永慶的MC小説論

 

永慶

序章 MC小説を論じるにあたって

 

MC小説(マインドコントロール小説)というジャンルが存在する。

 

これは主にネットの世界の、アダルト小説の中に存在する、非常に小さなジャンルであるが、非常に強く私の興味を引くジャンルである。この、非常に小さくはあるが、深遠で魅惑的な世界で、私も空想にふけり、遊ばせてもらっている。そしてこの世界がさらに拡大し、繁栄することを願っている。ふと、この世界への恩返しの一種として、自分がこれまでに考えてきたことをまとめ上げ論じることで、一石を投じることが出来たらと思い立った。

 

まもなく私、永慶はMC作家を引退する。BOXER6氏(びーろく氏)に影響を受け、勝手に弟子を自任して何本かの催眠術小説を書き始め、同期のおくとぱす氏をライバルと意識して、他数人の、数少ないMC作家と刺激を与えあって書いていた頃からはや10年。気がつくとこのジャンルも多くの作品の蓄積を得ていた。今、作家を辞める私に出来ることは何かと考えた際、ネット上でのMC小説サイトが立ち上がる時期からの試行錯誤の歴史を、私なりに整理して伝えたいと考えた。後進の同士に、特に、これからMC小説でも書いてみようかと考えている、新人の同士に、私なりのMC小説の理解を提起したいと思う。役に立つかどうか、受け入れられるかどうかは相手の選択に任せ、私なりのまとめを伝えたいと思った。

 

永慶がこう思うという考えを皆さんに押しつけるつもりはない。ただ一つ、議論を活発化させ、ジャンルを盛り上げていく一助になればとだけ考えている。

 

第一章                      操快感

 

第一項                      MC小説の主題としての、感覚の新定義

 

本論の始めで、一つ、新たな言葉を造ることを許してもらいたい。「操快感」という言葉である。「爽快感」と響きが同じなので紛らわしいかもしれないが、私なりにMC的なエロスを一言で表すとすると、こうなる。

 

その操快感とは、どういう感覚か。それは、

 

特殊な技能・力によって、対象となる相手や自分の属する社会の抵抗をかいくぐりつつ他者を操り、意に沿わないことをさせることによって得られる快感」

 

のことである。

 

この操快感が得られる状況、またはその周辺を描いた小説。もしくは、操快感を主題とする小説を、「MC小説」と私は呼んでいる。MC小説という定義を、新たな造語で説明するという分かりにくさを許してもらいたい。

 

しかしこの操快感の3条件(上記下線部)を書くことで、操快感を生むものと生まないものとの区別が少しずつ明確になってくるのではないだろうか。以下に操快感を生まない例をとって具体的に説明してみる。

 

1)特殊な技能・力の行使

 

例:総会屋Aが企業Bの秘密を握り、密かに脅迫。企業Bから不正に利益を得るという物語

 

この話は書きようによって、社会や対象の抵抗をかいくぐりつつ、他者を自由に操る話になるかもしれない。しかしこれはおそらくMC小説には成りえないし、操快感を生み出すことはないだろう。他人を操る際に行う、脅迫という行為が、ここでいう「特殊な技能・力」ではなく、一般社会で横行している普通の行為だからである。

 

このジャンルでは、特殊な技能・力とは、催眠術、超能力、魔法、特殊機械、薬物といった、一般社会で万人が手にすることは出来ないであろう「力」のことを指している。こうした「力」が行使されれば、上の例の物語も、MC小説と考えられるだろう。

 

2)想定される抵抗の回避

 

この、2)の条件は、細かく分類すると、さらに二つの条件に分かれているといえるかもしれない。なので、この条件を満たさない例をABと二つ挙げてみる。

 

A:秘儀を極めた熟練の魔術師Aが、その精妙な魔術の奥義を駆使し、コンビニの店員Bに挨拶をさせる物語

 

B:腕力がレスラー並になる薬を手に入れた不良学生Aが、優等生の幼馴染Bに暴力を振るい、力づくで強姦する

 

まず例Aの物語は、抵抗の発生を予測させないところに、MC小説として成立することの困難さがある。コンビニの店員は来店した客に挨拶をすることは当然であり、魔術師が魔術を使う必要など、読者は感じない。

 

たとえ1)の特殊な技能・力が小説の中で使われ、それによって対象が思い通りに操られていたとしても、その対象が普段でも抵抗なく行うことばかりさせている話は、操快感を生まないのだ。

 

Bの物語も2)の条件も満たすことが困難となるであろう。つまり、合意の下ではない性交という、容易に抵抗が想像される状況ではあるが、不良学生Aは優等生Bのその抵抗を、「かいくぐって」いない。力ずくで(直接的な暴力でもって)正面突破している。

 

対象や社会の抵抗が予想されることを行っても、その抵抗を「巧妙に、またはある方法により、通常有り得ないほど易々と」回避しなければ、操快感は発生しないのだ。

 

3)対象が希望してない事態の発生

 

例:科学者Aが発明した「勉強強制プログラム」を見てしまった科学者見習いBが、嫌々ながらも勉強をし、優秀な研究者になるという物語

 

この例では、見習いBは勉強を強制されることに抵抗は示している。社会も一方的な洗脳による勉強強制など、許容しないであろう。しかし、結果として見習いBの辿り着いた状況は、決してBの意に沿わない状況ではない。このように、対象が目指す方向性と長期的にでも一致している場合は、操快感は発生しにくい。

 

例えばもし、科学者Aが思わずプログラムを悪用してしまい、見習いの女性Bと肉体関係を持ってしまったなら、3)の条件は満たされ、操快感が生まれる余地となる。科学者が意図していなくても、プログラムのエラーにより、見習いBが水商売の勉強を始めてしまったとしても、条件3)は満たされる。対象の見習いBが長期的にも望まない方向に操作された時に、「操り、意に沿わないことをさせる」という条件は達成されているからである。

 

 

以上が、条件別に説明をしてみた際の操快感の定義となる。MC小説とは、この感覚とその周辺を重要なテーマとした小説ジャンルであると言える。「その周辺」とは、操快感を得るための攻防や、試行錯誤、予感を描いた物語であっても、MC小説となり得るという意味での、若干の幅であると理解頂きたい。

 

 

第二項                      操快感の四つの軸

 

では、操快感とは、どのように測られるものであろうか。感覚である以上、人が強弱を感じるものであるはずだ。さらに言えば快感である以上、強い方が喜ばれる性質のものであるはず。私は現在、この操快感を測る尺度として、

 

1.       高さ

2.       広さ

3.       深さ

4.       濃さ

 

の四つを用いて分析している。この四つの尺度で表される総量が、言わばその作品が持つ、「操快感のポテンシャルの規模」である。以下にこの四つの操快感尺度の説明を書きたい。

 

1)        操快感の高さ

 

先述した操快感の3条件を満たす物語の中で、操作行為の対象者が、操作によって普段とギャップのある行為を行う。そのギャップの大きさ、落差の大きさを「操快感の高さ」と表現する。

 

A: だまされて媚薬を飲まされた奔放な風俗嬢が、ルールに反して客に本番行為を行う

B: だまされて媚薬を飲まされた真面目な婦警が、チンピラと肉体関係を持つ

 

ABとでは、Bの方が「操快感が高い」物語となる可能性が大きい。婦警の方が風俗嬢よりも、「性行為」という結果との、ギャップが大きいと捉えられるからだ。

 

落差が大きい状況を描いた方が、操快感は上昇し、MC小説のダイナミズムは増す。これが操快感の高さである。

 

操快感を高める(落差を拡大する)方法は、簡単に列挙すると、三種類ある。

 

a ) 操作対象者の社会的地位、役割からの落差を発生させる

   → 風俗嬢が媚薬を飲み、乱れるよりも、婦警が乱れる方が操快感は高い

 

) 操作対象者の普段の性格、振る舞いからの落差を発生させる

→ 淫魔に憑依された不良生徒が援助交際を行うよりも、優等生が行う方が操快感は高い

 

) 操作行為者と対象者の力関係に落差を発生させる

→ 皇帝が従者を魔法で操るよりも、従者が姫君を操る状況の方が、操快感は高い

 

2)        操快感の広さ

 

先述した特殊な技能・力が行使された際に、作品世界の社会にどれだけの範囲で影響を与えるかを、操快感の広さと表現する。

 

A: サブリミナル・メッセージがヒロインである戦士一人を支配する

B: サブリミナル・メッセージがヒロインの戦隊一つを支配する

 

Aと例Bでは、例Bのストーリーの方が、操快感が広がる。

 

上記の説明は操作範囲について述べている。通常操快感の広がりは操作対象の範囲で説明がつくが、一人の対象しか操らない話であっても、「対象が操られている現場を多くの人が目撃する」という、目撃者の拡大によっても、この操快感の広がりは実現できる。

 

3)        操快感の深さ

 

この尺度を理解するには、先述した「対象または社会の抵抗をかいくぐり操作する」という、操快感の条件を思い起こして頂きたい。予想される対象の抵抗を、「巧妙に回避する」ことを条件としているということは、読者はそこで使われる特殊な技能・力に、何らかのルールやプロセスがあることを想定している。そのプロセス、ステップや制約を感じさせ、作品の中の特殊な技能・力に説得力や背景にあるロジックを感じさせてこそ、ゲーム性や達成感が生まれ、MC行為の喜びが増す。そうした、架空の技術や能力に現実感をもたらすロジック、ステップの存在(またはその予感)を、「操快感の深さ」と表現する。

 

A:ある朝、自分の持っている超能力に気がついた少年Aが、存分にその力を発揮。   その日を満喫する。

B:ある朝、自分の考え通りに周りの人間が行動するという異変に疑問を感じた少年Aが、   突然発現した自分の能力に驚き、試行錯誤の末、それを使いこなすようになり、その夏のうちに少しずつ自分の近所を改造していく。

