序
アメリカ下院での慰安婦対日非難決議やオーストラリアの対日捕鯨批判など、日本をめぐる昨今の世界の動きを見ると、いちばんの理解者と思っていた先進国の人たちにさえ、日本の歴史や文化がまったく誤解、曲解されており、その現実には暗澹たる気持ちに襲われます。
なぜこれほどに日本が理解されないのでしょうか。結論からいえば、その根本的な理由は、古来、築かれてきた文明のかたちが、日本と欧米諸国とでは決定的に異なるからだろう、と私は考えます。つまり多神教文明と一神教文明の違いです。
自分には直接、見えない自分の顔を、他人に向かって説明するのはきわめて困難ですが、日本人はこの文明的な違いを十分に自覚できていないようです。
くわえて日本人はPRが下手くそです。キリスト教世界では、神の教えを広めるため、あの手、この手の努力が2000年間、世界中で日々、続けられてきましたが、地域共同体を前提とする日本の「村の鎮守」には布教の発想すらありません。
しかも悪いことに、明治以後の近代化で日本が欧風化し、さらに開闢以来の敗戦で日本という文明の価値を否定され、そのうえ今度はグローバル化の時代を迎えて、日本人自身が日本の文明的価値を見失っています。日本が世界から理解されないのは当然です。
1 ザビエルが絶賛した「日本人の特質」
かつては日本をよく知る外国人がいました。その最初の人は、「東洋の使徒」と呼ばれるフランシスコ・ザビエルでしょう。フロイス「日本史」の完訳者(共訳)として名高い京都外国語大学の松田毅一教授によると、「最初の宣教師」ザビエルはするどく日本人を観察し、じつに高い評価を与えていました。
天文18(1549)年に来日したザビエルは、その翌年、カトリックのアジア伝道の中心地であるインドのゴアに出した長い手紙に、次のように書き、日本人を絶賛しています。
「私たちが知り得た限りでは、この国の人々はいままでに発見された国民のなかで最高で、日本人より優れた人々は異教徒のなかでは見いだせないだろう」
戦国時代末期、国が分裂し、戦乱のただ中にある日本で、何がザビエルをそこまで感嘆させたのか、というと、それは富よりも名誉を重んじる「キリスト教の諸地方の人々がけっして持っていないと思われる特質」でした。
ザビエルは同じイエズス会士のルイス・フロイスに対して、「日本人は、文化・風俗および習慣において、多くの点ではるかにスペイン人に優る」とまで語ったといいます(松田『南蛮のバテレン』1970年など)。こそばゆいほどの賞賛です。
ザビエルは1506年、フランスとスペインにまたがるバスク地方のナバラ王国に、貴族の末っ子として生まれました。異国の生まれだけに、スペインと日本のいずれをも客観的に見ることができたのでしょう。そのうえでの日本人観は貴重です。
2 「壬辰倭乱」の悲惨
ザビエルが賞賛した「富より名誉を重んじる特質」とはいったい何か、何に由来するのか、を探るため、唐突かも知れませんが、文禄・慶長の役の「降倭」を例に、考えてみようと思います。
豊臣秀吉の朝鮮出兵が始まったのは、ザビエル来日の40年後です。今日の韓国人にとって、「壬辰倭乱」は「侵略」以外の何ものでもありません。たとえば金大中・元大統領などは、「有史以来の最大の危機」とまで表現しています(『金大中獄中書簡』1983年)。
このとき何があったのか、「侵略」の現実は、日本軍の総帥として4万の兵を率い、朝鮮にわたった毛利輝元の書状に生々しく記述されています。
秀吉の渡鮮に備えて、釜山から漢城(ソウル)まで11の宿泊所を建設し、その道筋を確保するというのが輝元の任務でしたが、輝元の前には思わぬ障害が立ちはだかっていました。それは朝鮮の国土の広さと言葉の違いです。
