inigoの日記

2009-11-29

無原罪の御宿りによせて。

我は天地の創造主、全能の聖父なる天主を信じ、またその御一人子、即ち聖霊によりて宿り童貞マリアより生まれ給うた私たちの主イエズス・キリストを信じ奉る!

___転載___

イエス・キリストを学ぶ』には様々な問題点があります。最大の問題点は、「あたかも神御自身が肉をまとって地上をはいかいするかのように、イエスをそのような現人神(あらひとがみ)とみな」すことであるカトリック信仰を、「キリスト仮現説」の異端としていることです。そして「全知全能の神が地上ではいかいすると考えるような仮現説を避けたい」(一三二ページ)と言っていることです。

「あたかも霊なるロゴスが、まるで衣服をまとうように、肉体を取って地上をはいかいするかのごとく、そのような意味で「受肉」を理解してはならない。あたかも神が人間に語りかけるために、肉体を身にまとって、目に見える姿となったかのように想像してはならない。そのような考え方は、古代からあったキリスト仮現説の考え方に他ならない。」(二二九ページ)

 キリスト教信仰によれば、天主の御言葉は肉体をもちろん「衣服をまとうかのように」ではなく、真の人間としてあるように肉体を取って目に見える姿となったのです。

___終わり___


現人神の元ネタというか出典。

4) カ一ル ・ラー ナー 著 ・百瀬文晃訳「 キリスト教とは何か現代カトリック神学基礎論 」 ( エンデルレ書店・1981 年 )383-384 頁によると,古典的キリスト論の神話的誤解可能性はその限界の一つである。

「すなわち、イエスにおける人間的なものが,知らず知らずのうちに 、あたかも神が身にまとう着物であるかのように考えられ,神が御自身を示したり、隠したりされる外衣であるかのように考えられてしまう。そして、このような神が装束や肉体を身にまとう際に、そこで なお人間的なものとしてみなされるべきものがあるとすれば、それは、ただ神がわれわれのために適合され、身をやつしておられるのだと考えられてしまうのである。」

2009-11-24

ロシアの誤謬

共産主義が終わったのにまだそんな事を言ってるのpgrと言いたい方は多いですが、ロシアの恐怖として紹介できる例がオウム真理教のラジオ放送が、モスクワ放送の設備を借りて放映した件について。

排出権取引で大きな利益を上げる可能性があるのはロシアなのでまたロシアが勢いを回復するきっかけになるかもしれません

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A6%E3%83%A0%E7%9C%9F%E7%90%86%E6%95%99%E6%94%BE%E9%80%81

2009-11-21

だから招待します。

私たちは、心の底から全霊を上げてカトリックのローマに、

すなわちカトリック信仰の保護者であり

この信仰を維持するために必要な聖伝の保護者である永遠のローマ、

知恵と真理の師であるローマによりすがる。

 私たちは、しかしながら、第2バチカン公会議と

それに由来して

公会議後の全ての改革において明らかに現れた

公会議新近代主義と新プロテスタント主義の傾向を持つローマに従うのを

拒否し、常に拒否した。

 実に、これら全ての改革は

カトリック教会の瓦解と司祭職の崩壊、

いけにえと秘蹟の無化、修道生活の消滅、

大学・神学校・公教要理における自然主義とテイヤール主義、

教会の荘厳教導権によって何度も排斥された自由主義とプロテスタント主義とに

由来する教育のために貢献したし、今でも貢献し続けている。

 たとえ位階制度の最も高い地位に上げられたものであれ、

いかなる権威といえども、

19世紀もの長きにわたって教会の教導職によって

明らかに表明され、宣言された

私たちのカトリック信仰を棄てる、あるいは減少させるように

強制することは出来ない。

 聖パウロはこう言っている。

「私たち自身であるにせよ、天からの天使であるにせよ、

私たちがあなたたちに伝えたのとはちがう福音を告げる者にはのろいあれ。」

(ガラチア1:8)

