プロローグ  しょっぱなに夢の話というのも芸がないけれど、つらつら考えるにここから始めるのが一番よさそうだ。オチが夢というよりは、いくらかマシだろう。  夢の中でぼくは、衆人環視の中、級友を告発していた。こんな具合に。 「つまり××くん、以上の論証からわかるとおり、事実は明々白々だ。ぼくが最初に思ったとおり、これはタイムテーブルで片がついた。  証拠がないと認めないというなら出してもいいけれど、まあ、なんだね。もう逃げ道はないよ。アリバイ作りにインラインスケートとは、独創的とまではいかないけれど悪くない発想だった。ただ相手が悪かったね。  いつだったかの、ベーシストの失踪事件。あれを解決したのはぼくだよ。それから、知ってるかな? 音楽室から花瓶が落ちた一件。あれが事故じゃないと見抜いたのもぼくだ。なにより、佐川たちのグループを補導の憂き目にあわせたのも、なにを隠そうぼくの仕業なんだ。  そのぼくが断言するけど、彼女に濡れ衣を着せたのは、君だよ。さあ、負けを認めるかい? それとも、無駄な弁明で皆さんの時間を浪費させる気かな?」  ××くんは、がっくりとうなだれる。そういえばこいつ誰だったかな、と一瞬疑問に思うけれど、夢の中のこととて犯人役には外見も与えられていない。彼を見下し、ぼくは得意げに言放った。 「まあ、まだ償うには遅すぎるというほどじゃない。君にまだ一片でも誠意が残っているのなら、それに従いたまえ」  そしてぼくは観を振り返る。彼らは、やっぱり外見は与えられていないけれど、万雷の拍手でぼくの解決を讃えてくれた。 「おお、すごい」 「そんなこととは思わなかった」 「まさかあいつが犯人だとは」 「素晴らしい、さすがだ」 「さすがは、小鳩常悟朗だ」 「鮮やか、鮮やか」  ぼくは彼らに両手を上げ、尽きぬ賛辞に応える。得意満面だ。あの程度の奸計でぼくを欺こうなんて、浅知恵を通り越して猿知恵に近いね。そんなことも思っていた。いやあ、まったく、物足りないくらいだ。どこかに、ぼくを唸らせるくらいの知恵者はいないものか。  とまあ、調子に乗ってるぼくを、夢を見ている主体であるぼくはひどく苦々しい気持ちで見ていた。その心持ちに作用したのか、歓声を上げ続ける観衆の中かから一人が一歩進み出る。  それは誰だっただろう。心当たりは何人かいる。ぼくにそういうこと言ってくれそうな相手は。彼、もしくは彼女は、にこにこと笑いながらこう言った。 「本当にお見事。鮮やかな推理。綺麗な証明。でも、その、まあ、なんていうか、言いづらいんだけど、はっきり言わせてもらうとさ。  きみ、ちょっと鬱陶しいんだよね」  いや、まったく、ひどい夢を見たものだ。目が醒めてからしばらくは心臓がどくどくとうるさくて、このままなにか心臓疾患に陥るんじゃないかと心配したぐらいだ。  幸い、それは夢なので、たちまちに印象が薄れていく。細部はたちまち思い出せなくなる。ほとんど忘れてしまったところで、ぼくはふと、もう一つ夢を見ていたような気がした。そちらの主人公はぼくではなく、とても小さな女の子だった。内容はすっかり忘れてしまって、かけらも浮かんでこない。  ベッドから身を起こす。カーテンの向こうは白々を明けている。壁の時計を見ると、まだ起きるには早い時間だ。けれど目がぱっちりと冴えてしまったので、このまま起きていることにする。ベッドのへりに腰掛けて、忘れかけの夢を反芻する。   大丈夫。いまのぼくは、夢に出てきたようなのとは一味違う。目指す理想の姿を胸に、笑顔を武器に、思うような生活を送れるはず。挫けそうになれば、同志もいる。目的を同じくする頼りになる相棒だ。  時間が来れば、ぼくは高校へと出かけていく。まだ、ぼくの高校ではない。