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2008年11月29日 (土)

枕草子・冬はつとめて

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冬はつとめて。雪の降りたるはいふべきにもあらず、霜のいとしろきも、またさらでもいと寒きに、火などいそぎおこして、炭もてわたるもいとつきづきし、昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火もしろき灰がちになりてわろし。

(口訳)冬は早朝があわれふかい。雪の降っているときの面白さはいうまでもない。霜などがたいへん白く、またそうでなくても、非常に寒い朝、火などをいそいでおこして、炭火を持ってゆくなど、冬の情感にぴったりである。もっとも、昼になって、寒さがやわらいでくると、火鉢の火も白く、灰がちになっている、などというのは、つまらないけど。

    「枕草子」という名称が今日もっとも流布しているが、そのはじめは、はっきりした題名がなかった。中古文学の権威である田中重太郎(1917-1987)などはその著書のほとんどは「枕草子」ではなくて「枕冊子」と題している。

枕草子参考文献:北村季吟「枕草子春曙抄」、武藤元信「枕草子通釈」「清少納言枕草子別記」、金子元臣「枕草子評釈」、関根正直「枕草子集註」、小西甚一「通訳枕草子新釈」、井上慎二「清少納言伝記攷」(畝傍書房)「枕草子」(研究社)、池田亀鑑「枕草子に関する論考」(目黒書店)、田中重太郎「清少納言枕冊子の研究」(1947)、「新講枕冊子」(むさし書房)、「校本枕冊子」(古典文庫)、「枕冊子本文の研究」(初音書房)、「枕草子評解」、「清少納言枕冊子研究」(笠間書院)、「枕冊子全注釈」全5巻(角川書店)、「校注枕冊子」(笠間書院)、伴久美「枕草子要解」。

ラ・ロシュフコオ「箴言と考察」

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   フロンドの乱(1648-53)に敗れ、失明に近い痛手を負ったラ・ロッシュフーコー(1613-1680)は、サブレ侯爵夫人のサロンにおいて、ラ・ファイエット夫人との交友の間に、人間に関する厭世的で鋭利な箴言集をつくった。「箴言と考察」(1665-78)である。この本は岩波文庫版でケペルの書棚にもあったが、一度も読んだことがなかった。何故「箴言と考察」を取り出したかというと、文藝春秋11月号の特集に「死ぬまでに絶対読みたい本、読書家52人生涯の一冊」に選ばれているからだ。選者は関西大学教授・竹内洋(たけうちよう)。顔写真があるので思い出した。当時、先生は30歳の若い人だったが、偉い学者になっていたことを知らなかった。専門は社会学で、一般教養の社会学の講義を聞いた覚えがある。実はずっと名前を「たけうちひろし」と誤って覚えていた。なんでも高校時代に先生から「箴言と考察」をいただいたが、読んでみると性悪説、厭世主義に溢れていて、なぜ先生が贈られたのか未だに謎だという話が書かれている。

   「われわれの美徳は、ほとんど常に、仮装した悪徳にすぎない」、「われわれが美徳と見做すところのものは、しばしば、運命か、さもなければ、われわれ人間の術策がしかるべく切り盛りするさまざまな行為と、さまざまな利害関係との集まりにすぎない。だから、男が勇敢であり、女が貞節であるのは、必ずしも、勇気なり貞節なのがそうするのではない」などは人間観察の鋭さを示すもの。「老いる術を知る人はほとんどいない」、「太陽も死も直視することを得ない」となると、そこにはもう皮肉や警句はなく、ただ人間の限界を見つめる眼があるばかりである。しかも、この一般論の大家は、「個々の人間を知るよりは人間一般を知ることのほうがたやすい」ことをもわきまえていた。

2008年11月28日 (金)

相手の意表をつく作戦

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    11月16日に行なわれたセリエA第12節でカターニャのフリーキックの最中、トリノGKセレーニの前にカターニャの選手が壁を作ったが、その中の一人ジャンビート・ブラスマティが突然セレーニの前方でパンツを下げた。キーパーが予期せぬ出来事に唖然した隙に、フリーキックは見事に決まり、試合はカターニャが勝利した。ブラスマティの行為はワルテン・ゼンガ監督の指示による作戦だったそうだが、その露出作戦はルール上では合法であるものの、下品な行為として非難の嵐が吹いている。

    スポーツでは、スポーツマン・シップやフェア・プレーの精神が尊重されている世界なので、サッカー選手のパンツずらし作戦は世の顰蹙を買う破目になったが、軍事上では桶狭間や真珠湾奇襲攻撃のように相手の意表をつく奇襲作戦は古来から戦術として認められている。生死を賭けた戦いは常に一発勝負の厳しい世界だ。

    相撲でよく知られる戦法に「猫騙し」がある。立ち合いと同時に相手力士の目の前に両手を突き出して掌を合わせてたたく。相手に隙を作り、有利な体勢を作るために使う戦術で決まり手にはならない。相撲の必殺技といえば「首投げ」だろう。相手が差してきたとき、とっさに片方、例えば左の手で相手の首を巻き、右の手で相手の左を殺して投げるのである。決まるとまことに華やかな手である。首投げは、相手の意表外に出て、咄嗟の間に打つことによって決まるものである。相手が首投げにくることを察したら、首をすくめて防ぐし、巻かれても抜くということになってなかなか決まらないものである。なんの手でも意表の外に出ることによって利き目があるものであるが、首投げはとりわけそうである。

2008年11月27日 (木)

ガレオン船

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   ガレオン(Galleon)船は、主にスペインが軍艦またはアメリカ貿易に用いた大型帆船のことで、16世紀から18世紀にかけて大西洋、太平洋などで活躍した。キャラック(Carrack)から発展した船形であるが、形はさまざまで、3本以上のマスト、数門の大砲を備え、船首船尾の位置が高く、キャラックに比べ吃水が浅いためより速力が出る。東京デズニーシーに停泊中のルネサンス号は全長30メートルの大型ガレオン船である。

    ガレオン貿易はおもにスペインのそれをさすが、アメリカ大陸の領地とセビリアおよびカジス港を結んで、15から70,80隻からなる船団が貿易風を利用して往来、植民地の金銀や物産を運んだ。またメキシコとフィリピン間においては、アカプルコより銀を出荷し、マニラに集結した中国の絹・陶磁器などと交換、船団の規模は小さいが大型のガレオン船が用いられた。この太平洋のガリオン貿易はフィリピンの経済的生命線として、1749年まで続けられた。

    ポルトガルのガレオン船は、ゴア、オルムズ、マラッカ、マカオを中心に香料諸島の物産を中継。17世紀にはいるとオランダの東インド進出によってポルトガル勢力は後退し、また英・仏などの軽帆船の出現はガレオン船そのものを次第に時代遅れにしていった。

花王と新聞広告

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「新装花王」石鹸発売当時の全ページ広告

   長瀬富郎(1863-1911)は、明治20年、洋小間物店「長瀬商店」(のちの花王)を馬喰町2丁目に創業したが、間もなく石けんの製造・販売を始め、明治23年に「花王石鹸」を発表した。ちなみに製品名に付けられ、その後社名にもなった「花王」とは「顔を洗う」からとられたものである。また会社のロゴとなっている「月のマーク」もこの時期採用された。当時、国産石けんは輸入石けんとは比べものにならないほど低廉で粗悪なものであったが、「花王石鹸」は、国産初の高級石けんであり、販売方法も当時としては珍しい全国販売を目指していた。

   昭和6年3月1日、「新装花王」石鹸発売の全ページ広告が当日の「東京朝日」「国民」「時事」「大阪毎日」「大阪朝日」など新聞各紙に掲載された。その後も花王は、太田英茂(アート・ディレクター)、飛鳥哲雄(デザイナー)、金丸重嶺(写真家)らの才能を結集した宣伝活動により、着実にその業績を伸ばしていった。

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   創業者・長瀬富郎

2008年11月25日 (火)

紫雲丸の悲劇と報道写真論争

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                         紫雲丸

  昭和30年5月11日、修学旅行の児童生徒375人を含む乗客781人を乗せて高松を出航した国鉄宇高連絡船紫雲丸(中村正雄船長)は、第三宇高丸(三宅実船長)と衝突した。紫雲丸は衝突5、6分後の午前7時ごろ沈没、中村船長ら乗員2人と乗客166人が死亡した。

    紫雲丸事故は、もうひとつの大きな論争を起こす問題を提起した。報道カメラマンが助けを求める乗客を撮影した写真が新聞に掲載されたことに対して、シャッターを切る時間があったのなら、なぜ一人でも救おうとしないのか、という批判の声が上がったのである。この論争はその後も大きな事件や事故のたびに繰り返されている。今年、秋葉原で起きた通り魔事件では、被害者を携帯電話、デジタルカメラで撮影する野次馬のモラルが問題となった。ライブドアでは、世論調査サイトで、事件現場の撮影がモラルに反すると思うかどうかのアンケートをした。その結果、「思う」が66.89%で、「思わない」が33.1%だった。

   紫雲丸事故の論議で評論家の大宅壮一は、専門家とアマチュアとの差があることを論じ報道の使命を主張した。しかし、秋葉原通り魔事件のように専門家でない単なる野次馬の撮影にそれほど社会的意義があるのかは疑問である。被害にあって苦しんでいる犠牲者の傍らで、多数のアマチュア・カメラマンが面白半分に撮影している光景には明らかに非人間的な行為として異様に感じられた。そして、そのような行為をしても恥かしいと思わない日本人のモラルの低下を物語る事件でもあった気がする。

天地はどのようにしてつくられたか

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    子どものために書かれた聖書物語には、山室静「児童世界文学全集24 聖書物語」(偕成社)、小出正吾「世界児童文学全集15 聖書物語」(あかね書房)、高津春樹他訳「少年少女新世界文学全集1 聖書物語」(講談社)、坪田譲治「子ども聖書」(実業之日本社)、犬養道子編「少年少女世界の文学5 聖書物語」(河出書房)、ヴァン・ルーン「聖書物語」などがある。なかでも山室静「聖書物語」は偕成社文庫にもあり、最も入手しやすい書物である。一度ゆっくりと読んでみたい。

