inigoの日記

2009-09-03

日本に於ける典礼破壊 典礼 

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私女だけど聖伝ミサも捧げられない司教様なんて・・・・

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まーた手をつないで主の祈り 

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どうしたら祭服に東京タワーなんか着けるセンスの司教様がトリエントミサを捧げられるの?

生け贄を捧げるんじゃなく、場末の社交場よ。

こういうお馬鹿な事をするから、司祭職を志願する若者がいないのよ。

自分が(In persona Christi) 天主へ生け贄を捧げ、人々の罪を赦すこれは神秘よ神秘。

この写真から神秘性が垣間見えるかしら。

誰がこんな愚かな三文芝居のようなの物を見て男の一生を捧げて、司祭職を全うできるのかしら。

あのね、アンリ枢機卿様がたしなめるずーっと前からおかしいのよ。

オリエンスの本がおかしいって書いてたけれどアレよりもひどいのが普通よ。

http://www.tokyo.catholic.jp/text/kyokunews/1992/kn098b.htm


幸田和生神父の話は 「子どもと共に捧げるミサ」 の工夫について。 普段、 何気なく節目ごとに子どもミサを捧げていた私たちにとっては、 いきなりの”衝撃波”といったところ。

例えば、 大人である私たちでさえも十分でないミサへの準備を、 子どもに徹底させていたり、 「踊るミサ」 をはじめとして、 子供自身の信仰の表現をさまざまに工夫してミサの中に取り込むなど、 その話たるや、 驚きと喜びの連続だった。 中でも、 初聖体を受けていない子や、 受洗していない子のために、 ミサとは区別した上で、 手づくりのパンで 「祝福の儀 (食卓) なるものを試みた」 との話には感激! 「私は普通の子だから、 パンはいただけないの」 と、 いつも淋しげに話しかける子どもの顔を思いながら、 是非私たちも試みたいという意欲が沸いてきた。

−私たちはどんな工夫ができるだろうか−。 頭の中はいつの間にかそんな考えで大忙し、 いつもは退屈そうなミサ中の子どもたちの顔が、 喜びや、 感謝の笑顔に変わっていくような気がした。 ミサの話でいろいろと考えさせられた後は、 中能氏による 「クリスマス会・ゲーム講座」 でリフレッシュ。 お金をばらまきながら踊るリーダーや、 勢い余って尻もちをつくリーダーも出現。 みんなが1つになってさわやかな汗をかき、 新しいレクリエーションに興じた。

ゲームでの大切なことは、 「子どもの期待を裏切らないこと。 そして、 本当に子どもと一緒になってゲームを親しみたいという気持ちを持つこと」 !近頃、 子どものノリが悪かった原因はこれかなって思うと、 子どもたちとゲームをしたくて仕方がなくなるあたり、 気が早いというか何というか…。

あのねミサへの準備って行ったら良心の究明よ良心の究明。

ちゃーんとイエズス様を迎るために告解をして、霊魂を奇麗にするのよ。

タルチシオの殉教なんて華麗にスルーね。

聖体への愛が感じられないわ。

これだから、東京は召命がないのよ。

あのね、神父様が政治活動に熱心になったのは第二バチカン公会議が悪いのよ。

現代世界憲章や教会憲章が悪いのよ。

言っとくけれど、ノヴスオルドミサで神聖なものを探すのは砂漠で湖を探すくらい難しいわ。

Dzs1644

また毎年、特別の祝日に特別の祭典をもってこの秘跡を崇敬し、行列を作って、道路と公の場所をめぐって崇敬する、信心深い習慣が天主の教会にとり入れられたことを聖なる公会議は宣言する注。また、すべてのキリスト信者が、救い主の勝利と凱旋を表わすこのように言い表わせないほどのすばらしいたまものに対して、特別の感謝の気持を表わし、それを記念するために、聖なる日が定められたのである。虚偽と異端が真理に打勝って、このように輝かしい秘跡、このように全教会が喜びをもって祝うこの秘跡の反対者たちは、衰弱して少数となり、あるいは恥入り、混乱して、いつかは正しい道に立帰るであろう。

そういえば、Suscipiat Dominus sacrificium de manibus tuis ad laudem et gloriam nominis sui, ad utilitatem quoque nostram totiusque Ecclesiae suae sanctae.