国土は日本よりも広いと感じるほどで、渡海した兵力だけでは治めきれません。各地に難所があり、大河川が横たわっている、と輝元は書いています。
また、言葉が通じないため、朝鮮の官吏をいたわろうとしても気持ちが通じない。通訳や朝鮮の事情に通じた「物知り」がたくさん必要なのですが、それでも統治は困難でした。輝元は、民衆に「札」(身分証明書)を与え、「いろは」(日本語)を教えて、治めようとしたようです。
つまり、領土的野心に基づく「侵略」とは単純に同一視できない実態があるのですが、朝鮮人は「倭寇の再来」と思い込み、山に隠れてゲリラ攻撃を仕掛けてきました。朝鮮民衆は戦乱で飢餓地獄に陥りました。飢えてまとわりつく物乞いを輝元の軍勢は泣く泣く切り叩きました。それは「目も当てられぬ事」だった、と輝元は書き残しています(北島万次『朝鮮日々記・高麗日記──秀吉の朝鮮侵略とその歴史的告発』1982年)。
3 信義を重んじる
当初、秀吉軍は連戦連勝だったといいます。30万の大軍に対して朝鮮の兵力はたかだか5、6万、明の援軍も10万。当時の日本は世界に冠たる鉄砲大国ですが、朝鮮軍には弓矢しかありませんでした。
秀吉軍は釜山上陸からわずか2カ月後、無抵抗で平壌を占領し、救援に駆けつけた明軍を撃破します。しかしその後、軍の勢いはピタリと止まり、敗退します。理由の1つは、日本の武将たちが大量に朝鮮側に寝返ったからだといわれます。「降倭」です。その数は5000?6000人ともいわれます。
近代日本を代表するキリスト者・徳富蘇峰によると、降倭は公然たるもので、朝鮮側の使者として各地で講和交渉に当たったのは降倭でした。陸兵だけでなく、水軍にもいました。加藤清正を暗殺して朝鮮側の恩賞を求めようとする企てさえあったようです。当時の武士道は倭寇の気習や草賊の遺風をそのまま踏襲していた。だから平気で敵側に降った、と蘇峰は指摘します。
にもかかわらず、と蘇峰の指摘は続きます。降倭の武勇、剽悍(ひょうかん)、剛猛なる気象(筆者注:原文ママ)はシナ人、朝鮮人を驚倒せしめた。シナ人の怯懦(きょうだ)、残忍と日本人の勇猛との違いは敵側の記事に明らかにされている。武士道の要素は武勇、廉潔、信義、節操にあり、当時の日本人の武士道には信義が欠けている。しかし、それでも、と蘇峰は畳みかけ、日本人の信義がシナ人、朝鮮人と比較して、いかに徹底的であったか、朝鮮の俘虜が国王に上書した文書には、「倭奴の性、盟約を重んず。これと連盟すれば、あるいは百年の無事を保つべし」と書かれてある、と蘇峰は指摘するのです(徳富猪一郎『近世日本国民史・豊臣氏時代・庚』昭和10年)。
下剋上の時代にあってもなお、日本人は武士の信義を重んじていたということですが、この日本人の特性は何に基づいているのでしょうか。
4 「自然との一体化」と見抜いたアインシュタイン
日本の伝統美と日本人の純粋性を深く理解した代表的西洋人の一人として知られるのは、アルベルト・アインシュタインです。
秀吉の時代から300年余りのちの大正11(1922)年に来日したアインシュタインは、九州から東北まで各地をめぐり、大学で相対性理論を講演したほか、明治神宮や日光東照宮などに参詣し、皇后陛下に謁見、能楽や雅楽を鑑賞し、さらに名もない民衆にいたるまで数多くの日本人と交わり、「日本のすばらしさ」に魅せられました。
アインシュタインの旅日記によると、来日前は「神秘のベールに包まれた国」と考えていた日本で、最初に感動したのは自然の「光」でした。しかし、自然以上に輝いていたのは日本人の「顔」だったといいます。アインシュタインは「日本人は他のどの国の人よりも自分の国と人々を愛している」ことを知ります。出会った日本人は「欧米人に対してとくに遠慮深かった」のでした。