    ところで山室静は北欧文学や神話を主とした研究家として知られるが、聖書をギリシア神話やローマ神話と同じように神話として考えておられるようだ。つまり本書を読むかぎりクリスチャンではないようにおもわれる。ケペルも天地創造の話など今日そのままの形では通用しないので「聖書は神話」と認識しているが、ファンダメンリストの考えのクリスチャンやエホバの証人の方からは、高踏批評だと批判されたことがある。やはり聖書は神の霊感を受けて書かれたものですべて真実のこととして受けとめられるかどうかが、クリスチャンと関心のある人との差なのかもしれない。

    午前中、ブック・オフへ行く。 山室静「聖書物語」、益子昌一「指先の花」、銀色夏生「夕方らせん」「ミタカくんと私」、安野モヨコ「美人画報」、ドロシー・バトラー「子ども・本・家族」、ブリジット・バルドー「怒りと絶望」、「ちくま文学の森5 おかしい話」、さのようこ「だってだってのおばあさん」、しみずみちを「はじめてのおるすばん」、ギョウ・フジカワ「えいごであそぼう」、「日録20世紀1931,32,33,34,35,36,37,38」

大原孫三郎と社会事業

   大原孫三郎(1880-1943)は、父・大原孝四郎が創立した倉敷紡績を継ぎ、これを倉敷レイヨンに発展させたが、かたわら社会事業に熱心であった。18歳のとき二宮尊徳の「報徳記」をくり返し読み、事業の利益の何割かは社会へ還元すべきであって、私腹をこやしてはならない、という訓えに心をうたれた。そして20歳のときキリスト教の熱心な感化を受けた。孫三郎は、まず彼にキリスト教を教えた石井十次の経営する岡山孤児院を援助した。この他郷里の倉敷市に、病院・美術館・民芸館・考古館・天文台・農業研究所などをつくって一般に開放した。なかでも、大正8年に設立された大原社会問題研究所は、大正・昭和初期の社会科学のメッカであった。所長の高野岩三郎の下に、櫛田民蔵、久留間鮫造、森戸辰男、大内兵衛、細川嘉六、笠信太郎などの学者が、ここから輩出した。この研究所がわが国の社会科学や労働運動に投げかけた影響は測り知れないものがある。大阪市天王寺区伶人町にあった大原社会問題研究所は昭和24年に財政難のため廃館となったが、現在は法政大学大原社会問題研究所として継承されている。

   大原美術館は昭和5年に、その前年に死去した画家の児島虎次郎(1881-1929)を記念するために大原孫三郎が倉敷市に建設したものである。エル・グレコの「受胎告知」や印象派の名作を蒐集したもので、今日では日本に存在することが奇蹟としか思えないほど素晴らしい、日本を代表する美術館へと発展している。

2008年11月24日 (月)

土田耕平「大寒小寒」

   「おおさむ こさむ 山から こぞうが とんでくる…」冬のさむい晩、三郎はおばあさんとこたつにあたっていた。大寒小寒の歌は、こんなさむい晩に、おばあさんが口くせのようにうたう歌だ。

   「おばあさん。こぞうが、なぜ山からとんでくるの?」と三郎がきくと、おばあさんは、「山は、さむうなっても、こたつもなければお家もない。それでとんでくるのだろうよ」という。また三郎が「こぞうって、お寺のこぞうかい?」「山のこぞうは、木のまたから生れたから、ひとりぼっちだよ」「おばあさんもないの?」「ああ、ないよ」「それで、着物は着ているかい?」「おおかた、木の葉の着物だろうよ」

   三郎には、頭を青くそりこくった赤はだしの山こぞうが、目に見えるように思われた。おおきくなって、三郎は東京で暮らすようになったが、毎年冬になると、大寒小寒の歌を思いだし、おばあさんを思いだすのであった。

2008年11月23日 (日)

石の民間信仰

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                   滝尾神社の子種石

    日本では石に神霊がこもるという信仰は、古来から顕著なものである。現在でも民間信仰で石を依代としている神々が多い。出産の時の産神、塞の神、エビス神など多数あり、氏神の中にも石を神体とするものがある。大きな神社の中には御神体は石であると伝えられてきたものがある。石は単に神の依代として神聖視されるばかりでなく、石そのものも霊異あるものと信ぜられ、小さな石が急に大きくなったり、子生石といって石がわれて子石を生み出す伝説が語られている。

   日光ニ荒山神社の別院で女峯山の女神である田心姫命(たごりひめのみこと)を祀る滝尾神社の奥の境内には、「子種石」と名付けられた大きな岩がある。子宝安産の石として知られ、無数の小石が積まれている。

    巨石への信仰は古代からイギリス、フランスはじめ、インド、中国、朝鮮にも巨石記念物として多数見られる。とくに朝鮮では支石墓をコインドルと呼ばれ、その数は最も多い。

    巨石への信仰とは別に小石を積み重ねる積石、小石を並べる置石の習俗も世界各地でみられる。神社の鳥居の上ある小石など日本では一般的である。また山頂とか登山道の傍らなどに小石が積み上げられていることがある。もともとはアイルランド語でケルン(cairn)といい、本来は「石に築いた塚」という意味であったが、近代の登山の普及によって山頂標識、登頂記念、あるいは登降路を示すためにつくられる積み石をさすようになった。映画「シンドラーのリスト」では、シンドラーに命を救われたユダヤ人たちが彼の墓前に小さな石を積み上げていた場面がある。ユダヤ人にとっても石は不変不滅の象徴で石を積むという行為は、信仰や希望と深く結びついている。

三峡ダム

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    湖北省宣昌市の三峡ダムは1994年11月8日着工し、2009年には第三期工事も完了し、竣工する予定である。完成すれば、1820万kwの発電が可能な世界最大の水力発電ダムとなる。

   午前、ブックオフへ。「雄大な三峡ダムプロジェクト」(黄河水利出版社)、キャサリン・エリソン「なぜ女は出産すると賢くなるのか」、山岡有美「10歳若く見える姿勢としぐさ」、倉田真由美「ラブラブ中」購入。

古本屋の娘

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    小説家の小山清(1911-1965)は、昭和33年に失語症に陥り、その上、妻の自殺などがあって、昭和40年に53歳で亡くなるという不遇な作家人生であったが、ケペルはその作品の純粋さにとても魅かれるところがある。彼の代表作「落穂拾い」(昭和27年)に登場する古本屋の娘がとても清純である。

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    僕は最近ひとりの少女と知り合いになった。彼女は駅の近くで「緑陰書房」という古本屋を経営している。僕は彼女の店の顧客である。主として均一本の。僕はいまの人が忘れて顧みないような本をくりかえし読むのが好きだ。僕はときどき彼女の店に均一本を漁りに行くようになり、そのうち彼女と話を交わすようになった。彼女の気質が素直でこだわらないので、僕としてもめずらしく悪びれずに話すことが出来るのだ。そしてそれが僕には自分でもうれしい。大袈裟に云えば、僕は彼女の眼差しのうちに未知の自分を確認するような気さえしている。こうして僕に思いがけなく新しい交友の領域がひらけた。彼女はみずから択んでこの商売を始めたという。「よくひとりで始める気になったね」と僕が云ったら、彼女はべつに意気込んだ様子も見せず、「わたしはわがままだからお勤めには向かないわ」と云った。

 寡作の小山だが女性の古書店主を扱った作品は多く、どうやらモデルが実在していたそうだ。最近の青木正美さんの調査研究によれば、その女性古書店主の名前は「西川清子」というらしい。

ポリアンナの幸せゲーム

    ポリアンナは、孤児だがどんなことでも喜びにかえてしまう明るい性格の11歳の少女である。そして周りの人々にも幸せを感じる心、喜ぶ気持ちを広めていく。

  ある日、ハリントン家のお手伝いのナンシーはポリアンナに訊ねた。「ねぇ、おじょうさま。なぜそんなに喜んでばかりいるのですか」

「あらね、それはゲームだからよ」

「えっ、ゲームですって」

「そう、しあわせゲームなの。おとうさまが教えてくれたの」

「まあ、どんなゲームなんですか」

「とてもかんたんよ。だってね、うれしいことをさがしだせばいいの。そう、このゲームをはじめたのは、足の不自由な人が使う松葉づえが、あたしのところに届いたときからよ」

    ポリアンナは、そのときのことを思い出すように、ゆっくりと話をはじめた。

「あたし、そのころお人形がとてもほしかった。それで、お人形をくださいって手紙を書いて、教会の本部へ送ったのよ。そしたら、いま、杖しかないので、杖を送ります、って返事がきて、杖が送られてきたの。それで、あたし、泣きだしたわ。すると、おとうさまが、ポリアンナ、杖をもらって喜ばなくちゃいけないよ、っていうの」

「まあ、どうして、杖をもらって、喜ぶんですか」

ナンシーがあきれ顔で、ポリアンナをみつめた。

「あたしも、はじめはわからなかったわ。そこで考えていると、おとうさまが、杖を使わなくてすむからうれしいだろ、っていったの」

「へぇ、変な考え方ですね」

「いいえ、ちっともへんじゃないわ」

ポリアンナは言った。

「すばらしいことなの。だって、どんなことからだって、うれしいことがみつけだせることがわかったんですもの。うれしいことが見つけだせたときは、とっても幸せな気持ちになることがわかったんですもの」

2008年11月22日 (土)

関帝廟の祭神・周倉

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  関帝廟では、主神の関羽を正面に、その左には子の関平が荊州の牧の印を捧げ、右には部将の周倉が関羽愛用の青竜偃月刀(大薙刀)を捧げて侍立しているのが普通である。これは三人が荊州敗戦のときともに死んだことに講談や小説、芝居でなっているからだ。正史の「三国志」では、関羽は呉の孫権に荊州の臨沮で捕らえられ、子の関平とともに斬られたことになっている。しかし、もう一人の周倉のことは何も書かれていない。それどころか、「三国志」のどこを見ても周倉という人物の名はない。つまり周倉は「三国志演義」に取り入れられて定着し、ついには実在の関羽親子とともに神にまで祭り上げられた、架空の人物なのである。

   「三国志演義」による彼の経歴は次のようなものである。関西の出身。もと黄巾の賊張宝配下の大将。臥牛山で山賊をしていたところ、崇拝する関羽に出会って部下にしてもらう。腕力が強く、胸板厚く、髯がはね上がり、見るからに強そうな男。以来、関羽のボディーガードとして身辺につかえ、関羽が殺されたとき、付近の支城にいてこれを聞き、自ら首をはねて殉死、ともに亡霊となる。

