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天声人語

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2010年1月14日(木)付

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 棚に転がる貝殻を耳にあてると、かすかに潮騒が鳴ることがある。柄にもなく思い出に浸るうち、波の音は記憶を離れ、漠とした古(いにしえ)のざわめきに変わっていく。貝殻には、時を封じ込めたかのような風情がある▼欧州の研究チームが、5万年前の装身具をスペインの洞窟(どうくつ)で見つけたという。小さな穴が開いた貝殻で、ひもを通して首飾りにしたらしい。中には顔料とおぼしきオレンジ色の鉱物が付着したものがあり、「化粧」の道具にも使っていたようだ▼今の人類が欧州に広がったのは約4万年前。ということは、入れ替わるように衰勢となったネアンデルタール人が貝細工を残したことになる。絶滅の理由は知能の未発達とされてきたが、実はそこそこ知的で、おしゃれだったのではないか▼狩猟のための石器と違い、生存に関係のない装飾品には遊び心がのぞく。動物の骨や歯、木の実なども使ったことだろう。森や浜で、あれこれ見つくろう姿が浮かんでくる▼さらには顔料である。高橋雅夫氏の『化粧ものがたり』によると、古代人にとってオレンジ色は特別な意味を持っていた。それは、恐ろしい闇を追い払ってくれる朝日の輝きであり、暖をとり、獲物の肉を焼くたき火の色だった。喜びと幸せの色だ▼水面に映る己の姿を見ながら、貝殻で飾り、顔や体を祝いの彩りに染める。彼らが生存競争に敗れたのは、足りない知恵のせいではなく、あふれる優しさが災いしたのかもしれない。驚きの発見に推論を重ねて、あるところからは想像の一人旅。考古学の愉悦である。

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