そうした国民性はどこに由来するのか、と考えたアインシュタインは、自然との共生、一体化と見抜きます。旅日記には「日本では、自然と人間は一体化しているように見える。この国に由来するすべてのものは愛らしく、朗らかであり、自然を通じて与えられたものと密接に結びついている」と記されています。
その「自然と人間の一体化」を示すものは、日本の神道と神社建築でした。宮司の案内で参拝した日光東照宮は「自然と建築物が華麗に調和している。……自然を描写する慶びがなおいっそう建築や宗教を上回って」いました。
天才の探求心は天皇にもおよんでいます。熱田神宮では、「国家によって用いられる自然宗教。多くの神々、先祖と天皇がまつられている。木は神社建築にとって大事なものである」と印象を述べ、京都御所では、「私がかつて見たなかでもっとも美しい建物だった。……天皇は神と一体化している」と見ています(『アインシュタイン、日本で相対論を語る』2001年)。
アインシュタインは、自然との共生が日本人の国民性の源であり、日本の宗教伝統の基礎となり、天皇を中心とする国家制度にまで発展したことを、たった1カ月半の滞日で理解したのでした。
5 森を破壊した一神教文明
ザビエルが賞賛した日本人の特質も、蘇峰が指摘した日本人の武士道精神も、結局のところ、このアインシュタインが看破したように、自然を畏敬し、自然と一体化する、日本人の精神性に由来するものだろうと思います。「地に満ちて地を従わせよ」「生き物をすべて支配せよ」(「創世記」)という絶対神の「祝福」に従って、自然を征服・支配するヨーロッパの一神教文明との大きな相違点です。
今日、地球環境の悪化が伝えられない日がないほどですが、環境破壊の原因は近代ヨーロッパ文明の繁栄と関わりがある、と主張しているのは、国際日本文化研究センターの安田喜憲教授です。大自然と闘い、征服してきたのがヨーロッパ文明なのです(『森と文明』講座文明と環境9、1996年など)。
教授が注目するのは「ギルガメシュ叙事詩」です。人類最古の神話には、シュメール王ギルガメシュが聖なる香柏(レバノンスギ)の森に遠征し、親友と太陽神の助けを借りながら、森の守り神フンババを殺害し、香柏を伐採する場面が描かれています。
教授が指摘するように、これは日本の神話とは正反対です。「日本書紀」に描かれた五十猛(いそたける)神の物語では、木の種を持って天降ったあと、これを大八洲(おおやしま)に植え、すべて青山にしてしまった、とあります。そして水田耕作の開始は日本列島にはじめて大規模な自然破壊をもたらしましたが、開発された水田は国土の1割にも満たず、今日なお7割までが森林に包まれています。
けれども、メソポタミアの神話は森の神を怪物とし、逆に森の破壊者を英雄と称えます。そして自然への畏敬を失った人間によって・メソポタミアの森は消滅し、同時に最古の文明は崩壊したのです。
教授は一神教の成立と伝播が森を破壊し、消滅させたと考えます。一神教が生まれたのは古代エジプトのナイル川流域といわれます。森林の消滅と砂漠化で大地の神など多神教の神々が脱落したのです。絶対神の下で人間を世界の中心に位置づけ、自然を征服し、支配する思想はユダヤ・キリスト教に受け継がれました。
ヨーロッパでは「12世紀のルネサンス」以降、アルプス以北の大森林地帯は急速に開墾され、消滅しました。森林破壊の先頭に立ったのは宣教師で、森に住むケルト人やゲルマン人の伝統的な神々を排斥し、聖木を切り倒すことを正義と信じて疑わなかったのでした。
自然征服の文明は15世紀の地理上の発見によって世界に広がり、北アメリカでは入植から300年でじつに8割の森林が消滅した、と安田教授は述べています。
砂漠に成立した一神教が森の文明を侵略し、緑の大地を砂漠化したのです。ヨーロッパ文明は物質的には豊かですが、無機質的・無生命の近代都市を築き、砂のような大衆と都市の病理を生んだのです。