神の栄光と賛美のため、また全教会と私達自身のために、司祭の手を通してお捧げするいけにえをお受け下さい。

ここの生け贄を否定したって炎上したけれど、生け贄を否定したらプロテスタントよ。


聖変化には質量(材料)と形相(言葉)と意向(意志)が無いとパンよパン。

残念ながら、聖変化は???よ。

あのね最近の司祭の文章を読んでいたら、興味深い事を書いていたわ(http://www.rokko-catholic.jp/articles/200908/from_parish_priest.html

総則に忠実ねw

あのね司祭が主役なのよ。

会衆はいてもいなくても問題ないの。

会衆はキリストを現存させることは出来ないのよ。

でもねこの神父様どこの所属かしら?

真生会館でもーっと危ない発言がのっているわ。

あたし、第二バチカン公会議を理解できないから上智大学神学部で再教育を受けないとご聖体を頂けない信者だわw

2009-09-02

典礼】日本に於ける適応の時代は終わった

アンリ枢機卿様の発言

Cardinal Arinze cautions Asian bishops against false inculturation, liturgical dance

August 17, 2009

Cardinal Francis Arinze, who served as prefect of the Congregation for Divine Worship and the Discipline of the Sacraments from 2002 to 2008, warned the bishops of Asia in an August 16 homily against liturgical “idiosyncracies” and false conceptions of inculturation. Cardinal Arinze also sounded a cautionary note against liturgical dance.

Preaching in Manila at the closing Mass of the plenary assembly of the Federation of Asian Bishops’ Conferences, Cardinal Arinze-- Pope Benedict’s special envoy to the meeting-- encouraged Asian bishops to foster Eucharistic adoration and reverence:

Adoration manifests itself in such gestures in genuflection, deep bow, kneeling, prostration and silence in the presence of the Lord. Asian cultures have a deep sense of the sacred and transcendent. Reverence in Asia to civil authorities sometimes shows itself in clasped hands, kneeling, bows, prostration and walking away while facing a dignitary. It should not be too difficult to bring and elevate this cultural value to honour our Eucharistic Jesus. The fashion in some parts of the world of not installing kneelers in churches should not be copied by the Church in Asia.

After praising Asian cultures’ sense of the sacred, Cardinal Arinze warned against false conceptions of inculturation and urged observance of liturgical norms.

The way in which Holy Communion is distributed should be clearly indicated and monitored and individual idiosyncracies should not be allowed. In the Latin Rite, only concelebrating priests take Holy Communion. Everyone else is given, be the person cleric or lay. It is not right that the priest discard any of the vestments just because the climate is hot or humid. If necessary, the Bishop can arrange the use of lighter cloth. It is altogether unacceptable that the celebrant will opt for local dress in the place of universally approved Mass vestments, or use baskets, or wine glasses to distribute the Holy Eucharist. This is inculturation wrongly understood.

“It is the tradition of the Church that during the Mass the readings are taken only from Holy Scriptures,” Cardinal Arinze continued. “Not even the writings of the Saints or Founders of Religious Orders are admitted. It is clear that the books of other religions are excluded, no matter how inspiring a particular text may be.”

Cardinal Arinze exhorted the continent’s bishops to follow the Church’s norms for liturgical inculturation, so that “the local Church will be spared questionable or downright mistaken innovations and idiosyncracies of some enthusiastic cleric whose fertile imaginations invents something on Saturday night and whose uninformed zeal forces this innovation on the innocent congregation on Sunday morning.”

“Dance in particular needs to be critically examined because most dances draw attention to the performers and offer enjoyment,” he continued. “People come to Mass, not for recreation but, to adore God, to praise and thank him, to ask pardon for their sins, and to request other spiritual and temporal needs. The monasteries may be of help in how graceful body movements can become prayer.”