 

上記の例で言うと、例Bの方が、操快感が深いと言える。

 

ここで補足しておきたいのは、作者が規定している特殊能力の制約・段階等が、その作品の中で全て語られなければ操快感が深まらないという理解は誤っているということである。読者がある能力に対して、一定の制約や段階の存在を「感じる」だけで、操快感は深まる。「ここでは全ては語られてはいないけれど、どうやらこの能力は、直ちにどんなことでも出来るというわけではないんだな。それでもこの能力を注意深く駆使すれば、相当なことが出来そうじゃないか。」読者にそのように感じさせられれば、操快感の深化は十二分に成功していると言えるだろう。

 

4)        操快感の濃さ

 

MC小説のMが「マインド」であることからも明らかなように、これは人の心(意識や感情、精神)を大きく取り上げているジャンルである。当然、当事者であるMC行為者とその対象との心理描写の多さ、丁寧さがMC小説の魅力を倍化させる。そうした、MC行為に関連する心理描写の緻密さを、「操快感の濃さ」として表す

 

A: ABを支配して性行為を行う場面を第三者視点から淡々と、行動のみ描写する例B: ABを支配していく過程での期待と不安と焦燥感、Bの葛藤、弛緩と陥落を、    それぞれの視点から丹念に追いかける描写

 

Aと例Bとでは、例Bの方が操快感を濃くすることが予想される。

 

操快感の濃密さは、一般的には丁寧な心理描写によって実現される。しかし3)の操快感の深さと同様に、「全てを書かなくても、一部の表現で読者に登場人物の心の動きを十分に想像させる」という高度な文章技術があれば、淡々とした描写のみで操快感を濃くすることは可能である。

 

第三項                      操快感の軸による、MC小説の分析

 

前項で述べた四つの操快感の尺度を総合評価すると、MC小説の骨格となる、操快感のポテンシャルの規模とその性格が明らかになってくる。まずそれぞれの軸が持つ、快感の性格をまとめてみよう。

 

表1.

操快感の軸

感情のベクトル

よく見られる表現

高さ

支配欲、征服欲の充足

「あの○○がこんなことをするなんて」

広さ

万能感の発生

「それはとても壮観な光景だった」

深さ

達成感の発生

「少し頭を使えば、実はこんなことだって出来る」

濃さ

窃視願望、独占欲の充足

「こんなこと、絶対しちゃいけないのに・・」

 

深さの軸で、達成感の発生にベクトルが向いているとしているのは、ルールや制約にのっとって段階を踏んでいくことへの達成感だけでなく、一定の制約があることで、欲望の無限の暴走に歯止めがかけられ、今の達成度合いでの満足を生むという意味も持っている。

 

操快感が濃くなると窃視願望や独占欲が充足されるのは、MC行為対象者の儚い抵抗と屈服が克明に曝け出されることで、MC行為者もしくは読者に優越感がもたらされ、「この対象の全てを理解して、その上で支配している」という思いをかきたてるからである。こうした感情は、後にMC行為対象者への愛着へと変わっていく例が多い。

 

作品の傾向や、それによって予測されるリスクも、以下のように表現される。

 

表2.

  

表3.

 

表2の「ティーンエイジャー、トムのハーレム大作戦」は、超能力ものの、集団支配話である。童貞でまったくモテない高校生のはずだったトムが、ある朝ふいに発見した自分の超能力を存分に発揮。チアリーダーのキャシーも幼馴染のメアリーも、同級生のジュリアも近所のベビーシッターもウェイトレスもみんな、あっという間に彼のハーレムに取り込んでしまう。

 

このあらすじだけでも明らかだと思われるが、非常にストレートな「万能な力で次々とセックス」という話である。若干の高さはあるものの(数学教師のミセス・ブルックスとも関係するため)、濃さ、深さはほとんどない。シンプルで勢いのある、「ひたすら操快感の広がりを求める」タイプの話である。

 

こうしたストーリーはまず書きやすく、セックス描写や異なる女性キャラクターの書き分けさえ出来れば、煩悩をそのまま文章にすることが出来る。例え文章力にさほど自信がなくても、自分のリピドーを全開にすることで、勢いある作品となる場合が多い。

 

しかし罠も存在する。左下方向(濃さ、深さ)が足りないということは、作品の外面世界は派手に動いていても、目に見えない世界(内面、約束ごと)には、読者も作者もほぼ興味を持っていないということだ。

 

これは作者のリピドーが尽きた瞬間に、目に見えて失速することになる。話の後ろ盾、基盤が弱いため、物量戦から神経戦に持ち込んで小休止、といった切り替えが出来ないのだ。

 

これとよく似た例で、「操快感の拡散と希薄化」と私が呼んでいる現象が存在する(表3.)。

当初はある程度、深みも密度も持っていた物語が、主人公の力がどんどん強力になり、ほぼ万能になっていくにつれて操快感の右上方向(広さ、高さ)への拡大をどんどん進めてしまい、やがて作者も読者も「ドキドキ」する話ではなくなる。レベルが上がりすぎたキャラクターでRPGゲームを延々と続けているような、新たな共感、不安感、達成感を生まない、モチベーションの低い話になってしまうという罠だ。これは「世界征服」を目指すと言ったジャンルで注意すべきリスクである。

 

 

表4.                                                                    

 

表5.

 

Bの「不純異性交際!?」は、日本の高校生カップルが主人公。星太、真希の二人は非常に奥手で、羞恥心が邪魔してまだキスにも進めないでいる。ある日真希の希望により、彼女の赤面症を治すために、星太は本を読みながら催眠療法を試してみるのだが、真希は予想もしないかかりかたをしてしまう。

 

この話から征服感を得ようとすると、なかなか難しいかもしれないが、MC行為の中にも心の交流を求める読者にとっては、非常に愛着の沸くストーリーになるだろう。星太は真希に悪いと思いながらも、催眠状態の真希に対して一歩ずつ踏み出していく。真希は深層心理では既に星太を受け入れようとしており、二人の葛藤と躊躇を催眠術体験という非日常性が解きほぐしていく。

 

丁寧に両者の心の動きを書いていけば、濃密な操快感が生まれ、一歩小さな進展を見せるごとに深みも増す。長編に適しているタイプのストーリーと言える。

 

ただしここにもリスクは存在する。緻密な心理描写やリアルな技術論に裏打ちされた作品には、セックスまで辿り着かないで終わってしまう、または中断してしまうものも多いのだ。特に催眠術小説に多いパターンだが、丁寧に催眠術のステップを描写していけば行くほど、「催眠術原理主義による閉塞」の罠にはまる傾向があるのだ。

 

文学的に催眠術の道筋を表現しようとすれば、多くのトランス描写が、既にセックスの比喩になっているということに、作者は気づく。被術者の弛緩と陶酔。異物としての施術者の言葉が意識に挿入され、それを本能的に拒絶しようとする葛藤、その抵抗を巧みにかいくぐろうとする施術者の様。最終的に施術者の言葉を受け入れ、自分の意識と一体となり、染み込んでいく、一瞬の境界を無くした意識。無抵抗に施術者に体を任せる、目を閉じた被術者。多くのシーンがセックスの隠喩として作者が活用出来るものである。ここに来て、「催眠術をかけてエロいことをするのではなくて、催眠術自体がエロティックなものなのではないだろうか」と自問する。そこまで考えるようになった作者にとって、既に被術者が落ちきった後での実際のセックスなど、書く気があまり起こらない(もしくは優先度が低い)のである。

 

しかし多くのMC小説読者は、別にメタファーが読みたくてアダルト小説に手を出す訳ではない。そうした人々の中には、作者があまりにも心理描写、ルールの詳細にこだわっていると、興味を失ってしまう人たちも出てくるのだ。ましてやセックスや裸も長く現れないアダルト小説とあっては、「自分のキャラクターや作品世界への愛が強すぎて、読者を楽しませようとは全く思っていないのでは?」と疑問を持つことすらありうる。文字通り「深く、濃い」ファン以外は受け付けない状況となっているのだ。

 

これを操快感という観点で表現すると、「右上の外面世界での動きが停滞し、操快感は掘り下げられ、凝縮する一方となり、閉塞している」という分析になる。

 

この章ではこれまで、MC小説の本質的な部分と私が考える、「操快感」という概念と、その規模を測る尺度について述べてきた。

 

当然のこと、これまで述べてきた、ストーリーが持つ基本構造(操快感の潜在的ポテンシャルの総量)だけがMC小説の質を決定するのではない。操快感のポテンシャルの規模が始めにあり、それを受け止める読者の性向との一致があり、さらにその読者に対して、作者が的確に操快感を創出して橋渡しする。操快感のポテンシャル、読者の性向、作者の操快感を引き出す技術。この三つが揃うと、MC小説はこの世界(MCファンの世界)で実に強大な力を持つ。名作は一人の人間の心に、何年も熱を持って残り続けるのだ。

 

優れたMC小説は、MCファンを圧倒し、震撼させる。それは例えるなら、台風の地域社会への影響のように、複合的なものだと言える。台風の規模(雨の量や風の強さの合計)と、受け止める地域の性質(地形、地質、災害への備え)、台風との遭遇の仕方(長雨の後にすぐに現れた、同じ地域に長く留まった)、3点が複合的に絡み合って、結果としてのインパクトとなるのに似ている。MC小説も、作者の技術や発想、そして読者の好みやツボによって、インパクトは異なる。

 

しかしその元手である、ストーリーが構造的に持つ操快感のポテンシャルの総量は、非常に重要な要素であり、かつ分析可能なものなのだ。そのことを論じようとして、随分説明が長くなってしまった。「簡単なことをわざわざ難しそうに語っているだけ」と感じた方は、どうかご容赦頂きたい。