冒頭にオーストラリアによる反捕鯨批判について触れましたが、牧畜を主産業とするこの国で、人々の命をつなぎ、富をもたらしてくれる家畜たちへの感謝が精神文化にまで昇華されることはないでしょう。しかし日本では、捕鯨を生業としてきた港町の神社に鯨塚があり、神祭りが行われています。日本人にとって、鯨は人間に従属する支配の対象ではありません。その違いを理解せずに日本の調査捕鯨に強硬に反対し、実力行使までする自然保護主義者らと、かつて異教の神を排除することに狂奔した宣教師たちの精神性は共通しています。
6 異民族との関わり方
一神教と多神教の違いは、支配か畏敬かという自然に対する態度のみならず、異教徒には異教徒の神があり、世界には複数の正義があることを許容する心性の幅を持ちうるか、という社会的態度の違いにつながり、異民族との関わり合い方や植民地政策の違いをもたらします。
たとえば、筑波常治・早稲田大学教授は、ヨーロッパ諸国の植民地経営と日本のそれとは異なると指摘し、その違いは日本人が稲作民であるのに対して、ヨーロッパ人は遊牧民であるところに由来する、と理解しています(筑波『米食・肉食の文明』1971年)。
教授によれば、水田稲作の大きな特徴は、畑作と違って、連作可能だというところにあります。このため稲作民は定住が可能になり、土地への深い愛着が生じ、猛烈な郷土愛が生まれ、土地愛を元にした日本人の国家意識、民族意識、つまり「国土ナショナリズム」を生ぜしめたというのです。
これに対して、ヨーロッパの場合は、民族の人種意識と結びついているのではないか、と教授は問いかけ、「民族ナショナリズム」と呼び分けることを提唱しています。その代表選手はユダヤ人で、古代ユダヤ王国が滅び、国土を失い、「亡国の民」となっても団結し、民族として滅亡しなかった背景には、土地に縛られずにオアシスを求めて移動した遊牧民の伝統がある、と教授は指摘するのです。
ところが、日本人には遊牧の伝統がまったくありません。同時に民族闘争の深刻さを経験した歴史がありません。日本人にとって異民族は新しい文化をもたらしてくれる恩人でさえありました。この違いは植民地政策に大きな相違をもたらしました。
日本人にとって、植民地の異民族は「同胞」なのです。日本人は異民族を「敵」とは認識しません。善意をもって手を差し伸べれば、異民族も喜んで融和してくると考え、融合一体化しようと努力したのです。
しかし異民族はそれほど楽天的ではない。日本人は異民族の民族ナショナリズムを見落とし、結果的に総スカンを食らった。ヨーロッパ人は原住民を蔑視しつつ、原住民特有の生活権を認めたのに対して、日本人は何でもかんでも日本化しようとして異民族の反発を受けた、と教授は書いています。
筑波教授は、遊牧民の苛酷な風土、オアシスを奪い合う厳しい生活、峻厳な神観に対して、日本の温和な風土、争いのない生活、大らかな神観という違いを強調します。風土の違いが異なる自然観を生み、自然観の違いが自然を支配する一神教的文明と自然と同化する多神教的文明の相違を招き、植民地政策の政治的手法の違いをもたらしたのです。
7 批判される「内鮮一体」政策
日本人にとって人間と自然は対立する関係にあるのではなく、同等関係にあり、日本人は花鳥風月を客体化せずに感情移入します。異民族に対しても同様で、先述したように、朝鮮に出陣した毛利輝元は、地理が分からず、言葉が通じないことに周章狼狽しています。国が異なれば地理も文化も異なるという当たり前のことが理解できない。そして日本人は300年後、輝元と同じように、「内鮮一体」という善意の政策をくり返し、「侵略」という、予期せぬ批判を浴び、軽率な日本人は贖罪意識に囚われ、わが身を責めています。