日本に於ける適応を喝破してくださりありがとうございました。

2009-08-31

典礼論文

大阪方面で具神父(上智大学神学部准教授イエズス会司祭)の論文炎上している。

聖餐の秘跡とミサ聖祭。

ミサ聖祭と聖餐式

アヴェ・マリア

愛する兄弟姉妹の皆様、

 カトリック教会聖伝の教えによれば、ミサとは、十字架のいけにえの記念を行うために、パンとブドウ酒の外観のもとに、私たちの祭壇の上で捧げられる私たちの主イエズス・キリストの御体と御血とのいけにえです。ミサ聖祭は、実体的に十字架のいけにえと同じいけにえであり、私たちの主イエズス・キリストがご自分の教会に残した新約の永久のいけにえです。この永久の新約の唯一のいけにえは、司祭の手を通して天主にのみ捧げられるのです。これは、聖伝の公教要理にある、子供でも知っている教えです。

 ところが、上智大学の神学部のある教授は、ミサ聖祭をミサと呼ばず、常に「聖餐」あるいは「聖餐式」と呼び、「聖餐はゆるしの体験が共同体的に体現される秘跡的な場である。ゆるしが体現されることにおいて聖餐の本質が表れる」(ここでの体現 Realization されるとは、意識的に体現される、気がつく、理解される、把握する、一種の悟りという意味であると思われる)と言い、「聖餐は、復活し現存するキリストの人格に出会うミサ聖祭をミサと呼ばず、常に「聖餐」あるいは「聖餐式」と呼び、「聖餐はゆるしの体験が共同体的に体現される秘跡的な場である。ゆるしが体現されることにおいて聖餐の本質が表れる」(ここでの体現 Realization されるとは、意識的に体現される、気がつく、理解される、把握する、一種の悟りという意味であると思われる)と言い、「聖餐は、復活し現存するキリストの人格に出会う場である」と主張して、十場である」と主張して、十字架のいけにえには一切触れずに、聖餐をエマオへの旅をしていた二人の弟子のキリストとの夕方の食事と同じであると理解し、「私たちはエマオへの旅物語において、キリスト者の共同体が祝っている聖餐の現実を正確に見ることができる」と言っています。ですから、この准教授によれば、聖餐は、いわば、キリスト者らの旅であり、パンを裂いているキリストが「彼らの旅の主でもあり、聖餐の宴の主でもあると彼らが認識するとき、旅全体は最高潮に達する。人間の歩みと私たちの食事会が統合されていく。その頂点がパンを裂く式を通して現れる。旅が進むにつれ、キリスト者は心の深みでキリストの現存に気づき始め、キリストはますます彼らの一部になっていく。彼らは復活されたキリストに出会うにつれ、新しい希望と力を得る。彼らが彼を晩餐の主だと認めるとき、彼らは新しい人になる。彼らは宣教者になる」のだそうです。

 これらは、カトリック教会聖伝にも、過去の公会議にも、教父らの教えにも、基づくものではありませんが、第二バチカン公会議の教えとして提示され、神学生たちに教えられているようです。

 従って、このイエズス会司祭である神学部准教授によれば、「聖餐は、キリスト者がこの(キリストの)現存の強烈に経験し、復活されたキリストとより深く結ばれるところである。」「人は実際に信仰の旅をする中でのみ、復活されたキリストと出会う。」「キリスト者は聖餐を通じてこの(キリストとの)出会いに気づき、それが本物だと認める。聖餐は、イエズス・キリストと全人類との旅を、儀式的・典礼的に集約し、充実させる。‥キリスト者たちは、パンを裂くことのうちに復活されたキリストがいることを知り、彼に出会う」ことになるのです。

 だから、聖餐がキリストとの出会いであるならば、「共同体はキリストの現存を深めるために、典礼のおける積極的な参加が勧められ、また典礼の自国語化や文化的な適用が促され」なければならず、そのとき、「神によって与えられた無限の恵み」が「神の恩赦の宣言」として体験され、悪人にも善人にも太陽を昇らせ雨を降らせる神の愛の深さが「パンの意味」の本質をなすことになると言います。だから、この教授は「御聖体」という用語を一度も使わず、「パン」というのです。

