幕末備忘録付属日記 こもれび

2008-11-08 奇襲真珠湾攻撃直前の日米接触

  今年もあと1ヶ月程で、あの12月8日を迎えます。67年前、昭和16年(1941)12月8日真珠湾攻撃の当日直前、日米間にどのようなやり取りがあったのだろうか。

  日本では大東亜戦争の集大成とされた太平洋戦争の発端、日本の騙し討ち、日本人は卑怯者、リメンバー・パールハーバーとする米国人の反日感情を極限にまで高揚させ遂には広島・長崎の原爆投下に至った発端としての真珠湾攻撃の開始経緯は、大きな蹉跌の第一歩であった。


予定日時は次の様に決定されていた。

  米国国務省への交渉打切通告(最後通牒を示す直截的な文言に欠けるとしても事実上の最後通牒、宣戦布告)手交時刻――12/5から12/6にかけての東郷外相と陸海両統帥部次長との協議で、通告の発信開始時刻(12/7午後4:00=ワシントン時間12/7午前2:00)と共に決定した

    東京時間12/8午前3:00

    ワシントン時間12/7午後1:00

    ハワイ時間12/7午前7:30

真珠湾空襲時刻――12/1午後2:05からのの御前会議で開戦の最終決定、日時については、陸海両総長の示す統帥部案(軍令)を12/2天皇が承認し最終確定(※1)

    東京時間12/8午前3:30

    ワシントン時間12/7午後1:30

    ハワイ時間12/7午前8:00

※東京・ワシントン時差14時間、ワシントン・ハワイ時差5時間30分

  即ち交渉打切通告の手交時刻は真珠湾空襲開始の僅か30分前であるが、事前は事前なので国際法(ヘーグ条約)上からも筋は通る理屈にはなる。


実際の経緯

真珠湾奇襲作戦のため、既に、

11/22 連合艦隊の機動部隊が択捉(エトロフ)島の単冠(ヒトカップ)湾に集結し(※2)

11/26 同隊、ハワイに向け同湾出発していた。(ちなみに、ワシントンではこの日、ハル・ノートが野村大使に手交された)

12/2 日本時間午後8:00、同隊は洋上にて山本連合艦隊司令長官よりの「新高山登レ  一二〇八」を受信(「開戦は12月8日ト決定セラル。予定通リ攻撃ヲ実行セヨ」の意味。山本が午後5:30に発信したもの)


  交渉打切通告関連について3通の電報が東郷茂徳外相から駐米大使野村吉三郎宛に発信された。

  第九〇一号・・・・・これから対米覚書(交渉打切通告)を打電するという予告と注意。
  第九〇二号・・・・・通告文の本文。7項目から成り14通に区分されていた。(※3)
  第九〇七号・・・・・通告文の米側への手交時刻(ワシントン時間12/7午後1時) の指示。(※4)


  第九〇一号と第九〇二号の第13通までは、

外務省内電信分局から東京中央電信局へ

12/6午後8:30から発信開始され(当初予定の12/7午後4:00からが繰り上げられた)

12/7午前0:20に完了した。

中央電信局よりワシントン日本大使館宛へは

12/6午後9:10(ワシントン時間12/6午前7:10)から発信開始され、

12/7午前1:50(ワシントン時間12/6午前11:50)に完了した。

  第九〇二号の最後の第14通の発信は中央電信局より

MKY経由では12/7午後5時(ワシントン時間12/7午前3時)、

RCA経由では12/7午後6時(ワシントン時間12/7午前4時)であった。

確実を期す為、米国のMKYとRCAとの二つの路線を通じて発信されたのである。

  手交時刻を指示した第九〇七号は

RCA経由では12/7午後6:28(ワシントン時間12/7午前4:28)、

MKY経由では12/7午後6:30(ワシントン時間12/7午前4:30)発信した。


 ワシントンの日本大使館ではワシントン時間で、

12/6正午までに日本からの第九〇一号の暗号電報を解読し、

12/6午後7:00頃までには、その後順次到着した第九〇二号の第8、9通までの電文解読、

12/6夜半には第九〇二号の第13通まで全部の解読が終了した。

翌12/7午前11時に第九〇七号の解読終了、野村大使はコーデル・ハル国務長官の秘書に連絡し、第九〇七号の日本本国からの指令通り午後1時にハル長官との会見予約を、その時間は昼食で会えないと言うのを執拗に食い下がり、何とか取りつけた。