 

 

第二章                      MC小説の世界

 

第一項 MCフェティッシュの婉曲性 −優しい時代の強姦小説

 

一章では、MC小説の本質的要素としての操快感、そしてその潜在的な規模の測り方について語った。そして、MC小説の力は、この操快感のポテンシャルだけではなく、受け手の性向との一致、そしてそこに円滑に操快感を抽出して橋渡しする作者の技術との3点で決まるとも述べた。

 

そこでこの章では、二点目の受け手の性向、つまり「MC小説の読み手」とは、MCフェティッシュの愛好者とはどういう存在なのかということを考えてみたい。

 

当然のこと、全ての人々を一般化することは不可能であり、時にこうした一般化は害にもなる。しかし、全ての住人がもし、「MC好きはどうしてMCモノを好むのか」、「そもそも自分はどうしてこのシチュエーションをエロいと感じるのだろうか」といったことに一度も悩まずにいたら、この世界は発展することはないのではないだろうか。

 

そこで私の考えを述べてみたい。

MC小説とは、優しい時代の強姦小説である」ということだ。

 

「人とは、社会的な動物である」と語ったのは、アリストテレスだっただろうか。動物である以上、本能的な欲望、欲求を抱えている。しかし社会を作ってそこで生活している以上、互いの欲求を制限しあって生きることになる。

 

動物である人間は自然、「他人が自分の欲求の通りに行動してくれたらよいのに」という願望を必ず持っている。そうはしてくれない他人に対して(成長度合いによって程度の差はあっても)欲求不満を感じる。そうした欲求不満が、社会の中で人を活動させる、原動力にもなっているのではないだろうか。溜まったリピドーの捌け口や性的関心の充足として読まれているアダルト小説においては、この欲求は当然、「性欲」と渾然一体となって描かれる。

 

他人の都合や意思を無視してでも、自分の思いを果たしたいという欲望をストレートに前面に押し出せば、それは「強姦小説」に辿り着く。

 

創作物に関しての話しと限定した上で、誤解を恐れずに書く。現在では「強姦小説好き」などと書けば、最も犯罪者に近い変態趣味、異常性欲者と非難されるかもしれないが、近代以前の表現の世界では、性交渉にあたっては、女性は何らかの拒絶反応を(形式的であっても)示し、男が多少なりとも強引に性行為に持ち込むという書き方は、ごく一般的なものであった。強姦的な要素が全くない性描写の方が、珍しいう文化もあった。むしろ「快楽としての性交渉に、合意の上で積極果敢に挑む女性」を書いた方が「変態作家」と謗られていたかもしれない。

 

しかしそうした「強姦小説」は、現代の日本社会では(特に70年代後半以降)、以前に比べて勢いを失っていると考えられる。男女同権、他人を思いやる心、優しい人間が最も尊ばれる時代において、「嫌がる女に二、三発、ビンタをくれてやって、黙らせて強引に犯すんだ」といった、あまりにも野性的で前近代的なマッチョイズム、男根主義は忌避の対象となったのだ。

 

日本で戦後に教育を受けてきた人間の多くは、そうした「優しい時代」の教育の洗礼を受け、「嫌がる女性を無理矢理」といったイメージには(程度の差こそあれ)良心の呵責を抱く。しかしそれでもなお、男性の多くが「自分を好いてくれる人以外とも性的関係を持ちたい」という欲望を抱く。仮にそこで、「もし、今は自分を受け入れないこの人が、自分の望むとおりに行動し、自分とセックスをしてくれるようになったら、いいのに。」と考えたなら、その人はMCフェティッシュという性向の、玄関口に立ったことになる(表6.)。

 

表6.

 

こうした「優しい」、しかし(アダルト小説においては)欲望の充足を求める人の幾人かは、このジレンマを鮮やかに解決してくれる「特殊な技能・力」という設定を受け入れる。「思いを遂げたいが、他人や社会の抵抗を真正面から叩き潰し、屈服させるという筋立てには、対象となっている人物の悲痛さを想像して萎えてしまう」という葛藤を持った読者が、「この筋立てなら対象はこうした行為も、嫌だとすら思わなくなる、またはこうされたことすら、後にはおぼえていないんだ」と導かれることで、良心の呵責に苦しめられることなく、根源的な獣性を開放することが出来るのだ。

 

それは婉曲的で「男らしくない」、欲望の代償フィクションかもしれない。自分の思い通りにはいかない他人というものを大前提として受け入れない、「子供じみた」空想かもしれない。

 

しかしこうした屈折性、婉曲性こそが、知性を働かせる余地となるのではないだろうか?ストレートに欲望を満たす小説でない分、MC小説は書き手も読み手も頭を働かす。子供じみた欲求と言い訳じみた大人の配慮の狭間で、このフェティッシュを抱えたものは常に自問をしている。「優しい時代の強姦小説」。この屈折性、婉曲性こそが、MCフェチの世界を魅力的な影で覆われた、妖しくもスリリングな世界にしているのではないだろうか。

 

 

第二項 MCフェティッシュの二面性

 

「優しい時代の強姦小説」というものを、女性の立場から見ると、どうだろう?一般的には、否定的な反応が返ってくるのではないだろうか。「強姦」に拒絶反応が戻ってくるのは、当然のこと。しかし「優しい」という部分も、極めて男の自己中心的な発想と考えるだろう。

 

「この話の中で、女性Bは、好きでもない男性Bとセックスをすることになる。男性Bが催眠術をかけてしまったからだ。しかし女性Bは術にかかって無抵抗だったから無傷だし、嫌悪感を持つこともなく、それどころか凄く大きな快感を得たんだよ。術が説かれた後は、セックスのことを何も覚えてないし、避妊も万全だったからリスクフリー。女性Bは気持ちよく寝てただけ。リラックス出来て幸せだと思ってる。男性Aは意中の女性を傷つけることなくセックス出来たので幸せ。両者満足して別れたっていう話なんだ。」

 

こう聞かされた女性の中には、「それは頭を使わない、ストレートなレイプ話よりもたちが悪い、気持ち悪い話」だと感じる人も多いのではないだろうか。なぜならそれは、「女性の体を弄ぶだけでなく、心も好きに弄ぶという、より悪い話」であり、「女性の気持ちに配慮しているなどと言って、実際のところは男性側が自分の良心に対して配慮しているだけの、「優しさの皮を被った勝手な自己正当化」だからだ。

 

しかしながら、この二つの見方は、簡単に決着のつく対立ではない。「人間の幸せとは何か」、「人間の心とは何か」、「どこまでが自分の心で、どこまでが他人の誘導なのか」、はっきりとした答えを、普通は誰も持っていないからである。

 

この話は突き詰めていくと相当哲学的な命題となってくる。ここでそのテーマを論じていると、本論から外れてしまうかもしれない。この場では、「MC小説が持つ婉曲性には、常に二種類の評価がされうる」ということだけを論じておきたい。

 

MC行為者は、直接的な暴力を背景に、力ずくで自分の思いを果たすよりも、巧妙に対象の感情や嗜好、考えや行動を操作して思いを果たす方がスマートであり、相手への配慮にも満ちていると考える。しかしそうした「操作」を、もう一段深いレベルのレイプであり、陰湿な自己正当化の空想だと評価する人々は、男性読者の中にも存在するのだ。

 

同じ行為を書いても、二種類の見方がされうるし、書き方によってどちらかの評価をより多くするということも出来る。実はこの二面性が、MC小説の大きな幅にもなっているのだ。

 

同じ能力を描いていても、ソフトに書くことも、非常に鬼畜に書くことも出来る。そしてソフトに書きながら、「よくよく考えてみると相当、業の深い、エゲツないエロだ」と思わせることも出来る。派手に激しい話を書いておいて、「でもこの話は、インパクトの割には読後感はすっきりしている」と思わせることも出来る。

 

どのジャンルのアダルト小説においても、特有の幅や深みは存在するのであろう。しかしMC小説の二面性が持つ、この幅はそうした中でもとても大きいものだと感じられる。MC小説は「配慮ある」アダルト小説であり、「最も自分勝手な」レイプ小説でもある。ままならない男女間の心の駆け引きに、MC行為が波紋を作り出し、掻き乱す、その様を丁寧に書き上げる「愛のある」ラブコメにもなりうる。人の心を玩具にして縛りつける「非道で強力な」奴隷小説にもなりうる。

 

「操快感の発生条件」、「婉曲性」、「二面性」など、一見「縛り」に見える要素を無意識のうちに知り尽くすことで、過去のMC作家たちはそれらを自分の味方にし、実に自由にそれぞれの空想を具現化し、このジャンルを豊饒にしてきたのである。そして読者はそれを読むことで、そして感想をフィードバックすることで、支えてきた。稚気と分別を併せ持った愛好者の間で、色とりどりの妄想が花開いてきたのだ。

 

 

第三項 MC界の小ジャンル

 

多種多様な空想を受け止める、自由で無秩序なMC界だが、前述の「特殊な技能・力」の種類によって、小ジャンルに分類していくことが出来る。ジャンルによって作りやすい操快感のポテンシャルの形というものも存在し、こうした分類の中の主要なものとその特徴を抑えておくことは、MC界の性向を理解する上でも役に立つ。

 

しかしここで私は、こうした小ジャンルは、「属性」のように、互いに相容れないものでは全くないということを確認しておきたい。多くの作者は様々な分類のMC小説を書き、そうすることでさらに経験を積む。読者にしても、一定のジャンルしか求めていないということは、通常ない。好みはそれぞれあれども、良いものはそのように評価し、自分の妄想に吸収していく。そのようにして楽しんでいるのが、この世界の住人の一般的な姿であると思う。MCフェティッシュという特殊なジャンルで、さらに相容れない存在を作り出して細分化を推し進めていくというのは、あまり建設的な方向ではないと感じる。互いにその良い部分を引き出しあい、吸収しあい、MC好きの世界を拡大していく。そうした基本姿勢があって、初めて「違い」に関する論議が前向きなものとなる。

 

a)催眠術

 

表7.

