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【東】それは別の視点で言えば、人文科学的な言説が今後必要かどうかっていう問題ですね。必要かどうかは難しい問題ですが、サステナブルかどうかといえば、結果は見えているような気がする。人文科学は、これからも凋落の一途をたどるんじゃないかな。私たちの社会は、人文科学的な本質論なしで動くようにデザインされ始めている。というか、それしかないんですよ。
【宮台】その点について、東さんの本を読んで最後に残る困惑がある。つまり動物でいいんじゃないかという思いと、いや動物でいいのかなという思いの狭間に突き落とされるんですね。確かに本質論はいらないというのは、事実的水準でテロリズムを抑止するための智恵です。でも智恵は学問とは違う。単なるテクネーで、ピアノの弾き方と同じ水準です。 【東】でも学問と智恵とどちらが重要なのかは難しい。別の観点を導入しますとね、僕はすべての根幹には「工学的な知」の問題があると思うんです。産業革命以降、私たちの世界では工学的な知の重要性がどんどん上昇している。この二世紀のあいだ世界を変えたのは、実は文学部でも理学部でもない、工学部の力だったんですよ。そしてその力はいまも拡張し続けている。経済学は金融のエンジニアリングになってしまっているし、ヒトゲノムのデータベースが整備されれば、医療もエンジニアリングになっていくでしょう。脳科学や認知科学が進んでいけば、私たちの意志や信念もエンジニアリング的に説明されていく可能性がある。実際、薬物や洗脳の問題というのは、まさに私たちの脳が工学的に操作可能だから起きるわけです。社会のデータベース化や主体の動物化という現象は、実はこういう変化の果てに生じているわけで、八〇年代や九〇年代といった枠組みよりも広い問題なんですね。だから僕は、それはもう止められないと思う。 その工学的で動物的な世界のなかでは、データベースから抽出されたシミュラークルを次から次へと交換することでなんとなく生きていく人々が大多数を占める。むろん、それに違和感を覚える人々は確率的に出てくるでしょう。今後はそういう人々が哲学や思想を支えていくはずです。そこではいちおう、社会的なシステムへの「批判」がなされる。しかしそんな批判も、大局からすればデータベースの一部にすぎない。世界に違和感を覚える人々のために用意された、消費財のオプションにすぎない。たとえば『批評空間』の読者が動物的ではないのかといえば、まったくそんなことはない。浅田彰さんの華麗な文章を読んで「よしきた」と反応している人々は、結局ポストモダニズムのデータベースに反応しているにすぎない。これは「猫耳」に反応しているのと構造的に変わらない。哲学や思想は、いまではそのレベルに落ちている。 【宮台】それが、東さんが第四部でおっしゃっている「超平面的」ということですね(笑)。 【東】宮台さんは速水由紀子さんとの共著『サイファ 覚醒せよ!』で、文系的な知と理系的な知を総合して、「聖性」に対する感受性を取り戻すために「覚醒しろ」とおっしゃっていましたよね。しかし現実には、世界はすっかり工学的な知で覆われて、聖性などなくてもやっていけるようになっている。というか、正確には、「聖性」すらも工学的に供給しようという方向の世界になっている。もちろんおっしゃっていることの意味もよくわかる。聖性がなくて生きていける人はいい、でもなければ生きていけない人もいる、そういう人達のためになんらかの処方箋を出さないといけないということでしょう。でもこれは消費財のオプションを別に用意しよう、という話にしかならないと思うんです。世界理論はやはり必要ない。 【宮台】確かに単なる処方箋として読めるでしょう。『サイファ』を一口で言えば、先のローティに似て“徹底して論理的に考えれば、論理だけではどうにもならない”という構成です。その意味で、本当は、世界理論こそが処方箋を与え、処方箋こそが世界理論を与える可能性にかけたいんですよ。また、エンジニアリング的な知と、意味論的な世界記述は、そもそも微妙な関係にあります。「萌え」ているときに神経に何が生じているか、同じ状態をどんなクスリで作り出せるのかを、神経生理学的に記述できます。でも、なぜソレに「萌える」のかを探ろうとすると、意味論的な記述に移行するしかない。大森荘三的な意味でどちらも単独では完結できないんです。 【東】人間の行動を説明するのには三つのレベルがありますね。神経生理学的、認知科学的、そして精神分析的なレベルです。