2007-05-04 02:25:00
トラ吉の亡くなった日のこと。
テーマ:先代猫、トラ吉トラ吉の亡くなった日のこと。
もうすぐトラ吉の命日です。
トラ吉が亡くなって1年。
トラ吉が亡くなってトトララが家に来るまでの約一ヶ月間は、トラ吉を失った悲しみを忘れたくなくて、何度も何度も亡くなった日のことを思い出し、悲しみを反芻する毎日でした。
思い出すと辛くて、胸に何かが突き刺さるように痛かったけど、思い出さずにはいられない。
悲しみを薄れさせず、ずっと悲しい気持ちでいることがトラ吉への供養のように思っていました。
でも、色々と考えてまた猫と暮らすことを決意し、トトとララを迎え、最初は居候のようだった二人がだんだんと家族になり、絆が深まるにつれ、トラ吉の亡くなった日のことを改めて思い出すことは少なくなってきました。
…というより、「今、トトとララと楽しく暮らしていること」「トラ吉のことを考える時間が少なくなったこと」がトラ吉に申し訳なくて、思い出すことが辛くなったのかもしれません。
でも命日が近付くに連れ、やはりどんなに辛くても思い出してしまいます。
それでも頭の中だけで、亡くなった日のことを考えていても、どうしても辛くて途中で考えるのをやめてしまって…。
これじゃトラ吉に申し訳ないような気がして、このブログでちゃんと振り返り、ちゃんと書き残すことにしました。
ここから先はトラ吉が亡くなった時の話です。
長い話になります。
トラ吉が亡くなった頃、私はちょうど仕事で大きなプレゼンテーションを控えており、その準備で、残業と休日出勤が続く毎日でした。
風邪をこじらせて体調を崩したり、道で転んだりし、体の方もボロボロの状態でした。
それでもなんとかプレゼンテーションを乗り切り、プレゼンテーションの終わった日はまだ15時くらいだったけど、客先から直帰する許可がおりたので「久々に早く帰ってトラ吉と遊ぶぞ~~~!!」と、ウキウキしながら家に帰りました。
家に帰り着くと、いつものようにトラ吉の熱烈歓迎!
私の足元にスリスリと擦り寄ってきた後は、「早くお腹撫でて!!!」と私の前でお腹を出し、待ちきれないように体をウネウネ。
その頃の私は「私が外から病気を持って帰っちゃいけない」という理由で、手洗いと着替えを終わらせるまでは、どんなにトラ吉をダッコしたくても我慢してトラ吉に触らないようにしていました。
その日も「はいはい、すぐ着替えて手を洗うから待っててね~~」と言い、急いで着替えをしていました。
その時。私が着替えている隣の部屋から突然「バタバタッッ」とトラ吉が興奮して走り出すような音がしました。
ビビリだったトラ吉は、ちょっとしたことでよく走り出したりしていたので、聞き慣れた音だったのですが、その時は「ん?どうしたんだろう?」となんとなく気になり、着替えの途中で隣の部屋を覗きました。
すると、トラ吉が仰向けに倒れ、痙攣していたのです。
私は何が起きたのかわかりませんでした。
慌ててトラ吉のそばに駆け寄ると、すぐに痙攣が止まり、全く動かなくなり、明らかに意識を失っている状態でした。
「なにかに絡まって首がしまったの?」
「なにか飲み込んでしまったの?」
「なにかに驚いてショックを受けてしまったの?」
一瞬のうちに頭に色んなことがよぎりました。
どうしていいかわからず、ひたすらトラ吉の名前を叫び、トラ吉をゆすったりしてみましたが、「ただ事ではない」という思いが私をパニックに陥れました。
その時、バカな私がしたことは、夫の携帯への電話でした。
夫から「とにかく落ち着いて、病院の先生に電話して指示をあおいで」と言われ、ようやく病院に電話。
その病院は少し遠かったので、先生は「とにかく一番近い病院に少しでも早く連れていってください」とおっしゃいました。
幸い、歩いて5分かからない所に動物病院がありました。
あわててキャリーバックを出し、グッタリとしたトラ吉をキャリーバックに入れ、家を出たのは、多分トラ吉が倒れて5~10分後のことだったと思います。
慌てていた私でしたが、「走って転んだりしたら大変だ」という考えだけはあり、早歩きで病院へ。「次の角を曲がったら10mくらいで病院だ」という所で、キャリーバックの中のトラ吉を確認すると、かすかに息をしているように見えました。