 

私がMC小説の本流と考えているのは、この催眠術ジャンルである。国内のサイト上で、名作、傑作と評価され、支持を集めてきた作品群を見渡しても、催眠術、もしくは催眠モノの数が最も多いのではないだろうか。

 

催眠術を扱うことの最大の利点は、それが明確なイメージを持った、現実の技術を下敷きにしていることだろう。MC小説を愛好する者にとっては、「催眠術」と聞くだけで、そのルールやプロセス、暗示の様々な技法が思い浮かぶ。つまり一つ一つの説明、説得をくどくどと行うことなくしても、「トランス状態に導いた」、「後催眠暗示を植えつけた」などと書くだけで、

そのステップや制約、MC行為のディテールが伝わりやすいのだ。これは文章の量に自然と制限ができる、ネット上の短編小説にとっては非常に有利なことだ。少しのほのめかしで、操快感をぐっと深めることが出来るのは、実に強力な武器と言えよう。

 

催眠術小説のリスクと言えば、先に述べた、「催眠原理主義による閉塞」がある。催眠術のプロセスというのが明確なために、女性を落としていく上で、一つ一つのステップを丁寧に描いていくだけで、順調に書き進められてしまう。そこに集中するあまり、セックス描写に辿り着かない、もしくは性的描写が淡白な作品が多くなりがちだ。作品を書き上げて、見直してみると、全体の3割程度が暗示文や催眠を深めるための会話になっていて、最後にあわててセックス描写が入っている。そのようなペース配分のミスを起こしやすい。催眠術に興味を持ち、よく勉強している人ほど、リアルなディテールにこだわりがちなのだ。

 

こうしたリスクはありつつも、催眠術小説の様々なトリック、ギミックは、MC小説界に大きな影響を与えてきた。MC行為対象がトランス状態に落ちた際の弛緩した表情、操作後の記憶の修正、キーワードによる操り・・・等々、所謂「催眠術」ではない小説の中にも、催眠術小説から引用されている要素は数多く見られる。MC小説は、「催眠術小説」→「催眠小説」→「MC小説」という形で、周囲のジャンルを吸収しながら拡大してきたと見ることが出来るだろう。これは他の文化に例えてみると、「黒人音楽としてのブルース」→「ダンスミュージックとしてのロックンロール」→「現代音楽の一大ジャンルとしてのロック」という形で周辺ジャンルを吸収しながら拡大してきた、ロックの歴史とも重なるように思える。

 

つまりMCフェティッシュにとっての催眠術は、ロックファンにとってのブルースのような存在なのだ。

 

<参考> ジャンルを代表する名作

「魔女のマリオネット」 by びーろく氏

「蜘蛛のノクターン」 by おくとぱす氏

「迷子の子猫ちゃん」 by 九重 慧氏

「ドール・メイカー・カンパニー」 by MCきつね氏

「友達以上、兄弟未満」by 遊び人アキ氏

 

b)超能力

 

表8.

 

先の催眠術と比べると、超能力を扱った小説はよりダイナミックで、スケールの大きなMC小説になりやすい傾向がある。

 

そもそもが架空の能力として、現実の足枷から外れて「何でもあり」として書くことが許されたジャンルだからだと言えよう。例えば「学校を一つ支配下に置く」というシーンを描くとする。Panyan氏という名匠は、「なみのおと、うみのあお」という作品の中で、サブリミナルメッセージを使って朝礼時の学校を一つ、支配下に置いた。使った文章は文字数にして659字である。たか氏という鬼才も「集団催眠」という作品の中で催眠術と機械洗脳を駆使して学校を女子高を手中に収めるが、これも同程度の695字使っている。これに対してざくそん氏は、「糸引きエスパー」でなんと半分以下の271字で学校を一つ、支配しているのだ。

 

当然描写の度合いで文章量は大きく変化する。しかしこの場合は三者とも過度な説明はせず、しかし必要事項は漏らさずに書き進めている。その上で、催眠やサブリミナルメッセージで学校を一つ支配しようとすればある程度きちんとした説明が必要なのに対して、「超能力です」と言えば、「思いっきり力を解放した」、「キーーィィン!」で許されるのである。(決してざくそん氏をからかっている訳ではない)重要なのは読者もこれを良しとするということだ。操快感の広がりを狙うには、まさにうってつけの設定であると言える。

 

MC小説の中では、超能力とは、羽根の生えた万能の力となりうるのだ。

こうした超能力小説の課題としては、操快感の深さを確保することの難しさがあげられる。もとより、羽根の生えた「何でもあり」の能力になりがちなこのジャンルは、地に足をつけることが難しい。行為者同士の対決シーンなど書こうものなら、頭脳戦い一切なしの、単純な力比べになりかねないのだ。

 

「ある朝トムは、自分の特別な力に気がついた。さっそく女の子に・・・」という設定の超能力小説は、米国の「Erotic Mind Control Story Archive」などに数多く見られる。ここまできっぱりと操快感深度ゼロで勝負をかけてこられるとかえって清々しい思いもする。逆に工夫してこの力に理屈を付与しようとすると、このジャンル特有の「気楽さ」、「勢い」をそぐ結果になることすらある。

 

強力な超能力の根拠として、交通事故や病気による脳の損傷、もしくは突然変異としての先天的能力が挙げられることがある。しかしこれが時にコミカルな話の展開を阻害して、意図せずシリアスな方向に向ける時があるのだ。

 

明るく楽しい短編として仕上げるのか、深みのある骨太なストーリーとしてルール作り、ステップ作りに取り組むのか、超能力小説は作者に選択を強いる。そこにあらかじめ答えを持っていない作者は、話を中途半端にしかねないのだ。

 

<参考> ジャンルを代表する名作

「糸引きエスパー」 by ざくそん氏

「伝染の元凶」 by みゃふ氏

「幻市」 by てん氏

「霧と太陽のジュネス」 by nakami

 

c)魔法

 

表9.

 

魔法、魔術、妖術、不思議な力をある秘儀・技術で統御して、他人を操るというのがこのジャンルである。そもそも「現代の科学では説明しきれない力」を描いた作品は数多い。オリジナルな設定、力の分析を試みている作家も多い。しかしここでは便宜的に、「不思議な力をある体系に基づいた知識や技術で制御する」話は全て魔法小説のジャンルに括らせて頂きたい。同様に、「個人的な資質によって発現した不思議な力の話」は全て超能力と括っている。この両者の境界線は、「その力を、例えば弟子を取って伝授することが出来るか否か」である。人に伝授可能な力は魔法と定義しておきたい。

 

MC小説の中では、魔法は元来、操快感の深さと広さのバランスがよくとれたジャンルである。決まりごとを作り、ステップを踏むことで、多くの人を操るというシーンにスムーズに繋がる。例えば催眠術小説では、MC行為者と対象者は、一人一人、個人的な対話を通してMC行為がなされていくのだが、魔法ではこうした対話を必要としない場合が多い。また、魔法使いの一般的なイメージや魔法のレベルなども、読者の多くに浸透しているので、超能力小説のように、「どうしても漂ってくる子供っぽさを勢いで振り切る」というような必要もなく、新しい魔法を考えながら柔軟に話を進めていくことが出来る。

 

催眠術小説以上の展開のスケールを持ち、超能力小説以上に掘り下げやすい、バランスの取れたジャンルであると言える。

 

リスクとしては「操快感の拡散・希薄化」が想定される。一度無敵で万能の主人公を作ってしまったら、後にはスリルや胸躍らせる期待感というものは望みにくい。世界征服をして、女性全員を自分の奴隷にしてしまう話というのは、その展開とは裏腹に、作者にとっては袋小路への道であるとも言える。

 

しかし、このリスクは、次々と新しい魔法やキャラクターを創り出していくことで、ある程度回避出来る。特に「異界との接触」をテーマにした魔法小説ならば、新しいキャラクターの登場を、さほど不自然なく作り出すことも出来よう。

 

根本的課題はむしろ、「MC行為に留まり続けることの難しさ、不自然さ」であろう。そもそも魔法とは、MC行為に限定されるものではないはずだ、そこで強力な魔法使いが、他人の意識の操作にこだわりつづけることは不自然かもしれない。登場人物である魔法使いが、不老不死や肉体改造、住環境改善、富、権力、名誉と言ったものに目もくれず、近所の女性の精神操作と性の道にのみ邁進するとすれば、そこには何らかの理由付けが必要かもしれない。話のトーンでそこをごまかすのか、そうしたMC行為に限定して不自然のない魔法と設定するのか、主人公がそうする理由を作るのか。作者は何らかのエクスキューズを押さえておく必要があるだろう。

 

<参考> ジャンルを代表する名作

BLACK DESIRE by KRT

「催淫師」 by U型氏

「ファンタジーシティー」 by FX_MC

「お嬢様は魔女」 by かもなんばん氏

 

 

d)媚薬・発情物質

 

表10.