きょうは合格発表で、結果に問題がなければ四月から通うことになる。  中学から高校への環境の変化。なんでも中学生まではおとなしくしていて高校に入ってからやんちゃになることを、高校デビューというらしい。  多少意味合いは違うけれど、ぼくたちも高校デビューを狙っている。カーテンの引かれた薄暗い部屋。ぼくは身動ぎもしない。  そう。環境が変われば、きっと上手くやれるだろう。 1  自信があるかと訊かれたら、ないと答えただろう。  ただ、訊いてきたのが神様かなにかで、本当のところを話しても誰にも悪く思われない保証があるのなら、ぼくはきっと「落ちるなんて考えもしなかった」と答えたと思う。  船戸高校は、この辺りでは難関高校として知られている。とはいえ、公立学校なので受験者数は中学校で調整され、倍率は一・二倍を超えることはないけれど。合格者の受験番号は、体育館の前に貼り出されていた。ぼくは近所の桜でも見に行くような気軽さで番号を眺めていき、程なく自分の番号を見つけた。小さく息を吐いたのは、それでもやはり多少の不安はあったからだろう。  とにかく自分のことは片がついた。けれど、これですっかり安心というわけにはいかない。もう一人、約束を交わし合った同志のことが気にかかる。ここまで一緒に来たのだからその辺にいるはずだけど……。掲示板の前は押し寄せる人波で全く見通しが利かない。これは絶望的だ。なにせそのパートナー、ちっちゃい上に目立たない。ぼくは目で捜すことを諦め、混雑から少し離れた。ケータイを取り出し、メールアドレスを呼び出す。登録名は「小山内ゆき 携帯電話」。 『ぼくは受かったよ。小山内さんは?』  返ってきた返事は、 『いまどこにいるの?』  ぐるりを見まわし、目印になるようなものを探す。なにせ試験のときに一度来て、きょうが二度目の場所だ。どれをランドマークにするか迷った挙げ句、ぼくはこう返す。 『校門まで行ってる』 『すぐ行くね』  交信終了、と。校門へと向かいながら、折りたたみ式のケータイをポケットにしまう。ぼくたちの買わすメールは、いつも短い。小山内さんが絵文字も使わないから、ぼくも使わない。もっとも前に聞いたことがあるけれど、小山内さんかぼくか、どちらかが地味好みで、どちらかが相手に合わせている。多分、お互い半々だろう。  校門近くには、いくつかひとの集まりができていた。小山内さんはまだ来ていない。……と思ったら、愛想のないコンクリート製の校門の陰から、セーラー服姿の小さな女の子が半身を覗かせていた。誰から隠れているんだ、誰から。ぼくはその子に手招きする。たたっと駆け寄ってくると、その子は消え入るような小声で、こう言った。 「わたしも」 「……なんのこと」 「小鳩くん、受かったんでしょう?」 「そうかあ、小山内さんも受かったんだね。そりゃよかった」 「うん。……これから、よろしくね」  誰に聞かれて困るわけでもない、ごく普通の会話。なのに小山内さんは、周りに遠慮するような声の小ささを変えようとはしなかった。  名を、小山内ゆきという。身体が小さいことを除けば、外見的に目立つところはなにもない。細い目に薄いくちびる。小さな鼻。パーツはどれも小さく、顔そのものも小さい。敷いて言えば 耳が少し福耳っぽいか。神は尼そぎ、小さな体躯に見合うように手も足も細い。バスには、小学校の料金で乗れる。中学校の制服であるセーラー服に、ミルク色のカーディガンを羽織っていた。雰囲気は……、これは本人も気に入ってる形容なのだけど、小動物然としている。  小山内さんとは、中学三年の初夏から一緒にいる。  弱い風が吹きつけた。春は近く、ぼくと小山内さんはサクラサクだとはいえ、まだ空気は結構冷たい。