きょう放送「神戸新聞の7日間」
櫻井翔さん、高嶋政宏さんらの思いは…出演者インタビュー
未曾有の大地震で本社が全壊し、自力で新聞が発行できない危機に直面したとき、記者たちはどう行動したのか―。フジテレビ・関西テレビ系のドキュメンタリードラマ「阪神・淡路大震災から15年 神戸新聞の7日間〜命と向き合った被災記者たちの闘い」が、16日午後9時から放送される。人気グループ「嵐」の櫻井翔さんが、悲惨な現場での取材に悩みながらも、遺族や被災者の悲しみや怒りに寄り添う若手カメラマンを演じる。主演の櫻井さん、京都新聞と協力して新聞発行に全力を尽くす整理部長役を熱演した高嶋政宏さん、企画・プロデュースの立松嗣章さんに、このドラマへの思いを聞いた。
阪神・淡路大震災発生直後から被災地で多発した火災。炎と黒煙が市街地を覆い尽くした=1995年1月17日午後4時ごろ、神戸市長田区大丸町、大丸山公園から |
■記者の葛藤 伝えたい 若手カメラマン役・櫻井翔さん
―このドラマへの出演が決まったときの感想を
15年前の実話で、実在の人物を演じる。普通のドラマと向き合い方が違うものだった。震災で被害を受けられた方々に対して、ドラマをやることでフラッシュバックさせてしまう瞬間もあるだろうし。
また、出演が決まってからいろんな人に「私、神戸出身なんです」と言われ、震災のことを話してもらったりした。15年たっても、まだ傷跡が残っているんだと再認識した。
―被災した新聞社のカメラマン役については
いつかは演じてみたかった新聞記者・カメラマン役だったので、思い入れはかなりあった。ただ新聞社の組織などでわからないことも多く、紙面をレイアウトする整理部の役割とかは神戸新聞の会社紹介のDVDを見て知った。
―撮影で印象に残ったシーンは
食堂が倒壊して娘さんが運ばれていく現場で、主人公がカメラを構えて「撮れない」と葛藤(かっとう)するシーン。形は違うが北京五輪を取材した際、負けた選手にどう声をかければいいのか悩んだ。どうしても傷つけてしまう面があるし、一方で伝える役割も求められている。その経験も思い出し、震災現場での記者の葛藤を、少しだが理解することができた。
また、神戸新聞と京都新聞との友情、結びつきの強さも印象的だった。京都新聞を訪ねるシーンで、まず部屋のきれいさに驚いた。わずか数十キロしか離れていないのに、この違いは何だと。次に京都新聞の人たちが「好きなように使ってください」「大丈夫ですか」と言ってくれて、その温かさを心強く思った。
炎を噴き上げて燃えさかる住宅街。夜になっても火勢が衰えない松本通の火事=1995年1月17日、午後10時半、神戸市兵庫区 |
―キャスターなど「伝える役」として、このドラマを経験して感じたことはあるか
なんのためにやってるんだ、誰のために伝えるんだ―というセリフがすごく頭に響いている。テレビの向こう側、僕の背中の後ろ側にいる人たちへ向けて伝えていくということを強く意識した。
―全体を通して、このドラマに対する印象は
今回、震災のさまざまな映像資料を見た。撮影現場でそれが再現されて「これが現実なのか」という衝撃は強かった。当時は中学1年生で、東京でニュース映像も見てはいたが…。こんなことが本当に起こってしまったんだという事実の大きさを突き付けられた。
―震災15年の前夜に放映される。被災地の人々へのメッセージを
神戸の皆さんのパワーを知った。復興にしてもものすごい早さで立ち直った。一方で、今も心の痛手が癒えていないことをあらためて感じた。受験の年で行きたい学校に行けなかったとか、震災で人生が大きく変わった人も多い。知らなかったことをたくさん知ることができた。
僕らを応援してくれている小中学生の子どもたちにも、15年前にこういうことがあったことを知ってもらい、いつか来る災害に備えてもらえればと思う。
(聞き手・太田貞夫)
軒並みに倒壊した民家=1995年1月17日、神戸市灘区六甲町4 |
■新聞人の「思い」を実感 整理部長役・高嶋政宏さん
―出演が決まったときの感想を
脚本の内容は非常に重かったが、「この役はやらなければいけない」と思った。父(高島忠夫さん)の実家が神戸市東灘区にあり、子どものころは1年の約半分を神戸で過ごした。実家は全壊し、原風景も失われた。震災はひとごとではなかった。自分なりにこの作品に必死でぶつかっていった。
―京都新聞との協力で新聞発行を目指す整理部長役だが
整理部長はけがで出血しながら本社に向かった理由について当時、「後ろめたさだと思う」と話している。けがを言い訳にして新聞を出せなかったら、今まで取材した人たちに申し訳ない―と。人間として行動したのだと受け止めた。
―印象に残ったシーンは
やはり、京都新聞と協力して新聞を発行する場面。同じ新聞人として、「神戸新聞を絶対に休刊させない」という強い意志を感じた。
―撮影中に感じたことは何か
震災で亡くなった方々の「叫び」だ。突然、生を断ち切られ、もう家族や恋人に触れられない。そのくやしさ、悲しさを思うと、「絶対にやりきらないと」と思った。
小学校の体育館に避難し、不安な一夜を過ごす住民=1995年1月17日、神戸市長田区神楽町1、神楽小学校(現長田南小) |
―震災15年という節目でのドラマだが
関西では、「震災前」「震災後」というように震災は忘れ得ない出来事になっている。そして15年たっても、何も変わっていない。被災した人は今も苦しんでいるし、区切りがない。「忘れてはいけない」と思う。
5年ほど前、大阪の舞台の休演日に三宮に行った。そのとき、震災時の映像がまざまざと浮かび、ここまで復興したんだと感動した。そのことも忘れてはいけない。
―演じ終えてどうか
普段なら演技の評価が気になるが、このドラマについては何を言われてもいい。とにかく必死にやってみた、という思いだ。役者としても貴重な経験だった。
(聞き手・太田貞夫)
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