 

媚薬モノ、または他の薬物や発情ウィルス、虫、ツボ等々で女性を淫乱化させるジャンルを愛好する人々が、他のMC世界の小ジャンル愛好者に対して決定的に恵まれている点がある。それは既存の媒体(小説、ドラマ、漫画etc)で、この描写を発見することが、その他のジャンルに比べて明らかに多いということだ。「惚れ薬」までこのジャンルに含めると、古今東西、この話題を扱ったことのある物語は豊富に存在する。

 

主に発情という、感情の動きに絞って描写するため、徹底的に対象者の心理描写に集中することが出来、操快感は非常に濃密なものとなる。当初はキャラクターの落差を描くことも出来、操快感高度も高まる。

 

リスクはやはり、この「発情一点もの」という性格に起因する。一旦対象が陥落すると、そこからは「淫乱な女とのセックス話」に留まり、操り方の工夫によって、一人の対象で何度も楽しむというような、話の幅は作りにくいと言える。次の対象を見つけ出して、同様に発情させることになるが、女性の発情、淫乱化のパターンが無限にあるわけではないので、どうしてもワンパターン化の罠と戦わざるを得ない。

 

しかしこうした戦いに敢えて挑んで、成果をあげる作者には、ストーリーテラーとしての実力者が多いのも事実である。

 

<参考> ジャンルを代表する名作

「帝国軍特別女子収容所」 by 紫真人氏

「心霊研究部」 by 麗・狼氏

「魔術師ダリと雌鳥たち」 by nakami

 

e)洗脳(機械洗脳・特殊能力洗脳)

 

表11.

 

洗脳小説の多くは、ストーリーの中で、MC小説界の中でも格別の操快感の高さを実現する。これは催眠術や超能力、魔法といった、「そういった力の存在を書くだけで、読者にフィクションの魅力を感じてもらえる余地のある」ジャンルとは違い、洗脳機械を描いただけでは誰もロマンチックな気分やファンタジーの味わいを感じ取ってくれないからであろう。自然、作者と読者の興味はその機械や特殊能力の存在自体よりも、「それでどんなことをするか」に集中する。即物性やその効果が期待される分野であると言える。そのことを意識して、作者は容赦なく、MC行為対象者の、落差ある屈服を克明に描き出す。登場人物の人格の根幹にあるような価値観が、ダイナミックに引っ繰り返されるのだ。

 

男勝りのヒロインが従順な奴隷になってすがりつく様を、最も鮮やかに、ストレートに描けるのが、このジャンルであろう。

 

反面、先に媚薬・発情小説で述べたのと、同様のリスクをこのジャンルは内包している。物語の中のある時点で落差を表現しきってしまうと、その後は単なるご主人様と奴隷の姿を描いた、「従属小説」になってしまう場合が多いのだ。もし話の後半だけを読んだ場合にほとんど操快感はなく、セックス描写とSM描写になってしまったとしたら、MC小説としては残念な結果と言えよう。

 

「女戦士の悪堕ちモノ」と呼ばれる物語の多くも、このジャンルに含まれる。科学者や一般人が機械や薬物を使うのではなく、始めから異形のものが、敵対するヒロインを自分の陣営に取り込もうとする。その後ヒロインは自分の味方を裏切り、新たな犠牲者を作り出す手引きをするようになるという展開が一般的である。この分野は、MC行為の特殊な技能・力のみを非日常として描くのではなく、正義の味方であるヒロイン、MC行為者である悪の組織、MC行為の技術、全てが異形のものであり、全てがファンタジーとなる。こうした話を、読者を説得しながら膨らましていくのはなかなか骨の折れる作業である。結果的に力のある作家も揃い、このジャンルはMC小説界の中でも独特の雰囲気を放つことになる。熱心なファンも持ち、熱のこもったジャンルとなっている。

 

<参考> ジャンルを代表する名作

 

「正義の女戦士クリスタルローズ」 by 舞方雅人氏

「指と玩具」 by 御影氏

「洗脳戦隊」 by 邯鄲夢氏

 

f)不思議なアイテム

 

このジャンルは実に多くの他ジャンルと重なるものが含まれており、一括りに操快感の基本形を提示することは出来ない。例えばある道具を使って、催眠と同様の力が発揮されたり、魔法であったり、発情物質と同様の効果が現れる。道具は一般人であるキャラクターと、これら特殊な技能・力とを橋渡しする存在なのだ。

 

このジャンルの長所は、読者が自分を主人公に投影させやすいということだろう。MC行為者は生まれながらの超能力者でもなければ、熟練の魔術師でも催眠術師でもない。天才科学者でも化学者でもなくてよい。ただ「運良く」不思議なアイテムと遭遇するだけの一般人でよいのだから、冷静な読者をひきつけ、投影させるのに、より適しているのだ。不思議なアイテムとの遭遇から使いこなせるようになるまでの経緯を描けば、スムーズに操快感を深めることも出来る。アイテムの新たな一面、もしくは新たなアイテムを発見していけば、ワンパターン化も防ぐことが出来る。このように書き手にとっても入り込みやすいジャンルである。

 

このジャンルの課題は、私は一つだと思っている。「ドラえもん超え」である。

 

あまりにも有名な、日本が誇るこの名作は、このジャンルにとっても源泉であり、なおかつ巨大な壁でもある。ドラえもんに書かれていないようなアイテムを考え出し、ドラえもん以上にウィットや夢を持つ話を作り、ドラえもん以上にそのアイテムの特徴に起因するオチをつけて巧く話をまとめるということは、簡単なことではない。しかし、新たな設定とキャラクターを作り出して、結局ドラえもんを超えられないというならば、始めからドラえもんのアダルトパロディを書いていた方がよいということにもなりかねない。

 

読者に、「俺はドラえもんの道具よりも、これが欲しい」と思わせるようなアイテムを考え出す。これは非常に大きな課題である。

 

<参考> ジャンルを代表する名作

 

「ここはEDEN by Panyan

「マリオネット 糸使い by t‐kun

「マインドコントロール社シリーズ」 by G.W

 

 

第三章                      MC小説史

 

二章の、「MC小説の受け手の性向」を引き継ぐかたちで、この世界の変遷について語ってみたい。ここで語られるMC小説の「文脈」を抑えることで、MCフェティッシュとは何なのか、どこから来てどこへ行こうとしているのか、ということを理解する材料になると考えられるからだ。

 

MCフェティッシュを扱った(当時そういう呼び方をしていなくても)サイトは、これまでに数多く存在した。優れた個人サイトも、投稿作品を集めたサイトも多様にあった。しかし今回私は、「魔法の瞳」、「大人のための催眠術」、「E=MC2」の三大サイトの変遷を、主に「MC小説正史」として扱いたい。それぞれがある時期に、MC小説愛好家が最も注目する総本山、主戦場を担ったことのあるサイトだからだ。「ひっぱろ」や「SKY STORY PAGE」、多くの優れた作家個人サイトを割愛するのは非常に申し訳ない思いだが、ご容赦願いたい。

 

第一項 氷河期世代

 

「魔法の瞳」が開設されたのは1999年の末だったと記憶している。「大人のための催眠術」は20001月オープン。「E=MC2」は20005月。20世紀末の、非常に近い時期に、これらのサイトは相次いで開設された。

 

それ以前の日本におけるネットMC界の様相はどのようなものだったであろうか?私の記憶が間違っていなければ、「猥褻催眠術」というサイトが自主制作の催眠ビデオを出しており、「まいんどこんとろーるふぁん」という翻訳サイトがEMCSAの英語小説を日本語に訳して提供していた。「冒忙房」というサイトの掲示板ではハヤミ氏が催眠術の実体験を語り、

MC関連の情報交換もなされていた。YahooInfoseekなどの検索サイトで「催眠」と入力すると、DX東寺というストリップ劇場でのイベントや、カウンセリングの広告。「不道徳催眠術」という本の宣伝などが引っかかる程度であった。現在の環境から比べると、流通している情報量や創作物の数は非常に貧しいものだったが、ネットにアクセスしているMC愛好家は貪るようにこれらの情報を収集していた。ほぼ全員が、インターネット普及以前からMCジャンルを愛好し、常に飢餓感を感じてきた、「氷河期世代」だったからである。

 

この世代のMC愛好者は、インターネット普及以前から、自分の足と根性で、求めるネタを探し続けてきた。「催眠モノ」を探すあまり、「睡眠術」、「催し物」といった良く似た単語にも

うっかり反応してしまったことが一度ならずある。「本当はかかった振りをしていただけでした」という嘘オチの漫画でも集めて、自分の想像の中で改編をして楽しむという、涙ぐましい努力をしてきた。

 

現在でもこの世代の愛好者で、活動を続けている人たちは存在する。「セックスも裸も必要ない。弛緩した女性の表情をずっと捉えたリアルな催眠ビデオを」などと愚痴をこぼしている原理主義者は、大抵この世代だ。引田天功やジャイアント吉田の思い出を何度も反芻して氷河期を生き延びた世代である。根性の座り方が半端ではないのだ。1999年から2000年頃に、上記三大サイトを盛り立て、躍進させたのは、まさにこの世代であった。

 

第二項 雪溶け

 

a)          「びーろく」という名のビッグバン

 

こうした氷河期世代の中で、既存の媒体の不甲斐なさへの怒りのあまり、自分で「こうであるべきだ」という作品を書き上げた人がいた。Boxer6氏(のちの「びーろく」氏)である。

 

新生サイト「魔法の瞳」にはその他にも当初からいくつかの作品(既に他のサイトで公開されていたもの)が掲載されていたが、びーろく氏の「魔女のマリオネット」は群を抜いた破壊力を持っていた。私は日本における催眠術小説の基本型は、彼によって確立されたと考えている。

 

私はびーろく氏の作り上げた基本型を、以下のように解釈している。

 

 びーろく三原則

 

         催眠術をかける人間がいて、相手は催眠術にかかる

         エロティックな展開となり、そして最後まで(本番まで)到達する

         それによって、決定的な破滅はもたらされない

 

今の読者から見ると、当たり前すぎる原則であるように思える。しかしそれは氏の功績がこの世界に浸透しきったからに過ぎない。既存の媒体等では、ほとんどの作品で、「実は相手は本当にかかってはいなかった」、「かかりはしたけれど、結局本番までは至らず、ヒロインは助かった」という結末がお約束であった。一方で官能小説の世界では、MC行為は大抵何がしかの悲劇的結末を迎えていた。