「まだ息がある!!」と思った私は、いてもたってもいられず、残り10mの所で走り出しました。
その時、慌ててキャリーのフタを閉めたのがいけなかったのです。キャリーのフタがはずれ、トラ吉の入ったキャリーを道に落としてしまったのです。
もう、キャリーのフタをしている余裕は私にはありませんでした。キャリーバックからトラ吉を抱え上げ、ダッコしたまま病院まで走りました。
血相を変えて病院に飛び込んできた私を、初めての患者にも関わらず、先生は速攻で診察室に入れてトラ吉を診てくれました。
トラ吉が倒れてから、診察台までにかかった時間は、多分10~15分。
先生の一言目は「もう、呼吸をしていません」という言葉でした。
心臓マッサージ、電気ショック、ありとあらゆる蘇生術を試みる間、私はなぜかトラ吉は助かるような気がしていました。
「トラ、がんばって。トラがんばって」とひたすら言い続けていました。
先生は10分くらい頑張ってくれたように思います。
「残念ですが、ご臨終です」と言われた時には、あんな状態で病院に連れていったにも関わらず、ただただ、驚くばかりでした。
「はっきりした原因はわかりません。若くて健康状態の良い猫ちゃんが突然こんなことになるのはとても珍しいです」と言われました。
トラ吉はまだ3歳になるかならないかという若さでした。1歳くらいまでは結石で随分悩まされたけれど、ずっと治療食をあげていたので、その後の2年くらいは病気知らず。本当に元気な子でした。
「多分、心臓発作のような、心臓の問題です。原因を詳しく知りたければ大学病院で解剖することになります」とも言われました。
もちろん、喉から手がでるほど原因は知りたかったです。
でも、もう一刻も早くトラ吉と家に帰りたかった私は、病院のスタッフの方に付き添われて、トラ吉と家に帰りました。
その日は、仕事場から急いで帰ってきてくれた夫と私の間にトラ吉を寝かせ、一晩中、トラ吉のことを撫でて過ごしました。
「もしかしたら生き返るかも」と願う気持ちに反して、トラ吉の体はどんどん固くなってくるし、毛も抜け、目や鼻からは体液が出てきて、臭いもしてきました。
「あぁ、もうどんなに撫でても、トラ吉が生き返ることは無いんだ」と思うと泣けて泣けて、悲しくて悲しくてどうしようもありませんでした。
あの時、私がキャリーバックを落としていなかったなら。
あの時、私がもっと早く病院に連れて行っていたなら。
あの時、私がちゃんと応急処置が出来たなら。
あの時、手なんか洗わず、着替えもせず、すぐにトラ吉を抱きしめていたなら。
あの時、変に早く帰らずに、いつもの時間に帰っていたなら。
もしかしてトラ吉は死ななかったかもしれない。
そして
あの日、トラ吉が私たちと出会わなければ。
他の家族に貰われていたなら。
もっと長生きできたかもしれない。
その思いは今でもどうしても消すことが出来ません。
もし、生き物の寿命が生まれた時点で決まっていたとしたなら、あの日のトラ吉は、私が帰ってくるのを頑張って待っていてくれたのかな、と思います。
最後の最後に元気な可愛い姿を見せてくれたトラ吉。
前に「くるねこ大和」のくるさんも愛猫が亡くなった時、「本当は死ぬのは私だったのかもしれない」とおっしゃっていましたが、私もその時そう思いました。
体に無理をさせていた私が、本当は死ぬはずだったのかもしれないと。
トラ吉が変わりになることなんて無かったのに。
あれから、猫の蘇生術が載った本はいつも手の届く所に置いて、時々読み返して確認するようにしています。
少し冷静にあの頃のことを考えられるようになった今、あの時の私に出来たことは、やはり「応急処置」だった思うのです。
それが本当にトラ吉に効果的だったかどうかは分からないけど、ちゃんと冷静に対処できるように、知識というものはやはり必要だと思うのです。
まだまだ「猫と暮らす」人間として、いえ「人間と暮らす」人間としても、未熟なことばかり。
これから夫やトトララと一緒に少しずつでも成長していけたら。
それがトラ吉への供養にもなるのかな、と思っています。
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