男は度胸

   江戸の年中行事に鞴(ふいご)まつりというものがあり、11月8日未明、市中の子どもたちが、鍛冶、鋳冶、石工などの吹革(ふいご)を取り扱う家の前に集まって騒ぐと、主人が二階から数百数千の蜜柑を投げ、子どもたちが争ってこれを奪いとる風習があった。このため11月初めには蜜柑の価格が暴騰したらしい。蜜柑を積んだ便船が紀州と江戸の間をしきりに往復した。ところがこの時期にはちょうど寒風が吹きすさび、海上が大荒れに荒れる。名にし負う熊野灘、75里の遠州灘を無事に乗り切ることは容易ではない。

    たまたま、この前後、暴風雨が吹きまくって、さすがの海の荒くれ男たちも出帆を躊躇している時、紀伊国屋文左衛門(1669-1734)は決死の覚悟で船を出したのだ。長唄の「紀文大尽」によると、正保元年の霜月のことだそうで、蜜柑8万5千籠を船に積んで、乗組員は白装束に縄だすき、みずから幽霊丸と名のり、遠州灘を乗り切った。ふいご祭りに間に合ったため、危険を冒した甲斐あって5万両という巨利を一時に博したという。この文左衛門の行動はまったく度胸の一語につきる。「沖の暗いのに白帆が見える。あれは紀伊国蜜柑船」と俗謡に唄われた。

    ただし、紀文度胸千両の蜜柑船の話は、現在のところそれを裏づける確たる資料はほとんどない。文左衛門は元禄11年に上野寛永寺根本中堂の造営に際し、その用材の調達を一手に請負い巨利を得たというのが史実に伝わるところである。

隋唐時代の洛陽

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                         白馬寺

  大唐の都といえば、すぐに長安を思い浮かべるが、陪都洛陽のことは資料もすくなくてあまり歴史書には書かれていない。しかし、則天武后は洛陽がたいへんお気に入りで始終ここに入り浸っていたので一時期は洛陽が首都のようなぐあいであった。現在の洛陽市周辺から唐三彩が伴出する墓葬が多い。

    そもそも洛陽が中国の歴史に現われるのは周代・洛邑からであるが、もちろんその位置は隋唐代の洛陽とは大きく異なる。後漢の都であり、三国の魏、西晋とそれを受け継いだが、493年に北魏の孝文帝が都を大同から洛陽に遷都した。次の隋の煬帝は605年に漢魏以来の洛陽城の西10キロのところに、まったく新しい都市計画によって9キロ四方の都市を建設した。運河はすべて洛陽を中心として計画され、天下の物資はみなここに集められた。町の中には豊都市、通遠市、大同市という三つの市場をおき、とくに豊都市には西域の商人を誘致して、そこを外国貿易の中心とした。

    世界遺産ともなっている龍門石窟や中国仏教の発祥地・白馬寺は古都洛陽観光の人気スポットになっている。

2008年11月21日 (金)

夜安らかに眠ることのできる王は幸福である

    アレクサンドロス大王の侵入をきっかけとして、古代インドにおける最初の統一帝国マウリア王朝がチャンドラグプタ(月護王)によって実現できた。王は、「インド人の最大の王」と呼ばれ、その専制政治のありさまは仏典のうちにも伝えられている。メガステネースは、チャンドラグプタの宮廷について次のように伝えている。王の身のまわりの世話は婦人たちによってなされる。王が泥酔しているときに、その婦人が王を殺して、王の後継者と夫婦になる機会がある。王は昼間は眠らない。夜間も種々の陰謀が起こるのを防ぐために、ときには寝台を変更する必要がある、と。「アルタシャーストラ」にも次のようにしるされている。王に対して毒物が使用されたり、危険な人物が接近しないように、万全の警戒がなされ、多くの試食者をおき、王は夜ごとにその寝所をかえる。成長した王子にたいしても十分に注意しなければならない。王子はカニのようにその父王を食うからである、と。「夜安らかに眠ることのできる王は幸福である」という諺は、陰謀が行なわれるインドの宮廷生活の一面をたくみに言いあらわしている。

  チャンドラグプタ王はおそらく前317年から前293年までインドを統治したと伝えられるが、没年は不明である。強権政治を実行し、刑罰は苛酷であった。しかし、全インドにわたって多数の公路を建設し、駅亭を設け、また約半里ごとに標識としての柱を建てた。道路の主要交差点には、国家の倉庫を建設し、物資を収納し、緊急のさいの用に供させ、また農産物の増加をはかるために運河や貯水池をつくった。ジャイナ教の文献ならびにマイソール地方の諸碑文によると、彼はジャイナ教を信奉し、ある時期に退位してから、バドラバーフの弟子となって出家し、彼に従って南インドのマイソール地方に移り、カルパップ山で苦行を修め、最後には宗教的な餓死または三昧死をとげたという。セレウコスが、彼の宮廷に派遣した大使メガステネースのインド見聞記の現存断片は、彼の帝国の実情を側面から伝えている。

ソロモンと野のユリ

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   ドバイの超高級ホテル「アトランティス・ザ・パーム」のオープニング・セレモニーが20日に行なわれた。その名の通り椰子の木をかたどった人工の島パーム・ジュメイラに建てられた世界一の豪華ホテルで、最上階にあるスイートルームは1泊250万円の部屋があるという。

   だが贅沢をしたいと思うのは人間のあさはかで哀れな欲望かもしれない。「マタイの福音書」に次の有名な一節がある。

「野のユリは、いかに育つかを思へ。労せず、紡かざるなり。されど、われ汝らに告ぐ、ソロモンの栄華だに、この花の一つにも如かざりき」

   人間の手にする最高の繁栄、贅沢も、ただ1本の野の花の美しさに及ばない。

ネブカドネザルの夢 

   天の神は決して滅びることのないすべての王国を立てるられます。それはこの国のすべての王国を打ち砕いて終らせ、それ自体は定めのない時に至るまで続きます。(ダニエル書2-44)

    カルデアの王ネブカドネザル(在位前604-前562)はエルサレムを徹底的に破壊し、バビロン捕囚を行なった事で知られる。旧約聖書のダニエル書には、こんな不思議な話がある。

   ネブカドネザルは、高さ27メートルの巨大な金の像を立てます。そして、その像の献納式のために集るよう帝国内の支配者たちに命じます。特別の音楽が奏でられる時にすべての者はひれ伏してその像を崇拝しなければなりません。それを行なわない者がいれば、火の燃える炉の中に投げ込まれます。ダニエルの三人の友、シャデラク、メシャク、アベデネゴがこれに応じなかったということが報告されます。彼らは、激怒した王の前に連れてこられます。その場所で彼らは大胆にこう証言します。「わたしたちの仕えているわたしたちの神は、わたしたちを救い出すことがおできになります。・・・あなたが立てた金の像をわたしたちは崇拝いたしません」。憤怒に満たされた王は、その炉をいつもより七倍も熱くして、それらのヘブライ人を縛ってその炉に投げ込むようにと命じます。それを行なおうとした時、刑の執行者たち自身が燃える火の炎によって焼き殺されます。ネブカドネザルは恐れと驚きに満たされます。王は、それら四人のヘブライ人に火の中から出て来るようにと呼びかけます。彼らは出て来ますが、焦げた跡さえ付いていません。真の崇拝に対するその勇気ある態度の結果として、ネブカドネザルは、ユダヤ人のために帝国全土にわたって再び神を礼拝せざるを得なかった。

2008年11月19日 (水)

神の言葉によって道を照らす

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       茨城キリスト教学園 サンタ・キアラ館

あなたの御言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯。

             (詩篇119-105)

  足のともしびは、すぐそばにある危険を明らかにし、通り道の光は前方を照らします。神の言葉は、生涯を通じてわたしたちが安全に歩めるよう導くことができます。

2008年11月18日 (火)

イカケの語源

    夫婦づれで仲よく散歩しているのを「イカケ」というようになったのは、江戸時代のすえ、文化年間に大坂の市中を「土瓶のイカケイカケ」と呼びながら、鍋、釜、鉄器などの修繕をして歩いた老夫婦があった。これが目立って睦まじかったので噂の種となり、それから仲のよい夫婦づれのことをイカケと洒落て呼ぶようになった。この評判を耳にした名優三代目中村歌右衛門が「これは面白い」というので文政7年3月に大阪角の芝居で上演し、みずからイカケ屋の親爺に扮し、お婆さんの顔を描いたウチワをもって、夫婦連れの睦まじい所作を踊って大喝采を博した。そしてイカケ屋の老夫婦へは自分が舞台でつかったおなじ揃いの単衣をあたえたので宣伝効果は百パーセントであったという。(参考:日置昌一「ことばの事典」)

2008年11月17日 (月)

沈魚落雁

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    「忘れじの午後8時13分」の川上康子

    「広辞苑」によると、沈魚落雁(ちんぎょらくがん)とは、「(荘子に、人間が見て美しい人でも魚や鳥はこれを恐れて逃げるとあるのを、後世、魚や鳥も恥じらってかくれる意に転用して)美人の容貌のすぐれてあでやかなこと」をいうようになった。

    例えば、「情婦の一笑は千金以上だ。花もしぼみ、月も隠れ、魚も沈み、雁も落ちるような美女は、もたれなくても心を奪われるものだ」という。羞花閉月、閉月羞花、羞月閉花、閉花羞月も、美女の形容に用いる。

    ところで「花も恥らうような女性」といえば、女優でいえば誰であるのか、なかなか思い浮かばない。山本富士子のようなゴージャスな感じよりも、折原啓子、宮城野由美子、川上康子のような清楚な感じの女性をイメージする。当世風であれば、「イノセント・ラヴ」の堀北真希だろうか。

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                     宮城野由美子

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                       折原啓子

スカーレット・オハラの対象喪失

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    喉の渇きが水によって満たされるように、愛情は愛する者の存在によって満たされる。対象喪失とは、欲求を満たす対象が突然目の前から消えてしまうことによって起こるストレスである。家族の死や離散は最も強いストレスをもたらす対象喪失であるが、そのほかにも、資産の喪失や定年退職などによる職場の喪失などもストレスをもたらす。1969年、イギリスのパークスが、54歳以上で配偶者を失った夫または妻が、配偶者の死去から6ヵ月以内に死亡する死亡率は、同じ年代の対照群の人びとに比べて40%も高い、その原因を調べたところ、原因の4分の3は心臓病、とくに心筋梗塞であった。

