「産業」に懐疑の目を向けていた人たちは近代的産業が興隆する前に既にいた。
それは、フランス絶対王政期に経済問題に取り組んだ重農主義と呼ばれる人たちである。
彼らの特長は、「自然の秩序」である。その自然も、自然権などで使われる超歴史的な自然ではなく、人々が現実に生きている世界としての自然である。
重農主義者として名が知られているのはケネーとチュルゴーだが、より重農主義的と言えるのはケネーである。
彼は、「経済表」という現在の産業連関表の祖とも言える社会的再生産過程の考え方を提示した。
この「経済表」で扱われる経済部門は、生産階級・地主・不生産階級の三つである。
生産階級は、農業部門であり雇用主のみならず労働者も含む。
地主は、領主のみならず召使も含むもので、論理としては政府部門と考える。
不生産階級は、産業(加工)部門であり雇用主や職人・労働者を含む。
驚くことに、ケネーは、機械を造ったり、家具を作ったり、洋服をつくる労働を“不生産”だと考えていた。
(当たり前だが、ケネーは、産業国家日本を支える自動車や電子機器の生産も“不生産”とするはずだ)
ケネーが農業部門を生産的とするのは、“自然の恵み”により一粒の種が数百倍の種(穀物)を生み出し、そのような余剰こそが地主や不生産階級の活動を支えると考えるからである。
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「産業主義近代」の終焉は、マルクスではなく、ケネーの正しさを実証する:重農主義者は「産業主義近代」の終焉を予感していた。 投稿者 あっしら 日時 2004 年 6 月 27 日
アダム・スミスは重農主義に一定の評価を与えたが、以降の「近代経済学」は、経済表の考え方のみ延命させ、当然のように、産業部門を“不生産”と考える重農主義を過去の遺物としてしまった。
産業における技術革新や規模の拡大が、資本家の貨幣的富を増大させるだけではなく、幅広い国民生活の向上に貢献した「事実」を目の当たりにしてなお、産業部門は“不生産”であると主張し続けられる知的活動者はまずいないであろう。
「しかし、「産業主義近代」の終焉は、経済論理的に言えば、重農主義の産業部門は“不生産”であるという考察が“真理”として甦ることを意味する。
ケネーが“不生産”と呼ぶ根拠は富(余剰)がないことだから、ある国民経済で産業資本総和が利潤(富:余剰)を生まない事態を“不生産”と呼べるからである。
ケネーが産業を“不生産”と呼ぶ論理を紹介する。
(引用は、『私は、経済学をどう読んできたか』より)
「「人間論」の抜粋
・・・手工業で商品を製作する者は富を生産しない。
なぜなら、彼らの労働は、土地の生産物から抽出されて彼らに支払われる賃金に等しい分しか、商品の価値を増やすことはないからである。
布を作る業者、衣服を仕立てる仕立屋、靴を作る靴屋は、主人の食事を作る料理人や木を切る木樵、演奏をする音楽家と同様に、富を創造はしない。
彼らはすべて、ある一つの同じ賃金から、その仕事について割り当てられた報酬を支払われ、受け取った額を生活維持のために支出する。
このように彼らは、自分が生産した分だけを消費する。彼らの労働の生産物は、その労働に等しいので、そこからは富の余剰は生じないのである。
したがって、富を創出し、あるいは毎年収益を創造するのは、経費を超える価値を持つ生産物を土地から生じさせる人々しかいないのである。」(P.66)
どちらがわかりやすいかわからないが、“産業(加工)部門は、人の活動力によって自然を変形・変質させながら消費してしまうだけで新しい富(余剰)を生まない、変形・変質は人の活動力によってのみなされるものだから、それに従事していている人たちが生活するためだけのものでしかない。”と考えればわかる。
「おいおい、そんなことを言っても日本は産業国家としてここまで発展してきたではないか」という疑問は当然である。
その答えは、“日本の産業部門が発展できたのは、生産した財のある割合を外部国民経済(共同体)に販売できる状況が続き、貿易収支黒字(余剰)も確保してきたからに過ぎない”となる。