ぶるりと震えがきた。入学式まで、もうここには用はない。 「寒いし、ぼくは帰るよ」 「わたしも」  言って、小山内さんはちょっと考えた。 「寒いね」 「だから、寒いから帰るんだってば」 「合格のお祝いに、あったかいもの。どう?」  それはいい提案だ。この辺りのことはよく知らないけれど、小山内さんなら店の一つや二つ知っているだろう。一も二も無く同意して、じゃあ行こうかというというところで、不意に声をかけられた。 「こんにちは」  見ると、ローズグレーのウィンドブレイカーがどこか趣味悪く映る男が、手帳を手にして立っていた。腕には小豆色の腕章、白抜きで「報道」と。途端、小山内さんが身を翻し、ぼくの後ろに隠れてしまう。素早い動きだ。男はそんな小山内さんにちらりと目を向け。それからほとんど無表情でぼくに向かって訊いてきた。 「合格されたようで、おめでとうございます。ちょっとお時間よろしいですか?」  このぼくに、インタビューと? なるほど。  笑顔で即答する。 「すみませんが。まだちょっと用がありまして」  それだけ言って、返事も待たずに人波の方へ早足。小山内さんもぴたりとついてくる。マスコミに特別な不信感を持っているわけじゃないけれど、関わり合いはごめんだ。小山内さんもそう思っているだろうけど、充分に距離をとると、ぼくを見上げて不安げに眉を曇らせた。 「小鳩くん……。いまのひと、怒ったかな?」  ぼくもそれは気になっていたので、ちらりと肩越しに振り返る。報道の男は強いてぼくたちを追うこともなく、周囲に目を配って次の相手を探しているようだ。 「大丈夫みたいだね。もし怒っていたとしても、それがあのひとの仕事だと思うことにしようよ」 「……うん」  頷きながらも、なお表情は冴えない。  クラーク博士は北海道大学の学生に「紳士たれ」という言葉を残したというけれど、ぼくと小山内さんも似た信条を持っている。「紳士」によく似ているけれど、それよりはもうちょっと社会階級が低い。「小市民たれ」。これ。日々の平穏と安定のため、ぼくと小山内さんは断固として小市民なのだ。もっとも、その表れ方はちょっと違う。小山内さんは隠れる。ぼくは、笑って誤魔化す。  そして小市民たるもの、テレビは見るもの、新聞は読むものだ。出演したり掲載されたりはもってのほか。使われるかどうか怪しいインタビューにだって、答えるつもりは全然ない。ただ、人様の仕事の邪魔をして恨みを買うのも、これまた小市民的でないというのは問題だ。その点、あのウィンドブレイカーの男の態度にはほっとした。  それにしても。立ち止まって、ぼくはもう一度校門を振り返る。小山内さんが訊いてきた。 「どうしたの?」 「いや、どうもしないけどさ。ちょっと、逃げた方向が悪かったね」  いま校門から逃げてきて、またあの男の横を通って出ていくというのも、ちょっと気まずい。気まずいことは嫌いだ。他の出入り口もあるのだろうけど、よくわからない。さてどうしようかなと思っていたら、小山内さんがまたぼくの後ろに隠れた。 「……動かないで、小鳩くん」  なんだろうとぐるりを見まわすと、心当たりが見つかった。  もちろんのことだけど、ここはぼくの中学から受験した同級生も大勢来ている。これまでも、知った顔と随分すれ違っている。小山内さんが見たのはそうした同級生の一人で、確か小山内さんの級友だ。小山内さんがぼくの背に隠れた気持ちがわかった。小山内さんは合格したけれど、あの娘がもし落ちていては、いたたまれない。  そういえば、校門で落ち合ったとき、合格を報告してくれる小山内さんの声はいつにも増して小さかった。あれは、周りに不合格者がいたかも知れなかったからか。