たとえば、今日、「日帝」が朝鮮語の使用を禁止したと批判される「国語抹殺政策」は、昭和13年の第三次朝鮮教育令によって、それまでとは異なり、内地人と朝鮮人の差別が撤廃され、両者が机を並べて勉強できるようになったというのが事実です。
朝鮮語が「必修」から「随意科目」となりましたが、とくに日本人校長の学校では朝鮮語の授業が続いていたといわれ、事実、そのころちょうど小学生だった金大中・元大統領の成績簿には朝鮮語の成績が「10点」と記入されているようです(金大中『わたしの自叙伝─日本へのメッセージ』平成10年)。
朝鮮総督府の機関紙「毎日申報」は漢字ハングル混じりで終戦まで発行されていたし、ラジオの第二放送は朝鮮語が用いられていました。朝鮮総督府が編纂した朝鮮語辞典もあります。最近では、在朝鮮日本人に対する朝鮮語奨励政策までが実施されていたことが知られるようになりました。「日帝の国語抹殺政策」説は完全な誤りです。
「強制動員」「強制連行」説も同様です。先の戦争では24万を超える朝鮮人軍人・軍属が戦争に参加し、うち2万人が命を落とし、靖国神社にまつられています。朝鮮での徴兵制採用は、当時の朝日新聞の報道によれば、「内鮮一体の実」を挙げることでした。朝鮮での徴兵制実施は、じつのところ朝鮮人の請願を受けて始まり、13年に陸軍特別志願兵制度が創設され、朝鮮の青年が殺到しました。民間人の集団動員もむりやり連れてくる「強制連行」ではありません。それどころか、労務管理や家族援護など、日本政府はむしろ内鮮一体化のために苦悩しています。
冒頭で触れた韓国人慰安婦問題でいえば、慰安婦と将兵との心情的交流や恋愛話はしばしば元慰安婦自身が伝えています。両者の間には連帯感さえあり、日本軍関係者は慰安婦を「戦友」と呼びます。朝鮮人は同じ「日本人」であり、戦争をともに戦う最大の協力者でした。慰安婦も同様です。
しかし戦後、抗日独立史観に固まる韓国では、一転して対日協力者である慰安婦は批判の対象となりました。韓国儒教社会は正統を重んじ、異端を極端に排除します。異国の血に汚れた「売国奴」のレッテルを貼られたまま生きていくことがどれほど厳しいか、であればこそ、元慰安婦たちは生き延びるために「被害者」を演じ続けざるを得ない。その苦しさが理解できない日本政府は真相究明も不十分なまま、軽々しく「謝罪」しています。
一方、大航海時代以降のキリスト教徒による異教世界への侵略と征服、破壊、身の毛もよだつような先住民の殺戮はローマ教皇の勅書に基づいて推進され、黒人奴隷の酷使さえ矛盾なく正当化されたのですが、今日ではその悪行はほとんど忘れられています。それもそのはず、無抵抗の先住民を家畜のように追いたて、切り刻み、皆殺しにしたとすれば、「侵略」批判の声が聞こえてくるはずがありません。
そして、植民地といえば支配と隷属という発想しか思い浮かばない一神教世界の人々は、韓国人元慰安婦の苦しまみれの証言を鵜呑みにし、「性の奴隷」と信じ込み、自分たちの暗黒の歴史を顧みることもなく、日本を非難し、公式謝罪を要求するのです。
8 キリスト者・矢内原忠雄の無理解
日本を理解できずにいるのは、キリスト教文化を学んだ日本の知識人も例外ではありません。
たとえば、矢内原忠雄・東京帝国大学教授です。戦時中のキリスト教徒の受難と闘いの代表例として知られます。雑誌論文などが「反戦的」と攻撃され、大学を追われました。生命の危険まではなかったようですが、個人通信はしばしば発禁処分を受けました。
その矢内原が戦後の第一声で講演したテーマは「日本精神への反省」でした。その大半は本居宣長批判で、日本人には絶対神、人格神の概念がない。日本精神を反省し、立派なものに仕上げるにはキリスト教を受け入れよ、と訴えました。
