あたくしがなだっちの「悟り」について疑問に思うのはわけがあって、けっこう親しい友人がやはり仏教系の修行をして「悟りを開いた」と誇らしげに言い放ったことがあったからなのです。
なんとなく憎いじゃないですか。
それであーだこーだと猛烈に突っ込んだりいじくったりしたわけなのね。
そんなことがあったから、友人の「悟り」のことはともかくとして、なだっちの修行はずいぶんと安直なものに思えるのです。
安直というより、その友人の修行の方法論からすると、かなり危険なものらしい。
師匠の指導のもとに、きちんとした段階を踏んだり、師匠の認証を受けながら進めたとしても、発狂することが多々あると言っていたのでした。
そういえば、なだっちは以前に、どこかに書いたものだったか、それとも講演(トーク?)の採録だったか忘れたのだけれど、こんなこと言ったか書いたかしてましたよね。
「前衛映画をつくりましたと言って、ただめちゃくちゃに撮ったものを、ただめちゃくちゃにつないだものが見られるが、そんなものは「めちゃくちゃなだけの映画」であって、少しも前衛ではない。前衛は、過去にあったスタイルを壊すことで成り立つが、そのためには過去にあったスタイルを知ることが必要だ。つまり素養なくして前衛的表現は成り立たない」
たぶんこんなこと言ったか書いたかしていましたよね。
仏教の修行だって同じだとあたくしは思う。
ムダなこと、ただ形式だけのこともあるだろうけれど、それこそ釈迦の解脱からいままでのあいだに積み重ねられてきた方法論を無視することはできないと思いますよ。
なのになだっちの「悟りへの方法論」はきわめて自己流ですよね。実験映画に関して言ったか書いたかしたことと、禅の修行の方法とが一致していません。
なだっちが実験映画について言ったか書いたかしたことをそのまま当てはめれば、なだっちの悟りは「めちゃくちゃ」なものじゃないの?
そしてあたくしの友人が言っていた「危険」ってこと、なだっちのこの一年をヲチしていて、なんとなくわかるような気がしています。うん、そういうことなのかも、って。
なんとなく憎いじゃないですか。
それであーだこーだと猛烈に突っ込んだりいじくったりしたわけなのね。
そんなことがあったから、友人の「悟り」のことはともかくとして、なだっちの修行はずいぶんと安直なものに思えるのです。
安直というより、その友人の修行の方法論からすると、かなり危険なものらしい。
師匠の指導のもとに、きちんとした段階を踏んだり、師匠の認証を受けながら進めたとしても、発狂することが多々あると言っていたのでした。
そういえば、なだっちは以前に、どこかに書いたものだったか、それとも講演(トーク?)の採録だったか忘れたのだけれど、こんなこと言ったか書いたかしてましたよね。
「前衛映画をつくりましたと言って、ただめちゃくちゃに撮ったものを、ただめちゃくちゃにつないだものが見られるが、そんなものは「めちゃくちゃなだけの映画」であって、少しも前衛ではない。前衛は、過去にあったスタイルを壊すことで成り立つが、そのためには過去にあったスタイルを知ることが必要だ。つまり素養なくして前衛的表現は成り立たない」
たぶんこんなこと言ったか書いたかしていましたよね。
仏教の修行だって同じだとあたくしは思う。
ムダなこと、ただ形式だけのこともあるだろうけれど、それこそ釈迦の解脱からいままでのあいだに積み重ねられてきた方法論を無視することはできないと思いますよ。
なのになだっちの「悟りへの方法論」はきわめて自己流ですよね。実験映画に関して言ったか書いたかしたことと、禅の修行の方法とが一致していません。
なだっちが実験映画について言ったか書いたかしたことをそのまま当てはめれば、なだっちの悟りは「めちゃくちゃ」なものじゃないの?
そしてあたくしの友人が言っていた「危険」ってこと、なだっちのこの一年をヲチしていて、なんとなくわかるような気がしています。うん、そういうことなのかも、って。