まったく、小市民道の同志でも、こと気配りに関してぼくは小山内さんに随分劣る。ぼくは小山内さんの気持ちを汲んで、しばらく頼み通り動かずにいた。 合格者の番号が貼り出されてから、もう結構な時間が経った。人波を覆っていた興奮も徐々に冷めつつあり、ところどころで小山内さん的気配りに欠けた万歳の声が上がっている。冷めといえばほとぼりも冷めただろう。そろそろ引き揚げて、約束通り温かいものでもと思っていたところ、 「おい、そこのお前」  また声をかけられた。野太い声で、今度は随分ぞんざいだ。小山内さんが一瞬、びくりと体を硬くする。ぼくもどちらかというと驚いた。こんなところで、突然お前呼ばわりされる憶えははなかった。とりあえず柔和に、と振り返る。  立っていたのは、声に見合った粗野っぽい雰囲気の男。肩幅の広いがっしりとした体つきで、背丈そのものもぼくより随分高い。ここにいるということはぼくと同い年、ということは小山内さんとも同い年なのだろうけど、二人並べて写真を撮ったら「栄養状態による発育の差」というキャプションをつけて資料にできそうだ。頭の両側を刈り上げて、もともと角顔なのだろうけど頭全体が四角く見える。ぼくは彼に向かって、演技ではなく破顔した。 「やあ、これはこれは」 「これはこれは、か。ひどい挨拶だな」 「いきなり『おいお前』よりはマシだと思うけどね。久しぶり、健吾!」  健吾はふんと鼻を鳴らしたきり、特に親愛の情を示さない。さもありなん、ぼくと健吾は旧知の仲だけど、考えてみれば別に友達というわけではなかった。 「お前も船高を受けたのか」 「ああ、まあね」 「で、受かったわけだな」 「なんとかね」  そうか、と呟いて、健吾は頷く。しかめっ面とまではいかないけれど、ぶすっとした顔で健吾は腕を組んだ。 「頭を使うことで、お前がしくじることは思っていないがな、……また同じ学校だな」  健吾も合格ですか。それはおめでとう。  ところで、小山内さんは人見知りをする。当然かもしれないが、男性相手の方がその度は高い。まして、なんとも男くさい健吾は、小山内さんのまるで苦手なタイプだろう。またしてもぼくの背中で、ぼくのフリースの裾を掴んで身を縮こめている。時々思おうのだけれど、小山内さんはなにか遮蔽物を持ち歩いた方が生活を送る上で便利なのじゃなかろうか。大きなボール箱とか。  そんな小山内さんを振り返り、ぼくは笑いかけた。 「いかついけど、怖くはないよ、小山内さん」  健吾は、今度こそしかめっ面になった。 「誰が恐くない、だ」 「ああ、ごめん。恐かったかな」 「恐い恐くないという基準を最初に持ってくるなと言ってるんだ」 「そうだね。うん、ごめん。悪気はなかったんだ」  しかし、誠心誠意弁解にこれ努めれば努めるほど、健吾はいぶかしそうな顔つきになっていく。 「お前……」  と言いかけ、言葉を呑み込んでさえいる。  健吾が先を続けないので、ぼくは仕方なく彼を紹介した。 「小山内さん、これは堂島健吾。小学校が一緒だった」  紹介を受けて、小山内さんはしぶしぶ全身を健吾に晒した。ぺこりと頭を下げる。 「健吾、この人は小山内さん。中学校が一緒だった。友達だよ」  健吾の方は、いたって律儀だった。組んでいた腕を解き、胸を張るようにして、自らも名乗る。 「どうも、小山内さん。常悟朗の友達なら、きっと我慢強いんだろう。俺は堂島健吾。これから同窓生になるんでよろしく」  ひどい言い草だなあ。それに、小山内さんも合格したとは言っていないんだけど。  身長差の関係もあるだろうけど、小山内さんは随分上目遣いに健吾を見上げていた。あんまり苦手そうならフォローに入ろうかと思ったけれど、硬い表情ながらも、小山内さんはなんとか微笑を浮かべ、そして小さく頷いた。