どういう分配が望ましいかを決めるには、人々の意思を集計する必要があるが、そういう集計は不可能だというのがアロウの一般不可能性定理である。著者は若いころ、アロウの定理を拡張して社会的選択理論の数学的な研究を行ない、のちには祖国インドの飢餓をテーマとして途上国の貧困の問題に取り組み、社会的公正の問題を論じた著作を多く発表している。本書はその集大成ともいうべきものだ。
正義についての理論として有名なのはロールズの「格差原理」だが、この理論はノージックなどによって批判され、のちにロールズも事実上撤回してしまった。他方、ノージックのようなリバタリアンは「公正な分配は存在しない」という理由で所得再分配を否定するが、これも現実の問題を考える助けにはならない。
著者はカントからロールズに至る啓蒙的な倫理思想を超越的制度主義と呼んで批判し、それに対して現実的比較という原則を提唱する。たとえば3人の子供のうち1人にフルートを与える問題を考えよう。アンは「私だけがフルートを吹けるので、私が持つのが公正だ」と主張し、ボブは「ぼくがいちばん貧しいので、ぼくが持つべきだ」と主張し、カーラは「そのフルートを作ったのは私だから私のものだ」と主張する。彼らのうち誰が正しいだろうか?
このように何が正義であるかはそれを決める基準に依存し、その基準は多元的なので、正しい分配を決める究極的な基準は存在しない。かといって何も決めないことは不公正をまねくので、実現可能な選択肢の中で比較するしかない。著者はロールズのような明快な原理を提示するわけではなく、複数の基準の中から多くの人々が合意を形成する手続きを検討し、中立性や透明性などの基準をあげる。この意味で、正義の概念は民主主義のあり方と不可分である。この結論は平凡といえば平凡だが、全世界に通じる「正義」の名において他国を侵略することほど正義から遠い行為はないのである。
コメント一覧
・・・その基準は多元的なので、正しい分配を決める究極的な基準は存在しない。
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多次元的現実論の考察から、その基準は線形定規でも雲形定規(擬似非線形化された線形定規)でもなく、自在定規(非線形)のような、まさに、多次元的だと言えるでしょう。
ここに、発展性やこれからどうしたいのか、と言う意識次元を考慮して見ます。
先の例に当てはめて、フルートと言う楽器を「彼らのうち誰が持つべきか」と言う命題については、多次元的現実論からの意識次元を持つ事によって(基準定規を作って置けば)自ずと妥当で、概ね正しい分配として可分化出来るのではと考えます。
村上光治 むらかみこうじ
kouji murakami cello-murakami livedoor
ではまた。
そのフルートの例だと、吹けるでもない、作る労働をした訳でもないビンボー人が思い切り強欲な印象を受けるけど・・、
そもそもフルートなんて明らかに嗜好品だから、その喩えが食料品(米とかりんご)だったら、少なくともアンは真っ先に退場せざるを得ないのでは?
しかし社会を運営するには、なにか基準を設定せざるを得ないことも事実。
社会がポリシー・方向性を共有したときに、判断は(ほぼ)一致するのでは。
池田さんのフルートの例で、誰にフルートを与えるか、それはポリシーに依存するような。
フルートが吹けるアン:フルートという道具の目的を最も有効に活かせる。
最も貧しいボブ:貧者に所得を分配し貧困を緩和する。
フルートを作ったカーラ:製造技術や資本を提供した者の権利を保護する。
どれもポリシー段階では優劣の判断はつかないと思うけど、各ポリシーごとに社会が運営されたとき、社会集団それぞれで、将来の発展やパワーの面で優劣が出てくることはあり得るし、それ以前に社会が持続できず破綻する場合もあり得る。
実社会で最も避けるべきなのは、将来絶滅しかねないポリシーを選択することですが…。