12/7午後12:30には第九〇二号の最後の通告文である第14通の解読も終了し全ての暗号電報解読作業が完了。勿論タイプによる浄書作業も並行して行なわれた。

12/8日本時間午前1:30(ハワイ時間12/7午前6:00、ワシントン時間12/7午前11:30)

  去る11/26択捉(エトロフ)島の単冠(ヒトカップ)湾を出発しオアフ島北方230浬(1浬=1,852m)の洋上に集結していた連合艦隊の機動部隊より、第1次攻撃隊183機の発進開始。 (※5)

午前2:30(ハワイ時間12/7午前7:00、ワシントン時間12/7午後12:30)

  同艦隊より第2次攻撃隊167機発進開始。艦隊はオアフ島北方190浬まで前進していた。

午前3:19(ハワイ時間12/7午前7:49、ワシントン時間12/7午後1:19)

  淵田美津雄中佐機より全軍突撃信号「トトト」発信、ヒッカム飛行場爆撃を皮切りに真珠湾空襲開始(淵田中佐が機上より黒煙を確認したのは当初予定時間午前8:00より5分程早かった。従って攻撃開始自体はそれよりやや早い)。

午前3:22(ハワイ時間12/7午前7:52、ワシントン時間12/7午後1:22)

  淵田中佐機より旗艦「赤城」に向け、「トラ・トラ・トラ」(我、奇襲ニ成功セリ)発信。

午前3:50(ハワイ時間12/7午前8:20、ワシントン時間12/7午後1:50)

  ワシントン日本大使館において全通告文のタイプによる浄書作業完了。既に25分程前に真珠湾空襲が開始されていた。

午前4:09(ハワイ時間12/7午前8:39、ワシントン時間12/7午後2:09)

  駐米野村・来栖両大使が通告文を持参し米国務省到着。

午前4:19(ハワイ時間12/7午前8:49、ワシントン時間12/7午後2:19)

  野村大使がハル国務長官に通告文を手交。野村・来栖は国務省内で10分間待たされ、手交時刻は当初予定のワシントン時間午後1時より1時間19分遅れ、真珠湾空襲開始の55分程後であった。


  「駐米大使館員の怠慢のため通告文の作製がおくれ、野村・来栖両大使がハルを訪問したときは、ハルはすでに真珠湾奇襲の通知を接受した後であったという失態を演じている。」家永三郎著「太平洋戦争」)(※6)


  何故このような事になったのだろうか。

  ワシントンの日本大使館12/6土曜日、第九〇一号、第九〇二号の解読作業の間に訓電第九〇四号が日本本国から来て、通告文の浄書には絶対にタイピストを使ってはならないとの内容の指示を受けていた。タイプすることを主業務とするタイピストとなると現地採用の米国人秘書レベルの者となるので、この指示は機密保持のためであった。

  一方、12/6夜には一人の転勤する大使館員の送別会が催され、暗号電報を解読する電信課員も出席し、送別会が終ってから電信課員が大使館に戻り解読作業を再び始めた。そのため、第九〇二号の第13通までの解読が終了したのは12/6夜半になった。ここまでの解読を終えこの電信課員は参事官の指示により12/7早暁帰宅した。

  上述のタイプ浄書の件では、多少でもタイプライターを打てる大使館の高等官の職員は一人しかおらず、しかも、この者は12/6夜は友人と会う約束があるとかで出かけ、この夜は浄書作業が全く行なわれなかった。当直者一人のみの大使館は最重要通告文である第九〇二号第14通と第九〇七号との暗号電報が郵便受けに入ったまま、12/7の朝となった。

  2/7(日曜日)朝、電信課員が出勤し、電報解読作業に入ったのが午前10時頃。既述のように、全通告文の解読が終了したのは昼の12:30になっていた。タイプに不慣れの高官職員一人での、修正作業も含めての浄書作業の事を考えると、到底ハル長官との会見時間の午後1時には間に合わない。野村大使は会見を45分遅らせてもらいたい旨の連絡を米国務省に入れた。


