〈イネーブル・ライブラリー〉としての青空文庫
富田倫生(青空文庫呼びかけ人)
初出:「現代の図書館」1999年9月号 Vol.37 No.3
(「イネーブル・ライブラリー」とは、「障碍者を含めた幅広い人の力を引き出す図書館」との意を込めた、「現代の図書館」編集委員会の造語である。)
青空文庫とは、インターネットの上に開いた、無料公開の電子図書館です。(http://www.aozora.gr.jp/)
図書館を名乗っていますが、ここに紙の本は、一冊もありません。蔵書はすべて、コンピューターで扱う電子テキストでそろえています。
開館の準備にあたっていた時点で、私たちには、〈イネーブル・ライブラリー〉として青空文庫を設計しようという意図はありませんでした。障碍者に使ってもらえる可能性があることは、あとになってから、彼らへの読書支援に携わる人に教えられました。「文庫が選んだ電子テキストには、当初予測していなかった使い道に、あとから対応する柔軟性がある。」青空文庫の活動にかかわる中で、私はその後も、繰り返しその事実に向き合うことになります。
視覚障碍者に対して我々がなし得ることは、いまだ可能性の段階にあり、本特集に原稿を寄せることにはためらいも感じました。けれど、電子テキストの秘める柔軟で強靱な底力についてなら、私は確信を持って語れます。予想しなかった障碍者読書支援の可能性が見えてきたように、図書館の役割と実態に精通した方の知恵が加われば、青空文庫は新しい発展の道筋を見つけられるかもしれません。
その呼び水となることを願いながら、私たちがなぜ、インターネットの電子図書館作りを志し、なにをどこまで進めてきたのかを、ご紹介したいと思います。
電子本から電子図書館へ
青空文庫に収録している作品は、二種類に分けられます。作者の死後五十年を経て、著作権の切れたものと、著作権者が「公開してもかまわない」と言ってくれた作品です。
著作権が切れたのならともかく、わざわざ自分の書いたものをタダで読んでもらおうとする人がいるでしょうか。自費出版を試みるアマチュア以外には、ほとんどいないと思われるかもしれません。けれど、職業として書いている人、書いてきた人の中からも、稿料なしで、インターネットに原稿を寄せる人が、たくさん出てきています。私も、その一人です。
もともと、本や雑誌に原稿を書いてきた私が、電子図書館に関わりを持つきっかけとなったのは、一九九〇年代のはじめに出合った、コンピューターの画面で読む本でした。「電子本なら、自分のパソコンで簡単に作れる。絶版になった本を、もう一度形にできる」と思ったのが、そもそもの始まりでした。
本を二つに割ってみれば、たいていのものの片側には、「読んで欲しい」という、書き手の気持ちが詰まっています。残りのもう一方を満たすのは、商売の理屈です。出版社は常に、「その原稿を本にして、まとまった部数がはけるだろうか」吟味せざるを得ません。さらに、慎重に原稿を選んで作ったはずの本も、ほとんどは満足に売れないのが現状です。さばく見込みの立たない本も、持っていれば資産と見なされ、税金がかかります。倉庫代も必要ですから、いっそ切り刻んでしまえと、断裁処分が待っています。時間をかけてようやく初版を売り切ったような本は、気軽には再版できません。
自分の本で何度か絶版や長期の品切れを体験してきた私は、電子本を見て、「読んで欲しいと思う気持ちを収める、手頃な器が見つかった」と感じました。広く配ることや商売にすることは無理でも、本になれなかったり絶版になったものを救うことだけは、できるだろうと考えたのです。
ところが、九〇年代半ばを前後して、インターネットが普及しはじめると、電子本にできることは、もっともっと大きいのではと考え直すようになりました。
一言でいえば、インターネットとは、いくつもできていたコンピューターのネットワークを、相互に繋いでしまう仕組みです。これが普及したことで、世界中のすべてのコンピューターを接続する可能性が生まれました。これまでパソコン通信を使っても電子本は配れましたが、その範囲は、サービスの利用者に限られていました。それが、世界中の人に、自分の電子本を届ける道が開けたのです。
変化したのは、道だけではありません。インターネットは、電子本におさめる、文章そのものも変えはじめていました。
電子ネットワークに息づく新しい文章の味噌は、参照したいと思ったその瞬間に、別の人が書いて別の場所に置いている、別の文章を開ける仕組みです。これまで、書かれた内容をさらに詳しく知りたい人のために、紙の本では参考文献が示されてきました。この機能が大幅に拡張され、より詳しく知りたいと思ったらその瞬間に、世界のどこかのコンピューターに置かれた該当の文書にジャンプして、内容を確認できるようになったのです。いわば〈超参照〉を可能にした、こうした文章のあり方は、ハイパーテキストと名付けられていました。
