2010.01.11

【NEW修正版1/11】思い出…松井章圭と容子(前編)

「100年後には、今こうして生きている我々はみんな死んでいるんですよ…」

極真会館館長・松井章圭の口癖です。
「だから精一杯、頑張って好きな人生を生きようじゃないですか!」
松井はこれを言いたかった訳ですが…。

私は1970年代末から松井という「紅顔の美少年空手家」の存在を知っていました。極真空手の世界では大先輩です。しかし何故か松井を異様に毛嫌いする三瓶啓二の影響を多大に受けた私は、まるで洗脳されたように訳もなく松井を嫌い、避けていました。
当時、三瓶は早大極真会に於いて絶大なチカラを有していました。クラブ内では「三瓶の言葉だけが絶対!」という空気に満ちていたのです。当然のように反三瓶のグループもいましたが、三瓶の高圧的なチカラに押さえられ、彼らは決して表には出ませんでした。早大極真会の絶対君主が三瓶だったのです。
そんな三瓶に影響された松井への偏見は約10年も続く事になるのです。

大学を卒業し、格技・空手専門出版社に入社。実質的に8年間の勤務の後、私は独立して(株)夢現舎を設立しました。1989年の事です。
数年後、私は池田書店編集長から松井の自叙伝の制作を依頼されました。当初は気が進まず、一度は断わりました。しかし「仕事に選り好みはよくない」という編集長の言葉で、あくまで仕事と割り切る覚悟で松井と会う事にしました。
実際に言葉を交わしたのは初めてでした。池袋北口前の喫茶室・スワンでの事です。私は一瞬で過去の偏見・洗脳から解放された思いがしました。松井章圭は実に紳士でした。同士に極めて頭の斬れる人間だと思いました。更に言うならば、孤独や孤高を愛する癖に妙なユーモアを持つ好青年でした。その点では似た者同士だと感じました。
それ以来、私達は急激に親しくなりました。その親しさ故に、互いの我が儘さが衝突し合い、紆余曲折を経ながらも、現在ではまさに組織を離れたprivateの悪友・義兄弟の如き付き合いをさせて頂いています。
松井章圭の「素の顔」を知っている人間は私以外、決して多くないと思います。とにかく2人でいる時の私達はまさに漫才コンビです。普通は私がボケで松井がツッコミですが、松井のテンションが上がってくると何故かボケとツッコミが入れ替わります。また、彼は実に我が儘で甘えん坊、かつルーズでいい加減な人間です。
悪口を言っているのではありません。
男とは、「表」に出て仕事する時にどれだけ強く、豪腕であるかが大切なのです。命さえ賭けて斬った張ったの世界で勝ち続けなければならないのです。その分、privateでは如何にルーズだろうがオヤジ丸出しだろうがいいのです。
松井こそは、闘うべき時に闘える、頑張るべき時に頑張れる人間なのです。それで十分なのです。

閑話休題。
1994年4月26日、大山倍達総裁の死去当日、私は後継館長としての松井を支持する事を公言しました。media関係者の中で私が誰よりも真っ先に松井支持を旗色鮮明にした人間だと私は自負しているし、松井は未だにその点について私に感謝してくれています。
偽悪者故に「親友」いう言葉は好きではありません。しかし「悪友」同士だからこそ、幾度もケンカしたり互いに牽制し合った時期もあるし、会いさえすれば無言のうちに仲直りも出来るのです。

芦原英幸亡き後、現在の私にとって松井章圭こそが最も身近で「目標」となる存在なのです。
しかし1990年前後…。2人とも銭に飢えながら貧乏暮らしを強いられていた時代を共に知るからこそ、何があっても縁が切れない、時には互いに「憎み切れないロクデナシ」的な存在になれたのかも知れないと思っています。それでこそ、何の躊躇いもなく「裸の自分」を見せ合えるのです。
その後、松井は2代目極真会館館長として「分裂騒動」という嵐を切り抜け、今では貫禄十分、「コワモテ」の館長として周囲からは恐怖と畏怖で見られる超大物に成り上がりました。





一方、私は私で何とか少しずつ右肩上がりに夢現舎を伸ばし続け、夢にまで見た新潮社や講談社で物書きをさせて頂けるまでになりました。
2006年、partnerと共に書き上げた作品「大山倍達正伝」はあらゆるメジャーなmediaから絶賛され、大ヒットを記録しました。Reportageとしてだけでなく歴史書としても認められた事が嬉しく、私達自身も歴史に残る名作を世に出せたと自負しています。

「コジマさん、絶対に一緒に大きくなりましょうね!」
1990年前後、2人で誓った夢が少しは叶えられたと思っています。松井は私を置き去りにして格闘技・空手界の頂点に登りつめてしまいましたが…。
あれから既に20年の歳月が流れました。
私も半世紀生きました。
色んな事がありました。
沢山の人達と出会い、沢山の人達と別れました。

そういえば、これも記しておかなくてはならないでしょう。松井との出会いを書いているうちに思い出しました。私の大切な、少々苦い思い出です。

私が松井章圭と「出会う」5、6年前に遡ります。
私には好きで…好きで好きでどうしようもない程に好きな女性がいました。
極真会館芦原道場黒帯を持つ大阪出身の容子です。
互いに結婚するのが当然と思っていました。毎日喧嘩ばかりしていました。その度に友人が必死に仲介してくれました。何もかも許せる関係だからこそ、喧嘩が絶えなかったのです。
それが男と女というものの不可思議さなのです。喧嘩しながらも好きでした。彼女も同様だったに違いありません。
それなのに、何故私達は別れたのだろう…。
別れから10年が過ぎた1996年のある日。私達は偶然沖縄で再会しました。それは神様が授けてくれた最後のチャンスだったのかもしれません。既に私の結婚生活は破綻していました。
しかし、私達は別れる時に誓い合っていたのです。
「今後、俺達がどこかで再会する事があっても、黙って笑い合うだけで終わりにしよう…」
彼女は、私が手を引く小学生低学年の倅の姿を眩しそうに見ていました。そして私に向かって気を付け! の姿勢になると大袈裟に敬礼のカッコをしました。私も彼女に合わせるように敬礼をしました。
それはたった10秒程度だったかもしれません。でも感覚的には10分以上、向かい合っていたように思います。2人とも黙って涙を流し、無理に笑顔を作っていました…。
こうして私達は再会したにも拘わらず、一切口を利かずに再び別れてしまったのです。

理由は判りません。
突然、松井章圭との「出会い」、そして容子の事を思い出してしまいました。
諸行無情…。
こんな時だからこそ、私は吉田拓郎の歌を聴きながら独り涙するのです。


(続く・敬称略)

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