2009-07-06 最近の流行
ミサの中でキリスト者がいっしょに祈り、いっしょに聖書の言葉を聞き、一緒に日常生活のすべてを表すパンと盃をささげて、キリストの食卓にあずかります。
ミサは形式にこだわる儀式になってはいけません。
ミサは司祭を囲んで行われるのではなく、キリストの食卓を囲んで行われるものです。わたしたちは、ミサに受身の形であずからず、ミサをつくりながら参加するのです。
ミサの前と後でミサに集う人々の親睦がなければ、そのミサは未完成です。
ミサには、入祭と閉祭の所があっても、始も終りもありません。ミサは「...」ではじまって、「...」で終わりますが、日常生活のすべてが、ミサの前触れと続き出でなければそのミサは無意味になるのです。
ミサは決してこの世を忘れてあの世を考えるためではありません。
ミサは個人主義的な祈りでもありません。
「分かち合い」と「人間解放への関わり方」が欠落している教会は教会とも言えなければ、その教会で行われるミサも無意味です。
ここから言えることの一つとしてはカルワリオの丘であった出来事がそこで再現されているという事に対する言明がありません,
これではプロテスタントの聖餐式と変わりがないのではないでしょうか。
天主が罪を贖うことに着いても言及がありません。
人間開放とは何から開放するのでしょうか?
原罪の結果、死ぬようになった人間が永遠の生命に入れるようにするためにあるのではないでしょうか。
非難ばかりじゃ芸がないのでもう一つ。
村の人々は子供のときからイエスを知っています。イエスは長男で、その兄弟姉妹を皆知っています。四人の弟たちの名前もあげられています。ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンです。妹たちの名前は挙げられていないが、「姉妹たちも我々と一緒に住んでいるではないか」と言っています。(聖書学のふ十分な釈義の本では「兄弟姉妹」のことを「従兄弟たち」におきかえるのですが、教義上そういう読み方をする必要がありません)。
聖母マリア様が終生童貞であったことをやんわりと否定しているように思えてなりません。
現在、教会の中でも似たことが起こります。たとえば、婦人会・壮年会・青年会などの中でも、イエスのように自由に意見を述べる人はのけ者にされ、「前例のないこと」を提案する人は外され、社会的な関心を持つ人は「赤よばわり」されたり、日本的に「長いものに巻かれ」たくない人は「反逆者あつかい」されたり、日本的な「役人気質の上下関係」と封建的な「先輩・後輩」関係にこだわらない人は「変わったもの」としてあつかわれたり、敬遠されたりすることがあります
前例のない事を提案すると外されと書いてありますがトリエントミサを捧げて下さいと行ったどうなるのでしょうか?
きっとけしからんと言われるのでしょう。
2009-05-28
■【カトリック】ミサ【典礼】
6月12日のイグナチオ教会のミサは天使ミサをやるようなことを書いてありました。
歌をラテン語でやるということでおkでしょうか。
kyrie
gloria
sanctus
agnus dei
ですね楽しみです。。
novus ordo massを東京でもラテン語でしていても大体通常文を信徒は答えられないという事態です。
ラテン語聖歌を排斥している状態は少しよくなったのかなと思います。