とくに注目されるのは、日本精神、すなわち惟神(かんながら)の道の特色として清浄の観念を取り上げ、大祓(おおはらえ)について説明していることです。
矢内原は、罪穢れを年2回、定期的に祓い清めるのが大祓で、その罪穢れは神々によって海に運ばれ、飲み込まれ、根の国底の国に気吹(いぶ)き放たれ、さすらい捨てられる。罪という罪が水に流されるのだ、と説明し、穢れを忌んで清浄を愛するのは長所であるが、罪の処分を簡単に無造作にしてしまうのは短所で、解決が浅い、と批判しています(『時論2』矢内原忠雄全集19、1964年)。
キリスト教と異なり、神観念も罪の概念も幼稚で、だから侵略戦争の反省も不十分だとでもいいたいのでしょうか。なんと驚くべき、底の浅い神道理解でしょう。
矢内原が「受難」のときにあったころ、東条内閣の思想言論統制に果敢に抵抗し、矢内原とは違って、たびたび命をも脅かされたという神道人で、戦後唯一の神道思想家といわれる葦津珍彦(あしづ・うずひこ)が主張しているように、人間は誰でも神聖なるもの、高貴なるものを求めています。それは人間が罪と穢れから離れがたい存在だと知っているからです(葦津『近代民主主義の終末』昭和を読もうシリーズ3、平成17年)。
つまり人間はみな宗教的存在であり、だからこそ、罪穢れを祓い、神聖に近付こうとします。しかし祓っても、祓っても、罪汚れ、過ちを犯してしまうのが人間であり、それだからなおのこと、禊ぎ祓うのです。これのどこが「解決が浅い」のでしょうか。
禊祓いは天皇も行われます。いや、天皇の祓いこそ厳重です。
天皇は「祭祀王」というお立場で、「私」のない宮中祭祀の厳修こそが第一のお務めといわれます。現人神(あらひとがみ)ともいわれる天皇ですが、国と民のために私なき祈りを捧げるという、ことのほか重い務めを深く認識されるがゆえに、天皇は罪や過ちのないことを期して厳重に潔斎されます。天皇は皇祖神の御前にあってあくまでも謙虚です。それどころか、皇祖・天照大神もまた至高至貴の神とはいいながら、天の岩戸隠れの神話などを読むと、キリスト教の絶対神とは対照的に弱々しくさえ感じられます。
日本人は、大自然の前にあって小さくて弱い現実の人間存在を見つめ、謙虚にへりくだり、ひたすら禊祓い、神に近付き、一体化し、神意を受け継いで、清く正しく生きる倫理を追究してきたのでしょう。我こそは世界の中心であり、支配者だ、と誇り、権利を主張し、権力を振るうのとはまったく異なります。
9 占領軍が破壊しようとした「忠」の心
日本の敗戦後、占領軍は神道撲滅政策を推進しました。被占領国の宗教に干渉することは戦時国際法違反でしたが、あえて干渉しようとしたのは、アメリカ政府が戦争中から「国家神道」こそが「軍国主義・超国家主義」の主要な源泉と誤って理解していたからです。その中心施設と考えられた靖国神社は焼却処分が噂され、駅の門松や注連縄までが撤去されました。
占領軍は伝統芸能である歌舞伎にも弾圧を加えました。軍国主義を助長するという判断で、赤穂浪士の仇討ちをテーマとする「忠臣蔵」も圧迫がおよびました。日本人の忠義の精神を破壊し、精神革命を推し進めようとしたようです。
先述した葦津珍彦は、この「忠臣蔵」上演禁止問題を取り上げ、忠義に関するアメリカ的理解と日本的理解が違うことを説明しています(前掲『近代民主主義の終末』)。
それによると、アメリカ人が考える「忠」とは権力者に対する外形的な封建的服従の思想なのでした。しかし日本人の「忠」は隷属ではなく、他者に尽くす奉仕であり、したがって、ときには忠告のために命がけの論争さえ厭いません。
