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【宮台】 関連した話で、面白いと思ったことがあります。僕は鉄道マニアでしたが、七〇年代に盛り上がった鉄道ブームやスーパーカーブームには、明らかに東さんのおっしゃる「萌え要素」への注目がありました。電車や車の車体にそれぞれボキャブラリ的要素があって、その組み合わせで電車や車を見るわけです。消費行動としては一般化していなかったけど、当時マニアックな趣味の世界に「萌え要素」的消費の萌芽が確実にありました。 もう一つ、第二部を読んで思ったことがあります。僕は鈴木清順の『殺しの烙印』が大好きで百回以上見ていて、テープがすり切れないようにビデオテープも4本持っています。今はまだ2本目ですが(笑)、さてその続編として最近作られた清順の『ピストル・オペラ』が、途轍もない駄作なんですね。僕の周囲の清順ファンもほぼ百%そう言います。なぜか。その理由を考えるのに実は東さんの図式が役立つんですね。『殺しの烙印』は、日活が無国籍アクションを大量に作っていた1960年代の、最終期に撮られた映画で、全てが無国籍アクションの「萌え要素」をデータベースを前提にしたシミュラークルです。 【東】パターン認識に響くように作られているわけですね。 【宮台】加えて、高度成長期の日本人が蓄積した、都市的なものの「萌え要素」もテンコ盛りです。アドバルーン然り、ビルヂング然り、自動車然り、マネキン顔をした女性然り。フィルム体験のデータベースにしろ都市体験のデータベースにしろ──僕の言葉では「記憶資源」ですが──そういうデータベースを抱えた人が見ると、フィルム自体が含む情報量の百倍の情報量を体験できます(笑)。だとすれば『ピストルオペラ』が響かない理由も分かります。「萌え要素」がない(笑)。『殺しの烙印』の真理アンヌは、彼女のファンかどうかに関係なく、マネキン顔であることだけで「萌え要素」です。対する『ピストルオペラ』の江角マキ子は、ファン以外の観客にとっては、貧弱過ぎて見るに耐えません。 そこで、ちょっと不思議に思うことがあります。かつての無国籍アクションや高度成長期の都市の記憶を持たないはずの、若い学生たちも、アドバルーンや屋上や非常階段や電信柱に萌えるんです。直接の記憶があるから萌えるんじゃないみたいですね。 【東】電信柱そのものに関して言えば、高度経済成長期の日本への郷愁でしょうね。 【宮台】確かに僕の場合、無国籍アクションや高度成長期都市についての記憶資源のデータベースがあるんです。でも今の若いオタクはそうじゃない。なのに庵野秀明が描く電信柱の映像に萌えてしまう。なぜ知らないものが郷愁の対象となるのでしょう。 【東】オタク達が電信柱の映像に反応するとおっしゃいましたが、細かく言うと、オタクでも第一世代と第三世代ではかなり違うんですね。たとえば『機動戦艦ナデシコ』というアニメがありますが、そこには、いま宮台さんがおっしゃったような「電信柱」的な郷愁のポイントがたくさん詰め込まれている。でも若いオタク世代は、単に登場人物がかわいいと思っているだけなんですよ。だから、いまのアニメに関していえば、作り手の側に宮台さんと同世代が多くて、彼らが昭和三〇年代から四〇年代の日本の風景に執拗に拘っているからこそ、そういった郷愁の表象が多いのだと思います。宮台さんがおっしゃった若者たちは、そのイメージを多く浴びることで「訓練」されてしまっているのでしょう。でも十年経ったら分からない。 それに関連して確認しておくと、今回の本の主題でもありますが、そもそも「オタク」という集団が一枚岩ではないんです。宮台さんや大塚英志さんが考えてきたオタクのイメージは、簡単に言えば、現実世界が押しつけてくる価値観に対して、それとは別の価値観を虚構として作る人たちといったものですが、それは九〇年代のオタクとは違う。彼らは現実を拒否して虚構の世界に耽溺しているというより、現実とうまくやっていくために、自分の心の空虚さを埋めてくれるものとしてオタク的な消費財を必要としている。動物化というのはそういう事態を指しているわけですが、この二つの世代は同じアニメやゲーム好きでも、生き方の根本がかなり違うんです。 【宮台】今の発言の前半ですが、知らないものを懷かしく思う現象は、間違いなくあるようです。「萌え要素」のデータベースが必ずしも体験記憶を素材としないとすると、「萌え要素」のデータベースがあるのはいいとしても、個々にみた場合になぜソレが「萌え要素」なのかという感情惹起のメカニズムが知りたくなります。 後半についてはよく分かりますよ。現実逃避よりも、むしろ現実と折り合うための道具が、オタク財だというわけですね。僕も、共通前提の不在をシンボル交換で埋め合わせるという意味で、コギャルもオタクも等価だとかつて論じたことがあります。 【東】そこに繋げていくと、これは宮台さんの問題意識と重なると思うんですが、そういうオタクたちの変化の背景には、やはり九〇年代の社会そのものの変化があったと思うんです。ではそれはどのような変化だったのか。今回の本で少し書いたのは、結局、消費者をあるていど満足させつつコントロールするという技術が、私たちの社会でますます高度に洗練されてきているということなんですね。メディアミックスに踊らされるオタクたちの姿には、その状況が象徴的に現れている。 【宮台】今回論じたい本質的な問題はそこです。東さんの本ではそこが、分かる人には分かる程度に、あえてぼかして扱われている。 【東】あえてぼかしたつもりもないんですが、問題があまりに大きすぎる。むろん、現在でもそのコントロールから逃れようとする人たちはいる。たとえばその典型が引きこもりだとも言える。しかし引きこもりと名づけられた瞬間に、それはすでにコントロール下にある。社会的に認知され、制度化され、引きこもりをターゲットとした消費財の流通が始まる。そこからさらに逃れる人がいれば、また違った名づけ方をしてコントロールするでしょう。実際、ここ三〇年、人格障害のカテゴリーはまさにそうやって対症療法的に増えていった。昔は社会の境界が決められていて、それに対する外部=狂気があったわけだけれど、いまや境界をなし崩しに拡張していくものとして社会的なコントロールの概念が立ち上がっている。監禁のかわりに人格障害のデータベースがある。それは近代社会のひとつの理想とも言える。しかしここで具体的に問題になってくるのが、コントロールの完成度を高めようとすればするほど、多くの情報が必要になるということです。これは個人情報保護法案や住民基本台帳法改正の問題とも関係してきますね。 【宮台】AC(アダルトチルドレン)にしても引きこもりにしても、名づけられた途端に、日本では「自称AC」「自称引きこもり」が続々と生まれてコミュニケーションが始まる。まさに共通前提の不在を埋め合わせるシンボルの交換です。特にインターネット上ではありがちで、それらは社交のスキルとして機能的に等価です。他方で、不透明な現象に不安を覚える場合、それに名前が与えられるとバタイユ=リーチ的な意味で安心できる。それが滑稽な現象を生み出しています。60年代に英国で生まれた「行為障害」の概念は、実は一定の行政サービスを受ける権利や義務があることを示す行政概念です。ところが日本に輸入された途端、そうしたメンタルヘルスに関わる行政サービスが皆無なのに、呪われた部分に名前を与える安心化機能が肥大して、病名であるかのように誤用されるわけです。 【東】コミュニケーションの方法もデータベース化してるんですね(笑)。 |