を狙う各球団の評価は分かれた。DH制のないナ・リーグ球団は途中から手を引いた。だが松井は「来年は守備をできる自信はある」と繰り返してきた。その背景には、長く野球をやる上で守備は必須と考えているからだった。「なぜ外野にこだわるのか。ひざが悪いのに、逆に選手寿命を縮めてしまうのでは」とヤ軍キャッシュマンGMは首をひねったが、松井の考えは「打って、走って、守ってが野球でしょ」と逆だった。カリフォルニア州で外野手復帰のためミニキャンプを張って始動。守備への手応えを深めていた。

 単年で年俸は今季の半額以下となる。だが、松井が欲したのは年数でも、金額でもない。結果を残せば、来年以降も新たに、いい契約が結べると考えている。今季、ヤ軍では守備練習さえ禁止され、先発出場は116試合と激減した。エ軍は正左翼手のリベラが今季先発は120試合止まりで体調面と守備力の両方に不安を残す。正左翼手は競わせる方針で、松井にとっては“守備への挑戦権”こそ、自身の未来を考えた場合、何物にも替え難いものだった。

 エ軍はすでに両ひざに関するメディカルリポートを入手し、体調面は確認済み。松井は15日にも全米一の権威ともいわれるチームドクターのヨーカム氏による身体検査を受け、パスすれば本拠地エンゼルスタジアムで入団会見の運びとなる。

 「エンゼルスは本当に強いチームでした。投打にバランスがいい。やりづらい相手でしたね」とあらためて印象を明かした松井。ニューヨークと決別し、西海岸アナハイムの地で第2のメジャー人生のスタートを切る。

 <地元紙惜しむ>ニューヨークの地元紙はそろって、松井移籍を惜しんだ。厳しい論調が売りのニューヨーク・ポスト紙は15日付の電子版で「サヨナラ、ゴジラ!松井がディズニーランドに向かった」との見出しを付けて報道。松井の野球に対する姿勢や、7年間での貢献度を称えた。またニューヨーク・タイムズ紙は「松井は同僚から尊敬されていたし、ニューヨークの記者からも好かれていた」とし、人柄の良さを伝えていた。

 <松井パパがエール「イチローを意識」>父・昌雄さんはエンゼルスとの基本合意について「実はきのう(14日)本人から連絡がありました。新たなチームに決まったので、ぜひ頑張ってほしい」と語った。また、松井の恩師でもある星稜・山下総監督は「心機一転、気持ちを新たにやってほしい。守備をやりたいという気持ちが強かったのでは」とし「暖かい気候はひざに良い。同じ地区にいるイチローを意識しながらやれば、もっと打つようになる。タイトルを獲ってほしい」とエールを送った。

 <米の父と“再会”>松井とアナハイムには浅からぬ縁がある。星稜2年の1991年夏。全日本高校選抜チームの一員として米国遠征した際に、ホームステイ先となったのがアナハイム近郊の加藤敏夫さん一家。その出会いを機に“米国の父”と慕い、巨人時代の98年オフには加藤さんの運転する車で、サンディエゴまで足を延ばして大リーグ観戦したこともある。ヤ軍移籍後もエンゼルスタジアムでの一戦には必ず招待。「丘の上に立つコンドミニアムから見た太平洋は最高だった。将来、住むんだったら、ニューヨークより断然西海岸だよね」と話していた。

[ 2009年12月16日 20:55]

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