   愛する人を失い、悲嘆のうちに病いの床について死んでゆく。このことは古くから周知の事実ではあったが、医学的認識が実証されたのは、1970年代になってからである。ストレスとなる出来事は、別表のように、配偶者の死、離婚、配偶者との別れ、拘禁、家族の死、怪我や病気、結婚、退職、昇進、引退、失恋、進学、転校など多数の環境の変化が人に精神的ストレスをもたらす。

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    ここでは「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラの例で考えてみる。スカーレットは、恋人アシュレーが、メラニーと結婚してしまうことで、外的対象喪失をおこす。そしてこの悲しみに打ち勝つためにスカーレットは、軽率な結婚を繰り返すが、アシュレーへの思慕の情はつのるばかりである。やがてアシュレーの妻メラニーの死によって、アシュレーを自分のものにできる期待に一瞬胸をおどらすが、亡き妻を慕って悲しむアシュレーを見て、スカーレットは心から絶望する。つまりスカーレットの心に内的な対象喪失(ある種の幻滅感)がおこったのである。(参考:小此木啓吾「対象喪失」)

ああ、拝啓カアチャン俺は行く

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                  大東亜の共栄双六

    ある新聞に若い女性教師の投書が載った。新しく赴任した小学校のそばに自衛隊の演習場があった。戦車が走り、迷彩服の隊員が見え隠れする。教育の場にはふさわしくないと感じた彼女は「子どもに戦車なんて見せたくない」と率直な感想を書いて話題となった。だが戦後60年が経過すると、実際には国民の多くは自衛隊容認派が増えてきているという。海外派遣や人道支援、阪神大震災をはじめ災害のたびに派遣される自衛隊の活躍も影響しているかもしれない。

  今回の田母神俊雄の論文「日本は侵略国家であったのか」が政府の見解(村山談話)と異なる内容であることで大きな問題となったが、国民に自衛隊そのものの印象がどのように変わったのかという正確な調査やデータはまだ知らない。だがブログなどを読むと田母神の堂々とした発言態度から、すべての国民は日本のことを真剣に考えていかねばならないと感じた人が大勢いるということだけは明らかである。

    「正しい歴史認識を持とう」という論議であるが、歴史学者と一般庶民とでは歴史認識には違いがあるのを感じる。マスコミもミスリードしているように見える。戦後から10年、20年経過したころは、まだ軍隊経験者が多かったので、生々しい記録や問題意識のあるものが多く生れた。野間宏「真空地帯」や大岡昇平「俘虜記」「レイテ戦記」、テレビドラマ「私は貝になりたい」など多数の作品があろう。だがこのような文芸作品よりも、一般大衆はもっと軍隊コメデイを娯楽として楽しんでいた観がある。梁取三義の「二等兵物語」や棟田博「拝啓、天皇陛下様」「拝啓カアチャン様」、前谷惟光「ロボット三等兵」など挙げてみても、映画、テレビ、漫画などの世界では軍隊生活を揶揄した喜劇調のものが多い。つまり被害者意識はあっても、アジア諸国への加害者意識は希薄なところがあった。家永教科書裁判(1965-1997)あたりから、日本の戦争責任が自省されるようになってきたといえる。

   子どもたちの学習で平和教育というのがある。残虐な場面を見せ、多くの人々が戦争で死んだことを教え、戦前の日本は悪いことをしたという気持ちを持たせるだけで終ることがおおい。こういった教育で育った戦争を知らない世代は、田母神論文問題の報道記事を読めば「許せない」の大合唱をする。このような表面だけしかみない平和主義者たちが確実に増えてきたが、彼らは自分たちの偏狭な正義感に満足しているだけではないだろうか。もっと戦前社会を理解させる教育が必要である。

   ようやくPDFで田母神論文を読んだが、読後感は爽快であった。「国益を損なう」とか「日本がおかれている国際的政治的状況を考えろ」とか識者の批判はあるだろうが、ケペルとしてはそこまで考慮できる立場の人間ではないので、むしろ自衛隊のトップとしては当然の意見のように感じる。冒頭でアメリカ軍の駐留のこともふれており、短い文章の中に必要なことが要領よく盛り込まれている。愛国者ならではの憂国の至誠が自然に感ぜられる。いかにも軍人らしい文章もみられるが、それが即クーデーターに直結するようには感じられない。誇りある日本人として言うべきことを堂々と書いたまでであろう。

2008年11月16日 (日)

復活する女性アイドルたち

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  Folder5 (中央がAKINA)

    沖縄出身のアイドルAKINA,ARISA,HIKARI,NATSU,MOEの5人グループFolder5は2000年から2003年まで活動していた。現在もアキナ、満島ひかり、ARISA(arie アーリー)はそれぞれの芸能活動している。同じ沖縄アクターズスクール出身の先輩MAXは最近Minaが復帰し、再始動している。また島袋寛子、今井絵理子、上原多香子、新垣仁絵の4人グループSPEEDも「あしたの空」で5年ぶりの完全復活。Mステを見たがやはり一級品である。

   このようにいま女性アイドルの復活が話題であるが、裕木奈江や田村英里子のように語学力を生かして国際女優として凱旋するかつてのアイドルたちもいる。まことに日本女性もたくましくなったものである。

楽しく難読語を学ぶ

   日本語の植物・動物・日常生活などのことばのなかには、むずかしい漢語もたくさんあります。漢字の学習を学生時代だけでなく、生涯をつうじて一歩一歩、コッコッと学んでいけば、見るからに歯の立たなかった漢字や字画の多い漢字が頭の中にうかんでくることがあります。

 さて、次の漢字、読めますか。

 胡乱

  ・

 忸怩
  ・

 剽軽

  ・

 端倪

  ・

 矍鑠

  ・

 卓袱

  ・

 雪花菜

  ・

 鱲子

 <答え>

うろん(不確実であるさま。あやしく疑わしいこと)

じくじ(自分の行いなどについて、自分で恥ずかしく思うさま)

ひょうきん(軽率で滑稽なこと。気軽でおどけること)

たんげい(推測すること)

かくしゃく(年老いても、丈夫で元気なさま)

しっぽく(そば、うどんに、蒲鉾、きのこ、野菜などの具をのせ、かけ汁をかけた料理の名)

おから(豆腐の滓)

からすみ(ボラなどの卵巣を塩漬けにしたあと干し固めた食品)

えっ!本当?女性が望む結婚条件って三高から三低へ

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  1980年代末のバブル全盛期に「三高」という言葉が流行った。「高学歴」、「高収入」、「高身長」の男性を結婚相手の条件に望むことである。このブームのためにケペルの婚期はずいぶんと遅れた。いま「現代用語の基礎知識2009」を購入して拾い読みすると、「三低」という言葉があるそうだ。今年の流行語ではなく、数年前から現われている言葉かもしれないが、ケペルは知らなかった。「低姿勢」、「低リスク」、「低依存」、つまり腰の低いこと、公務員のようなリスクの低い安定した職業に就く男性、束縛しない男性を意味する。働く女性が一般的になったこと、経済的にも共働きが必要になってきたことなど、時代の反映であろうか。医師やIT長者のヒルズ族がモテまくるという噂は聞かなくなった、音楽プロデュサーの小室哲哉は究極の三高の男性だったが、10億円の資産があっというまに女性たちにむしりとられたことなどを考えると、いま時代は急激に変わっているのかもしれない。

最澄と山林修行

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          比叡山延暦寺根本中堂の内庭

    伝教大師最澄(767-822)は、近江国滋賀郡古市郷の人。俗姓を三津首広野(みつのおびとひろの)という。12歳で出家し、14歳で得度して最澄と号した。19歳で東大寺の戒壇で具足戒をうけた。しかし、彼が奈良において眼のあたりに見たものは、内容の伴わない外形の盛儀と、寺院僧侶の腐敗堕落ぶりとであった。延暦4年、叡山に入り、草庵を結んで教学の研究に没頭し、発菩提心の願文をしたためた。延暦13年に鎮護国家の道場として根本中堂(一乗止観院)を建てた。

    平安時代の仏教の主流は、比叡山延暦寺や空海の高野山金剛峰寺を中心に展開された。人里は離れた山林は、その静寂さのなかで僧尼が神経を集中させ、時には苛酷な自然条件を絶え忍んで苦行を行なう修行の場として最適の条件を備えており、また中央権勢に接近して名利を得んとすることを拒むという利点があった。だが最澄を山林に導いたものは、奈良時代以来の山林修行の伝統であったと考えられる。たとえば天平6年、唐から来朝した道璿(どうせん、699-757)は、鑑真に先立って戒律を伝えた三論宗の高僧だが、天平勝宝3年、朝廷の優遇を嫌って吉野の比叡山に隠居し、持戒修禅につとめたという。最澄の師主、行表(722-797)は、この道璿の弟子であった。

2008年11月15日 (土)

平泉澄「少年日本史」

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   海軍少尉  黒木博司

   ケペルは少年時代、歴史物語が好きで中村孝也(1885-1970)の本を愛読していた。友人にはだいぶん非難されたが、ケペルはいまも好きで大切に所蔵している。しかし平泉澄(1895-1984)の「少年日本史」(時事通信社)は少し難解だったので読むことができなかった。大人になった今でも読むには骨が折れる。しかし南北朝の時代など流石に詳しくて参考になるところが多い。つまり、中村孝也や平泉澄は戦後も子供向けの歴史書を執筆し、かなりの影響力を与えていたのである。

    ただ残念ながらケペルの読書力では「少年日本史」を読破できなかったので、最終章「大東亜戦争」を読まずに終った。いま拾い読みして驚いた。なんと特攻の兵器である人間魚雷回天の話で締めくくっている。黒木博司(1921-1944)は回天の創案者だが、平泉澄の教え子だという。やはり皇国史観の歴史家にとって、憂国の至誠の教え子の死が強烈なものであったのだろう。もちろん後の世代の者たちが、偏狭な国家主義、危険思想、軍国主義者、クーデターが起こる、などといくらでも批判することはたやすいことである。だがその時代を生きた個人の真摯な声に耳を傾けることも必要だ。何故かウィキペディアの黒木博司の項目は詳細である。伝記も多数出版されている。黒木が指を切って血書した幕末の志士・佐久良東雄(1811-1860)の歌が「少年日本史」の末尾に掲載されている。