 そして、この教授によると、「イエス」こそが「神の真のしるし」であり、「神からの無償の贈り物」であり、信仰とは、イエスを贈り物として真のしるしとして受け入れることであり、「聖餐は儀式的表現でその信仰を促進させる」べきなのです。だからこそ「信者は「パン」を‥まさに取って食べる」べきなのです。

 従って、第二バチカン公会議の新しいミサが、その総則にあるように、「主の晩餐(すなわちミサ)」であり、私たちが普通ミサ聖祭とかミサと呼んでいるものが、まず晩餐であるなら、そして、ミサ聖祭は罪のあがないのいけにえではなく、聖餐式という復活したキリストとの出会いの場であるなら、新しい「ミサ」は、全く別の神学の上に建てられたと言わなければなりません。

 つまり、いけにえである聖伝のミサ聖祭と、聖餐式である第二バチカン公会議のいわゆる新しい「ミサ」とは、全く別のものであると言わなければなりません。

 だからこそ、聖餐式である新しい「ミサ」では、信者は「パン」を手に取って食べるべきなのです。もし、カトリック信者が教会を離れて、カトリック司祭らがプロテスタントの牧師に転向するというニュースを聞いても、私たちは驚くべきではありません。

 

私たちは、第二バチカン公会議以後40年にわたってなされてきた典礼刷新の歩みを正確に確かめてくださった具神父の論文新約聖書における聖餐の神学と霊性』に感謝します。

至聖なるイエズスの聖心よ、我らを憐れみ給え!

天主の御母聖マリア、我らのために祈り給え!

聖アルフォンソ、我らのために祈り給え!

聖イグナチオ、我らのために祈り給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!


*1

第二バチカン公会議とブニーニによってミサが完全に破壊された事によって信仰が完全に破壊された。

荘厳司教ミサだろうがラテン語だろうが、ミサの定義は司祭を司式者とした集会と書いてある時点でミサを捧げる司祭が「キリストの代理者として(in persona Christi)」としてと最近は訂正されたが、このような論文を書いている近代主義的な司祭が大学で教授として学生や神学生に教えている事実からして日本の教会は危険である。

オッタビアー二レポート

http://fsspxjapan.fc2web.com/pro_missae/ottaviani2.html

この論文を書いた神父に送りつけたいくらいだ。

2009-07-15

[]両形色ネタ[典礼]

セルフインティンクション(self-intinction)と言う言葉があります。

これはミサ聖祭に於いての聖体拝領の両形色での拝領についてで電脳業界が炎上している。

御聖体を御血の入ったカリスに自分でつける行為です。

口が悪い人は串カツって言います。

ARCHDIOCESE OF OSAKA

カトリック大阪大司教

Curia Osakensis

Prot.No.528/09

2009年7月9日

大阪教区の皆様

大阪大司教  池長 潤


信徒の両形態による聖体拝領の方法について

 教区の神父様、修道会・宜教会の方々、そして信徒の皆様に、両形態による聖体拝領の方法について、お知らせいたします。

 日本のカトリック教会では、これまで両形態による聖体拝領の方法として、司祭や聖体授与の臨時の奉仕者から与えられたご聖体を、自分で手で持っておん血に浸して拝領(intinctio)したり、祭壇上に置かれたカリスを拝領者が自分で手にとって拝領をする方法が比較的一般的に行われてきました。日本カトリック司教協論会・典礼委員会は、この方法を「日本の適用」として、再三、引き続き特別な許しを与えて頂きたいと、教皇庁典礼秘跡省にお願いしてきました。

 けれども、典礼秘跡省は、こ聖体もおん血も司祭や任命された奉仕者が、拝領者に手渡し授けることが、典礼上、定められた大切な規定として厳密に守らなければならないとの見解を強調し、2009年4月1日に駐日教皇大使を通して届けられた書簡においても、そのことが明示されました。日本カトリック司教協議会はこれを受け、今年6月の定例司教総会で、日本全体でローマの指示に従うよう確認いたしました。

 つきましては、7月9日付けのこの手紙が届いた日から、大阪教区のすべての教会や修道会・宣教会でも、信徒(修道者を含む)が両形態による聖体拝領を行なう場合、以下の方法に従って行って頂きたくお願いいたします。