  なんで本国外務省は余裕を持ってもっと早目に打電してくれなかったのか、と怒り合う大使館員の不平不満が聞えてくるようであるが、そして又、「こうした内容(第7項の最後の文は交渉打切り通告ではあるが、必ずしも宣戦布告に相当する具体的文言がある訳では無い)では、電文の解読作業を終えた現地大使館員たちにも東京の意図が伝わらず、ゆえに指定時間に手交することの重要性が伝わらなかったのだということも指摘されている。」(吉田裕・森茂樹著「アジア・太平洋戦争」の中で、須藤眞志著「真珠湾<奇襲>論争」からの引用文として記載されている)という意見や、「アジア・太平洋戦争」の中の「遅延騒ぎの犯人探しよりも重要なのは、誰がなぜそのような曖昧なものを作ったのかということである。」という意見もあるが、これらは問題のすり替えと言わざるを得ない。

 指定時間内に手交することの重要性が伝わったか否かや、内容が明瞭か曖昧かの問題ではない。

 日米間が最終的緊張感に満ちた緊迫状態にあるこの時分、送別会だの、友人と約束だのと飲み食いのために大使館を空けることを、何故平然と行ない得たのだろうか。何故上司は許したのだろうか。何故大使が二人(野村・来栖(※7))もいて許したのだろうか。最初の電文第九〇一号には、これから重大電報を14通に分けて打電すること及び米側に手交の時刻は別電報で指示するのでそれ迄にいつでも手交できる様「・・・文書ノ整理ソノ他予メ万端ノ手配ヲ為シオカレタシ」旨があったのだから、土曜日だ日曜日だなどと言っている場合ではなく、大使始め幹部が率先指示し、大使館内で交代で仮眠を取ってでも待機すべき事態ではなかったのか。一国の大使館員(※8)たる意識と責任感の欠如といわざるを得なく、歴史の単なるエピソードとして語り済ます訳にはいかない。


※1 日時を決めるにあたっては、

1) 夜半から日の出頃まで下弦程度の月明かりのある月齢20日前後、

2) 真珠湾在泊艦艇が多く、

3) ハワイが休養日である日曜日、

などを、考慮したとされる。12/8は月齢19日で、ハワイでは12/7の日曜日に当る。

  ところで、開戦時の奇襲目標を真珠湾とすることについては、山本五十六(いそろく)連合艦隊司令長官(昭和14年8/30就任)が発案、この年昭和16年1/7以降、密かに関係者への根回し工作及び準備を始めていたのだが、10/19山本司令長官の意を受けた連合艦隊司令部黒島大佐と永野修身(おさみ)軍令部(大本営海軍部)総長との会見で最終決定した。軍令部は空母4隻のみの使用を強く主張していたのだが、黒島はこの時、「全空母6隻使用案が認められないなら、山本司令長官は職を辞する覚悟である」旨の山本からの伝言を永野に伝えた。

  時に、10/16近衛文麿内閣総辞職、10/18東条英機内閣が発足していた。

※2 第1航空艦隊旗艦空母「赤城」を含む主力航空母艦6隻、高速戦艦2隻、重巡洋艦2隻、軽巡洋艦1隻、駆逐艦9隻、潜水艦3隻の23隻。それに補給艦7隻で総計30隻。尚、空母「加賀」は1日遅れ、11/23に単冠湾に着いた。

指揮は第1航空艦隊司令長官南雲忠一中将。

※3 通告文の本文である第九〇二号の第14通目の最後の部分(第7項の最後の部分、いわゆる交渉打切通告)は、

「(前略)・・・・斯(か)クテ日米国交ヲ調整シ合衆国政府ト相携ヘテ太平洋ノ平和ヲ維持確立セントスル帝国政府ノ希望ハ遂ニ失ハレタリ。

 仍(よっ)テ帝国政府ハ茲(ここ)ニ合衆国政府ノ態度ニ鑑(かんが)ミ、今後交渉ヲ継続スルモ妥結ニ達スルヲ得ズト認ムル外ナキ旨ヲ、合衆国政府ニ通告スルヲ遺憾トスルモノナリ。」

※4 第九〇七号(通告文の米側への手交時刻の指示)は、

「本件対米覚書貴地時刻七日午後一時ヲ期シ米側ニ(成ルベク国務長官ニ)貴大使ヨリ直接御手交アリ度シ。」

※5 日本時間昭和16年12月8日午前1時30分、オアフ島北方230浬の艦隊の空母6隻から真珠湾に向け第1次攻撃隊183機発艦開始(15分で完了、編隊を作り艦隊上空を一旋回)、その一番機(板谷茂少佐)が発艦した正にこの時刻、これを以って刑法の適用等が戦時となった。