   皇(きみ)の為 命死すべき 武夫(もののふ)と なりてぞ生きる 験(しるし)ありける

   佐久良東雄は、桜田門外の変で大老井伊直弼を襲撃した水戸浪士をかくまったとして囚われ、「徳川の粟を食わず」と獄中で絶食死した志士・歌人で戦時中は広く知られていた。

2008年11月14日 (金)

戦後育ちの歴史認識

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    最近「KY」は「空気よめない」の意味ではなくて、「漢字読めない」の略語だという。これは麻生太郎が漢字を読み間違える例が相次いでいるからだ。「未曾有」を「みぞうゆう」、「頻繁」を「はんざつ」と誤読した。最もひどいのは「村山談話を踏襲します」を「ふしゅう」と読んだことである。空幕長論文問題で政府の姿勢が問われる重要問題だけに、この件では支援していた流石の朝日新聞もズツコケたであろう。政治家の歴史認識がどの程度のものであるか疑わしいが、すくなくとも日本語の基礎である漢字くらいは勉強してほしいものである。

    先日、「ごろ寝の人」さんからうれしいコメントをいただいた。やはり同世代の人とはどこかで共感できるものがあるのだろう。少年誌が空前の戦記ブーム、プラモデルも全盛だった。九里一平「大空の誓い」、小沢さとる「サブマリン707」、ちばてつや「紫電改のタカ」、吉田達夫「少年忍者部隊月光」、辻なおき「〇戦はやと」、園田光慶「あかつき戦闘隊」など。さらに詳しく知りたくなって「丸」を読んだりしていた。また小学館の「ホーイズライフ」は子供心にもカッコイイ雑誌だった。ところで、麻生太郎(昭和15年生)や鳩山由紀夫(昭和22年生)はどうやら良家育ちで漫画好きというが、昭和30年代の戦記ブームで育ったようには思われない。唐沢の論文に「田母神のどこが悪いんだ」というブログが多いことを指摘していたが、いま50代に「侵略戦争ではなかった」という考えを持つ人が多い背景には、おそらく昭和37年から40年までの少年誌の戦記ブームやアニメ「決断」で育った影響力が強いためだと考えている。村山談話の踏襲がたとえ政府の基本方針だとしても、子供のころに読んだ少年誌の影響のほうがはるかに大きいのだ。だが政治家一家で育った御曹司たちはそのような単純なものではなく、一般国民とはかけ離れた感覚の持ち主であるので、彼らの歴史認識はとても理解できかねる。

空幕長論文問題とトンデモ本

    朝日新聞2008.11.13付「私の視点」で空幕長論文問題で三人の識者、北岡伸一、唐沢俊一、志方俊之の論説が掲載されている。なかでも唐沢俊一の「陰謀論にはまる危うさ」が図書館員としては気にかかる。肩書きによれば唐沢は「と学会」会員であるという。「世の中には荒唐無稽な主張を展開するトンデモ本があれている。私は、トンデモ本を研究すると学会会員として、数多くのトンデモ本を読んできたが、田母神論文にはトンデモ陰謀論の典型的なパターンが表れているように感じる」と書き出しの8行を引用すれば、論文の趣旨はだいたいおわかりいただけると思う。このブログでも「孝明天皇は毒殺だった」「明治天皇は替え玉だ」「広開土王は仁徳天皇だ」などドンデモ論を過去記事にしている。歴史の世界でいえば、江上波夫の騎馬民族征服説は学校の授業ではトンデモ論として扱われてきたが、ケペルはかなり信憑性の高い学説だといまでも考えている。結論的にいえば、唐沢俊一の意見には全く反対である。「トンデモ本」の定義自体あいまいであるが、擬似科学だけでなく、最近では皇国史観の本やそれなりにマジメに書かれた本などもさすようである。だが「トンデモ本」というふざけたネーミングで、ラベリングすること自体問題であり、言論の自由を損なうものである。図書館の世界ではよく知られ事件であるが、船橋市立西図書館で女性司書が個人の判断で特定の図書107冊を廃棄して問題となった。特定の図書とは西部邁の本が36冊、渡部昇一の本が22冊である。いわゆる扶桑社の新しい歴史教科書をつくる会とか自由主義史観研究会、藤岡信勝、産経新聞社、日本文芸社、ワック、二見書房など一般によく流通している近現代史の歴史読物の類である。自分の家の蔵書の中からこれらの本を何十冊さがすことも容易である。ブックオフ100円で売られているからだろう。藤岡信勝「教科書が教えない歴史」、「渡部昇一の昭和史」など中味は田母神論文と共通している。ところで船橋の女性司書が何故これらの特定の本を除籍したのか、詳しい動機はわからないが、おそらく唐沢のいう「トンデモ本」であるという認識があったのだと考える。図書館の世界では「図書館の自由宣言」というのがあって、読者の自由を保証するという社会的使命が最も重要だとされている。したがって、「トンデモ本」となどいうラベリングで廃棄することこそ、とんでもないことである。また朝日新聞が言論の自由を否定するかのような論説を連日掲載していることも社会的に害悪を与えている。第ニ、第三の船橋の司書が出現しないともかぎらない。ケペルは一応は大学の史学科卒業で実証主義的な論文を書くことを教えられた。だが、その高名な実証主義的な教授が海外留学をした経験では「緻密な資料の考証の上にたって歴史研究をされ人もいるだろうが、ライターといって軽い読物をリライトして読みやすい歴史を書くこともあっていい」と教えてくれた。ブログはまさにその世界である。大雑把なようにみえても短文が案外と真をついていることのほうが多いのが歴史叙述である。

新薬ペニシリン

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  森永三島工場でペニシリンを培養

   第二次大戦中、戦死した兵士の直接の原因は銃弾によるものよりも、負傷による破傷風などの細菌感染で命を落とすことのほうが多かった。そのため、細菌を殺すことのできる新薬の研究が急務であった。現在、広く治療に用いられる抗生物質ペニシリンは、イギリスの細菌学者フレミングによって発見された。1940年になってアメリカで抽出法があみだされ、1943年から大量生産が始まったが、当時はペニシリンは高価で入手しにくい薬だった。

    韓国ドラマ「クッキ」(1999年)は戦後のお菓子職人クッキの波瀾万丈の人生を描いたドラマであるが、前半部分に「ペニシリン」の話が登場する。韓国独立運動の闘士ヨンジェ(クッキの父)とチェ・ミングォンが日本軍の病院からペニシリンを得る場面がある。当時の日本軍はペニシリンを瓶の中で培養できるため、牛乳プラントの設備で転用できた。昭和19年12月に、日本初のペニシリンの製造が森永三島工場で開始された。ペニシリンは敵国語であるため「碧素(へきそ)」と呼ばれた。チェ・ミングォンが奪ったペニシリンは、おそらく森永製薬の碧素だったのだろう。

2008年11月13日 (木)

木魚の割れ目で思い出す

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ローマの奴隷市場 ジャン=レオン・ジェローム画 1884年

   最近、街で見かける若い娘さんのぴったりとしたズボン姿に目のやり場に困る思いをされる男性もさぞかしおられることだろう。たとえば階段やエスカレーターなどで女性のお尻が目の前にくることもある。小心者のケペルはドキドキの通勤タイムである。「浮世を忘れた坊主でさえも木魚の割れ目で思い出す」という唄があるが、洗濯する女の白い脛に惑わされた久米の仙人の話や、旧約聖書のダビデ王がバテシバの入浴姿に欲心を生じた話など古来枚挙にいとまない。明治の教育家・狩野亨吉(1865~1942)は、死後、蔵書の中から多数の浮世絵、春画、芸妓などの資料が出てきた。生涯独身であった彼だが、学術的資料収集のためであるのが性的好奇心であるのはわからないが、女性への関心はいつの世も不滅であることを知らされる話である。

   本日の夕刊によると、女性のお尻を携帯電話のカメラで撮影したことに対して「下品でみだらな行為」として条例で禁ずる「みだらな言動」にあたる逆転有罪が確定した。これに対して、のぞき見などの行為とは質的に異なるとして卑猥との印象は抱けない、という反対意見もあったようだ。なにが「卑猥」であるかの一定のガイドラインが明らかではない。このように裁判官の判断も分かれるし、とくに性的犯罪に対しては個人個人の感情に左右されやすいものである。裁判員制度導入などでこの種の案件があれば司法判定にブレが生ずるかもしれない。スカートの中を盗撮したとか、トイレを撮影したとか明らかな犯罪行為であるが、今回の判決で、ズボン姿の1~3メートルの距離からの無断撮影が有罪となったことで、現代の男性には自分の弱い心と打ち勝たなければならない日々が続きそうだ。ケペルは携帯電話も持っていないが、とにかく女性のお尻にはご用心を!

