inigoの日記

2009-09-15

news

As we had mentioned earlier today, the Holy See Press Office has confirmed that the doctrinal talks between the Holy See and the Priestly Fraternity of Saint Pius X (FSSPX / SSPX) will begin in mid-October.

"The first meeting, which will mark the beginning of the dialogue with the Lefebvrists, will take place in the second half of October," Father Federico Lombardi, spokesman of Pope Benedict XVI.

via rorate caeli

2009-09-08

カテドラルを貸す事

辛辣に言えば、第二バチカン公会議というエイズ感染したカトリック教会がエキュメニズムの一環で同性愛の主教や性転換者の牧師に天主の祭壇を貸すという事をしても何ら驚くべき話しではない。

異端から信者をまもり、多くの成聖を生み、召命、無数の殉教者を生んだトリエントミサを排斥し現代世界憲章、教会憲章と言った文章によって教会を破壊した第二バチカン公会議を排斥しなければ教会の持つ、真理の輝きを取り戻すことは出来ない。

信仰を守り伝えるためには司教が必要である。

そのために司教を聖別した。

ルフェーヴル大司教様が4人の司教を聖別した。

司教聖別によって破門の宣告がなされたが、それはカトリック教会が教会の伝統を破門したという象徴的な現象である。

しかし、ベネディクト16世が破門を裁治権上無効であると宣言をした。

そうすると今度は多くの人々が非難をした。

イエスを殺せ十字架に架けろと聖金曜日に叫んだ民衆たちの叫びが今も続いている。

ユダヤ人の王万歳と叫ぶこととエキュメニズムの賞賛は同じ行為とも言えるのではないか。

自称保守派、聖座に忠実と唱える諸氏は、自分たちも教会の自殺を傍観している事に気がつかないか?

典礼の崩壊を嘆き、政治的に偏向しているという表象ばかりを非難して、おかしくなった原因である第二バチカン公会議をなぜ非難しない?

D  D

2009-09-07

とっても危ない

とっても近代主義ね。


「学び合い」二期二年目第一回

テーマ:

新約聖書の中に、信徒、司祭、修道者の召命の根拠と意味を探る」

発題者:ニコラス師

日本語にも訳されましたが新しい公教要理の中にも言葉使いとして気にかかるところがあるます。秘蹟はイエズスが制定したと言った表現がありますが、その言葉を文字通りには現在の神学では受け止められません。秘蹟を含めて教会制度はその根がイエズスからくる、七つの秘蹟もその根はイエズスにあることは確かですが、イエズスが直接教会制度を作り秘蹟の制度を決めたとは聖書学的にも神学的にも言えない時代になりました。

現在大変評判になっている映画 [PASSION]を見た若い司祭が「この映画には福音が見えない」と感想を話してくれました。私は未だこの映画を見ていません。ともかくこの映画ではギブソンの解釈にもとづくイエスの受難の話です。イエスをある見方から書いた本はこれまでにも沢山あります。しかし、新約聖書は流動的で生きているのかで経験したことを、反省し、思い出し、記念しながら書かれているのです。教会制度を考える時その聖書から光とかインスピレーションをえたわけで、聖書から方向や方針を見出したのです。聖書の外から動かされたりしたようなところは制度の中でも少し怪しくなるでしょう。ともかく教会の制度に関して聖書を指導書としたことははっきりしていますが、聖書の中には教会の制度の形は未だ見えないのです。

初代教会を発展段階的に見る時は初期には制度の教会としては見えてはきません。制度は共同体の必要性から出発します。一方では、イエズスの体験、思い出が伝統を形成するものとして発展してゆきますが、も一方では、共同体の必要性から制度が動き出すのです。イエスが神の国を建設するために制度の計画をされて、このようにやるようにと言われたわけではありません。人々のニードに応えながら神の国を伝えてゆくために初代教会は制度的な歩みを始めたのだと思われます。

もう一方では信者のニードが起きてきました。病気の時どうするのか、集まりの時どうするのか、イエスの命じられたパンを割く式をどのように執り行うのか、と言った現実の問題に答える必要が生じてきたのです。「主の晩餐の記念」「パンを割く式」は新約聖書にも見ることが出来ますが、現在のミサの形式は 15世紀までは 細かい点まで定まりません でした。形としては教父時代では司教たちが自発的にいろいろな祈りを作っていました。アナホラと呼ばれる祈りは 20以上あります。司祭たちも自分のインスピレーションで祈っていたわけです。