 

もちろんびーろく氏以前にも、この三原則を満たす作品はあった。しかし明確な意志を持って、この三原則を貫き、次世代のスタンダードを作り上げたのは彼の功績だったと私は考えている。暗示文を全て書かなくても、ヒロインが比較的「あっけなく」催眠に落ちてもよい。オナニーシーン、セックス、その他、催眠術ならではのエロ描写にも力を入れる。最後はMC行為者にも対象者にも社会的に痛手を被らせることなく、「日常」と「催眠支配関係の非日常」双方を暗示によって温存する。

 

こうした離れ業(当時)を短い分量でテンポよく、わかりやすく行った。氏の作り上げたスタンダードは、多くの後進にとって教科書となった。上記三大サイトの創成期に創作活動を行った作家の中で、彼から全く影響を受けなかったという者はいないのではないだろうか。

 

b)          おくとぱす氏が生んだドラマ

 

2000年初、「魔法の瞳」はさらにもう一人、貴重な才能を得る。文筆派の頭目、おくとぱす氏であった。

 

初期MC小説界(三大サイト)で、文章力の競争をしたとすれば、必ずこの人が優勝していただろう。そもそも、地力が違うという感触を、彼の作品に触れた作家の多くが感じた。そして単に表現力の違いだけではない。物語の重厚さ、多面性など、初めから作ろうとしていたものの構造が違ったのだ。四コマ漫画しか掲載していない雑誌に、突然大長編漫画が現れた。それに似た衝撃をもって、MCフェティッシュの世界は彼を迎え入れた。

 

おくとぱす以前の作品はMC行為者が対象者を落とそうとする。攻防があったとしてその二者間のものだけだ。しかし彼の作品の登場人物は複雑に攻防を繰り広げ、個人の内面においても葛藤をする。登場するどのキャラクターにスポットを当てても、物語が成立する。そしてその複雑な構造が、きちんと「操快感の創出に寄与している」ということが重要なのだ。

 

彼の登場でもって、MC小説が、「ABを好きにする」という基本構造から、飛躍的に拡大、成長する余地を持った。催眠術師同士が争い、操られる側にも操られる側なりの戦いと勝負が存在し、伏線が後から効果を出す。そうしたドラマが作られる余地を得たのだ。

 

ここで、おくとぱす氏の功績の一つとして、「操られ人格」という概念を提示しておきたい。氏以前の作品の多くでは、催眠状態に陥った(「堕ちた」)、キャラクターはみな同様に、人格をなくして言われるがままの状態になった。もしくは大人しい被術者は大人しく操られ、活発なキャラクターは操られていても活発だった。おくとぱす氏の作品に登場する人物たちの多くはそれとは異なり、「普段はこういう性格だが、催眠状態ではこのような顔を見せる」という、一歩進んだ人物造形がされていた。このことが操快感濃度を歴然と進展させた。氏はまさに、MCドラマのスケールを数段階大きくさせた功労者と言えよう。

 

 

         おくとぱす氏とほぼ同時期に執筆していた、たくや氏やユキヲ氏もレベルの高い長編ドラマを作っていたことを、補足しておきたい。ドラマの重厚さによって、おくとぱす氏が名を残したという印象がある。しかしこの試みは同時期の野心的な作家たちが、同時に競っていたものだったのかもしれない。

 

c)          「魔法の瞳」の先行

 

「魔女のマリオネット」、「蜘蛛のノクターン」という、いまをもってして通用する、二大キラーコンテンツを持つことで、当初は「魔法の瞳」が他の二サイトに先行した。時期的にもこのサイトが最もパイオニアとして、早くに整備されたという部分もあるが、それ以上に、これら二大作品の威光とともに君臨したという見方が正しいだろう。

 

初期の国内催眠術小説界を、「魔法の瞳」がリードしたということは、MC小説の特徴を考える上でも興味深い現象である。「魔法の瞳」は女性が施術者として登場する作品を掲載していた。そしてそれを愛読していたのは、ほとんど男性読者であったはずだ。「女性が女性を堕とすという話を読んで、男性が興奮する」という構造は、まさにMC小説が本質的に持っている婉曲性、屈折性を表していると言えよう。これはストレートな欲望の発散というよりも、頭の中でのいくつかのプロセスを経て欲求を開放する行為であると考えられる。量の面から見たMC小説総本山の座は、ここから後に「大人のための催眠術」、そして「E=MC2」へと引き継がれていくこととなるのだが、「魔法の瞳」が切り拓いた世界、可能性というものは非常に大きい。そこでかたちづくられたものは、後のMC小説界に大きな影響を与えた言える。

 

d)          「大人のための催眠術」の台頭

 

当初「大人のための催眠術」に掲載される作品を読んだ読者の多くは、先行した「魔法の瞳」の作品群に対して、若干「硬質」な肌触りを感じたのではないだろうか。深闇氏、elle氏、たか氏といった作者の作品からは、「魔法の瞳」よりも一歩踏み込んだ、MC行為対象への欲求充足志向、もしくは「攻撃性」が伺えた。MC行為者が女性から男性に変わっていることが大きな要因と考えられる。「魔法の瞳」よりも若干、欲望の描かれ方がストレートになる素地がそこには用意されていた。

 

今振り返ってみると、改めて驚きを覚えるのは、「魔法の瞳」の作品リストには、「成年マーク」がついて、選別されていることである。つまりアダルト小説ではない作品も、大手を振って掲載されているのだ。しかし「大人のための催眠術」台頭期(2000年半ば〜2001年初)以降は、こうした「アダルトサイトに掲載される、性描写の極端に少ないMC小説」は、ほぼ姿を消していった。MC行為者が男性となることで、読者(大半が男性)は行為者に自身を投影し、性的欲求の開放をよりストレートに、より制約なく求めるようになったのだと言えよう。

 

サイトの管理人、TM氏が書いた作品の「催眠奴隷」というタイトル。たか氏、深闇氏、地獄王子氏他の「鬼畜路線」などがその傾向を表している。当初は、びーろく氏やおくとぱす氏といった「魔法の瞳」で既に名を成した作家が盛り立てていた「大人のための催眠術」創作ルームも、次第に生え抜きの作家が増えていく。その中で、後に大きなムーブメントとなる「愛あるMC路線」の先駆けとも言える、てん氏のことを書き記しておきたい。彼の作品は常に「操快感の濃さ」(心情描写)へと意識が向いていた。私小説的とも言える、主人公の「背負う」催眠技術、能力が生み出す悲劇を、正面から書こうとしていた。後に、彼に影響を受けたと語るNOV_FALL氏がこの操快感の濃密さを引き継いでいくことになる。

 

そしてほぼ同時期に「E=MC2」でも「愛情路線」が花を咲かせ、MC小説界が「ソフト路線の全盛期」を迎えることとなる。それはまだ、1年から2年先のことだ。しかしここで言う「鬼畜路線」と「愛情路線」の二面性もまた、MC小説の持つ本質的な部分に触れるものであるため、この時期からそこにスポットを当てていた先駆者、てん氏について言及させてもらった。

 

e)          「雪溶け期」のMC界総括

 

この時期のMC小説は、書く側も読む側も、ほとんどが「氷河期世代」の人々であった。既存の媒体に掲載されるMCモノの少なさ、質の貧困さに耐え、飢餓感と欠乏感を持ち、「それなら俺が書く」と思い立った、素人であった。今でも素人が書いているが、この時期は素人が素人として書こうとしていた。創作好きが題材としてMCものを選ぶのではない。MC好きが止むを得ず創作をして欠乏感を埋めていたのだと言える。同時に読者層はほとんどが、「MCモノでないジャンルの作品を想像で補完してMCモノとして楽しむ」訓練をしてきた、筋金入りの氷河期世代である。作者と読者の距離は、非常に近いものであった。この時代の愛好者は、長い間鬱屈されていたエネルギーをここで開放した。同時に、この雪融けが短期間で終わることを常に危惧していた。その開放感と切迫感が、ジャンルの急成長を後押ししたのではないだろうか。1999年末から2001年末頃までの、非常に濃密で熱かった時代を、私は「雪融け期」と定義している。

 

第三項 第一次全盛期

 

a) E=MC2」の勃興

 

2000518日、「大人のための催眠術」の掲示板に、「zaxon5」と名乗るサイトの愛好者から、「はじめまして」という題の書き込みがあった。「大人のための催眠術」掲示板過去ログに、この当時の記録が残っている。zaxon5氏はここで自己紹介と、近々サイトを立ち上げるという予告、そしてリンクを張らせて欲しいという挨拶を行っている。日本のMC小説界において、史上空前の規模で勢威を誇ることになる、「E=MC2」が、初めてその存在を認知された瞬間であった。

 

当初は、「催眠ものは先行するサイトに任せるとして、その周辺のMC全般を扱いたい」と表明していたzaxon5氏(後のざくそん氏)だったが、やがて彼のサイトはMC全般を扱わざるを得なくなる。これは望まれてそうなったと考えるべきだろう。2000年後半から驚くべきスピードで、MCジャンルを代表する巨大サイトに成長してしまったからだ。

 

私は、正史三大サイトの中で最後発の「E=MC2」が、最大規模の総本山となった要因は、コンセプトの自由度と、ざくそん氏のサイト経営方法の二つにあると考えている。

 

まずコンセプトの自由度については、他の2サイトと比べると、詳しく述べるまでもない。MC行為者の性別にも制約がなく、ジャンルもより大きくとらまえられている。より多様な趣向や作者、読者を受け入れられる体勢であった。

 