グローバリズムの行き着く先が「ワン・ワールド」であるのなら、貿易収支なる概念は消失することになる。
(それは、長崎県と茨城県のあいだに貿易収支なる概念が成立しない(意味がない)のと同じである)
重農主義は「閉じた経済社会」で妥当かつ自然な論理であり、「ワン・ワールド」が地球レベルで「閉じた経済社会」をめざすものであるなら、産業の“不生産”性が否応なく浮かび上がってくる。
重農主義のほうが、近代経済学やマルクス「資本論」よりも歴史スパンが広く、適用性や通用力が高いと言えるのである。。
【NUEさん】 「重農主義の「産業は不生産であり富を生まない」という考え方はとっても面白いし、ある面の真実を言い当てているようにも思います。
「産業が富を生み出している」というのは、ぶっちゃけてしまうと「人間が勝手にそう思っているだけよーん」だということですが、しかし、まぁ、この世界は人間の思いこみというか共同幻想によって成立していたりもするので「産業による富も富と考えてもいいじゃん」ということだったのでしょう。
しかし、それは我々が「国家=地域」によって分断されていた(電位差があった)からこそ、有効であったと。」
「幻想」も、まったくのホラでは共同のものにはなり得ず、何らかの支えを必要とするものだと考えています。
(吉本隆明氏の貨幣の共同幻想にしろ男女の対幻想にしろ、幻想であると闡明することで終わりにするのではなく、それを出発点として、幻想が現実的意味を持っている支えやわけを考えるのが彼らの役割だと思っています)
グローバリズムも、世界支配層のプロパガンダだと言ってただ切り捨てるのではなく、軍事力の強制がなくても受け容れられるわけやその支えを考える必要があります。
(“彼ら”が正当化のために説明している自由貿易で最貧国も豊かになったというのは、まったくのデタラメというわけではありません。生産性が上昇すれば、同じ1ドルの所得でも購入できる財が増えるからです)
「産業が富を生み出している」と信じられるのは、庶民が同じように仕事をすることで購入できる財の量や質が増加したという事実と保有する貨幣的富が増加した事実(すべてが貨幣的評価に還元されること)に支えられていると思っています。
庶民が購入できる財が増えたのは生産性の上昇のおかげ以外の何物でもありません。
同じ時間活動して産出する財の量が増えたから、手に入れられる財の量も増えただけです。
そして、「近代」でもそのように生産性が上昇できたのは、それによって輸出が増加し国外から流入する貨幣的富が増大することが大きな支えだったのです。
(「近代」で生産性を上昇させるもう一つ手法は、政府が赤字財政支出を行うことです。しかし、それは利息付きの返済を要するものなので、将来の生産性上昇を阻害する重石になってしまいます)
貨幣的富の増加はペーパーマネーとなった現在では幻想と言えますが、それをより多く求めて活動する人で溢れている限り、支配力の源泉であり、財を入手する力であり続けます。
生産性が上昇しない、ないし、生産性の上昇が国民生活の向上につながらないという現実は、「産業が富を生み出している」と信じていたことが幻想であり、「産業は不生産であり富を生まない」という正しい理解に人々を導くことになります。
今は天動説(産業が富を生み出す)から地動説(産業は本源的に富を生まない)に転換する段階だと思っていますので後に書くつもりですが、「産業は不生産であり富(余剰)を生まない」のは事実であっても、“産業は、少ない活動力で多くの財を生む仕掛けを創ることで、人々を楽にしたり豊かにするもの”です。
利潤獲得を動因とする資本主義経済では、「産業は不生産であり富(余剰)を生まない」事態に陥ると理解していただきたいと思っています。
【NUEさん】 「しかし、世界が「(電位差のない)ワンワールド」の方向に向かっているのはたしかなことのように見えます。
で、この「ワンワールド」というのは、ちょっと前に流行った「帝国」という言葉に置き換えてもいいかもしれません。
この「帝国」は現在の「国際」の一つ上のレイヤー(層)にあるものだと思います。
で、このレイヤーでは「国家」が実質的には消滅してしまう(見えなくなってしまう)はずです。