ミサの形も少しずつできてきたのです。

最近まであったミサの 形が出来上がるまでにはトリエント公会議、1 6世紀まで待たなければならないのです。


第二バチカン公会議でミサの形式が改められた時にルフェーブル司教などが伝統が壊されると主張しました。とんでもないことです。 生きた伝統の中のミサは変わってきているのです。ドミニコ会は第二バチカン公会議までは自分たち修道会独自のミサの形式を持って行われていたのです。

病人に対す病者の秘蹟も初めに秘蹟とは言われないなかでニードとして始まったのです。それが秘蹟と認められ定められるようになってゆくのです。またゆるしの秘蹟も同じようにニードから発展してゆきます。教会を離れていた人、信仰を棄てた人、大きな罪を犯してしまった人、が後悔に戻りたい時にどのようにするのか、その現実のニードに応えるところから始まりました。個別告白の形式が始まるのは 7−8世紀からです。それも初めは多様な形式がありました。このように伝統を生きたものとしてみるならば、受け継いだ組織をそのまま組織にこだわっているのではなく伝統を生かしてゆく必要があるのです。ヨーロッパでも特に地中海地方では(公会議以降)大きく変化してきました。アジアでも教会が生きているなら変わってゆくはずです。

信仰生活の中で一番中心的なのは洗礼とユーカリスティア「キリストを記念するもの」でした。それが信仰アイデンティティの柱でした。そこに信仰生活の中心があります。すべてはそこから出てきます。歴史の中での秘蹟を人の生涯をモデルにたとえて説明したことがありますがこれは良くないのです。幼児洗礼の説明として洗礼を子供の比喩でとらえ堅信を成人と説明されましたが、成人洗礼の多い日本ではピンときません。堅信と洗礼と大人と子供は関係がありません。聖霊の賜物の差です。そこからすべてが生まれてくる。洗礼とユーカリスティアが中心です。他の秘蹟もそこから出てきます。他の秘蹟もそこから出てそこに戻ります。叙階の秘蹟か結婚の秘蹟かの選択ではありません。叙階の秘蹟はすべての秘蹟に奉仕する大切な役割のことです。結婚は人生をその中で生きるのであって段階として理解するのではなく意味として理解しなくてはなりません。

一番大切なのはキリストによって生きることです。豊かに生きるためにどうのようにすれば良いかであり、教会の信仰生活がどのように進められてゆくのかが大切なのです。段階的発展プロセスはゆっくりと進んできたのです。今日では信徒の使徒職とか信徒の役割とかについて話すときにすべての源として洗礼と堅信に戻ってきます。これは一つの秘蹟であると考えてよいと思います。 ウオ ルターカスパー枢機卿論文(神学ダイジェスト 88年)で言っていますが「指導の役割は司祭にあるけれどもこれは教会全体に与えられているのである。役割は分かれていても賜物は教会全体のもんです」これは洗礼とユーカリスティアにおいてまとまると言ってよいと思います。

ヘブライ書で新しい司祭としてイエズスをとらえているのは「すべてを捧げて自分が生贄となった」ところにあります。表現としては「神の愛に燃え尽きてしまった」と理解してよいと思います。歴史のなかで生活と典礼は一致している。生活の中にあった奉仕とか役割がユーカリスティアのなかにもありました。ある学者は使徒行録を見るとリーダーは女性であったと言います。議論の対象となっているところです。家でユーかリスティアを祝った時だれがリーダーであったのか。 3世紀からキプリアヌスの影響によってリーダーは司祭としてミサは生贄として再理解されてそれを強調しました。そこから聖職者のグループが出てきました。司教が共同体と監督するだけではなくて生贄を捧げて共同体をまとめて指導や秘蹟の管理などをするグループが出てきたわけです。4世紀からその傾向はますます強くなっていつの間にか信者が二つのグループに分けられてしまった。聖職者と信徒、聖職者でないものライチーに分けられたのです。古い教会法ではライチーの項目は聖職者参照となっていいて項目には何もかかれて居なかった。教会の歴史でかなり早い時期からこのような構造になっていました。中世期のさまざまな問題は次の「学び合い」のテーマになっていますので省略します。しかしこのような状況は新約聖書からすでに始まりかけていると言うことは着目してよいとおもいますがこの現象は新約聖書には未だ見えては居ません。

5)新約聖書に見られる現象として信仰生活は特別な生活ではなくて普通の生活が大部分でした。仕事とか家庭とかで信仰を深めてゆくのが通常でしたが、その中に特別な生き方を選ぶ人もいました。結婚しないで教会の奉仕と福音への奉仕するグループもありました。寡婦のグループもありました。再婚しないで人々の必要に奉仕する人たちが出てきました。修道生活はこの伝統の中から出てきたと思われます。しかし修道生活などは新約聖書には全然見えません。東方教会には今でも修道者は居ません。アトスの山のようなところにはモンクは居ます。 1990年アジアの FABCの集まりで「Spirituality」のグループ に参加しました。 あるインド司教が こう 言いました「すべての信者が聖化 Divinizationされてゆくのであって修道者はわれわれのところには居ない。すべての信者がイエスのように御父と一致する歩みをしているので、聖性の専門家が居るはずはない。」自分を初め参加者は彼の発言を感心して聞いていました。