 (1)司祭や任命された奉仕者から直接ご聖体およぴカリスを受け取って拝領する。

  いったん受け取ったご聖体を、白分でおん血につけて拝領しない。

 (2)ご聖体をおん血に浸して拝領(intinctio)する場合は、司祭や任命された奉仕者が直接拝領者の舌の上に置く。

役務を担う者の思いを謙虚に受け止め、日々主の死と復活を記念する教会が、いつもその永遠のいのちに満たされて歩み続けることができますように。

via http://blogari.zaq.ne.jp/otsuru/article/944/

疑問に思った事

  1. 比較的一般的に行われていましたと書いてありますが、両形態は基本的に受洗者や黙想会、結婚式と言った小規模で内輪でする時にするものではないでしょうか?
  2. 日本の適応って何ですが?
  3. 日本全体でローマに従うように確認しましたって書いてありますが、それまでは指示に従っていないということを仄めかしているように読もうと思えば読めます。

 

The communicant is not allowed to dip the host in the chalice: "The communicant must not be permitted to intinct the host himself in the chalice, nor to receive the intincted host in the hand" (n. 104).

平信徒は串カツするなってこと。

あがないの秘跡で騒いでいますがそれ以前の文章ではどうなっているのか確認してみました。

 それぞれの司教は自らの判断と責任において管轄司教区内で、手に受ける聖体拝領の仕方の導入を許可することができる。但し、信徒を驚かせるようなこと、聖体の尊崇の念を失わせるおそれのあることは避けねばならない。

(1)手で受ける仕方が強制されてはならない。この仕方が適法とされる所でも、口で受ける仕方ができるよう配慮する必要がある。これは個人の信仰心を乱さないため、また信徒間に対立をおこさせないためである。

(2)手で受ける仕方の導入のため、信徒がその意味をよく理解し、秘跡に対するふさわしい尊敬を保つよう、十分な教育を必要とする。

(3)聖体をふつうのパンや、単に祝別されたものと同一視しないようにしなければならない。かえってキリストの神秘体の一員となった信者の尊厳を感じ、聖体の偉大な現実への信仰を深めねばならない。

(4)自席にもどる前に拝領しおわらねばならない。具体的方法については、古代教会の伝統が伝えている方針に従うのがよかろう。

(5)小片が落ちたり、とび散ったりしないように。手は清潔にするように。

 ホスチアを御血にひたす両形色の聖体拝領の場合は、必ず口で受けること。

via http://www.tokyo.catholic.jp/text/kyokunews/1975/kn14b.htm

この文書が東京大司教区で発布されていることを考えると日本独自の応用だって暴走しだしたじきはいつから誰がどのような理論でという具合に掘り下げてみる必要があると思う。

これもノヴスオルドミサに変わったことで起こった現象の一つだと思います。

プロテスタント聖餐式に近づいたこととヤンフスについて調べてみたら面白そうです。

2009-07-11

自称保守なら

rorate caeli見るよな。

July 2, 2009, Feast of the Visitation of the Blessed Virgin Mary – in the Church of Santi Michele e Gaetano in Florence, at 9:30 A.M: Solemn Pontifical Mass by Archbishop Raymond Burke, during which he will ordain three new priests, including the Japanese Raphael Katsayuki Ueda. (I believe that he is the first ICRSP priest from Asia -- CAP)

邦人司祭が生まれたんだからそれをお祝いしないとな。

でも誰も書いてない。

結局ラテン語ならNovus Ordoで満足するんですねわかります。

self intinctionで騒いでもスンモルムポンティフクムはスルーだしエクレジアデイが出ている段階でトリエントミサが出来るんじゃないの?

女性侍者や聖体奉仕者も聖座は薦めていない件について。

結局は第二バチカン公会議の精神の影響で典礼はみんなで作るという誤謬の想起のもとでおこなわれているんでしょうか。

某MLも土○の話しを得意げにのせているし、典礼破壊のためのおかしな理論やオルグが抜けきってないんじゃないのでしょうか?

トリエントミサは捧げるに至らなくても、ノヴスオルドを背面で捧げるだけでもだいぶ雰囲気が変わるのに。