 2日後の12/10の連絡会議にて決定された「今次戦争ノ呼称並平戦時ノ分界時期ニ付テ」の第二条に、

「二 給与、刑法ノ適用等ニ関スル平時、戦時ノ分界時期は昭和十六年十二月八日午前一時三十分トス」とある。

 ちなみに、この第一条には、

「一 今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」とあり、支那事変も含め、公式に大東亜戦争の呼称が定められた。尤も、敗戦後、占領軍の政策に基づいて、昭和20年12/15の文部省の「新教育指針」により、「大東亜戦争」という用語の公式使用は禁止された。

※6 米側には「マジック」と称される高度な暗号傍受解読システム(装置、解読部署、また解読されたものをマジック文書と称した)があり、日本から大使館宛の一連の暗号電報は全て傍受され、必ずしも完全に正確ではないにしても解読され、ルーズベルト大統領に届いていた。

ワシントン時間12/6夕刻までに第九〇二号の第13通まで傍受解読終了、

12/7午前10時には第九〇二号第14通(交渉打切り通告)が傍受解読され、

同午前10:30頃には第九〇七号(日本政府は、この日の午後1時に日本大使がハル長官に通牒を手渡すことを命じた)も解読完了していた。日本大使館より1時に会見したい旨の電話が入ったのは、この後まもなくであった。

  日本大使館の解読作業よりも寧ろ早く終了し、その解読文は大統領の手に渡っていたのである。

  12/7午後2:09、野村・来栖がハル長官に通告文を手交すべく国務省を訪問、10分間も待たされたのは、ハルが真珠湾攻撃が行われた事を大統領から電話で受けている最中であったからである。

  10分間待った後、野村・来栖両大使はハルの室に通された、

『野村大使が本国訓令の手交時刻午後1時を過ぎたことを詫びると、ハルは「何故1時か」と詰問した。野村は「何故なるを知らず」と答えた。

 ハルは野村に向かい、目を据えて、「五十年の公職生活を通じて、これほど恥知らずないつわりとこじつけだらけの文書を見たことがない。こんな大がかりなうそとこじつけをいい出す国がこの世にあろうとは、いまのいままで夢にも思わなかった」と言った。野村が何か言い出そうとしたのをハルは抑え、顎でドアの方をさした。二人は何も言わないで頭を垂れたまま出て行った。(コーデル・ハル「回想録」)(五味川純平著「御前会議」)

  ここで野村が「何故なるを知らず」と答えたのは当然である。野村らはハワイ空襲のことを日本本国から知らされていなかった。

「杉山メモ」(杉山陸軍参謀総長)によると、 11/29、宮中での重臣懇談会(元・前総理らと現政府との懇談)に引き続きひらかれた第74回大本営政府連絡会議の席上で次のようなやり取りがあった(○は誰の発言か不詳、二つの○が同一人物かも不詳)

(東郷)外相 : ・・・・出先(駐米大使館のこと)ニ帝国ハ決心シテイルト言フテヤッテハイカヌカ。・・・・外交官ヲ此ノ儘(まま)ニシテモ置ケヌデハナイカ。
○ : ソレハイカヌ。外交官モ犠牲ニナッテモラワナケレバ困ル。最後ノ時迄米側ニ反省ヲ促シ、又質問シ、我ガ企画ヲ秘匿スル様ニ外交スルコトヲ希望スル。
外相 : 形勢ハ危殆(きたい)ニ瀕シ、打開ノ道ハ無イト思フガ、外交上努力シテ米国ガ反省スル様ニ、又彼ニ質問スル様ニ措置スル様出先ニ言ハウ。(筆者注:最後の「ウ」は、「太平洋戦争への道 別巻資料編」では「ス」となっている)
○ : 国民全部ガ此際ハ大石蔵之助ヲヤルノダ。

  要するに外交官には「帝国の決心」を知らせず、最後まで米国に反省を促したり質問したりさせるとするもので、最初から(明確な宣戦布告無き)奇襲を目論んでいる様にもとれるやり取りである。実際、「東京の外務省が奇襲を成功させるためにわざと打電を遅らせ、現地大使館の作業を妨害したのだ、とする反論もあり、真相は今もって藪のなかである。」(吉田裕・森茂樹著「アジア・太平洋戦争」)という記述も見られる。だが、たとえ外務省の戦略がそうだとしても、受電・解読途中で飲み食いのため出払ってしまう(本文に記述)という現地大使館員の責任感の欠如、怠慢を見過ごすわけにはいかない。

