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震災生き延びた僕だから 東大野球部に20年ぶり医学生

2010年1月17日19時59分

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写真:部室で治(はる)正人主務と話す安原投手(左)。治主務も神戸市出身で、震災を経験した=東京都文京区の東大球場、山下弘展撮影部室で治(はる)正人主務と話す安原投手(左)。治主務も神戸市出身で、震災を経験した=東京都文京区の東大球場、山下弘展撮影

写真:昨春、神宮での東京六大学野球リーグ戦で力投する東大・安原投手=東京都新宿区、山下弘展撮影昨春、神宮での東京六大学野球リーグ戦で力投する東大・安原投手=東京都新宿区、山下弘展撮影

 兵庫県西宮市で阪神・淡路大震災に遭った少年が、東京六大学野球の東大でプレーしている。安原崇哲(たかあき)投手(3年、灘)。東大野球部に2人だけの医学部生だ。「あの地震を生き延びた僕だからこそ、やらないといけないことがある」。あれから15年。その思いを忘れることはない。

 1995年1月17日の朝をはっきり覚えているという。

 ガラガラ。次に、ドーン。

 まだ6歳だった。「地震」という言葉も知らず、何が起きたか分からない。布団を頭からかぶっていたが、体がずり落ちる。両親と一緒に、窓から外へ出た。ガス臭い。近所の人が靴を貸してくれた。自宅は1階が崩壊した。2階はかろうじてタンスに支えられ、斜めに傾いていた。

 幸い、親族や友達を亡くすことはなかった。が、生活は一変。避難所や仮設住宅、復興住宅を転々とし、小学校は三つ通った。そんな中で始めた野球に夢中になった。灘高時代はエースで4番打者。主将も務めた。高校2年の終わりには進路を決めた。「震災の時、僕は様々な支援を受けて生きた。恩返しできないか」。たどり着いた答えが、命と接する医師だった。

 07年に、医学部へ進む理科3類に入学。医学部から20年ぶりの野球部員になった。その年の秋、初めて神宮球場のマウンドを踏んだ。以来、主に救援で14試合、21回1/3を投げた。勝ち負けはまだない。

 学生が講義を選べる他学部と違い、医学部は年間計画が決められ、練習時間の確保が難しい。本格的に医学の講義が始まった昨春からは午前8時前に登校。講義前の1時間と休日に集中して練習する。

 生きているのを「運」と言い切る。あの地震で、6434人の命が失われた。「1階で寝ていたら、どうなったか分からない」。だから、今、できることに真剣に向き合う。「野球と勉強の両立は大変ですね、と言われる。でも、そう思わない。どちらもやるべきこと」。神宮で投げるのはあと1年。その後は、日本人の死因トップであるガンの発生メカニズムを研究すると決めている。(山下弘展)

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