ライターとしての私の主要なテーマは、パソコンの歴史です。私が取り上げてきた人物にとって、コンピューターはお手の物ですから、その多くが、早い時期からインターネットを活用していました。自分の考えや体験を文書にまとめ、世界中のコンピューターから読めるように仕立てていたのです。ハイパーテキストが使えるようになると、彼らの何人かが、「あの意見は大切だ」と思うところに、リンクと呼ばれる〈超参照〉の絆を張り始めていました。彼らが張ったリンクをたどりながら、パソコンの歴史を巡る文章の世界を歩き回っていると、私の中にこれまでに味わったことのない感覚が生まれてきました。それぞれは別個に書かれたものでありながら、リンクによって結びつけられた文章の総体が、あたかも「パソコンの歴史を書き残しておこう」とする大きな意思を形成しているように感じられはじめたのです。
こんなふうに思うと、もういけません。自分が書いてきたパソコンの歴史に関する原稿を、インターネットで読めるようにし、「これぞ」と思える大切な文書にリンクを張りたくなりました。
世界規模の知のネットワークに、末席でもいいから加わりたいと願うなら、差し出すべきは当然、自分の書いてきたものの中でも、もっとも力を込めたものとするべきでしょう。私にとってそれは、『パソコン創世記』(TBSブリタニカ刊)と呼んでいた本でした。私が存在を実感した知のネットワークは、無料で公開されているからこそ、自由にリンクを張り合って育っていけたものです。その一部に加わりたいと願うのなら、無料公開は避けられませんでした。
紙を土台とした文章の基調は、いわば自力主義でしょう。ここで書くこととは、自分が世界を認識し、その像を言葉で定着する営みです。一方、電子テキストの世界では、他者の認識を自分の記述に有機的に連携させることが可能です。極論すれば、それぞれの要素は、世界でもっとも適任の人に書いてもらえばいい。そうした文書がそれぞれに存在することを前提とし、書く人は、本当に自分が書くべきことに集中して、あとはリンクした先の人に語ってもらえばいい。となると書くことの変化は、不可避に、考えることの変化に繋がっていくだろう。そして、職業として書く人にとっては、生き方そのものの変化にも結び付かざるを得ないと考えるようになりました。
誰もが使えるコンピューターは、本を変える。それらをすべて結びつけるインターネットは、出版産業を変え、図書館を変え、文章そのものに根底的な変化を迫るだろう。書く行為の専門家も、自らの像を変更せざるを得なくなる。そう考えるようになっていく道筋を、私は『本の未来』(アスキー出版局)と名付けた一冊にまとめました。
「青空文庫」の名称に繋がった、「青空の本」というイメージは、その前書きに盛り込んだものです。インターネットと結び付いた電子本なら、どこにいても、思い立ったその場で開けるようになる。青空を見上げれば、そこに本が開かれるような感覚で、読めるようになるはずだ。青空の本はまた、互いに響き合い、必要なページが次々とそこここに開かれるだろうと、夢を語りました。
私設電子図書館、青空文庫の出発
電子本に興味を持っていた仲間四人が集まって、電子図書館のようなものができないか相談しはじめたのは、一九九七年の二月です。各人にそれぞれの思いがありましたが、私にとっては、青空の本の実現が目的でした。
個人のウェッブページを作るのとまったく同じ感覚で、暇があるときに少しずつ進めていこうと考えていましたから、準備はなかなかはかどりませんでした。著作権の切れたものと、切れていないものを合わせ、ようやく十編ほどを用意して開館らしきところまでこぎ着けたのは、半年以上たったその年の八月でした。
本に印刷されている文章を、電子テキストに変換し、校正をほどこす作業は、仲間四人で、ゆっくり進めていこうと考えていました。ところが、「こんなことがやりたい」と書いておくと、「手伝おう」といってくれる人が次々に現れました。作業の手順をまとめたマニュアルを作り、どんな作品の電子化がどこまで進んでいるかを示すリストを用意したりと体制を整備するにつれ、協力者はさらに増えて、作業のペースが速まっていきました。この原稿を書いている一九九九年六月の時点で、協力者は延べ百五十人を越え、収録作品は五百五十編に迫ろうとしています。
自然発生的に生まれ、野放図な育ち方をした青空文庫は、使われ方の面でも、当たり前の図書館とはかなり異なっています。
インターネットに繋がったコンピューターに、電子テキストを置いてあるのが実態ですから、文庫には休みはありません。二十四時間、常に開いていて、いつでも、どこからでも、気が向いたときに利用してもらえます。
