社説
古里の自画像/描き直す転機の力求めて
雪が降りだすと、「おどう」の出稼ぎ支度が始まる。寂しくなる。吹雪の夜には会いたさが募るだろう。でも、雪が解けて花が咲き、「母ちゃん」がそわそわし始めると、土産をいっぱい持って、おどうは帰って来る。 NHK紅白歌合戦でも再三歌われたこの昭和の歌(吉幾三作詞『津軽平野』)の情景には、わたしたちが生きてきたある時代の子どもたちの心情が託されている。
聞き手の大人たちは感じ取ってきた。寂しかったのは子どもだけではないことを。子どもたち以上に不安を膨らませ、会いたさを募らせたのは、女たちであったことを。 東京へ行ったまま帰って来ない男たちもいた。労災事故の犠牲者も少なくはなかった。そんな現実は、例えば1970年代初め、岩手県の山あいで女性がつづった報告(一条ふみ『永遠の農婦たち』)から読み取ることができる。
嘆きと憤りを福島県の農民作家は同じころ、詩編にこう記している。「村の女は眠れない/夫が遠い飯場にいる女は眠れない/女が眠れない時代が許せない」(草野比佐男『村の女は眠れない』) 女が眠れない時代を結局は許し、高度成長期と名付けたのが、わたしたちの戦後史である。50年代後半からの経済成長とともに、東北の男たちは大都市圏の建設現場に吸収された。ピーク時に50万人を超えた出稼ぎ労働者の半数以上が東北からだった。
村の女が寝付けない訳は、夫の不在だけではなかったと考えてみたい。 息子や娘も15歳になると家から送り出さなければならなかった。高校に進学する比率はまだ5割に満たず、農業以外に地元で働く受け皿はなかった。中学を出たての労働者は時に「金の卵」と重宝がられて、集団就職列車で首都圏に去って行った。
夫と長男が半年近くも家を空ける。東京の中小企業で多くは住み込みで働くほかの子どもの姿が目の前にちらつく。女が残った地域の共助の力も次第に失われていく。 「過疎」という言葉を使って、政府は60年代半ば、人口の偏在に対する問題意識を表明した。しかし、妻としての母としての不安は、行政統計からはこぼれ落ちる。
出稼ぎも集団就職も70年代後半以降、あまり語られなくなった。高度成長が終わり、大都市圏の吸引力が衰えたからである。UターンやらJターンやら、是正への期待をつなぐ現象が統計数値に表れたこともあった。 しかし、女たちの不安が一掃されたかといえば、決してそうではない。わたしたちの古里の戦後の自画像は、原像として全く変わっていないのではないか。
バブルがはじけ、かつての高度成長はもう望めないことが明らかになると、都市の側もいらだち始めた。産業構造の転換に伴う働く形の急変が、都市の暮らしの不安を増大させ、政治の変化を求める潮流として台頭した。 二大政党の一方が、コンクリートから人へと訴え掛けて去年の夏、政権をもぎ取った。コンクリートはそれだけでは、暮らしの不安を解消しはしない。とりわけ女性たちの多くがそう考えて、転機を引き寄せたように見える。
転機はしかし、貧困の拡大とともに訪れた。高度成長期の一億総中流の幻想は既に跡形もない。新年度の予算案を作った新しい内閣は、「国民の命を守る予算だ」と国家として当然の、最低限の責務をわざわざ強調してみせた。 結婚して地域に根差し、子を産み、はぐくみながら自らも仕事をする。高望みとも思えないそんな暮らしを営む環境がなかなか整わない。
高校を卒業させるまでの子育てを終えても、わが子が地元で働ける道は限られている。大都市に送り出したにしても、正社員の安定した職場が保証されているわけではない。高卒予定者の就職内定率や失業率のニュースが、不安をかき立てる。第一、夫や自分の仕事場だって心配だ。
国が過疎地の自立を促すためだという法律(過疎地域自立促進特別措置法)を作ったのは70年だった。ことしで40年にもなる。今度こそ、地域の不満と提言を反映させ、古里の自画像を描き直す手だての一つに作り替えさせよう。
友愛を掲げる国のリーダーの語り口以上に、抽象的すぎたかもしれない。それでも女性の感性と知恵に託したいと願うのは、夫や子どもたちの事情もまた、そこに映し出されていると思うからだ。里や浜で、あるいはシャッターが下りた町の通りで、家族を営み、暮らしを立てる不安を感じ取ってきたのは、女たちだったと思うからだ。
2010年01月01日金曜日
|
|