新約聖書でリーダーシップに関してどのような問題を感じていたのかと言えば、リーダーシップの必要性に関しては疑いが無いようです。ヨハネの共同体は少し遅くなりましたがそれをとりいれました。共同体が元気であればあるほどリーダーシップは必要になります。元気が無ければ言われるとおりにするけれども、元気があればアイディアもイニシティブもあるのでリーダーシップが必要になります。リーダーシップと言っても普通のリーダーシップと違うはずです。新約聖書にはヒントが一杯あります。イエスに従う、イエスの思いやりを持つ、人のために自分を忘れる、名誉肩書きほめられることから自由である。「肩書きはもうやめましょう、そして「神父様」と言う呼び方も考え直そう。と言う話に綱がって行く。新約聖書のリーダーシップでは役割があればあるほど僕のようになってゆくのです。教会の歴史のなかで世俗化の過程でいろいろなタイトルが入ってしまったのでしょう。日本のほうが聖職者に関する呼び方は未だ地味なほうです。ヨーロッパでは「 your holiness, your eminency, your excellency, etc」あたかも神様かのような呼び方があって新約聖書から見るとおかしいことです。イエスははっきりと述べておられます「あなた方の間ではそのようではない」と。教会の中から聖霊の権威をリーダーシップを生かすことがリーダーシップの中心なのです。他者を支配するよりも奉仕する。ヨハネの最後の晩餐ではご聖体の話は出てきません。その代わりにイエスが弟子の足を洗います。最期に互いにこのようにしあうことを求めておられるのです。十字架をになって自分自身を捧げる心がリーダーの心です。最終的な基準は愛である。これが福音のポイントです。

監督の役割を与えられた 方 にも同じようなシンボリックな役割があるのです。特に教会の一致のため。教会のキリスト化のため。これらを理解するためにカスパー枢機卿の言葉が参考になります。この役割は教会全体に与えられていると言うことです。シンポルはある人たちに適応されます。ミサも司祭が捧げるのではなくて共同体全体が司祭とともに捧げるのだと、カスパーさんも指摘しています。教父たちも古い時代から聖変化の源を三つ挙げています。キリストの言葉としての司祭の言葉、共同体の祈り、司祭と共同体を支える聖霊の力です。これを始めて学んだ時これは素晴らしい理解だと思いました。いつも共同体が積極的に関わっている。司祭と共にだからではなく、歌うからではなく、心からキリストと共に自分を捧げるからです。

大切なのは先ほど申し上げましたとおりカリスマです。共同体には経営的必要性があります。奉仕の整理、技術的サポートとか会計などがそうですが、この部分では監督が苦労するところです。司教司祭ですが管理にはいつも一人ではないというところが大切です。司祭同士または司祭と信徒などです。技術面では技術を現実に持っている人たちです。共同体の歩みも監督と技術はそれぞれです。シンボリックな役割とカリスマ的役割があります。カリスマを発見して強めて励ましてシステムのなかで生かすことに弱いのですが大切です。アジアでも信徒の奉仕職をもっと広くする必要があります。聖体奉仕者とみ言葉の奉仕者しかありません。初代教会では広かったのです。貧しい人のため、助祭はそのために生まれたのです。信仰の奉仕、先生などは聖職者ではないのです。

これはカリスマのあるひと技術のある人たちのものでしょう。この点をもっと広く考える必要があるのではないかと思われます。そこのすぐ修道者を入れる必要はありません。修道者は歴史的な必要に応えるために生まれたものです。修道者 の殆どは は信徒の一部です。聖職者の一部ではありません。

省略をしました。                           

  1. http://www.geocities.jp/amsf_stm/53htm.htm

デンツィンガーとどう見てもおかしい所には色を変えておきます。

秘跡の制定は聖書に無い、キリストは制定していないこれを否定するのはびっくり!!

