だからあたしは「フッド」なの。 http://www.youtube.com/watch?v=3S1jrNksMnc 「またかよ」というのが正直な感想である。「さらば〜」で打ち止めにしておけば良かったのにと強く思う。不幸なことにヤマトは松本零士と西崎義展という偉大(?)な2名の人物によって成り立っていた。少なくとも「完結篇」までは二者の対立が誰の目にも明らかな形で提示されることはなかった。だが、それ以降は完全に別の道を歩むことになる。立身出世した松本零士にくらべて西崎義展は不祥事を起こし、逮捕され、有罪になり、超戦艦たるYAMATO2520は大失敗に終わった。だが、ファンは松本零士を支持しているのか?と言われればそれも違うだろう。それは「銀河鉄道999 エターナル・ファンタジー」(1998)で証明されている。 「エターナル・ファンタジー」は漫画版を下敷きにしている以上、松本世界そのものを描いているはずだが、7億の目標に対して2億しか稼げなかったため、続編制作がお蔵入りになった。これは「999=松本零士を支持している」わけではないことを意味する。そうなると「復活篇ヤマトではファンに何を見せるか?」が成否を分ける鍵になる。「ヤマト」の観客対象は間違いなく「子供」ではなく「その両親」であろう。それは古代の娘である美雪の「おとうさん、地球を助けて」の言葉に集約されている。なぜなら「地球のために戦わねばならない」ではなく、「家族のために戦わねばならない」からだ。家族持ちの身にはどこかの星の女神様の甘言にたぶらかされて宇宙の果てで異星人と戦うよりもはるかに感情移入できるだろう。この点が「マクロスF」も「ガンダム00&Z」も真似できない点である。 続編モノは、作品への思い入れを壊すことが往々にして多いので、最初に話の上がった1994年当時ならば、何を作ろうともファンからの反発は大きかっただろう。だが、これだけ時間が経過してしまうと、「過去の自分の思い入れ」はともかく、「新生ヤマト」を受け入れられるだけの心のゆとりが観客の間に生まれているのだろう。ただ、気になるのは微妙に海外ウケをする作りになっているのと、宮川先生、完結編に参加された羽田さんという音楽界の重鎮が既に亡く、交響曲の無意味な多用が目立つこと(音楽も作品世界を構築する上で重要なツールである)、そして続編の存在を示唆しているので、西崎義展が何を考えているかまでは判らないが。 だが、小生はどうしても「ヤマト」も「大和」も好きになれない。理由は兵器の最大の存在意義である「抑止力」の効能を守っていないからである。「長門」や「伊勢」、「日向」のように横須賀や呉で身動きもならぬままに撃破され、大破着底の憂き目に遭うよりは良いと言いたいのだろうが、「ヤマト」も「大和」もやったことは成算絶無の特攻作戦ばかりである。その存在によって相手が侵攻を思いとどまるとか、作戦目的を変更しない限り、その存在が相手にとって脅威(「永遠に」だけはその傾向があったが…)になっていない。上層部の無能のツケを若者の命で都度支払わせているのが真実だ。こんな作戦は即刻中止すべきだし、他に戦争を続ける方法が無いのなら、戦争そのものを止めるべきだろう。 http://blogs.yahoo.co.jp/syoutou2/51443733.html …個人的には地球が消滅してくれて一向に構わないのだが。「ヤマト」同様に「モモ」も「ポケモン」も大嫌いだ。「愛」も「夢」も不要である。ゴルゴ13や必殺仕事人のように金で人殺したほうがビジネスな分だけ、まだマシだろう。魔法で歌を歌ったり、マジックショーを客に見せたりして金儲けしてどこが悪いというのか。 |
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