本の貸し出しに相当するのは、電子テキストを複写する行為です。誰かが借りていくとはつまり、インターネットの向こう側にある利用者のコンピューターに、コピーを一部作るという話ですから、「原本」は常に、文庫に残っています。「貸し出し中」という状態は存在せず、当然、返却を求める必要もありません。
インターネットを利用しているのだから、世界のどこからでも使ってもらえると、理屈ではわかっていました。けれど、開館間もなく、在メキシコ二十年とおっしゃる方が、「日本語の本への渇きをいやしてもらった」と掲示板に書き込んでくれたときには、あらためて広がりの可能性を実感しました。その後も、世界各国にわたっている日本人から、利用報告が寄せらました。先日は、アメリカの日本文学研究者が作っている電子メール網に紹介したという連絡を受け、利用のネットワークが、さらに広がってきたことを実感させられました。
広がりの感覚は、文庫の運営に携わる中で、別の領域でも繰り返し味わうことになりました。
私たち自身は、一般的なパソコンで読まれることを念頭に置いて、それにふさわしい形で電子テキストを用意しました。ところが世間では、電子手帳の親戚のような、小さな情報機器が盛んに使われるようになります。それらも、中味はコンピューターですから、電子テキストの扱いには基本的に問題がありません。ほとんど手間をかけることもなく、わずかに形式を調整してやれば、青空文庫の収録作品がそのまま読めてしまいます。文庫本来の仕事に追われ、他の形式への変換を進められないでいると、「自分でやろう」と名乗りを上げる人が次々現れました。どうせ変換したのなら、同じくインターネットに繋がったコンピューターに、処理済みのものを置いておけば、その機器を利用している人はみんな、手直しの手間なしに使えます。こうした形で、それぞれの機器に対応した、青空文庫の〈分館〉が育ちはじめました。
文庫を開いてほんの間もない時期、本を点字に訳すボランティア活動に携わっている方からもらった電子メールも、それまで私たちの頭にはなかった、電子テキストの可能性を教えてくれました。
視覚障碍者の読書支援に、私たちの電子テキストを利用できるというのです。
電子テキストは、視覚障碍者の本への架け橋となる
小さな突起の集まりからなる、点字の本はこれまで、点筆という専用の針を用いた手作業か、点字タイプライターで作られてきました。ただしこうした方法では、間違えたときはいったん突起を押しつぶし、再度打ち直さざるを得ません。一行飛ばしでもすれば、区切りの良いところからもう一度作り直すしか、方法がありませんでした。
こんな難しさを抱えた点訳に、パソコンが新しい道を開きました。あらかじめパソコンで必要なデーターを作り、誤りをチェックした上で、最後に専用のプリンターを使って点字に打ち出す方式が工夫されていったのです。
日本の点字は、五十音に基づくシステムです。点訳のデータも、仮名を分かち書きしながら作ります。青空文庫にある電子テキストを、そのまま点字用のデーターとして用いることはできません。けれど、パソコンで漢字仮名交じり文を入力する工程を逆にたどれば、仮名にもどしてやることは可能です。さらに、適当なところで切り分けて分かち書きしていく工程にも、パソコンの助けが借りられるでしょう。仮名への変換、分かち書きとも、機械に任せきりにしてはミスが頻出するでしょうが、ゼロからはじめるよりはよほど効率的です。青空文庫の電子テキストには、点訳の基礎データーとしての使い道があると知りました。
さらに特殊な専用形式のデーターではなく、漢字仮名交じりの普通の電子テキストを原点において、そこからすべての視覚障碍者に対する読書支援の道筋を付けようとする考え方があることも教えられました。電子テキストを、ある時は点字、ある時は音声に変換し、弱視者向けに大きな文字で文章を示した、拡大写本へも活かしていこうというのです。
電子テキストを支援の大黒柱に据えようと考えている、視覚障碍者読書支援協会の浦口明徳さんにお目にかかり、現状と可能性について教えを請いました。(http://www2s.biglobe.ne.jp/~BBA/)
視覚に障害を持つ人は、日本に約三十五万人いるそうです。そのうち、まったく目の見えない人は十二万人で、点字を読める人となると、さらにその三分の一の四万人に限られます。点字を読める人は、視覚障碍者全体の十パーセントあまりに過ぎません。もっとも大きな割合を占める二十三万人の弱視者と、全盲でも点字に親しんでいない人には、別の形の支援が必要です。具体的には、文章を声で読んだ音訳テープと、拡大写本が求められます。
この内、音訳と点訳を担ってくれるボランティアは、それぞれ一万五千人ほどいるそうです。一方、拡大写本作りにあたる人は千五百人と、極端に少ないのが現状です。しかも、拡大写本のほとんどは、今も手書きで作られていると聞き、大いに驚かされました。弱視者への読書支援は、極端に立ち後れてきたらしいのです。
