海上自衛隊のインド洋での最初の補給支援活動で、2001年11月に海自佐世保基地(長崎県佐世保市)などを出港した護衛艦と補給艦の計5隻の補給支援活動を総括した文書「協力支援活動等実施報告」の全容が西日本新聞の取材で分かった。政府は活動範囲を「非戦闘地域」に限定していたが、実際は隊員の死を想定して棺(ひつぎ)を載せて活動していたことが判明。停泊中に接触事故が起きていたことも新たに分かった。当時の詳しい活動内容が明らかになるのは初めて。
文書は、軍事問題研究会の桜井宏之代表が防衛省に情報公開請求して昨年公開された。現在の活動の法的根拠となる新テロ対策特別措置法は16日午前0時に期限が切れ補給活動は終了するが「非戦闘地域」の問題などは今後の自衛隊派遣の在り方に論議を呼びそうだ。
文書はA4判で137ページあり、初代派遣部隊指揮官の第2護衛隊群司令が02年3月に作成。準備訓練や活動、通信手段を検証し、隊員の健康管理や物資補給の課題などを詳述している。寄港地や洋上補給の実績などは黒塗りで公開された。
派遣艦の搭載備品リストの項目では、業者から棺を2基借用し、準備したことが明記されていた。接触事故は、海自佐世保基地配備の護衛艦「きりさめ」が寄港地に停泊中に起きた。パナマ船籍のしゅんせつ船に衝突され、けが人はなかったが、艦の一部に亀裂が入ったという。
艦内の臨時郵便局にスタンプ収集家からの依頼のはがきが約900通届いて活動に支障をきたし、中には公開されていなかった寄港地を独自に調べ、寄港地にはがきを取りに来た業者もいて、「作戦保全上問題がある」との記述もあった。
活動全体は「『訓練の自衛隊』から『働く自衛隊』へ脱却しようとしている象徴的な活動であった」と総括している。
初代派遣隊の幹部を務めた海自OBは取材に対し、「活動中にテロ攻撃を受けて隊員が殉職する可能性もあり、ありとあらゆることを想定して棺を準備した」と証言。さらに「旧日本海軍の時代は棺を載せていたが、自衛隊になって載せたのは初めてだったと思う」と話した。海上幕僚監部によると、隊員の士気が下がるため、約30回に及ぶ派遣の途中から棺は載せていないという。
桜井代表は「派遣は『安全』と言い聞かされてきたが、危険を伴っていたことをよく表している。防衛省が活動内容を広く公開していれば、途中からでも派遣の安全論議が活発になっていたはずだ」と話している。
=2010/01/14付 西日本新聞朝刊=