「アレ・メンシェン・ベルデン・ブリューダー(すべての人はきょうだいになる)」 ベートーベンの交響曲第9番の合唱に使われたドイツの作家シラーの詩の一節です。
中国の天安門事件、ベルリンの壁崩壊、長野五輪…。第9は平和や自由の賛歌として、歴史の節々で、演奏されてきました。人類が苦難を乗り越え、やがては理解し合うという理想を表現した曲といってもいいでしょう。
今の世界は、宗教や民族の違いなどから人々が憎み合い、紛争やテロが頻発する不安に満ちた時代です。同じ地球に暮らす人々が歩み寄ることの大切さを訴える第9の言葉は、ますます重みを増しているような気がします。
<「人はきょうだい」>
この言葉を胸に抱きながら、音楽を通じて紛争地の人々を和解に導こうと奮闘している日本人指揮者がいます。諏訪郡下諏訪町出身の柳沢寿男さんです。
一昨年、セルビアから独立を宣言したコソボ共和国のコソボ・フィルハーモニー交響楽団の首席指揮者を務めています。
コソボは中世セルビア王国の中心地でした。その後、アルバニア人の入植が続き、セルビア人は少数派になってしまいました。ユーゴスラビア崩壊後、民族間のいさかいが絶えず、本格的な戦闘に発展したこともあります。多くの人が犠牲になりました。憎しみは消えず、対立が続いています。
「再び紛争になれば楽器を捨て銃を持って戦場に行く」
柳沢さんはコソボ・フィルを指導し始めたころ、楽団関係者が漏らした言葉に衝撃を受けます。この人は過去の紛争で身内を2人も失っていました。
音楽を共に奏でることで心の壁を乗り越えられないものか−。こんな思いから柳沢さんは3年前、民族混成の新しい室内楽団を結成します。
昨年5月にはアルバニア系とセルビア系の住民が川を境に南北に分かれて暮らし、民族分断の象徴とされるコソボ北部の街ミトロビツァで演奏会を実現させました。しかも、南北2カ所で。楽団にはアルバニア系、セルビア系のメンバーもいました。
演奏会は無事に終わりました。聴衆は異なる民族の楽団員が心を一つにして奏でる音楽を楽しみました。練習中は会話もなかったメンバーが、演奏会が終わるとメールアドレスを交換するまでの仲になった、といいます。
<音楽が懸け橋に>
「何度も挫折しそうになりましたが、音楽に国境がないことを示す出来事でした」。柳沢さんはこう振り返ります。「すべての人はきょうだいになる」という言葉に込められた思いを行動で示してくれたのではないでしょうか。
昨年暮れ、信濃毎日新聞に載った国際10大ニュースのトップは、米国に黒人初のオバマ大統領が誕生したことでした。「核なき世界」を訴えたことでノーベル平和賞も贈られました。
米国はその一方で、アフガニスタンなどで戦争をしています。戦争の最高責任者に平和賞とはおかしな話ですが、世界の人々や国際社会がこの重い課題を分かち合うためのメッセージである、と受け止めたいと思います。
平和とはどんな状態か、うまく説明することが難しい時代になりました。戦争などの暴力的な行為だけが平和の妨げではないからです。途上国の貧困や病気、飢餓といった問題も平和を脅かしています。こうした世界規模の格差や不平等がテロや紛争につながっている現実も無視できません。
世界に安定をもたらすには、米国やロシア、欧州、中国、日本など、世界の指導者の役割が重要になります。一方で柳沢さんのような個人の粘り強い行動も平和に寄与しているのです。
「日々の暮らしで精いっぱい。世界のことなんて」という声も聞こえてきそうですが、世界の動きが私たちの暮らしと直結していることを忘れてはなりません。怖いのは無関心です。柳沢さんはコソボに関心を持ったから行動したのです。6月には国連総会の会議場で、民族混成楽団を率いて演奏することが決まりました。力強い平和のメッセージを世界に発信してくれることでしょう。
いつか、人類がきょうだいのような関係になる日が来ることを信じたい、と思います。いがみ合うよりも理解し合うことに力を注がなくては、世界の平和はいつまでたっても夢のままです。
<関心を持つ>
柳沢さんは「コソボでは政治的に中立の立場でいられる日本人だからできたこと」とも言っています。誰もが柳沢さんのように行動できるわけではありませんが、世界の出来事にもっと関心を持ち、平和のために自分が生きる場で何ができるかを、真剣に考える時代なのではないでしょうか。