 これが今日、教皇様が私たちに繰り返し言われることではないだろうか。

そしてもしも万が一、教皇様の言葉と行動において、

また聖座の諸聖省の文書において、

1つでも [過去の教導権との] 矛盾が現れるなら、

その時私たちは、常に教えられていたことを選び、

私たちは教会を破壊する革新に耳を閉じる。

 Lex credendi(信仰の法)を変更することなく

lex orandi(祈りの法)を深く変更させることは出来ない。

新しいミサは新しい要理と新しい司祭職に対応し、

新しい神学校、新しい大学、

カリスマ運動的教会、聖霊降臨運動的な教会、

また正統と常なる教導職とに対立する全てに対応している。

 この改革は、自由主義と近代主義とに由来するが故に、

その全てに毒が含まれている。

これは異端から生み出され異端へと辿り着く。

良心的で忠実な全てのカトリック信者にとってこの改革を受け入れ、

なにがしらであれそれに従うことは出来ない。

 私たちの霊魂の救いのために、

教会とカトリックの教えとに忠実である唯一の態度は、

改革を受け入れることを断固として拒否することである。

 それ故、いかなる反乱も、苦々しさも、憎悪もなく、

私たちは常なる教導職の星の導きの元、司祭養成の事業を続ける。

私たちは

聖なるカトリック教会に、教皇様に、そして未来の世代に、

これよりも偉大な奉仕をすることが出来ないと確信している。

 それ故、聖伝の真理の光が

永遠のローマの空を暗くしている暗闇を追い払う日を待ちながら、

私たちは、永遠の教会によって過去信じられていたこと、

信仰と道徳と礼拝、公教要理の教え、

司祭の養成、教会の諸施設において実践されていたこと、

公会議の近代主義の影響を受ける前に出版された本の中に法定化されたことを

全て固く保持する。

 天主の聖寵と、童貞聖マリア・聖ヨゼフ・聖ピオ十世の御助けによって、

こうすることによって、私たちはローマ・カトリック教会に忠実であり、

ペトロの全ての後継者に忠実に留まり、

fideles dispensatores mysteriorum Domini Nostri Jesu Christi in Spiritu Santo

聖霊において私たちの主イエズス・キリストの玄義の忠実な奉仕者)

となることができると確信している。アーメン。

童貞聖マリアの奉献の祝日

ローマにて、1974年11月21日

  1. マルセル・ルフェーブル

 実に、これら全ての改革は

カトリック教会の瓦解と司祭職の崩壊、

いけにえと秘蹟の無化、修道生活の消滅、

大学・神学校・公教要理における自然主義とテイヤール主義、

教会の荘厳教導権によって何度も排斥された自由主義とプロテスタント主義とに

由来する教育のために貢献したし、今でも貢献し続けている。

これは耳が痛くなるほど当てはまる。

http://www.ewtn.com/library/CURIA/CDFTEILH.HTM

ほら今でもダメポ。

f:id:inigo:20091121212458p:image

聖餐式を連呼する准教授。。

さらにはミサでは生け贄の再現である事を否定。

f:id:inigo:20091121205854p:image

ティヤールドジャルダンで創造論を学ぶ

f:id:inigo:20091121205853p:image

ハンスキュングで教会論

どうみてもモダニストです本当にありがとうございました。


靖国批判は許しません。

憲法9条を護る会とは何事

司教の政治的偏向を許さない会はあっても神学生を"モダニスト"から護る会や"正統信仰"や典礼を擁護する団体が無い件について。

モダニストも良心を傷つける事無く捧げる事が出来るノヴスオルドミサや、いけにえの祭壇から食事のテーブルにかわった事や(プロテスタントたちにとって) 躓きや気に入らないかもしれない危険の陰とでもなるかもしれないものは全ての石を取り除いた事に対する疑問があがらない件について。

サヨクに厳しくモダニストにやさしい。

近代主義者に"やさしい"のにピオ10世会にたいしてはまるで"腫れ物"を扱うかの態度。


"違法だ違法、不従順だ不従順"と繰り返すなら、このような神学者にも破門だ破門、教授職停止だ教授職、著作を焚書にしろとネット盛り上がってもおかしくない。

自称聖座に忠実ならね。

あしたは

ピオ十世会のミサが東京であります。

王であるキリストの祝日ではありません。

ノヴスオルドの典礼暦では年間主日の最後になります。。

2009-11-19

多分速報

f:id:inigo:20091119110459p:image

菊池司教様が新潟司教兼任のまま札幌教区管理者に任命されたようです。

f:id:inigo:20091119101839j:image

ピオ10世会に一言

あがないの秘跡でセルフインティンクションで平信徒のブログに突撃した記憶が。

司教の名を騙る不届きものである事を祈ります。

f:id:inigo:20091119102749j:image


不存在確認

無効確認

撤回

解除

撤回と無効確認はほとんど同じだが撤回は無効だったかどうかの審理を要せずに現教皇の意思でできる。

今年までセルフインティンクションを勝手にしていて今年から禁止にした件について。

文書主義ですのでと言っているなら、教皇様の自発教令に従って聖伝ミサを捧げたらいいのに。

本当の従順と偽りの従順について考えなければなりませんね。

ソース 

http://www.tokyo.catholic.jp/text/diocese/oshirase/091118sapporo.htm

http://s02.megalodon.jp/2009-1119-1010-06/www.tokyo.catholic.jp/text/diocese/oshirase/091118sapporo.htm