長塚節と黒田てる子

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    ブログ記事「長塚節、愛と死を見つめて」(2007.6.25)の文中、黒田てる子の没年を誤記したために、いろいろご迷惑をかけたようです。正しくは、昭和37年7月24日没で、享年72歳です。出典は、石川義雄「長塚節と神田(下)」(日本古書通信第46巻第11号、昭和56年11月15日)、8~9頁です。長塚節の関係文献は多くても、黒田てる子の晩年を記述した文献はそうそう見当たらない。石川は黒田てる子の令息石田詮に面会し取材しています。黒田てる子の日記の最終頁に「亡き影に叫びて冷し夏木立」の一句がポツンと書き残されており、「それがいかにも意味シンである」と書いている。

晩年の母は、ある意味ではすべての責任を果し、亡父(石田貞一郎への義務感からも解放されていたようで、長塚氏にいだいた母の慕情がどのようであったか、また長塚氏がそれにどのように応えていたか判るような気がします。

   石田詮は晩年のてる子についてこのように語ったという。それにしても長塚節とてる子の愛の物語は美しい。

啄木と橘智恵子

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弥生小学校の女教師たち(右から2人目が橘智恵子)

    明治40年6月11日、石川啄木(1886-1912)は、友人吉野白村の世話で、函館区立弥生尋常小学校の代用教員となる。月給12円。彼が21歳のときである。弥生小学校で同じく代用教員をしていた橘智恵子(1889-1922)を知る。啄木は智恵子を「まっすぐに立てる鹿ノ子百合」と表現し、智恵子に魅かれていた。智恵子の実家は札幌郊外にあり、林檎園を営んでいた。明治43年5月、智恵子は北海道岩見沢の牧場主北村謹(きん)と結婚する。啄木は上京するが、貧困生活の中、体調を崩し、それを風の便りに聞いた智恵子は当時高価であったバターを送った。

 石狩の空知郡の

 牧場のお嫁さんより送り来し

 バタかな。

    智恵子は、北村に嫁いで12年後の大正11年11月1日に6人目の子供を出産した後、産褥熱のため33歳で亡くなった。

智恵子さん!なんといい名前だろう!あのしとやかな、そして軽やかな、如何にも若い女らしい歩きぶり!さわやかな声!二人の話をしたのは、たった二度だ。一度は大竹校長のうちで、予が解職願をもって行った時。一度は谷地頭のあのエビ色の窓のある部屋で、そうだ、予が「あこがれ」を持って行った時だ。どちらも函館でのことだ。ああ!別れてからもう二十ヶ月になる!(日記より)

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2008年11月11日 (火)

木枯らしの舗道

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  「秋深き隣は何をする人ぞ」 (芭蕉)

  秋もこう深まってくると物悲しくなります。朝夕の冷え込みも厳しく、エアコンの暖房を初めて入れました。深まる秋には自分にとってのお気に入りの一曲を聞くのが一番です。天地真理は軽やかなポップなヒット曲が多いですね。例えば「ちいさな恋」「ひとりじゃないの」「ふたりの日曜日」「虹をわたって」「恋する夏の日」です。でもちょっぴり切ない感じの曲もなかなかいいです。「水色の恋」「若葉のささやき」「想い出のセレナーデ」。この季節に聞くなら、「木枯らしの舗道」が深まりゆく秋のムードにぴったりします。

 街の舗道に木枯らし吹きぬける

 さよならを言いましょう 次の角で

 いつか月日が 流れていったなら

 すばらしい青春と 思うでしょう

 山のぼり 魚つり いろんなことを

 教えてくれた あなた

 そんなことするだけで しあわせだった

 帰らない あの頃が とてもいとしい

「仙台」地名の由来

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    広瀬川の左岸、昔の宮城野の一部を占める東北地方の中心都市・仙台。もともと仙台城跡には伊達政宗以前に当地方を領していた国分氏のかつての居城「千代城」(せんだいじょう)があった。近くに千体の仏像を納めた「千体仏(せんだいぶつ)」という仏堂があったことから、国分氏は「国分家が千代続くように」との願いを込めて、「千体」→「千代」と呼ぶようになった。

   伊達氏が千代を支配するようになると、伊達政宗は漢の文帝建造の壮大な宮殿「仙遊観」を唐の詩人・韓翅(かんこう)が讃えて読んだ漢詩「同題仙遊観」の中の「仙臺台初観五城楼」から、これを「仙台」と改めたという。

    なお「東奥老士夜話」などによれば、築城候補地として石巻の日和山ほか城下南の野手口)(大年寺山)、同東の榴ヶ岡などがあげられ、うち榴ヶ岡を希望地としたが、第一希望は幕府が認めまいと千代城を求めたところ願いどおりになったという。

貴族階級はいつも無定見である

    麻生首相が国会で、戦争責任に関する政府見解で「村山談話をふしゅう?する」という答弁を何度も繰り返した。「ふしゅう」とは「踏襲(とうしゅう)」の誤読だという。麻生はこれまでも、前場(ぜんば)を「まえば」、有無(うむ)を「ゆうむ」、詳細(しょうさい)を「ようさい」と誤読している。漫画が好きで漢字が苦手というのは分からぬでもないが、「村山談話を踏襲する」が正しく読めないようでは、本人がどこまで戦争責任を感じているか疑問である。かつて「小説の神様」とまで讃えられた志賀直哉は戦時中に「シンガポール陥落」という短文で時局に迎合する文章を書いたが、戦後はすぐに変節して、「国語問題」という一文を「改造」に載せている。「私は此際、日本は思ひ切つて世界中で一番いい言語、一番美しい言語をとって、その儘、国語に採用してはどうかと考えている。それにはフランス語が最もいいのではないかと思う。六十年前に森有礼が考えた事を今こそ実現してはどんなものであろう。不徹底な改革よりもこれは間違いない事である」と平気で言っている。麻生にしても志賀にしても貴族社会で育った人は現実離れしている。体制が変われば言説を変えることは平気である。

2008年11月10日 (月)

むすめ踏切番・井上くら

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    かつて国鉄には女性の踏切番が全国に大勢いたらしい。いま「踏切番」という用語は放送禁止で「踏切警手」「踏切保安係」と言い換えられる。したがって松山恵子の歌謡曲「むすめ踏切番」(昭和33年)もラジオで聞くことができない。昭和16年10月14日の朝日新聞に兵庫県飾磨市細江の井上くら(55歳)が35年間も踏切番を続け、無事故であることから大臣から表彰されたという記事がある。なんと明治44年の20歳の頃から昭和16年に至るまで、女ながら地道に精進したことが軍国美談として新聞記事にも大きな扱いとなっている。大正時代には、流行歌のように全国に「むすめ踏切番」がいたのだろうか。飾磨(しかま)市とは聞きなれないかも知れないが、姫路市南部の地区で、昭和15年から21年まで市であった。井上くらは飾磨港線天神踏切の警手だった。

2008年11月 9日 (日)

中野重治と吉田松陰

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   福井県坂井郡高椋村一本田の出身である中野重治(1902-1979)は、大正13年、東京帝国大学文学部ドイツ文学科に入学する。以来、東京での生活が続いた。39歳の中野は世田谷の豪徳寺の近くに住んでいたが、幼い娘を連れて松陰神社をしばしば訪れて礼拝している。「卯女手をうって礼拝す。吉田寅次郎の墓を拝み感動す。ぼた餅をつくる。午後ぼた餅のお客。また一同にて松陰神社に行く。ぼた餅うまし」と「敗戦前日記」の昭和16年9月23日に記している。プロレタリア文学運動の代表的理論家として知られる中野重治と幕末の勤皇志士・吉田松陰との関係を不思議に思うかもしれない。「日本は侵略国家か」という議論において、近代日本のアジア進出の思想的淵源を吉田松陰に求めることは無理なことではない。だが、吉田松陰を尊敬する人はいても、悪しざまに言う人はいない。至誠をもって一生を貫き通した人生に感銘をおぼえるのである。つまり中野重治はレーニンやトロッキーを革命家として尊敬するように、吉田松陰を時代を変革する志ある人として尊敬していたのではないか。戦後教育を受けた者は、左翼か右翼か、自民党か共産党かでラベリングする見かたをして、自己に利益のある立場で発言するようであるが、松陰のような純粋な行動力や志は、やがて高杉晋作をはじめとする塾生に引き継がれていき、戦前までは左右関係なく若者へ受け継がれていたのである。もしも松陰が今の時代にいたならば、きっと「恥を知れ」と政治家たちにいうであろう。

それでも地球は回っている

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富山県泊町での宴会の写真を証拠として弾圧がなされた

   宗教裁判で地動説が間違いであることを強要させられた天文学者ガリレオは、小さな声で「それでも地球は回っている」と言った、という逸話は子供にもよく知られている。これは国家権力による思想弾圧の有名な事例であるが、昨今世論を賑わしている田母神俊雄が政府見解と異なる論文を発表し、更迭されたという問題が、言論の自由や思想弾圧と無関係なことと本当にいえるのだろうか。自民党、民主党、共産党や朝日新聞など巨大メディアすべてが田母神攻撃をしている状況をみると何かこの国の異常さを感ずる。たんに戦後の呪縛といってすますことのできない根深い問題である。

    話題は変わるが10月31日、平成14年3月に申し立てた横浜事件の第4次再審請求について、開始されることが決定したという。横浜事件とは、太平洋戦争中に神奈川県特高課が細川嘉六の雑誌論文を手がかりに西沢富夫らの日本共産党再建計画をでっちあげ、さらに雑誌編集者や調査研究所員らあわせて70余名を検挙し、拷問で5名を獄死させたというものである。再審請求は、平成3年1月最高裁によって棄却されたものの、別の遺族の件が申し立てて最近再審請求が認められた。この事件も発端は「改造」に掲載された細川嘉六の論文「世界史の動向と日本」である。この時代は悪名高い治安維持法の下で行なわれたものである。ケペルは保革、左右のいかなる陣営に属するものではなく、理性と良心にしたがうのみである。しかし民主主義の名のもとにおいて、日本の将来を論ずる意見内容で各政党やマスコミが大政翼賛会のように、村山談話を御旗として、言論弾圧、思想攻撃をすることは恥ずべき行為であると考える。田母神の参院参考人招致がガリレオの宗教裁判にみえるのはケペルだけであろうか。

2008年11月 8日 (土)

徳山璉と波岡惣一郎

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         「ヒゲの徳さん」  徳山璉

    テノール歌手秋川雅史が平成18年の「紅白歌合戦」で「千の風になって」を歌って俄かにクラシック系歌手が大衆にも注目されるようになった。男性歌手がシングルチャートで第一位となるのはクラシック系では初の快挙であった。ただし、これはオリコンという調査ができてからのことであり、戦前の大衆歌謡といえば、むしろクラシック系歌手が大勢を占めていた。佐藤千夜子、徳山璉、四家文子、中村淑子、長門美保、増永丈夫(藤山一郎)、波岡惣一郎、滝田菊江、東海林太郎などなど。

   徳山璉(1903-1942)は東京音楽学校を出て武蔵野音楽学校で教えたり、ベートーベンの「第九交響曲」のバリトンを歌ったり、「侍ニッポン」「ルンペン節」「歩くうた」「かんかん蟲は唄う」「悲しきジンタ」「夜の酒場に」「ブン大将」などのヒット曲を飛ばす。「♪トントントンカラリンと隣組」という国民歌謡「隣組」は一代の人気歌手徳山璉の最後のヒット曲となった。

    昭和17年に徳山が38歳の若さで亡くなっため、波岡惣一郎(1910-1951)がビクターのトップ歌手となった。昭和20年の大晦日に放送された「紅白音楽試合」のトップバッターは紅組の小夜福子「小雨の丘」、白組の波岡惣一郎「春雨小唄」である。