サイト経営方法については、さらに目を見張るものがあった。「魔法の瞳」も「大人のための催眠術」も、それぞれ管理人であるkurukuru氏とTM氏の、趣味としての個人サイトとして出発し、それぞれの趣向や好みを色濃く反映している。(そして管理人がペースを守って暖かく愛好者を受け入れ続けて、今も存続している)しかし、「E=MC2」はそれ以上に、「ネット上のコミュニティ」としての存在を打ち出し、それをざくそん氏の凄まじい馬力で支え続けた。

 

私がこの頃に作品を投稿すると、2時間ほどするとその作品が既に掲載されていた。サイトの掲示板で「鬼畜路線の作品が多いので、女の子も呼ぶために、ソフトなサブタイトルを」という冗談の書き込みがあった次の日には、「E=MC2 ストロベリー風味」と改題されていた。極めつけに、サイト開設一年程で、OFF会を開催していた。ネットの即応性、双方向性を十分に分析し、ネット内コミュニティの強化を予め意識していたサイトだったのである。

 

設立当初は「魔法の瞳」、「大人のための催眠術」両サイトに比べ、作品が集まるのに若干時間がかかった「E=MC2」であったが、2002年以降は量と更新頻度で圧倒していった。これはしかし、予め準備されていた勃興であった。

 

b) 第一次全盛期 愛情あるMCの開花と、作家の技術高度化時代

 

MC小説は、そもそも「相手の感情に配慮した強姦小説」という婉曲で屈折した要素を持っていた。そしてその「配慮」を見る角度による二面性から、「よりソフトな作品」と「よりハードな作品」に二極化しやすい傾向を持っていた。そうした本質は、作者と読者に、「思考を何段階か経由した欲望の充足」を求める性向を作り出し、知恵を絞らせてきた。これはこれまでに何度も語ってきたことだが、この本質が最も顕著に現れたのは、「愛情あるMC」が開花した、第一次全盛期(2001年末〜2003年)ではないだろうか。

 

01年半ば頃から「大人のための催眠術」に掲載開始されたNov_Fall氏の「秘密の箱」、同時期の「E=MC2」での一樹氏の「夢の続き」、Panyan氏の「ここはEDEN」等が牽引した。その他、決定的な作品としては遊び人アキ氏の「友達以上、兄弟未満」があげられよう。傾向としては「主に学生の登場人物を描き、MC対象としてではなく、キャラクターとしてのヒロインの魅力描写に注力し、操快感の広がりよりも濃密化を意識した恋愛MC小説」とまとめることが出来るのではないだろうか。

 

MC小説の優しさと都合のよさ。婉曲で屈折した自分の欲求とそれに対する葛藤。こうした本質を繰り返し思索していくことで、この「愛情あるMC」に辿り着いた作者もいるだろう。そうではなく、単に自分にとって心地のよい、惹かれる方向を進んでいってここに行き着いた作者もいるに違いない。

 

しかし、MC行為者の葛藤や真剣な思いを丹念に描いた作品や、「大きな愛情を持ちつつ、手のひらの上で踊らせて、愛玩してくる」優しい「ご主人様」を描く作品は、キャラクターの魅力を際立たせ、多くの読者の熱烈な支持を得た。

 

こうした「愛情あるMC」小説を描く作者たちの表現力が触発したのであろうか?この時期に多くの、高度な技術を持った作家が活躍を始めている。みゃふ氏、MCきつね氏、春日野氏、邯鄲夢氏、パトリシア氏、北浦芸州氏等々・・挙げていくときりがない。彼らの多くは長編も難なくこなし、「MC好きが高じて創作にまで踏み出してしまった」前世代と比べて、「他ジャンルも書ける人たちがこのジャンルを気に入って書いている」という感がある。筋金入りのMC愛好家でなくとも楽しめるような作品が書ける、エンターテイナーであった。現在(‘07年初)読者が「大物作家」として、新作を待望している作り手の多くは、この時代に活躍を始めた人たちであろう。「大人のための催眠術」でもG.W氏、Nov_Fall氏が精力的に活動し、「E=MC2」ではMCきつね氏、一樹氏、遊び人アキ氏らが代表作を次々と世に出していた2002年、MC小説界は質、量、両面で一つの絶頂期を迎えていた。

 

) 雪融け期の限界点の突破 −全盛期を実現させたもの

 

上記の全盛を実現させたのは、舞台としての「E=MC2」と「大人のための催眠術」の尽力が考えられる。優秀な作家の相次いだ登場と、それを支えた読者層の支持もあった。そしてMC小説論的には、「雪融け期」にはある種の限界点と考えられていた課題に解答が提示されたという点が指摘できる。

 

一つはMC行為者同士の直接対決をどう展開させるかという課題である。従来はMC行為者同士が対決しようとすると、上手く展開させられず、膠着状態に陥るという、罠があった。MC小説で描かれる特殊な技能・能力は、文章で描写して迫力ある対決を演出することが非常に難しいのである。勢い、「互いの能力を全開にした時、彼の能力のキャパシティの方が大きかったので勝った」という展開を考えてしまう。しかしこれは漫画や映像では表現出来ても、文章で読者を説得するのは非常に難しい。かつては多くの作品が、「同様の能力を持った敵が出現し、対決展開を予想させる」ところで滞り、更新が止まっていった。

 

これを突破するフォーマットを作ったのは、「マリオネット−糸使い−」のt-kun氏ではないだろうか。主人公の能力は読者には知れている。そこに謎の能力を持った敵が攻撃をしかける。一見敵の能力の方がキャパシティが大きいように見え、主人公は大変苦戦するが、最終的に主人公は「能力自体の強さではなく、その能力の使い方の工夫、使いこなす上での精神力の面で敵を凌ぎ、打ち破る」。

t-kun氏の作品からは「週刊少年ジャンプ」の作品の影響を感じることが出来るのだが、その「ジャンプ」の中でも、「ドラゴンボール」的な展開ではなく、「ジョジョの奇妙な冒険」や「富樫義博作品」的な展開が参考となったのではないだろうか。

 

いずれにせよ、この展開の型を繰り返し、ストーリーの熱を失わず、かえって加熱させていくという手法をMC小説界で確立させたのは、氏の功績である。一方的な劣勢を経て白熱する対決と、頭を使った鮮やかな勝利という展開は、多くの作家の参考となったはずだ。

 

そしてもう一つは、第一章で述べた、「催眠原理主義による、操快感の凝縮と閉塞」の問題である。これはMC行為のプロセスや行為対象を堕としていく駆け引きに主眼が行き過ぎて、対象陥落後のセックス描写が疎かになるという罠である。これを「愛情あるMC小説」群は、セックスをMC行為者の愛着と執着の到達点(もしくは折り返し点)として描くことで、突破した。催眠や洗脳云々以前に、主人公はヒロインに対して、もしくは性というものに対して、執着と葛藤を抱えている。それが解決される最大のポイントとして密度濃くセックスを描写して、作者自身と読者のテンションを高く維持したのだ。これは「一人とヤったら、次は・・・」という展開をしていた「雪融け期」の作品の多くでは、実現出来ない、熱のこもったクライマックスだったのではないだろうか。

 

) 活況に沸くMCフェティッシュの世界

 

ネット上でMC小説が勢いを大いに伸ばしていた頃、MCフェティッシュの世界は沸きに沸いていた。催眠ビデオはかつてないほどのペースで発売され、RED氏という驚異的な人材が活躍を始めていた。スカイパーフェクTVではコーヒーポット氏が定期的に催眠術特番を持ち、かつて愛好者が「こんな番組があれば」と願っていたものが相当部分実現された。そしてゲームの世界では「催眠術」、「Stitch 掛け違えたボタン」、「ヨリドリ」、「催眠学園」と、名作とされる作品が多く世に出たのである。おそらく2002年から2003年は、MC小説界の第一次全盛期としてだけでなく、MCフェティッシュの世界全体で、絶頂期の一つとして長く語りつがれることになる年であろう。

 

ではこうした現象は、MC小説界の動きと偶然一致したのだろうか?私はそのようには思わない。これらは目に見える形、見えない形で密接に関係を持っていた。相互に影響しあった一大ムーブメントだったのである。RED氏は「大人のための催眠術」の掲示板に書き込みをしてきた、TM氏とも交流のある催眠術師だ。「Stitch」というゲームソフトの脚本のMC部分担当はかの、おくとぱす氏。アウダース(AV製作会社)は掲示板を立ち上げて「大人のための催眠術」愛読者と交流を行い、ブラックレインボー(ゲーム製作会社)はNov_Fall氏とも仕事をした。この時期のMC小説界とその周辺世界、そしてプロのクリエイター、エンターテイメントの世界は、ある種、地続きであり、相互に影響を与え合い、交流していたのである。

 

MC小説界が非常な盛り上がりを見せれば、周囲のMCフェティッシュの世界とも連動して、現実の「商品」の世界に影響を及ぼすことも出来る。我々はそれらを消費者の立場で楽しみ、次なる創作の世界に還元することが出来る。今でも私はそのように考えている。

 

そしてこの時期の「日本MCフェティッシュ界史上、奇跡的」とも言える商品の数々は、MC小説界の人々の成果でもあったのだ。

 

第四項 成熟期

 

a) 確立されたMC小説界で進む成熟化

 

2004年以降のMC小説界は、「E=MC2」が、独占に近いかたちで主導していく。「一強時代」という流れが定着しつつあった。小説に関しては、異なる書き手が同設定で連作していく「ガツン」シリーズに多くの著名な作家が参加をしたり、「由美子の賑やかで忙しい一日」というサイト内二次小説が誕生したりと、この世界の中でのメタフィクショナルな遊びも現れ、MC小説界の成熟化を象徴させていた。

 