“病人に対す病者の秘蹟も初めに秘蹟とは言われないなかでニードとして始まったのです。それが秘蹟と認められ定められるようになってゆくのです。またゆるしの秘蹟も同じようにニードから発展してゆきます。”


秘跡全般について

160l(844)1条。新約の諸秘跡の全部が、私たちの主イエズス・キリストによって制定されたものでないとか、または洗礼 堅信、聖体、告解、終油、叙階、婚姻の七つより多いとか少ないとか、またはこの七つは本当の意味での秘跡でないと言う者は排斥される。

第1章 終油の秘跡の制定

1695(908)病者の聖なる塗油は、真の厳密な意味での新約の秘跡として、私たちの主イエズス・キリストによって制定された。この秘跡はマルコの福音書にほのめかされており(マルコ6・13参照)、主の兄弟使徒ヤコポによって信者に勧められ、公布された(第1条)。「あなたたちのうちに病気の人があれば、その人は教会の長老たちを呼べ。かれらは主の名によって油を塗り、祈りをとなえる。そして信仰による祈りは病気の人を救う。主は病人を立たせ、もし罪を犯しているなら、それを赦すであろう」(ヤコボ5・14〜15)。教会が使徒たちからの伝承によって理解したところによれば、この言葉によって、この秘跡の質料、形相、固有の授与者、効果が教えられている。質料は司教によって祝福された油である。塗油は病人の霊魂に油をそそぐ聖霊の恩恵を非常によく表現しているからである。形相は「この聖なる塗油により……」という言葉である。


1699使徒ヤコボの明白で誤り得ない教え(ヤコボ5・14)に、理由なしに反対し、この塗油が天主の命令または恩恵の約束によるものでなく(第1条)、人間の発明であるとか、教父たちから伝えられたものであるとか言う者に耳を傾けてはならない。また、この塗油は古代教会にだけ存在した治療の恩恵であって、現在では効力を失ったと言う者に耳を傾けてはならない。聖なるローマ教会によって守られているこの秘跡を授ける時の儀式および習慣は、使徒ヤコボの教えに反するもの、変更すべきものでありまた信者たちがこの臨終の塗油を罪なしに無視することができる(第3条)、と言う者に耳を傾けてはならない。これらの主張はすべて、この偉大な使徒の教えに完全に反するものである。この秘跡を授けるにあたって、他の諸教会の母であり教師であるローマ教会は、本質的には聖ヤコボが命令した通りを行っているからである。このようにすぐれた秘跡を経蔑することは、当然重大な過失であり、聖霊に反することである。

1700上に述べたことが、この聖なる教会会議による悔俊と終油の秘跡についての宣言であり教えである。この教会会議はすべてのキリスト信者がこれを固く信ずべきであると提示する。また、次にかかげる諸規定を守ることを命じ、これに反する説をとなえる者を永久に非難し排斥する。

l70l(911)1条。カトリック教会において、告解は洗礼の後に罪を犯すたびに天主と和解するために、私たちの主キリストによって制定されたまことの秘跡でないと言う者は排斥される(DzS1688以下参照)。

ヨハネの最後の晩餐ではご聖体の話は出てきません。”

1637この聖なる秘跡について論じた大部分の私たちの先祖たちは、その多くはキリストの真の教会の中にいたのであるが、全く明らかに次のように宣言した。すなわち、私たちの救い主は、パンとブドー酒を祝した後、明瞭ではっきりとした言葉で自分の体と自分の血を彼らに与えることを証言した時、このすばらしい秘跡を最後の晩さんにおいて制定したこと。聖なる福音記者たちによって書きとめられ(マテオ26・26以下、マルコ14・22以下、ルカ22・19以下)、聖パウロによって繰返されている(1コリント11・23以下)言葉は、教父たちもそれに従って解釈した固有の全く明らかな意味を前に出しているので、その言葉を、或る論争好きの悪しき人々が、架空の想像にまかせた修辞に意味を曲げ、教会の普遍の解釈に反して、キリストの肉と血の真理を否定することは最も恥ずべき行為である。真理の柱であり基礎である(1チモテ3・15)教会は、キリストのこのすばらしい恩恵に常に感謝し忘れることなく、不敬虔な人々によって考え出された解釈を悪魔的である憎悪する。

もう、涙が出てくるわ。

2009-09-06

写真のネタもと

写真をみてジェンマさんが少し書いていたのでお答えします。

http://www.catholicyouth.jp/files/nwm15_report.pdf

他の写真を見るとね日本中でやってるわ。

どこの司教様もこんなひどいミサの共同司式ないし主司式をなさるなんて錯誤による誤認であって欲しいと願わずにいられないわ。

http://sdemo.net/pken/Blog/archives/2008/9/14

ほーら司教様が同席してる証拠。

ミサの朗読の後に劇はするし、司教様がなさってるから日本司教団推奨なのかしら。

聖伝ミサだけは拒み、ネガキャンを流し、跪くことを拒む。

ミサはレクリエーションじゃないの罪の赦しを神に乞い願うのよ。

手をつないで入祭したり。

カテドラルをアングリカンに貸すしね。

あたしシャワーを浴びてミサに行かないと。