学生時代から点訳のボランティアに携わってきた浦口さんは、ワープロやパソコンが普及する中で、これを使えば支援体制を大幅に強化できるのではないかと考えました。特に注目したのは、穴になってきた、弱視者への支援です。
縦に対して横の細い明朝体の文字を、弱視者は苦手とします。けれどパソコンなら、太さの均一なゴシック系の文字でプリントアウトすることは、造作もありません。一つのデーターを元に、それぞれの視力に合わせた文字の大きさを選んで打ち出すことも、もちろん可能です。
さらに最近では、パソコンの画面で快適に文字を読むための〈書見台〉的なソフトに、優れたものが登場しています。電子テキストを、即座に読みやすい文字で表示し、文字の種類や大きさ、行間の空き、縦組み、横組みなどを即座に切り替えられるT―Timeというソフトを使えば、弱視者にパソコンの画面上で読んでもらうことも可能です。
青空文庫では、一つ一つの作品に対して、三種類の形式のファイルを用意しようと決めていました。縦書きで、かなり読みやすい文字の表示できるエキスパンドブック。インターネットのウェッブページに広く使われている、HTML。加えて、もっとも基本的で、いろいろな用途や機器に使い回しのきく、テキストです。作業の流れとしては、まずテキストを作り、そこから残り二つのファイルにアレンジしていきます。
出発点となるテキストを作る際には、ルビをどう表すか、JIS漢字コードで表現できない文字をどう示すか、さまざまな注をどのように組み込んでいくかといった点について、あらかじめ約束事を設けておかなければなりません。
そこで同協会の勉強会におじゃまし、『原文入力ルール』と名付けられた協会の決まりに準拠して、青空文庫のテキストを作っていくことにしました。念頭にあったのはもちろん、青空文庫に蓄積していく電子テキストを、いずれ視覚障碍者読書支援の場で、広く使ってもらえる日が来ることへの期待です。
私たちは、電子テキストの可能性を信じています。けれど、これまで視覚障碍者を支えてきた人たちが、すぐにそう納得し、新しいやり方に賛同してくれるとは限りません。支援者はこれまで、目の前にいる、支えるべき人たちの顔を直接見ながら、手作業で一冊の本を書き写し、点字本を仕上げ、本を朗読してきたはずです。受け取ってくれる人との直接のつながりが、作業を引き受ける気持ちの源になっていたでしょう。規模の小さなボランティア・グループが、横の連絡を欠いたまま活動し、支援体制が分散化されてきたことは、手作業による「一品生産」の時期にはむしろ、当然だったのかもしれません。
長くこうした形で支援を担ってきた人たちに、まったく異質のコンピューター流の考え方を押しつけることは、難しいでしょう。青空文庫の電子テキストを、視覚障碍者の読書支援の場で活用してもらうためには、一人一人の理解を得て、協力の手を一歩一歩繋いでいくことが必要になるはずです。
財政的な基盤をまったく持たない青空文庫が、イネーブル・ライブリーとしてのそれも含め、さまざまな可能性を自分で開いていくことは、率直に言って不可能です。著作権切れの作品を電子化し、公開していくというその仕事自体が、私たちにとってはあまりに巨大です。文庫の電子テキストを、広く使いこなす役割は、全面的に「あなた」に委ねざるを得ません。私たちができることは、あなたが使える電子テキストを拡充し、自由な利用を保証していくことだろうと思います。
文庫に収録されている作品は、どんなふうに使えるのかという点で、私たちの取り決めはこれまで、曖昧な点を残していました。このままでは、活用の道を大胆に開けないという懸念が、膨らみました。そこで、著作権の切れた作品に関しては、「有償、無償を問わず、自由に複製、再配布してもらってかまわない」と、はっきり宣言しようと思い立ちました。
文庫の作業に関わっている人の中には、さまざまな考えがあります。協力してくれた人すべてに加わっていただいた議論には、長い時間を要しましたが、最終的には「著作権切れの二次配布は、自由」を原則とすることに決しました。これで、私たちの用意した著作権切れの電子テキストは、ほとんど制限なしに使ってもらえます。
青空文庫は、電子図書館を名乗っています。
インターネットを取り込むことで、図書館の可能性は大きく広がっていくと、私は信じています。けれど、視覚障碍者への読書支援の可能性は、その仕事に携わってきた人こそが見つけられたように、新しい図書館への扉を開くのは、これまで人と本とを繋いできた、あなたの知恵と経験でしょう。
その第一歩として、青空文庫に目を向けてもらえないでしょうか。ここに蓄積された電子テキストの新しい使い道を、見つけてはもらえないでしょうか。
私たちの試みの彼方に、新しい電子図書館の姿を思い描けるのは、きっとあなたです。