政権交代の審判が下ったさきの衆院選の直前、ひとつの法律が国会で与野党の全会一致で成立をみた。「海岸漂着物処理推進法」(略称)という、どちらかというと地味なイメージの法律だ。だが、その制定過程には大きな意義があった。
主役は、地元の海岸を汚す「海ごみ」に頭を痛めた地方議員たちだ。漂着物の多くは内陸の河川経由であることに注目した山形県酒田市議らが、自治体横断の超党派議員ネットワークを作り、対策の法整備を求めたのだ。その活動は政党を動かし、衆院解散を控えた昨年7月、海ごみの発生を抑える国や都道府県の責務を定めた新法の制定に結実した。地方議員が連携し立法を主導した、極めてまれなケースである。
鳩山内閣は「地域主権」を旗印に掲げている。鳩山由紀夫首相は年頭の記者会見で、その実現に取り組む意欲を強調した。従来の「地方分権」との言葉をあえて用いず、地方に権限を強力に移し、行政への住民参加を徹底したうえで、自立した自治の完成を目指す発想だ。
政権発足以降、「地域主権」への取り組みは出足の鈍さも目立った。だが、首相を議長とする「地域主権戦略会議」も、やっと発足した。国と地方の協議機関の法制化や、ヒモつき補助金を使途が自由な一括交付金に改編する作業も、今年は本格化する。脱・官僚依存に向け、中央の政治主導と、地方への権限移譲は車の両輪だ。首相が本気でこうした改革に挑む覚悟なら、支持したい。
同時に「地域主権」を目指す改革が、地方にバラ色の未来を当然のように約束するものでないことも、指摘しなければならない。自治体の「地域経営」の自由度が高まれば、それだけ成功、失敗に伴う結果責任を首長は問われ、住民の生活も大きな影響を受ける。自立を試される自治体はその受け皿にふさわしい政策の立案能力と、権力のチェック機能が求められる。
特に提起したいのは、地方議会のあり方だ。日本の地方自治は首長、地方議員ともに住民から直接選出される二元代表制を取る。つまり、双方の協調とけん制で自治を形づくる責任を共有しているのだ。
だが、実態はどうだろう。住民の多くにとって地方議会は遠い存在ではないだろうか。
自治体の定める条例など政策立案は首長が優位に立ち、多くの議会は執行部側の提案する議案が素通りし、片山善博前鳥取県知事がかつて「八百長と学芸会」と評したような審議がまかり通っている。一方で、会計検査院がこの2年間に検査した道府県市のすべてで、不正経理が発覚した。裏金などの問題が再三、指摘された中で議会の監視はいったい、どうなっていたのか。
それだけではない。ここ数年、自治体に損害を与えた首長らに住民訴訟で賠償金を支払うよう判決が出た場合、地方議会が支払い請求を放棄する議決を行い、帳消しを図るケースが相次いでいる。昨年、東京、大阪高裁はこうした議決は議決権の乱用にあたり無効、とする厳しい判決を下した。こんな事例が続くようでは、そもそも地方議会は住民と首長側のどちらを見ているのか、との疑念すら抱いてしまう。
もちろん、議会からも改革の波が起きている。北海道栗山町議会、三重県議会が06年に議会運営の理念とルールを定める基本条例を定め、口火を切った。条例が定めた議員同士の自由討議や住民との意見交換の活発化など、当たり前の活動をこれまで多くの議会は放置してきた。冒頭の「海ごみ」立法も、地方議員が政策立案に目覚めつつある反映だ。地方議員や首長による意欲的な政策の取り組みを表彰している「マニフェスト大賞」への応募は例年、着実に増えている。こうした自主的な試みを、大いに歓迎したい。
変化をさらに後押しするには、地方議員に進出する人材を、より多様にすることが不可欠だ。地方行政に公共事業が占める役割は減り、住民に身近なサービスが占める比重が増している。サラリーマンや働く女性らさまざまな住民が議員として柔軟に参画できるシステムを、政府も真剣に検討すべきではないか。
たとえば、会期を通年にして毎週決まった曜日の開催としたり、議員による夜間討議を審議の基本として推進すれば、日程が障壁だった多くの人が議会に参入できるはずだ。
サラリーマンが立候補や議員活動をする際の休暇や休職、復職制度の創設も議論すべきだ。門戸を広げることで、地方議員に人材の競争が起きよう。規制が多い公職選挙法を見直し、選挙運動を自由化することも当然ながら必要だ。
地方議員に求められるのは、専門知識以上に、住民の意識をくみ上げ、地域を変える熱意とセンスだろう。地方議会への住民の信頼が高まれば、地方に権限を集中させることへの国民の理解も深まる。
鳩山内閣は、自治の原則を定める地方自治法の抜本改正も検討対象としている。まさに「地域主権」の主役として、地方議会の将来像を幅広く議論する好機である。
毎日新聞 2010年1月10日 東京朝刊