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「」 宮台・東対談
〜『動物化するポストモダン』を読む〜
【宮台】さっき本質的だと言ったのは、動物化した存在が実に管理しやすいことを含めて、スノッブと動物の違いをどう評価するかという問題なんです。最初に少し話しましたが、作品批評をしていく上でも、すごく重要なことだと思うんです。たとえば東さんは雑誌『小説トリッパー』で、『千と千尋の神隠し』と『A・I』には動物しか出てこないとおしゃっていた。なぜなら彼らは選択をしていないからだと。おかしいじゃないか、人間がいないじゃないかと。僕も同意見なんですね。『千と千尋』の世界にも、『A・I』の世界にも、迷いもなければ、リグレットもない。

【東】しかもそれが人間的な感動を描いていると思われている。人間的なドラマとは何かという常識さえ、大衆的なレベルで変化してきているわけです。

【宮台】でも『千と千尋』的でない作品もヒットしてますよ。以前の宮崎駿アニメには、お姫様が民衆の側に着いて泥にまみれるというモチーフがありましたが、それに感動する観客にとっては、お姫様の振る舞いは、迷いやリグレットを生み出す「あえて」する選択として捉えられます。異世界に放逐された者が元の世界に帰還する際に生じる迷いとリグレットが描かれる「異世界帰還もの」のモチーフも頻繁で、最近ではロバート・ゼメキスの映画『キャスト・アウェイ』や鴻上尚史の演劇『ファントム・ペイン』がそうだし、ビューティフル・ドリーマー』から『アヴァロン』に到る押井守のアニメも全てが「異世界帰還もの」。その意味では、成熟社会の現実内で稀少になった人間的なものを、虚構内で補完しているように見えます。一言でいえば、人間的なものこそが懷かしいのではないでしょうか。

【東】どうでしょう。僕はそんなに楽観的ではないんです。このあいだまさに鴻上さんとも同じ話をしたのですが、彼自身がそういうリグレットをテーマにしていることは確かだし、僕もそういう作品が好きだけど、いま多くの消費者がそれを必要としなくなっていることも事実でしょう。僕の言っている「動物的」というのは、見方を変えれば身体性の重視なんですよ。たとえばいまは、映画でも小説でも「泣けたからいい作品だ」という感想が非常に多い。自分が泣けたという事実のプライオリティがとても高くて、作品の意味や構造なんてどうでもいい。逆に言うと、他人がある作品でいくら泣いていても、自分が泣けなかったらそれはダメだし、あとでどうその良さを説明されても、「でもわたしは泣けなかったから」で終わり(笑)。だからいまのエンターテインメント業界では、とにかく泣ける方程式だけが重要になっている。ハリウッド映画がまさにそうです。定型的なストーリー、キャラが立っている俳優、そしてやたらと金の掛かった視聴覚刺激。物語がいくら単純だろうと荒唐無稽だろうと、いまの観客はとにかく自分の身体的反応を確認するために劇場に来てるのだから、それでいいわけですよ。

【宮台】賛成です。『宝島』の連載で、恐怖映画について似たことを書きました。血だ、牙だ、水だ、といった直接性で感情を惹起するなら、世界の中に「僕」は存在せず、単に法則的に反応する生理的なリレイスイッチがあるだけです。良い悪いは別に、自分を忘れて生理的リレイスイッチに一元化することが享受可能性になっている。そこでは世界も自分もモザイク状の断片です。ポストモダニズム的にはそれが「あえて」推奨されますが...。

【東】問題はこれからもそれでいいのかということですね。

【宮台】確かに難しい問題です。僕的に言えば、スノッブと動物の違いは、記憶の有無です。スノッブとは、記憶のある人たちです。その点で、かつて大塚英志氏とブルセラ少女について論争になりました。"ブルセラ少女は記号に一元化することで傷つかなくなった"という僕の記述に、大塚氏は"少女たちは傷つき易いからこそ「あえて」記号になっている"と反論し、それに対して僕は"記号になる前の断念の記憶があるならそうだろうが、その記憶すら忘れてしまえば痛みを一切感じなくなる"と応答しました。実際には、断念の記憶がある子と、記憶がない子は、半々でした。でも当時は政治的文脈があったので、記憶を忘れた存在のほうを「あえて」プッシュしたわけです。もちろん実際には、心情的に大塚さんに近いんです。

【東】僕だって個人の心情としては同じですよ(笑)。しかし、私たちの社会では、そのスノッブな若者たちが、虚構の記憶にしがみつき、いつのまにかその記憶から離れられなくなってしまった結果、オウム真理教が現れた。これは最悪です。