    戦前・戦後を通じてレコード歌手があまた現われたが、徳山璉ほどの豪快で幅の広い歌手は他にいない。三省堂の「コンサイス日本人名事典」に徳山璉が収録されていないのは残念である。岩波書店の「広辞苑」でも物故者を追加して収録いるが、徳山のような偉大な歌手を再評価してもいいのではないだろうか。徳山抹殺の背景にはクラシック界における歌謡曲を歌うことへの嫌悪や戦時軍歌への抵抗感があったのだろうが、これも戦後の呪縛の一つかもしれない。

零戦のエンジン

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    戦争漫画といえば貝塚ひろし「ゼロ戦レッド」を思いうかべる。調べるとなんと昭和36年から41年まで6年間にわたって「冒険王」に連載されていた。もちろん購入するお金はなく、森市場のエスペローという新刊書店で、新刊雑誌を一夜貸し10円で読んでいた。だがほとんど零戦の詳細な知識はもたなかった。大人になって出張で群馬県太田市の「中島記念図書館」にいくことがあった。そこで中島飛行機の創立者である中島知久平(1884-1949)のことを初めて知った。零戦の設計・制作は三菱重工で堀越二郎技師であるが、飛行機の心臓と言われるエンジンは中島飛行機製作の「栄」である。陸軍の主力戦闘機「隼」のエンジンも製作している。

    ゼロ戦の正式名称は「零式艦上戦闘機」。零戦は戦時中10,430機生産されたが、これは日本一の生産数で、隼の2倍近い数字であった。9501-Pエンジン1基、最大時速533.4㎞。零戦は操縦性に優れ、日中戦争から太平洋戦争初期にかけて、向かうところ敵なしの活躍をした。

    中島は、明治17年1月1日、群馬県新田郡尾島村に生まれた。明治33年、上京し、明治36年10月、海軍機関学校に入学した。日露戦争後、海軍内で幅をきかせる砲術科に対し、機関科出身の中島は「戦艦よりも圧倒的に安くできる飛行機を大量に作って、戦艦を攻撃・撃沈すること」を力説した。そして大正6年末には、わが国最初の民間飛行機製作所(中島飛行機の前身)を創設した。中島飛行機はその後戦争拡大とともに軍用機生産で社業を拡張し、戦時中は関連機会工業を傘下に収める一大コンツェルンを形成、飛行機の3割近くを独占生産する大企業に成長して敗戦直前には一時国営に転換された。

2008年11月 6日 (木)

下手物趣味万歳

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      「太陽がいっぱい」のチラシ

    現在、「げてもの」と聞くと、グロテスクなもの、悪趣味なもの、下品なもの、粗悪なもの、という感じがするが、「げてもの」の起こりは、われわれの祖先が実用のため、切実な要求から生れた手工芸品のことをさした。製作者たちはいずれも名もなく、ただ自分が必要なものなので、これらの日常品を制作したにすぎない。しだがって、その品物は特別に新しい工夫もないかわりに、なんの野心もケレン味もなく、みじんの気どりもなく、それだけに自然に、素直に、のびのびと、大らかな魅力をもつものであった。大正時代の末ころから、都会のデパートや骨董品店の品物が上等と見なすようになり、日常品の並みの雑器は下手物(げてもの)といわれるようになった。

    ところで、古本屋の業界用語では、下手物(げてもの)とは、切手、マッチラベル、映画パンフレット、映画チラシ、めんこ、絵はかぎ、プロマイド、短冊、色紙など、古本屋が扱いながら、書物でないものをいう。ネットでの販売が普及する現在ではこれらの価値が充分に見直されるようになり、しばしば下手物が高価な値がつくようになっている。

2008年11月 5日 (水)

カッタイのカサウラミ

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   「いろはかるた」の「か」の文句「かったいのかさうらみ」の意味がちょっとわかりにくい。

   隣のベットの人は「あなたは2~3ヵ月の命です」と医師から告げられた。そして自分は「あなたは今週くらいしか生きられません」と医師に告げられた。私は隣のベッドの人を羨ましく感じた。自分よりわずかでも良い境遇の者を羨むたとえを「癩眉(かったい)の瘡(かさ)うらみ」という。もともとは癩病患者が梅毒患者を羨むことからきているという。

三国志ブーム

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   ブックオフへ買出しに行く。「三国志英雄伝」、三宮麻由子「鳥が教えてくれた空」「そっと耳を澄ませば」、松本清張「史観・宰相論」、「忍たま乱太郎へんてこなにんじゃの段」、「ふしぎな国のアリス」、「わんわん物語」、「古い住まいを美しくするインテリアテクニック」、「ミッケ6」、ピーター・コリントン「聖なる夜に」、「日録20世紀1939,40,41,42,44」購入。

歌笑と痴楽

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    ケペルは落語はほとんど聴かないが、子供の頃、好きだった落語家が一人いる。柳亭痴楽(1921-1991)だ。顔をくしゃくしゃにして、節を付けて話す。「柳亭痴楽はイイ男。鶴田浩二や錦之助、それよりずっとイイ男。上野を後に池袋、走る電車は内回り、私は近頃、外回り」と美文調が子供にはとても新鮮だった。有名な「痴楽綴り方教室」は、実は三遊亭歌笑(1917-1950)の「純情詩集」「歌笑綴り方教室」の影響によるものらしい。「七つ八つで帯解けて、十九二十は器量よし、世の移り変わりと共に怪異な容貌とはなりぬ…」とある。「怪異な容貌」とは、歌笑は強度の斜視で、エラの張った四角い顔だったからである。痴楽が「柳亭痴楽はイイ男」「破壊し尽された顔の持ち主」と顔をネタにするのも歌笑の影響によるものである。

    歌笑は、昭和25年5月30日、大宅壮一との対談を終え、銀座松坂屋前の電車通りを横断中、疾走してきたアメリカ軍のジープにはねられ死亡した。32歳の若さだった。翌日の新聞には小さい記事で掲載されていた。終戦直後の暗い世相を明るくした戦後最大の爆笑王の扱いとしてはひっそりしたものであったのは、加害者が占領軍の兵士であったためだろう。結局、ひき逃げ犯人はうやむやになったままであった。

2008年11月 3日 (月)

恥を知れ

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     大妻コタカ  (前列中央の和服の女性)

    大妻学院創立100周年記念式典が11月7日にあるが、それに併せて「大妻コタカ展」が開催されている。故人所蔵の生家写真や遺品が展示されている。大妻学院の創立者である大妻コタカ(1884-1970)は、大正5年大妻技芸伝習所を設立し、手芸・裁縫を教授。大妻実科高等女学校に発展。昭和17年大妻女子専門学校を設置し、良妻賢母教育を行なうが、大政翼賛会に入り、国粋主義的な婦人団体の幹部であったため、昭和23年12月8日、公職追放となる。解除後の昭和29年校長に復職。中学から大学までの大妻学院に発展させる。大妻コタカの校訓「恥を知れ」とは、「他人に対して言うことばではなく、あくまでも自分に対して言うことである。人に見られたり、聞かれて恥ずかしいようなことをしたかどうかと自分を戒めることである」と自己を律することを常に説いていた。

女性専用って、男性差別?

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   最近のニュースで「女性専用車両に反対する会」が、新宿駅で警察官ともみ合いになったと聞いた。会の活動は女性専用車両に乗り込んだり、反対の署名活動などである。平成13年以降、首都圏、関西圏で女性専用車両の導入は広がっていった。女性が安心して乗車することを目的としたものであるが、今年ころからネット上では女性専用車両は男性差別ではないかという指摘がかなりみられるようになった。この種の動きは、鉄道だけではなく、平成18年にJR函館駅構内に女性専用のパスタ店ができ、マスコミに取り上げられて物議をかもしてから、女性専用とする各種の店にも悪影響を及ぼしかねない情勢である。ケペルは女性専用の店がいけないとは思わない。大阪ミナミにこの秋、女性専用のネット・カフェがオープンしている。一万冊の少女コミックや骨盤矯正マシンやスチーム式美顔器などを備えている。カフェ難民のイメージを一新し、女性客の取り込みを図る動きも出ている。サービス業として女性専用とし重点的に行なうことは健全な営業活動だと思う。女性専用車両に関しては公共交通機関なのでいろいろ論議の余地はあるだろうが。

   では女性専用の図書館ってあるのだろうか。日本では唯一、「お茶の水図書館」がある。主婦の友社の創業者である石川武美(1887-1961)が昭和23年11月28日、「女性・生活・実用」をテーマに私立の女性専用図書館を開館し、現在も存続している。入館料は300円するが、保存雑誌のタイトル数は充実している。

君の名は氏家真知子

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    「恋というもの知りたくて あの娘の名まえを 呼んでみたら 俺の心のかたすみを 冷たい夜風が吹きぬけた」(作詞・浜口庫之助)にしきのあきらの「もう恋なのか」は何故かこころにしみる歌だ。女の名前には何か魔法のような響きがある。歌謡曲にも女の名がつけばヒットする。フランク永井の「チャコ」(夜霧に消えたチャコ)、「霧子」(霧子のタンゴ)、橋幸夫の「江梨子」、小林旭「しのぶ」「なぎさ」(昔の名前で出ています)「純子」、長渕剛の「順子」など名曲が多い。文学の世界でも堀辰雄の「菜穂子」、野上弥生子の「真知子」など印象深い作品がある。おそらく菊田一夫は「君の名は」のヒロイン氏家真知子の名を、野上の小説「真知子」から借用したのではないだろうか。

    小説家はヒロインの名前を考えることにさぞかし苦労するだろう。松本清張の小説に「霧の旗」というのがある。ヒロイン柳田桐子は弁護士に異常ともいえる復讐をする。「桐子(キリコ)」とはインパクトのある名である。やはり当時流行った「霧子のタンゴ」から借用して、「キリコ」を漢字変換したのではないだろうか。タレントの磯野貴理子(現在は磯野貴理)は、二人の姉がいて、三人目だったので「女はこれっきりだ」と「貴理子」になったというが、これでは笑い話になってしまうが。