これは単純に言うと、理系的な人間理解、工学的な人間理解、文系的な人間理解に対応している。それで言うと、宮台さんが最初におっしゃったパターン認識的な消費行動というのは、まさにこの真ん中のレベルに関わっているんですね。 たとえばコップは物質でできている。これは珪素なり何なりで作られていて、大きさはこれこれで重量はこれだけだと。これが普通に言う理系的な世界把握ですよね。対して私たちはその物体を「コップ」という言葉で認識する。そして道具として使う。あるいはデザインを鑑賞する。これは文系的な世界把握です。この二つはおたがいに浸食しあわないから、簡単に手が結べる。けれども認知科学のレベルを持ち出すと、とつぜん話が厄介になる。コップをコップだと見なす神経回路の問題があって、それが訓練されることでコップを認知できるようになる。そう考えるのだとすれば、同じ仕組みはカントの文章を読んでカントだとわかる神経回路にも適応できる。すべてが結局は神経の訓練の問題ではないかという話になる。それで、「聖性」の話ですが、この問題についても文系的な語り方というのがありますね。文学であったり祝祭空間論であったり。 【宮台】人間的営みの「内的視点」と言ってもいい。人文科学の視点ですよね。全ては神経回路の問題だと認識する人間自身の神経回路の問題は、人文科学的な「内的視点」に道を開き、全ては意味論の(従って世界の)問題だと認識する人間自身の意味論の問題は、認知科学的な「外的視点」に道を開きます。 【東】その通りです。理系的な聖性論もありうる。たとえばドラッグですよね。ドーパミンがどうのこうの、A10神経がどうの、といった説明です。それで現在の社会では、理系的な聖性の供給(ドラッグ)はあまりにも直接的で社会的に回収不可能なので、聖性の体験は、文系的な方法で行いましょう、ということになっているわけです。お祭りとか文学とか。けれども問題は、そのどちらでもない認知科学的な聖性の供給システムなんですよ。僕はこれを「萌え」と呼んでいるわけですね。パターン認識の訓練だけで、「猫耳」でもいいし「シャネル」でもいいけど、ある記号を見た瞬間に勝手にドーパミンが出るようになってしまった消費者がいまや大量に存在している。それをどう扱ったらよいのか。これはいままでの社会は考えてきていない。スノッブな消費者は、記号的差異に対して意識的に反応していた。けれども動物化しデータベース化してしまった消費者は、記号的差異に身体的に反応してしまうわけですよ。これはやはり以前とは違うでしょう。 【宮台】論理的構造は東さんのおっしゃったことではっきりしています。ただ、繰り返すと、エンジニアリング的思考と人間的営みとは──認知科学的な外的視点と文科系的な内的視点とは──表を辿ると裏に回り裏を辿ると表に回る「メビウスの輪」の関係になるしかなく、どちらかだけでは一貫できません。そのことが分かった時点で議論はかなり煮詰まり、文系学問の相対性も認知科学の相対性もはっきりしてしまった。先程ローティの議論も、そのことを踏まえた上で、事実性を持ち出しています。 話が変わるけど、さっき僕は、ストリート系のギャルには断念した記憶さえなく、これでいけるんだと言いましたよね。でも追跡調査をするとそうでもないです。途中で頭打ちが来てダルくなっちゃうんですね。最近『ペイン』という映画を批評したんですが、ギャルやスカウトマンの世界で、非常に流動性が高いコミュニケーション環境でなおかつ安定性を保つために確率論的把握をしていく人間たちを描いている。流動性の中で不安定な状態にある者が、そうやって安定化するプロセスでは「幸せ感」が上がるけれど、一旦安定化すると、今度は急速に不幸せになっていく。死んでいるのか生きているのか分からない感じになるからです。強烈にダルい映画です。東さんの本で言えば、今は猫耳でいいけど、いつまで猫耳でやっていられるのかという問題ですね。猫耳の後は、豚の尻尾とかいって(笑)、三つ四つ移動しているうちに死ねるとしたら、それでいいのかもしれないけど、現に僕はそうやって移動すること自体ダルくなっちゃった。だから離島の海に潜るわけ(笑)。 【東】動物化した消費者がどのように老いていくのか、それは僕も関心がありますね。大塚英志さんが少女マンガの保守化について書いているように、新人類=オタク世代のスノッブな消費者は意外と老いに弱かったという印象があるんですが(笑)、ではつぎの連中はどうなのか。それはあと一〇年経たないと分からないでしょう。まあしかし、僕自身について言えば、今回の本で一区切りついているのは確かです。 (了) |