そして、家族のことを訊ねるたびに、「現家族ですか? 元家族ですか?」と訊き直すのが印象的だった。
彼女は、昭和四十三年十一月二十三日に、名古屋市内で生まれた。
(わたしも、同年の六月二十二日に生まれた)
父親は大工、母親は専業主婦、彼女は四人姉妹の末っ子で、長女とは十一歳も離れている。
住まいは六畳二間の長屋だった。
夕食が済むと、父親は居間の真ん中に布団を敷いて横たわり、母親と四人の姉妹は、布団を囲むかたちでテレビを観なければならなかった。
娘たちの成長とともにさすがに手狭になり、同じ長屋にもう一部屋借りて、三人の姉たちはそちらで寝起きすることになったが、末っ子の彼女は父母といっしょに寝起きをした。
「テレビの映像のように」憶えていることがあるという。
家計は常に火の車だったために、母親は内職をしなければならなかった。彼女が五、六歳のとき、母親が庭先で木を削っていると、帰宅した父親が、縁側から母親の頭を蹴りつけた。自分の稼ぎで遣り繰りせずコソコソと内職している妻が許せない、という理由だった。
もう一つの映像も同じころだ。父親に殴られて机の下に逃げ込んで泣いていると、「いつまで泣いてるんだ! 泣くなッ!」と、大工道具の大きな物差しで滅多打ちにされる—。泣くことは痛みに対する当然の反応であるにも拘らず、父親はさらなる折檻によって痛みを禁じたのだ。
彼女が中学三年のときに、父親の会社が倒産し、父親は家族を残して蒸発する。
しばらくして、福井の実家に帰っていることが判明し、家族は福井に転居することになる。
彼女は地元の工業高校を卒業すると同時に上京し、板橋区の会社(総務課の事務職)に就職する。
二十一歳のときに最初の妊娠をする。
相手は社内の男性だった。
彼女は、好きなひとができて付き合ったら結婚する、という漠然とした目標を持っていた。
妊娠と結婚のことを社内の先輩に相談すると、「え? 彼ってあの子と付き合ってたのに……」と社内の女性の名前を告げられ、ショックを受けて混乱した彼女は、剃刀で手首を切って自殺をはかる。
結局、その男性とは別れ、中絶手術を行い、僅か二年半で東京を去ることになる。
彼女は「父親に連れ戻された」と言う。