逆に「帝国」は我々が存在する「産業国家」の側から見ても見えない(制御できない)存在になってしまうはずです。」
「「帝国」は我々が存在する「産業国家」の側から見ても見えない(制御できない)存在になってしまう」というのは鋭い見方だと思います。
このまま進めば、“不在の帝国”が“最強の帝国”として世界の人々を制御(支配)するようになると予測しています。
「産業国家」の側から見れば、戦争もなく、経済的平等もより実現され、コスモポリタニズムも生きている「いい世界」になるかもしれません。
(世界支配層の欲抑制や統治技術次第ですが(笑))
【NUEさん】 「「帝国」という概念は、例の「オートポイエーシス」概念を世界・歴史に適用したものだと思いますが、オートポイエーシスでは下の層での作動はその上位層での作動とは断絶しています。
……言い方が難しいのですが、上下が「非連続に繋がっている状態」ですね。
この「非連続に繋がった状態」を実体化したものが金融経済だと思います。
金融経済では富は水平電位差からは生まれず、垂直の電位差から生まれる、と考えることができるように思います。」
「オートポイエーシス」は、世界(外的感覚的存在)と「世界」(意味付けられた認識体系としての内的世界)の関係性を通じて生きる(動く・変化する・対応する)ことだと理解しています。
それはともかく、「「非連続に繋がった状態」を実体化したものが金融経済」や「金融経済では富は水平電位差からは生まれず、垂直の電位差から生まれる」は的確な見方だと思います。
「帝国」においては、たぶん、金融活動から現在のようなリアリティは消失すると予測しています。
クレジットカードを使うことで金融活動性を見ることがなく、徴税に金融活動性を見ることがないのと同じような意味でです。
剥き出しの高利貸しはなりを潜め、メインの経済活動(取引)の背後に隠れたり、国家が仲介するような取り引きに変態するのではと考えています。
だから、「「帝国」は我々が存在する「産業国家」の側から見ても見えない(制御できない)存在になってしまう」と...
【NUEさん】
「モノを作って売って利益を上げる産業経済は非常に時間も掛かりますし、人間の好みだの流行だの不確定要素が多いのでマーケティングだのブランディングだの面倒で余分なものが必要になりますが、欲望を直接的に売買するのであれば、話ははるかにシンプルになります。
「産業? んな面倒でリスクのあることやってられっか」ですね(笑)。
金融経済というのは(モノの)質量から自由になれる経済でもあるはずです。」
商業だってあまりやりたくなく寄生者にしてみれば、産業や農業に従事するのはうっとしいはずですから、金融利得に傾斜するのは理解できます
(笑:金融活動も“知的執事”に委ねるくらいです)
金融活動は、農業・産業・商業のどれとも異質の“商行為”です。
(商業でも物を扱います)
金融主義が何か素晴らしいものだと考えている人は、自身の“異常性”を再点検する必要があると考えています(笑)
【NUEさん】 「そして、ご存じのようにこの金融経済の規模はいまや実体経済=産業経済の数十〜数百?倍の規模になっていると言われています。
これを動かせば(ナントカ通貨危機のように)産業国家単位の経済を簡単に破壊できるようになってしまっています。
つまり、実質的にはすでに「国家による産業経済の時代から帝国による金融経済の時代へ」と変わってしまっていると考えるほうがわかりやすいと思います。
で、この2つの層を「非連続に繋がった状態」にしているのはいったい何か、というと、不思議なことにそれは我々自身なんですね(笑)。
帝国の圧政に苦しむのも我々だし、帝国を支えているのも我々です。我々の欲望・欲動によって帝国は生きながらえているわけです。」
欲望が貨幣によって充足できるという観念(共同幻想)が生き残る限り、「帝国」の圧政に苦しみながら「帝国」を支えていくことになります。
(このへんは、「帝国」に限らず、「近代」に通底するものですが..)6/9/28
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