【宮台】まさにオウム真理教こそが、今言いかけた政治的文脈だったわけですよ。

【東】ええ。そして僕はその文脈はいまでも有効だと思います。私たちの社会には記憶がない。理想もないし伝統もないし目標もない。そのとき、架空の伝統や架空の目標にしがみつくのか、それとももうそんなものぜんぶ忘れてしまうのか。現在の日本では後者しかないわけですよ。だとしたら、大きな伝統や理想などなくても「まったり」と生きられるような記号的差異の戯れを、消費社会のほうで適当に供給してあげるほかない。だから僕は実は、九五年当時、宮台さんの主張というのは、消費社会化されたファシズム理論のようなものだと受け取っていたのです。そのうえでそれが現実的な選択だと思っていた。ただ宮台さんと違うかもしれないのは、僕にとってそれは「あえて」というシニカルな選択ではないということですね。もっと切実に、現在の私たちには「まったり」しかないような気がする。

【宮台】心の中までコントロールするという意味で確かにファシズム的だと言えるけれど、本源性についてのニセの記憶を遡ることをファシズムと呼ぶ学問的伝統もありますよ。

【東】そうでしたね。全体主義的と言うべきですか。消費社会と官僚システムと電子テクノロジーで武装された、記憶なき動物たちの世界……。

【宮台】そうです。ちなみに本源性への志向についても、むしろ忘れた方が安全だというのが『終わりなき日常を生きろ』のモチーフで、東さんがおっしゃった通り政治的には今でも有効です。例を挙げます。連合赤軍事件を題材にして撮った高橋伴明監督の『光の雨』は「なぜイデオロギーを間違ったのか」という反省の典型で、そこに劣等感やら共同体原理やらが持ち出されます。それはちょっと違うんじゃないか。イデオロギーに従う(と社会はよくなると思う)こと自体が間違っているんですよ。元赤軍派議長の塩見孝也氏にも言いましたが、そういう反省をする連中だからこそ、人を殺すんじゃないか(笑)。唯一実効的な反省は「脱力しろ=動物になれ」だけです。

【東】戦後日本を振り返ってみると、ある時期に全員が平等だと本気で思ってしまい、結果として学歴社会、競争社会、会社型社会が生まれ、今度はその鬱憤を晴らすべく消費社会化し、みなスノッブになればいいじゃないかということで八〇年代が来た。しかしそれではだめだったし、オウムみたいな狂気まで生み出してしまった。その結果、いまの私たちは、動物化して、低め安定でまったりと生きていく方向を選んでいる。これは最低なのかもしれないけど、歴史的に他の選択肢がつぶされてしまっているので、なかなかそうとも言えない。オタクが動物化しているのは結構なんじゃないか、オウムみたいなことも起こしそうにないしな、というのが僕の実感なんですよ。

【宮台】それは、原理原則よりも事実性が重要だというプラグマティズムの発想に近いですね。僕もそれを肯定しているのであって、システム理論が哲学と異なるのも、まさにそこなんです。ボスニア紛争の際、リベラリズムとプラグマティズムを合体したリチャード・ローティが言っていたことを思い出します。20世紀は人権主義者こそが殺戮し、殺戮を見過ごした。なぜか。人権主義者が「人間」を生物学的人間よりも狭く取るからだ。なぜか。人権主義者が本質論的な原理原則を持ち出して人間を規定するからだ。どうすればいいか。まずプラトン主義を捨てよ。でもニーチェやハイデガーを賞揚しても、現実には屁にもならない。事実的前提を積み上げ、現に殺戮できない感情状態をもたらすことだけが実効的だ。ゆえに、感情教育にむけて行動せよ。

 サラエボ人のジャスミン・ディズダー監督『ビューティフル・ピープル』が、ボスニア紛争について同じ結論を導きます。映画の冒頭でいがみ合っていたサラエボ人とクロアチア人が、ラストでトランプをさせられてしまう。気がついたらトランプを二局も三局も重ねてしまった自分らに気がついて顏をしかめるシーンで終わる(笑)。これは森達也監督の『A2』とも重なる結論で、分かり合う必要も、合意する必要もない。事実性を積み上げるだけで、殺し(を見過ごすこと)に痛みを感じるようになり、共生の実現に近づくと。

【東】シンパシーですね。

【宮台】そう。ローティの結論は、東さんの「動物化して結構」という話と重なるところがある。しかし、そこで浮かび上がってくるのは、哲学者や社会学者がやってきた本質論のごときものはいったい何だったのかという重大問題です。プラトン主義化したキリスト教の本質論こそが近代社会の母胎ですが、本質論は近代社会のサステナビリティを脅かす。

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