またMCジャンルについて述べると、平らな針氏が書いた「傀儡の舞」でのマイクロマシン、紫 真人氏の「帝国軍特別女子収容所」にある媚薬、パトリシア氏の「聖十字性戦」の吸血鬼、舞方雅人氏の「正義の女戦士クリスタルローズ」にある洗脳悪者化等、ニッチジャンルと考えられていた小ジャンルにも名作が生まれ、サイトの多様な小ジャンルの充実をもたらした。この頃には、「MC小説の本流は催眠」とは、気軽に言うことが出来ない状況となっていた。それだけこの世界は多様化した。

 

同時に、小ジャンルの垣根を越える作品も増えていった。先述した「帝国軍特別女子収容所」を始め、ユキヲ氏の「TEST」等々、「催眠術、薬物、洗脳」と言った様々なMC行為を一つのストーリーの中に実にスムーズに取り込んだ大作が現れたのだ。多様な操快感を引き出し、極大化しつつ、読み物としてもクオリティが非常に高い。この時期、MC小説読者は非常に恵まれ、安定した環境にあった。

 

b) 外野席の確立

 

この時期だったであろう。国内のネット界で強大な勢力を持つ、匿名掲示板群、「2ちゃんねる」に、MC小説をモニターして語っていくスレッドが登場した。「操りものの小説・漫画」というスレッドシリーズである。ここで初めて、「MC小説家とその周辺というコミュニティにはあまりコミットしない人の意見」が自由に取り交わされることとなる。作家に対して直接伝えたい感想ではなく、読者のふとした率直な思いを吐露する場である。中で交わされる言論には作家にとっては色々な評価や思い、反論があるであろうが、私はこれを、MC小説界の成熟過程で、きちんと意義を持つ現象だと考えている。作家サイドに共感しすぎると面と向かって言えないような、厳しい意見や要求を拾える場があるということは、「これを活用しようとする作家にとっては」有用なものである。

 

初期のMC小説界において、作品が未完で滞るということは、それほど問題とはされなかった。そもそもこの「氷河期世代」読者は悪く言えば悪食で、常に空腹感を持っていて、「食べ物(ちゃんとしたMCネタを含む小説)のことを悪く言うべきではない」と考えていた人も多かった。そして自分が満足いかないクオリティの小説であっても、気に入った部分だけを咀嚼して、残りを自分の想像・妄想で補って十分満足出来る人たちであった。

 

しかしMC小説が全盛期、成熟期を迎えるにあたって、読者層も拡大し、物語の平均レベルを上げるような高度な技術を持った作家も大量に加わった。こうした中で、作品全体を楽しみたいと考える人たちは数を増していった。当初外野席は、これらの人たちの「受け皿」を担ったのではないだろうか。

 

作品全体を楽しもうと思えば、未完の作品は困るし、キャラクターの魅力も楽しみたい。そもそも読みにくい作品は困る・・・。こうした外野席の声は、全てを聞いていたら新人作家の思い切ったデビューが促進されなくなる。ただし、全く耳を傾けなかったら、MC小説界のもう一段階のレベルアップは図れない。MC作家たちが情熱的で食いしん坊な常連客だけでなく、クールで辛口な食通の意見も取り込んでいこうとした時に、この外野席は必要な場だったのだと思われる。

 

外野席は「2ちゃんねる」のスレッドだけではない。MC小説を掲載中のサイトの更新状況を整理し、わかりやすく伝えてくれる「アンテナサイト」もこの時期立ち上がっていった。従来であれば、情熱的なファンにとっては直接サイトにアクセスし、新作が掲載されていなければ掲示板をチェックして回るという、「巡礼」的な作業は苦でも何でもないものとされた。しかし、より多くの読者を取り込んでいこうとすれば、こうした便利サイトがMC小説界に大きく貢献してくれることとなる。こうした、「MC小説コミュニティに深くコミットしない愛好者」に対しても

サポートを行ってくれるサイトの登場も、MC小説界に外野席を設定し、客層を広げることに寄与していると考えられるだろう。

 

そしてこの「外野席」は、実際には内野席、もしくはフィールドとの間に垣根を持っていない。作家や、本サイトで発言している愛好者の多くが、実のところはこうした外野席にも足しげく通い、本音を吐露したり、遠慮のない意見に耳を傾けているのではないだろうか。私自身は過去に二度、「2ちゃんねる」のスレッドで発言をしているが、二回とも名を名乗っている。それ以降は発言はせず、「反論や回答は作品で」と考えているが、そこでの議論には今でも気にかけ、時折閲覧するのを忘れないようにしている。(これは「大人のための催眠術」の掲示板に掲載される、小説の感想が減少してしまったことにもよる。誉められようと貶されようと、作者は何らかのリアクションがあると、素直に嬉しいものなのだと思う)

 

c) MC小説とは」を問う再検証

 

そして上述した外野席での議論に起因する騒動も「E=MC2」で何度か起きた。「○○の作品はサイトの主旨にあっていない。他のサイトに投稿されるべきだ。」、「○○の作品は面白くない。」、「○○の作品は読んで楽しめるレベルまで達していない」。こうした投げかけが何度か起こり、「E=MC2」掲示板上での議論もあり、主に2006年に多種の論争が巻き起こった。

 

個人的に私は、MC小説界はまだ、純化を求める運動を起こすほど、確固たる存在になってはいないと考えている。「多種多様、玉石混淆」の状態を楽しんでもいる。我々は自分たちの世界の純化、細分化、高水準化を求めるよりも先に、もっともっと他のジャンルに侵食していって、それこそ逆に「ジャンル違い」を指摘されつつも多くの分野に進出していくようなハングリーさが必要なのではないかと思う。「快適なE=MC2」に安住するため、ハードルを増やしていくというような動きには反対である。

 

しかし、ここで現れているような論争が、全く無意味なものとも言えないだろう。MC小説界が成熟し、小ジャンルが並び立ち、百花繚乱のような状況を呈する中、「基本に立ちかえって、MCエロとは何だろう?」、「最近長大作が増えたが、昔のような気の利いた、痒いところに手が届くような小気味いい短編は読めないか」、「そもそも、読者本位で読みやすい作品はどのようにしたら書けるのか」といった、愛好者たちの真摯な声や自問も、背景の一つにあるように思えるからである。そしてこうした再検討は、一度成熟・安定したジャンルがさらなる発展を遂げるためには、避けて通れない道なのかもしれない。

 

MC小説というジャンルに参加意欲を持った人間を切り捨てる言動はとうてい肯定出来ないが、

「既に評価の定まったベテラン作家が切磋琢磨しつつ、新しい才能が飛び込んできやすい状況を、いかにして作っていくか」という課題を、今MC小説を愛好する人たちの多くは、意識し始めているのではないだろうか。「馴れ合い的な本サイトの掲示板では、厳しい批評がされておらず、更新者や感想の書き手の疲労感を増していないか」、「人それぞれで終わらせるのではなく、作品の質はしっかりと作者にフィードバックすべきでは?」、「その際の尺度は?」、こうした議論が、どこか建設的な結果に辿り着くとしたら、それは「MC小説の在り方の再検証」として、成果を出すことになるかもしれない。

 

第五項 新たな全盛へ向けた模索期

 

2004年から2007年頃まで続いた、E=MC^2の空前絶後の掲載作品数。紫真人氏、4階氏、かもなんばん氏と途切れず現れる名ストーリーテラー。KRT氏や伝吉氏のようなインパクトを持ったパワーファイターや、平らな針氏、著者猫氏のような技巧派。次々と優れた作品が世に出された成熟期を経て、2007年末頃からE=MC^2の更新頻度は落ち着いていった。新たな私はこれを、新たな黄金期へ向かう模索期だと考えている。

 

その模索期に、既にMC小説界は偉大な俊英が生んだ成果を分かち合っている。Nakami氏が「霧と太陽のジュネス」で成し遂げた、「操快感の拡散・希薄化問題」の解決である。先述した万能のMC能力が登場することによる操快感の拡散を、nakami氏は「唯一その能力が効かない親友との友情」を基軸に話を進めることによって、戦術的には操快感の濃密化して繋ぎとめた。そして戦略的には、世界で敵なしの能力を持った男に、世界自体が対峙することで、この拡散・希薄化問題の根本的解決を提案したと言えよう。この方法論が普遍的対策になるかどうかはわからないが、非常に意義のあるヒントをこのジャンルは与えられたのではないだろうか?

 

 

三章まとめ

 

MC小説界は、わずか10年足らずの間に、大きな成長を遂げ、変貌もした。その文脈の中にはっきりと当てはまる作品、作者もいれば、そこから超越している巨匠もいる。しかしこれまでに作家たちが積み上げた成果は、時間が逆行して無に帰すことはない。教師も反面教師も存在し、引用元も影響先も存在した。それらの中から、数多くの傑作、名作が生み出されてきた。そうした作品群を並べてみた時、私が特に感謝の念を感じるのは、こうした作者たちの切磋琢磨を後押ししてきた読者の力に対してである。ここでしっかりと言及しておきたい。

 

インターネットの世界で、エロを探し出すということは、如何に簡単なことか。無料で、低いリスクと労力で、無修正の画像も動画も、飽きるほど飛び込んでくる。こうした状況下で、スクリーンに現れる何千何万の文字をひたすら追い続け、脳内でイマジネーションとして再構成して性的快楽を得るというのは、忍耐も持続力も要求される、高いレベルの知的活動ではないだろうか?

 

直接視覚に訴えかけてくるアダルトサイトでいくらでも楽にエロを得られる環境にあって、読者は時に辛抱強く、時に熱狂的に、時に冷静に、いつの時期もMC小説家を支えてきた。何作品か投稿したことのある創作者はほぼ皆、読者の応援に感じ入り、指摘に目から鱗を落とし、さらなる感想の手応えを求めて書き進めた経験があるはずである。こうした読者の変わらぬ支持が、MC小説界の変遷を見守り、成長を促してきたのである。