   「菜穂子」という名にはステキな響きがある。むかし久保菜穂子という美人女優がいたが、現在はあまり使われない名のようだ。女優の戸田菜穂も当世風に「子」を除いているが、「戸田菜穂子」のほうが魅力的な感じがする。かつてのアイドル歌手の「諸岡菜穂子」は、かなりの努力家なのか現在、「諸岡なほ子」として、「世界ふしぎ発見」のレポーターなどで活躍しているのがうれしい。

    「しのぶ」という名も好きだが、「大竹しのぶ」は、演技力も素晴らしいものがあったが「しのぶ」という名で人気がでたのではないだろうか。名から受ける貧乏くささ、田舎くささがいい。やはり「青春の門」の「織江」のイメージは強烈である。もし「大竹しのぶ」が「大竹真知子」や「大竹菜穂子」だと、近代的で知的な女性というイメージとなり、売れなかっただろう。

   芸名には変な名も多い。タラコ(「ちびまる子ちゃん」の声の人)、タガメ(田村たがめ)、おかめ(紅屋おかめ・歌手)、ケメ子(松平ケメ子・歌手)、ピン子(泉ピン子・女優)、パー子(林家パー子・漫才師)などなど。吉永小百合という名前は本名だそうだが、もし芸名が「吉永ケメ子」や「吉永ピン子」であったなら、いかに彼女の美貌をもってしても女優として売れなかっただろう。名前にはその人の運命を左右するほどの魔力のようなものが潜んでいる。

何とかなるさ13800円

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    戦後の歌謡界に輝いた巨星がまた一つ堕ちた。ささやくような甘い歌声で「低音の魅力」といわれたフランク永井が、さる10月27日、肺炎をこじらせ死去した。76歳だった。

    若い頃、フランク永井は芝浦の米軍キャンプでトレーラーの運転手をしていたそうだ。事故で退職し、生活費を稼ぐために独学で歌を覚えて、米軍のクラブ歌手となったという。そういえば初期のフランク永井のヒット曲には車に関する曲が多い。「つらい恋ならネオンの海へ 捨ててきたのに忘れてきたのに バック・ミラーにあの娘の顔が 浮かぶ夜霧のああ第二国道」(夜霧の第二国道)、「からのトラック思いきりとばしゃ ビルの谷間に灯がともる 今日もとにかく無事だった」(13,800円)、「おもかげまぶたに裏路へ 出れば冷たいアスファルト 似た娘乗せてゆくキャデラック テイル・ランプがただ赤い」(東京午前三時)。

    「有楽町で逢いましょう」などの都会派ムード歌謡もいいけれど、お得意のジャズをもう一度たっぷり聞きたかった。

2008年11月 1日 (土)

松島松太郎と「天皇プラカード事件」

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    昭和天皇(1901-1989)の巡幸 昭和21年

   松島松太郎(1915-2001)は、大正4年、東京芝高輪で唐木細工職人の父・末吉、母・いねの次男として生れた。昭和5年、高等小学校を卒業して日本銀行に給仕として就職し、同時に大倉商業学校の定時制に入学した。在学中に、のちの理論社などの出版業を営む小宮山量平と左翼グループを結成した。昭和16年、東京三田の田中精機株式会社に総務課長扱いで就職した。敗戦をへて、昭和20年11月初旬、日本共産党に入党し、同時に田中精機に労働組合を結成して委員長に就任した。翌21年1月、春日正一(1907-1995)らと連絡をとりながら、日本共産党の組織づくりを指導した。昭和21年5月19日、皇居前広場で開かれた食糧メーデーにおける「天皇プラカード事件」で検挙される。

    この年は都市には失業者があふれ、物価は高騰し、食糧は不足していた。食糧メーデーで松島はプラカードの表に「詔書 国体はゴジされたぞ、朕はタラフク食ってるぞ、ナンジ人民飢えて死ね、ギョメイギョジ」、裏に「働いても働いても、何故私たちは飢えているのか、天皇ヒロヒトよ答えよ」と書いた。

   事件は社会的波紋を呼び、裁判所では弁護側が「不敬罪の存続は天皇制批判の自由を圧迫するものだ。天皇を国民的象徴とする改正憲法は不敬罪を以て国民に天皇を尊敬せしむるという根拠をさえ失っている」と反論するなど、そのゆくえが注目された。結局、昭和21年11月2日、「ポツダム宣言を受諾し降伏文書に調印した後においては、従来の天皇の特殊的地位は完全に変革し、その時以後これまで法的に認め難かったところの天皇の個人性を認めるに至った結果、かかる天皇の一身に対する誹謗、侮蔑などにわたる行為については不敬罪をもって問擬すべき限りでなく、名誉に対する罪条をもってのぞむを相当とする」として名誉毀損による懲役8ヵ月の有罪判決が言い渡される。一審有罪の後、弁護側は「親告罪である名誉毀損が、天皇の告訴なしになぜ成立するのか」という理由で控訴したが、二審(昭和22年6月28日判決)では「不敬罪だが大赦で免訴」となり、三審(昭和23年5月26日大法廷判決)では「大赦で審議できず」となった。

    松島松太郎は、のち党活動指導部の全国オルグを務め、昭和25年以降は神奈川県川崎に転居し、日本共産党の専従として活動した。昭和35年の安保闘争では神奈川県民会議の代表幹事として運動を指導した。昭和48年11月中央委員に就任。のち中央党学校(静岡県伊豆)の主事を務めた。平成13年8月9日、胃がんにより死去。享年85歳。

カップめんと庶民感覚

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   スーパーを視察するなど庶民派をアピールしている麻生太郎首相だが、民主党の牧山弘恵議員にカップめん一個の値段を聞かれ、「400円ぐらい?」と答弁し、あらためて庶民感覚のなさを露呈してしまった。

    ちなみにカップめんの代表といえば日清食品のカップヌードル。昭和46年5月の発売で当初、関東地方のみの販売で当初価格は100円程度だった。発売翌年の2月に、浅間山荘事件が起きると、機動隊員らがカップヌードルを食べる場面が全国に中継された。これによって、カップヌードルは全国販売となった。新製品「日清チキンラーメン受験生応援カップ」「出前一丁受験生応援カップ」の価格は各170円。マルちゃんの「赤いきつね」「緑のたぬき」は100円ショップでも売っている。カップめんのスーパーでの小売価格は100円以下のものも多い。貧乏自慢するつもりはないが、ケペルにとってはカップめんは高級品であり、ゆで麺を買うことにしている。

    さて、本日、午前中もブックオフへ行く。「ananカラダ ボディ第一主義」、ポーター「少女ポリアンナ」、「幽霊によばれた校長先生」、「日録20世紀1946,47,48,49,50,51,52,56,58」を購入。

人馬は進む麦畑

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    航空幕僚長・田母神俊雄の「日本は侵略国家であったか」という論文が不適切であるとして、浜田靖一防衛相は田母神を更迭する、ということが朝から話題になっている。田母神論文を読んではいないが、新聞で要旨を見る限り、田母神が自衛隊の制服組としては至極、当然の意見のように思える。とくに「自衛隊は集団的自衛権も行使できない」「武器の使用も制約が多い」「攻撃的兵器の保有も禁止されている」「がんじがらめで身動きできない」という意見は、昭和53年の栗栖発言を思いだす。栗栖弘臣は「現行の自衛隊法では、奇襲侵略を受けた場合、内閣総理大臣による防衛出動が発令されるまでに時間的ズレがあることを指摘し、自衛隊が超法規的に行動せざるをえない」として物議をかもした。文民統制(政治が原則的に軍事に優先する)の観点から田母神と同様に更迭された。栗栖発言から30年も経過したが、「他国から侵略攻撃されたらどうするか」という防衛上の問題はそのままで、その後も何人もの人の更迭劇が繰り返されている。今回の論文では、過去の歴史認識での問題であるが、「我流史観」「極端発言」「事実を曲げた空想小説」という朝日新聞の誇張表現のオンパレードが冷静さを欠いているように感ずる。過去の歴史の評価や判断は事実の検証の仕方や立場などによって異なるのは当然のことである。たとえ政府の公式見解と異なる個人的意見をトップが持っていたとしても、即更迭ではなく、政府部内でもっと議論を交えるシステムがあってもいいのではないかと思う。もし仮に、ケペル一個人が「我が国は侵略戦争であったというのはぬれぎぬ」という主張してはいけないのだろうか。大東亜戦争肯定論を主張するといけないのだろうか。朝日新聞の論説委員と同じ考えや政府見解を国民すべてが共有しないといけないのだろうか。過去の戦争論議をタブー視にしたり、戦後の呪縛にとらわれることのほうが恐ろしい気がする。

    徐州 徐州と人馬は進む

    徐州居いよいか 住みよいか

    洒落た文句に 振り返えりゃ

    お国訛りの おけさ節

    ひげがほほえむ 麦畠

   東海林太郎の「麦と兵隊」が口からでてくる。日本は盧溝橋事件をきっかけに泥沼の日中戦争がはじまった。昭和12年の南京占領で、国民政府は首都を南京から重慶に移した。日本軍は進撃を続け、昭和13年10月までに徐州、広東、武漢三鎮を占領した。昭和15年3月、蒋介石と対立していた汪兆銘を助け、傀儡の南京政府を樹立した。西安事件の後、国民政府軍と共産党軍は統一戦線をつくり、各地で日本軍に抵抗した。国民政府は米英仏から物質的な援助をとりつづけ、共産党軍はソ連を指導者とするコミンテルンの全面的な支援のもとに戦っていた。日本の軍事的行動を支持する国際勢力はなく、あるとすればドイツのヒトラー政権のみであった。軍事的には広大な中国大陸を全面的に支配することなど土台むりな話である。にっちもさっちも行かなくなり、自ら招いたこととはいえ深い泥沼にはまっていった。このような歴史を語るとき、もしかりに「日本は侵略戦争をしようと思って戦ったのではない」とか、「日本の安全のための戦いであり、侵略ではなかった」と発言すれば、朝日新聞をはじめとするマスコミは一斉に非難し、更迭や辞任に追い込まれるだろう。つまり「侵略戦争だった」といっておけば身の安全は保障される。現行の教科書では「侵略戦争」と明記されているだろうが、自ら歴史を綿密に検討することなく、「侵略戦争だった」ということが、ある種の処世術となっている世の風潮に義憤を感ずる。むしろ日本人の誇りをもって発言した田母神に清々しさを感じる。

 

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