アメリカ民主主義では神から与えられた個人の生命権が最優先されますが、日本では生命以上の価値を見出し、そこに死力を尽くす「忠」の精神を美しく尊いと考える美意識がありました。それぞれの国民がそれぞれの社会的任務に「忠」であることが、同時に社会のためになり、国の利益につながる。そのように考える前提には、共同体の強い連帯意識があります。
葦津は、キリスト教文明では、神への忠、国への忠、王への忠が対立し、そのため悲劇が生じたこともあるが、日本では国への忠と天皇への忠とは矛盾しないと考えられた、と指摘します。それは一神教世界の王が、国王であれ、大統領であれ、自己を主張する地上の支配者であるのとは異なり、多神教文明の日本の天皇は「私」のない、ひたすら「国平らかに、民安かれ」と祈る祭祀王だからです。
しかし占領軍には、この日本の多神教文明のかたちが理解できなかったのでしょう。あたかも鏡に映った自分の姿を見るように、支配と隷属という一神教的図式で、日本の文明を封建的野蛮と一方的に誤って理解したうえで、日本人の「忠」の精神を破壊し、民主化することを正義と信じ、実行したのでしょう。
ところが、さすがはアメリカです。やがて自分たちの誤りに気づいたのでしょうか、占領後期になると、神道撲滅政策は撤回され、歌舞伎の上演禁止も解かれました。
10 危機の時代だからこそ
けれども、占領軍の日本人改造計画はその後も尾を引き、多神教的共同体は一神教的個人に解体されました。いまや国民の半数近くはサラリーマンで、転勤による移動を繰り返す、いわば遊牧民と化しています。一生を同じ土地で暮らす人は4人に1人もいない、といわれ、筑波教授が指摘した「国土ナショナリズム」の前提となる稲作民の定住性はもはや過去のものとなっています。
内閣府が昨年夏に実施した「国民生活に関する世論調査」では、「働く目的は何か」という問いに対して「お金のために働く」と答えた回答者の割合が49.4%に上り、「社会の一員として務めを果たすために働く」という回答は14.1%でした。
http://www8.cao.go.jp/survey/h19/h19-life/index.html
ザビエルが見た、富より名誉を重んじる日本人と、現代の私たちとは、別の民族なのでしょうか。多神教的共同体、それを基盤とした国民意識は崩壊してしまったのでしょうか。
先述したように、アインシュタインは80年前、美しい自然とその自然に育まれた日本人の国民性を高く評価しました。その一方で、アインシュタインは、伝統と西洋化の狭間で揺れる日本の近代化の危うさを熟知していました。だからこそ、旅の途中で書いた「印象記」のなかで、「西洋の知的業績に感嘆し、成功と大きな理想主義を掲げて、科学に飛び込んでいる」日本に対して理解を示しつつ、「生活の芸術化、個人に必要な謙虚さと質素さ、日本人の純粋で静かな心、それらを純粋に保って、忘れずにいて欲しい」と訴えることを忘れなかったのですが、アインシュタインの心配は現実になってしまったのでしょうか。
しかし結論を急ぐべきではないようです。先日(平成20年1月24日)、読売新聞が発表した「国家観」をテーマとする同社の世論調査によれば、「国民の一人として、ぜひとも国の役に立ちたい」という考え方について、「そう思う」が73%に上っています。「そうは思わない」の20%をはるかにしのいでいます。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080124-OYT1T00522.htm?from=main1
「過去の本社調査と比べて、もっとも高い数値となり、戦後60年余りを経た今の日本人の『国家意識』の高まりがうかがえた」と記事にあります。
昨今の慰安婦対日非難決議や捕鯨批判について触れましたが、内憂外患の危機の時代だからこそ、国に「忠」たらんとする日本人の血が騒ぐのでしょうか。