 それにしても、確かに大石蔵之助(大石内藏助)は仇討ち実行直前まで家族にさえ決意を秘匿していたが、忠臣蔵感覚で米国との戦争に臨むとは・・・・・

※7 昭和16年12月1日の御前会議の議事録の中に、「日米交渉ニ関スル外務大臣説明」として、次の文がある。

「・・・・而シテ野村大使ハ(11月)七日「ハル」国務長官トノ会見ヲ手初メトシ、十日「ルーズヴェルト」大統領十二日及十五日「ハル」長官ト会談ヲ重ネ、鋭意交渉進捗ニ努力スル所カアリマシタ。此間政府ハ時局ノ重大ナルニ鑑ミ外交上十全ノ努力ヲ試ミンカ為、五日来栖大使ヲ米国ニ急派スルコトトシ、同大使ハ十五日華府到着、十七日ヨリ野村大使ヲ援助シテ交渉ニ参加致シマシタ。・・・・」

  この年2月に駐米大使となっていた野村に加え、11月半ばより華府(ワシントン)の日本大使館には来栖(くるす三郎)大使も派遣され、大使が二人となった。

  野村は、人柄はともかく、「日米了解案」にまつわるハルとの会談(4/16)で示されたいわゆる「ハル四原則」やその後の折衝で米国側から提示された声明(5/16、5/31、6/7)などを日本政府に報告しなかったりで、外交官としては問題がある。一方、来栖は、日独伊三国同盟締結(前年昭和15年9/27)時の駐独大使であり、しかもこの同盟のベルリンでの調印者であった。

  この様な二人が駐米大使として最終的な対米交渉の窓口となっていたことが、そして又、この様な二人が日頃職場で見せていたであろう言動が、重大暗号電報の届く緊迫した12/6夜でさえ職員が送別会や友人と会う為に平然と職場を空けるという、弛緩した雰囲気の醸成に脈絡していたと思えてならない。

※8  当時の大使館には、

(特命全権)大使野村吉三郎、(特派)大使来栖(くるす)三郎、公使若杉要、参事官井口貞夫以下、一等書記官奥村勝蔵、同松平康東、同寺崎英成、などとなっており奥宮正武著「真実の太平洋戦争」PHP文庫)、転勤の送別会をしてもらったのは、寺崎英成。不慣れながらもタイプライターを打てた高官職員は、奥村勝蔵。12/7早暁、第九〇二号の第13通までの解読を終えた電信課員に帰宅を指示したのは、井口貞夫参事官。

  ところで、来栖大使に随行して渡米(11/15)し、大使館の事務処理を補助した者に外務省書記官結城(ゆうき)司郎がおり、東京の外務省より通告文を打電したのは外務省電信課長亀山一二である。この結城と亀山は、後の東京裁判(極東国際軍事裁判)で証言台に立った。

  大使館に本国日本から重要電報が次々と届いていた当時、在米大使館員(外務官僚)は何名位だったのだろうか。

  内閣印刷局発行の「職員録」(国立国会図書館所蔵――東京、新館1階電子資料室)によると、昭和16年8月15日時点での在米国大使館員は、

特命全権大使野村吉三郎、大使館参事官井口貞夫、

大使館二等書記官が奥村勝蔵、松平康東、寺崎英成の3名、

大使館三等書記官が高木廣一、八木正男の2名、

大使館商務書記官井上○次、大使館理事官星田弘、

外交官補が齋藤○男、藤田久治郎、後宮虎郎、島靜一、安藤龍一、猪名川治郎、山本良雄、藤田楢一、竹内春海の9名

大使館電信官堀内正名、副領事高橋茂

の、計20名が記載されている(電子ファイルで○は判読不能文字)

  この後、4ヶ月弱後の12月までの間に、来栖・結城の増員や転勤等による何名かの異動があったとしても、20名からの職員がいて、誰一人、今は送別会や友人との約束などと言っている場合ではないと、強く提言する者がいなかったのか。


参考にした主な図書

「太平洋戦争への道 7」日本国際政治学会太平洋戦争原因研究部編 朝日新聞社
「真珠湾への道」ハーバート・ファイス著、大窪愿二訳 みすず書房
「御前会議」五味川純平著 文藝春秋
「太平洋戦争」家永三郎著 岩波書店
「アジア・太平洋戦争」吉田裕・森茂樹著 吉川弘文館
「職員録 昭和16.8.15版」内閣印刷局 国立国会図書館所蔵